第98話 妹は「帰りたい」より先に、好きな色を思い出した
白い板に浮かんだ文字を、ユイは何度も読み返していた。
――たまご。
――たべたい。
たったそれだけの言葉だった。
帰りたいとも、助けてとも書かれていない。どこへ行きたいのかも、家族の名前も、まだ戻っていない。
それでも、蒼汰には大きな一歩に思えた。
第十四区画に残った四歳の少女が、誰かから与えられた答えではなく、「自分は卵を食べたい」と選んだのだ。
「エルナさん、今の試験でユナに負担は出てませんか」
蒼汰が尋ねると、エルナは三つの観測点から返ってきた数値を慎重に見比べた。
「少なくとも、これまでの方法よりずっと軽い。旧校舎、南海自由港、奏多家の三点に情報が分かれて、どこにも強い集中が起きてないわ。それに、ユイ自身を接続点にしていないから、こっちの存在反応も変わっていない」
「父や祖父みたいに、誰かが削られている感じも?」
「今のところゼロ。正確には、観測できる範囲で異常なしね」
断言しきらない言い方に、蒼汰はかえって安心した。
わからないものを「大丈夫」と言い切らない。それは今日、何度も父の話を聞く中で身につけた感覚だった。
ユイは白い板から目を離さないまま、小さく尋ねた。
「ユナ、たまご、たべたいの?」
「そうみたいだね。ただ、まだ本当に妹さん本人の選択かどうか、もう少し確かめたい」
蒼汰がそう答えても、ユイはがっかりしなかった。むしろ自分も大事な確認をしているのだと理解したように、真面目な顔で頷いた。
「じゃあ、どうする?」
「今度はこっちから何か教えるんじゃなくて、ユナが自分から出してくるものを少し待とう。好きなものでも嫌いなものでも、何でもいい」
エルナも賛成した。
「一回の反応だけで本人性を決めない方がいいわ。特にユナは自己認識が不安定だった。違う種類の選択がいくつか一致すれば、それだけ自分を取り戻し始めている証拠になる」
そこでサーラが、離れた場所から口を挟んだ。
「待つのでしたら、立ったまま待たないでください。蒼汰さんも座る。ユイさんも、疲れていないか自分で確認してください」
蒼汰は思わず笑った。
「父の葬儀なのに、俺まで完全に患者扱いされ始めてません?」
「守さんの息子ですから、予防です」
「それ理由になってます?」
「十分です」
反論できなかった。
ユイも自分の身体を確かめるように少し考えたあと、「すこし、ねむい」と答えた。すぐに寝かせるのではなく、サーラが「横になりたいですか、それとも座ったままがいいですか」と尋ねると、ユイはしばらく迷って椅子に座ったままを選んだ。
その小さな選択にも、存在反応は安定した青を返した。
蒼汰は、ますます確信を深めた。
帰還とは大きな決断だけでできているのではない。
今眠い。
水が飲みたい。
この椅子に座りたい。
卵が食べたい。
そんな一つ一つが、その人自身を形作っている。
やがて。
白い板が再び光った。
ユナ。
本人選択。
新しい文字が、ゆっくりと浮かんでくる。
――きいろ。
ユイが勢いよく顔を上げた。
「ユナ、きいろすき!」
前にも聞いた言葉だった。
ユイ自身が、第十四区画にいた頃の妹について「黄色が好き」と話していた。
蒼汰はすぐに喜びを表へ出さず、エルナを見る。
「これ、一致でいいですか」
「ユイから向こうへ“黄色が好き”という情報は送っていない。さっき送った試験情報もオムライスについてだけ。別系統で出てきたなら、かなり強い一致ね」
冬城が記録へ追加する。
過去記憶――ユイ証言、ユナは黄色を好む。
現在本人選択――黄色。
情報源相互独立。
蒼汰はそこまで確認して、ようやくユイへ笑いかけた。
「妹さん、自分の好きな色も覚えてるみたいだ」
「うん!」
ユイの声が少し大きくなる。
その喜びが伝わったのかどうかはわからない。
けれど、白い板には続きが現れた。
――きいろの。
一度、文字が止まる。
――くつ。
ユイの顔から笑みが消えた。
「くつ……」
蒼汰は急かさなかった。
ユイは自分の記憶を探すように足元を見つめ、それから小さく息を呑んだ。
「ユナ、きいろのくつ」
「履いてたの?」
「うん。なくした」
その言葉に、エルナの手が止まった。
「いつ?」
「むこうで。ずっとまえ」
ユイの話では、第十四区画へ迷い込んだ頃、ユナは黄色い靴を履いていた。しかし途中で片方をなくし、しばらくすると残った片方も見えなくなったという。
