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父、奏多守はほら吹きではなかった  作者: てへろっぱ


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第96話 父が少女と交わした約束は、「一人だけ助けない」だった



 白い板には、ミアからの要請が残っていた。


 ――迎えに来る前に、守に聞いて。

 ――あの約束を、今も覚えているか。

 ――ミアと守だけの。


 蒼汰は何度か棺へ目を向けたが、父の声は戻ってこなかった。アーデルに「今度こそ休みなさい」と言われてから、守は本当に眠っているらしい。


 ほんの少し前の自分なら、こんな時こそ叩き起こしてでも聞きたいと思ったかもしれない。だが、今の蒼汰にはそれができなかった。百年以上もまともに休めなかった人間が、ようやく自分から眠ることを受け入れたのだ。なら、まずは父を起こさずに調べられるところまで調べればいい。


 蒼汰は白い板から視線を外し、アイラへ向き直った。


「アイラさん、その約束について本当に何も聞いていないんですね。ミアと父が二人だけで話していた時間はあったんでしょうか」


「ありました」


 アイラは棺を一度見たあと、遠い記憶を辿るように目を細めた。


「私が帰還の準備をしている間、ミアが守さんを少し離れた場所へ連れていったんです。十分もなかったと思います。でも、戻ってきた時の二人の顔はよく覚えています。ミアは泣いた後なのに妙にすっきりしていて、守さんの方は、十二歳の子どもに何か言い負かされたような顔をしていました」


「十二歳に言い負かされたんですか」


 蒼汰が思わず聞き返すと、アイラは真顔で頷いた。


「守さんですから」


 隣にいたエルナまで当然のように頷いたので、蒼汰は苦笑するしかなかった。


「父に対する評価、みんな厳しくないですか」


「子ども相手でも普通に正論で負けてたもの。特に、自分が間違っていると薄々わかっている時ほど弱かったわね」


「反論できなくなると、話を逸らしそうですね」


「よく知ってるじゃない」


「息子なので」


 ほんの少しだけ広間の空気が緩んだが、肝心の約束についてはまだ何もわからない。


 蒼汰は冬城へ視線を向けた。


「六回目の進入記録を、もう少し戻せませんか。会話そのものが残っていなくても、前後で父の行動が変わっていれば手がかりになるかもしれない」


「確認してみます」


 冬城が古い記録を広げ、エルナも境界情報の復元作業へ入った。以前なら守の記憶が戻るまで待つしかなかった部分も、今は第十四区画から自発的に届く情報と照合できる。


 六回目の進入。


 アイラ・フェルン帰還。


 ミア・フェルン残留。


 帰還路、一時閉鎖。


 奏多守、こちら側へ帰還。


 そこまではすでに判明している。しかし、その途中に八分ほどの不自然な空白があり、その直後に守自身が残したと思われる短い走り書きがあった。


 ――次回、単独実施禁止。


 蒼汰はその一文をしばらく見つめた。


「父が自分から『一人でやらない』なんて書いてる。これ、かなり珍しいですよね」


 冬城は一度考えてから、静かに答えた。


「珍しいという表現では足りないかもしれません。当時の守様は、危険な任務ほど他人を巻き込まないよう単独で処理しようとする傾向が強くありました」


「想像できます」


 誰かを危険へ巻き込みたくない。なら自分だけで行けばいい。父なら、いかにもそう考えそうだった。


 だが、そのやり方で守は祖父と同じ固定役に自分を追加し、長い年月をかけて存在を削られていった。いくら善意から始めても、一人で全部背負う仕組みそのものが間違っていた。


 蒼汰が記録を見ながら考えていると、子ども用の椅子に座っていたユイが小さく口を開いた。


「ミア、まもるに、おこるよ」


 全員の視線がユイへ集まった。


 蒼汰はすぐに続きを求めず、まず声の調子を柔らかくした。


「そのこと、ユイは覚えてるんだね。無理に全部思い出さなくていいから、話したいところだけ教えてくれる?」


 ユイは少し考え、自分から頷いた。


「ミア、いってた。まもる、いつもひとりでくるって。けがしてても、つかれてても、ひとりでくるから、だめって」


 蒼汰は無言で棺を見た。


 十二歳の子どもにまで見抜かれていたらしい。


 ユイはさらに記憶を辿るように眉を寄せた。


「それから、ミア、いったよ。『わたしだけ、つれてかえらないで』って」


 その言葉に、アイラの身体が強張った。


「ミアが、そんなことを……?」


「うん」


 蒼汰の中で、白い板に示されていた「単独帰還拒否」という現在の意思と、二十一年前の少女の言葉がつながった。


 ミアは二十一年の間に突然考えを変えたわけではない。十二歳の頃からすでに、自分だけが帰ることを拒んでいたのだ。


 ただし、第十四区画にいる全員を一度に帰せなどという無茶な話ではない。そんなことができないのは、当時のミアにもわかっていたはずだった。


「ユイ、もし理由も覚えていたら教えてくれる? わからなければ、わからないままでいい」


「ぜんぶは、わかんない。でも、ミア、なまえ、いっぱいもってる」


「名前を持っている?」


「わすれそうなひとの。ミアが、おぼえてる」


 蒼汰はエルナを見る。彼女も同じ意味へたどり着いたらしく、すぐに表情を変えた。


「そういうことね。ミアは当時から、名前を失いかけていた人たちの記憶を支えていた」


 第十四区画で名前が消え始めた人へ、何度も名前を尋ねる。答えられたなら覚える。本人がまた忘れたなら、もう一度教える。


 まだ十二歳の少女に、境界を直すことなどできなかった。帰還路も作れない。それでも、人の名前を覚えることならできた。


「もし当時ミアだけをこちらへ帰していたら、ミアが覚えていた人たちの名前まで一緒に失われた可能性があるってことですか」


「十分あり得るわ。今なら名前保存装置で代替できるけれど、二十一年前にはそんな仕組みはない。ミア本人が、実質的に名前を保持する記録媒体の一部になっていた可能性が高い」


 アイラは両手を強く握りしめた。


「だから、帰らなかった……」


「それだけが理由だったとはまだ言えません。でも、少なくとも大きな理由の一つだったと思います」


 蒼汰は断定を避けた。


 母親へ会いたくなかったわけではない。むしろ帰りたかった。それでも自分が帰れば、別の誰かが自分自身を失うかもしれない。そんな重さを、十二歳の少女が背負っていた。


 だが。


「だからこそ、今度はミア一人にそれを背負わせ続けるのも違いますよね」


「ええ。それを二十一年間も一人に任せ続けてきた仕組みの方がおかしい」


 エルナの返事には迷いがなかった。


 アイラが静かに顔を上げる。


「守さんも、そのことに気づいていたのでしょうか」


「たぶん、気づき始めていたんだと思います」


 単独実施禁止。


 その後の、後任自動指定禁止。


 特定の一人に道を背負わせない方針。


 今になって振り返れば、その原点の一つに十二歳のミアがいたのかもしれない。


「この約束が、それなのかな」


 蒼汰が白い板へ呟いた。


 しかし、板は何の反応も示さなかった。


 どうやらまだ足りない。


 ミアが「覚えているか」と確認したい約束は、さらにその先にある。


 その時。


 棺の方から、息を吐くような小さな声が聞こえた。


『……違う』


 蒼汰は勢いよく振り返った。


「親父? 起きたの?」


『半分だけ』


 守の声はまだ遠い。深い眠りの底から、意識だけが少し浮かんできたようだった。


「無理して起きなくていい。でも、ミアが二十一年前の約束を覚えているかって聞いてる」


 その名前を聞いたあと、守はしばらく黙った。古い記憶を、ゆっくり手繰り寄せているのだろう。


 誰も急かさなかった。


 やがて。


『覚えてる』


 蒼汰の胸が少しだけ熱くなった。


「何を約束したの?」


 今度の沈黙は、先ほどより長かった。


 そして守は、少しずつ当時のことを語り始めた。


 二十一年前。


 アイラを帰す直前、ミアは守を少し離れた場所へ連れていった。泣いた顔のまま、最初にこう聞いたという。


 ――お母さん、ちゃんと帰る?


 守は「帰す」と答えた。


 事故が絶対に起きないとも、必ず成功するとも言わなかった。けれど、自分にできる準備は全部する。それだけは約束した。


 するとミアは、もう一つ尋ねた。


 ――じゃあ、わたしは?


 守は、次に道が開いたら迎えに来ると答えた。


 そこでミアが怒った。


『最初は俺も、何で怒られたのかわからなかった』


「何て言われた?」


『“また一人だけ助けるの?”って』


 蒼汰は、すぐには何も言えなかった。


 十二歳の少女が守へ問いかけたのは、一人ずつ帰すことそのものではない。


 母を一人帰す。


 次に自分を一人帰す。


 その次にまた別の誰かを一人帰す。


 問題は、そのたびに守が全部を一人で背負い、自分一人で繰り返そうとしていることだった。


『俺は、道が一人ずつしか通せないなら仕方ないだろって答えた。でもミアは、それじゃないって言った』


 守は当時の言葉を、思い出すようにゆっくり続ける。


 ――一人ずつ帰すのがだめなんじゃない。

 ――一人を帰すたびに、おじさんが一人で全部やるのがだめ。


 蒼汰は目を閉じた。


 あまりにも父らしい。


 誰か一人を助ける。


 次も自分で。


 その次も自分で。


 困っている人がいる限り、自分が行けばいい。


 それを続ければ、いつか自分が壊れる。


 実際に。


 壊れた。


『それでミアが、次に来る時の条件を出した』


「条件?」


『一人で来ないこと。それから、自分だけを抜いたら他の人の名前が消えるような状態のまま迎えに来ないこと』


 広間が静まり返った。


 白い板に残る現在のミアの言葉。


 ――名前を、誰か一人に持たせない。


 二十一年前から、根っこは変わっていなかった。


 守はその場で「無茶を言うな」と答えたらしい。


 蒼汰は少しだけ呆れた。


「十二歳相手にそれ言ったの?」


『その場で方法を思いつけって方が無茶だろ』


「まあ、それはそうだけど」


 それでも。


 守は最後に「考える」と答えた。


 次に迎えに来る時は、一人では来ない。


 そして、ミア一人が抜けるだけで他の誰かの名前が消える仕組みのまま、無理やり連れて帰らない。


 彼女が、もう誰かの名前を一人で背負わなくていい状態にしてから迎えに来る。


 それが。


 二人だけの約束だった。


「でも、守さんはその約束を果たせなかったんですね」


 アイラの声には責める響きはなかった。ただ、二十一年という年月を確かめるような静かな痛みだけがあった。


 守も言い訳しなかった。


『そうだ。最後まで完成させられなかった』


 六回目の後に単独実施禁止を残し、七回目では後任自動指定を止め、名前を残す方法も、奏多家を帰還の目印にする方法も考えた。


 だが、完成する前に死んだ。


「じゃあ、ミアが今確認したかったのは」


『俺が、まだその約束を覚えてるかどうかだろうな』


 そして、おそらく。


 迎えに来る者が、また昔と同じように、一人を助けるため一人で飛び込んでくるつもりではないか。それを確認したかった。


 蒼汰は少しだけ笑った。


「なら、父は覚えてた。でも次に迎えに行くとしても、お前じゃないし、俺一人でも行かない」


 守は黙って聞いていた。


 蒼汰はエルナ、冬城、サーラ、ユイ、そして広間にいる大勢の弔問者たちへ視線を巡らせる。


「必要な人にはちゃんと手伝ってもらう。名前を保存する仕組みも作るし、帰りたい人だけ帰れるようにする。帰らない人の選択も、まだ決められない人の状態も残す。それに、俺が全部できるふりもしない。少なくとも、約束した本人よりはちゃんと守れそうだよ」


『……腹立つな』


「否定は?」


 少し間を置いて。


『ない』


 蒼汰は笑った。


 その瞬間、白い板が淡く光った。


 こちらから何も送っていない。それでも、守が約束を思い出したことへ反応したように文字が浮かぶ。


 ――覚えてた。


 アイラの目から、また涙が落ちた。


 続いて。


 ――よかった。


 守が小さく息を吐く。


『怒ってると思ってた』


「多分、怒ってもいるだろ」


『だよな』


 だが、文字はさらに続いた。


 ――でも。

 ――守は。

 ――もう来なくていい。


 蒼汰の笑みが消えた。


 守の声も止まる。


 ミアは、父が死んだことを知っているのかもしれない。少なくとも、もう自分を迎えに来られないことは理解している。


 次に現れる名前が「蒼汰」なのではないかと、一瞬だけ思った。


 けれど。


 違った。


 ――今度は。

 ――みんなで。


 蒼汰は、その言葉をじっと見つめた。


 守でもない。


 蒼汰でもない。


 ミア一人でもない。


 父と十二歳の少女が二十一年前には作れなかった仕組みを、今なら作れるかもしれない。


 エルナが机の上へ散らばった設計資料を引き寄せた。


「これで設計条件はかなり明確になったわ。一人も固定杭にしない。名前も帰還先も分散して保持する。一か所が壊れても、全員の道が消えないようにする」


「お願いします」


「蒼汰もやるのよ」


「境界工学なんてわかりませんよ」


「だから帰還者側の条件を整理するの。技術者だけで道を作ると、また守みたいなものができる」


 眠りかけの父が、遠くから不満そうに呟いた。


『何で俺が悪い例なんだ』


「実績が豊富だからだろ」


 蒼汰の返しに、広間の空気が少しだけ緩んだ。


 ただし。


 守の声は、さっきよりさらに遠かった。


 蒼汰はそれに気づいていた。


 約束を一つ思い出すたび、父は境界に置いてきた自分の一部を取り戻している。そして取り戻せば取り戻すほど、ここに残った声は終わりへ近づいているように思えた。


「親父、もう寝ていいよ」


 今度は守も抵抗しなかった。


『ああ』


 短い返事だったが、声には妙な安心があった。


『ミアに、今度は一人じゃないって……』


「直接伝えられる方法が安全に作れたら、本人にちゃんと言うよ。今、勝手には送らない」


『それでいい』


 その答えに満足したらしく、守の声は静かに消えていった。


 蒼汰は追いかけなかった。


 白い板へ目を戻す。


 そこにはミアの名前と、帰還意思――あり、単独帰還――拒否という情報が残っている。


 そして新たに。


 帰還希望形態。


 ――みんなで。


 ただし、その下に小さな注記が現れた。


 ――全員一緒、という意味ではない。


 蒼汰は一瞬、読み間違えたかと思った。


 さらに文字が続く。


 ――一人で背負わない。


 その一文を読んで、蒼汰はようやく意味を理解した。


「なるほど。そういう“みんなで”か」


 百人以上を一度に無理やり同じ場所へ帰すという意味ではない。


 一人で背負わない。


 一人が道にならない。


 一人が全員を助けようとしない。


 それが、ミアの言う「みんなで」だった。


 蒼汰はエルナが広げた新しい帰還路の設計資料へ椅子を寄せた。


「じゃあ、父が二十一年かけても作り切れなかったものを、今度は一人じゃなく作りましょう」


「今日中に完成させるなんて言わないでしょうね」


「言いませんよ。休みながらやります」


 サーラが離れた場所から満足そうに頷いた。


「その言葉は記録しておきます」


「俺まで診療記録を作らないでください」


 アイラが涙を拭きながら、少しだけ笑った。


 そして、白い板に表示された娘の名前を見つめる。


 触れない。


 返事を要求しない。


 ただ、自分自身の今の気持ちとして。


「ミア。今度は、あなた一人に待たせません」


 白い板は何も返さなかった。


 それでよかった。


 返事は急がせない。


 今度こそ。


 誰か一人に、背負わせないために。


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