蒼汰は、ある記憶に引っかかった。
「親父が奏多家の“古い家”みたいな場所へ入った時、小さい子どもの靴を見つけたって話がありましたよね」
エルナもすぐに思い出した。
「厨房の床下から入った、誰もいない奏多家。外が白くて、そこに子どもの靴があったっていう記憶ね」
「色は?」
誰も覚えていなかった。
父自身も、その時は色まで思い出していない。
「だからって、ユナの靴とは決めない方がいいですよね」
「もちろん。ただし確認項目には入れる」
冬城がすぐに書き足した。
奏多家の境界側に残されていた子ども靴――色・所有者未確認。
ユナ――黄色の靴を第十四区画で紛失。
照合保留。
「保留が増えてきましたね」
蒼汰が苦笑すると、冬城は落ち着いた声で答えた。
「保留にできるのは良いことです。以前の守様は、保留にせずご自分で確かめに行かれることが多かったので」
「また父の悪い例が増えた」
眠っている守から反論はなかった。
その静けさに少し寂しさを覚えたが、蒼汰は声をかけなかった。
今は眠らせる。
それも自分が選んだことだ。
白い板では、その間にもユナの情報が少しずつ増えていった。
――たまご。
――きいろ。
――きいろのくつ。
そして。
今度は。
――おねえちゃん。
ユイの肩が震えた。
蒼汰はすぐに白い板へ近づこうとするユイを止めなかったが、送信装置には触れないようエルナが静かに手を添えた。
「ここから先も、まずはユナの言葉を待とう」
ユイは泣きそうな顔のまま頷いた。
続き。
――いる。
一度。
文字が揺れる。
――しってる。
ユイの目から涙がこぼれた。
「ユナ、わたし、いるの、わかる?」
それは問いかけだったが、送信装置は閉じたままだ。向こうへ意図的には送られていない。
それでも。
白い板に。
新しい言葉。
――ユイ。
全員が息を止めた。
妹は。
姉の名前を。
思い出した。
蒼汰はエルナを見る。
「これは?」
「帰還先じゃない。家族名として記録する」
エルナが即座に区分を切り替えた。
本人名――ユナ。
家族名――ユイ。
本人選択――たまご、きいろ。
関連記憶――きいろのくつ。
自己認識は。
まだ不安定。
でも。
確実に。
戻ってきている。
「ユイ」
蒼汰は、泣いている少女へ声をかけた。
「妹さん、ユイの名前を覚えてる」
「……うん」
「だからって、今すぐ帰るって意味ではないよ」
「わかってる」
ユイは涙を拭きながら、自分で答えた。
「でも、わすれてない」
「うん」
「それで、いい」
蒼汰は胸が詰まりそうになった。
四歳の妹が帰るかどうか。
それより先に。
自分を覚えていてくれた。
今は、それだけでいい。
ユイ自身がそう選べた。
エルナがしばらく装置を観察したあと、蒼汰へ静かに言った。
「この方法、名前保存だけじゃなくて自己認識の回復にも使えるかもしれない」
「本人が自分から出したものを、複数の場所で保存する?」
「そう。『私はこれが好き』『この人を知っている』『これは嫌』。そういう断片を、誰か一人の記憶じゃなく複数の記録点に分けて残す。本人が一時的に忘れても、“自分で過去に選んだもの”として確認できる」
蒼汰はすぐに一つ気づいた。
「でも、それを本人へ見せて『あなたはこれが好きだったから今も好きなはず』って決めたら駄目ですよね」
エルナは満足そうに頷いた。
「そう。過去の選択は本人を縛るものじゃない。思い出す手がかりにするだけ。今は嫌いになっていてもいい」
「面倒ですね」
「人間なんて面倒なものよ」
ハロルドがまだ近くにいたなら、きっと「だから直通列車にするな」と言っただろう。
蒼汰は少し笑った。
しかし、その方法が使えるなら。
第十四区画にいる他の人にも。
まだできることがある。
「名前がわからない人からでも始められる」
「ええ」
「『エ』しか覚えてない人も」
「赤が好きだった、という本人選択は残ってる」
「帰るか決められないユナも」
「まず卵と黄色から始められた」
大きな答えを迫らない。
小さな自分から。
取り戻す。
「それでいきましょう」
蒼汰が言った。
冬城がすぐに新しい運用案を書き始める。
第一段階――本人情報保全。
第二段階――自己選択情報保全。
第三段階――本人による帰還意思確認。
第四段階――帰還先の具体化。
第五段階――安全な経路選択。
そのどこでも。
本人が止められる。
帰らないへ変えられる。
まだ決めないを選べる。
「父だったら、一人目から第五段階まで一気にやりそうですね」
蒼汰が言うと、エルナは苦笑した。
「昔ならね。でも後半の守は、かなり待てるようになってたわよ」
「アイラさんとか、エマさんとか、ミアに散々教えられたから?」
「そういうこと」
父が。
一人で完成させた方法ではない。
いろいろな人から。
少しずつ。
もらったもの。
それを。
今度はさらに。
自分たちが変える。
蒼汰は設計資料を見て、ようやくこの作業が「父の後を継ぐ」ことではないと実感した。
同じ仕事を。
同じようにするのではない。
父が残した問題へ。
自分たちのやり方で。
答える。
その時。
白い板が。
また光った。
ユナ。
新しい項目。
――本人希望。
蒼汰たちは、誰も声を上げずに待った。
帰りたい。
もしそう出たとしても。
すぐには喜ばない。
帰らない。
そう出ても。
説得しない。
まだ決められないなら。
待つ。
文字が。
ゆっくり現れた。
――おねえちゃん。
次。
――あいたい。
ユイが。
両手で口を覆った。
涙が。
また。
落ちる。
でも。
蒼汰は。
それを。
帰還意思の欄へは。
入れなかった。
「冬城さん」
「はい」
「家族への希望、で」
冬城が。
頷く。
帰還意思。
――未確認。
家族への希望。
――ユイに会いたい。
そこを。
分ける。
会いたい。
だから。
帰らなければならない。
ではない。
ユイが。
涙を拭きながら。
蒼汰を見る。
「そうた」
「ん?」
「ユナに」
一度。
言葉を探す。
「わたしも、あいたいって」
蒼汰は。
すぐには答えず。
エルナを見る。
「安全に送れます?」
「さっきと同じ。ユイ本人は接続しない。こちら側で本人が選んだ言葉を保存して、そのコピーだけを分散経路に乗せるなら」
「ユイ」
蒼汰は。
もう一度。
少女へ向き直った。
「送ったら取り消せないかもしれない。『会いたい』って聞いたことで、ユナが帰らなきゃって思うかもしれない。それでも送りたい?」
ユイは。
すぐには。
答えなかった。
四歳の妹。
ずっと。
会いたかった。
でも。
自分が会いたいと言えば。
妹へ。
重荷になるかもしれない。
小さな少女なりに。
ちゃんと。
考えた。
そして。
「ちがう」
蒼汰が。
眉を上げる。
「何が?」
「『かえってきて』じゃない」
ユイは。
自分で。
言葉を選ぶ。
「『わたしも、あいたい。でも、ユナがきめていい』って」
蒼汰は。
少し。
笑った。
「うん」
それなら。
今のユイ自身の。
答えだ。
記録板へ。
少女が。
自分の声で言う。
「ユナ。わたしも、あいたい。でも、ユナがきめていいよ」
エルナが。
何度も。
安全確認をする。
旧校舎。
南海自由港。
奏多家。
三つの経路へ。
同じ言葉を。
分散する。
誰も。
固定点にはならない。
ユイ自身も。
向こうへは。
つながない。
そして。
送信。
数秒。
何もない。
十秒。
二十秒。
ユイは。
黙って。
待った。
白い板が。
ようやく。
青く光る。
ユナ。
本人選択。
――わかった。
その下。
少し時間を置いて。
もう一つ。
――まだ。
誰も。
続きを急がない。
そして。
――かえるか。
――きめない。
ユイは。
泣きながら。
それでも。
笑った。
「うん」
妹へ。
返事を迫らず。
ただ。
自分へ。
答えた。
「それでいいよ」
帰還意思。
――保留。
その文字が。
今度は。
不安定ではなく。
はっきりと。
白い板に残った。
決められない。
のではない。
今は。
決めない。
ユナが。
初めて。
自分の意思で。
保留を選んだ。
エルナが。
小さく息を吐く。
「成功よ」
「道が?」
「それも。でも、それより大事な方」
エルナは。
白い板の。
ユナ。
その名前を見る。
「この子」
少しだけ。
笑った。
「自分で『今は決めない』って、決められた」
蒼汰も。
同じ文字を。
見つめた。
迎えに行く。
その前に。
やることが。
また。
一つ。
はっきりした。
第十四区画から。
人を連れ出す前に。
そこにいる人たちが。
自分で。
決められる状態を。
取り戻す。
そして。
それができた時。
帰る人。
残る人。
まだ待つ人。
初めて。
一人ずつ。
選べる。
白い板では。
ユナの欄の隣に。
小さな黄色い印が。
新しく表示されていた。
本人が選んだ。
好きな色。
その小さな黄色が。
蒼汰には。
今まで見た。
どんな帰還路よりも。
確かな道標に見えた。




