第95話 母は二十一年待った娘に、「帰ってこい」と言わなかった
扉が開き、アイラ・フェルンが広間へ入ってきた。
赤い髪は二十一年前の帰還記録に残っていた写真より短くなり、右目の下には守が思い出した通り、小さなほくろがある。年齢は四十八歳。第十四区画から帰還した時には二十七歳だった女性は、こちら側で二十一年を生き、その年月をきちんと顔に刻んでいた。
蒼汰は、彼女の視線がまず棺へ向かうと思っていた。
だが違った。
アイラが最初に見たのは、長卓の横に置かれた白い板だった。
そこには百を超える名前や断片的な記憶が並び、その中に一つ、彼女と同じ姓がある。
――ミア・フェルン。
アイラの足が止まった。
声は出なかった。駆け寄ることもしない。ただ、二十一年間探し続けたものを本当に目の前で見つけた人間だけがするように、何度も瞬きをした。
「……ミア」
ようやく漏れた声は、ひどく静かだった。
蒼汰は立ち上がったが、すぐに説明を始めることはしなかった。アイラが自分の目で娘の名前を確認する時間を待つ。
やがて彼女の方から尋ねた。
「これは、あの子が自分で名乗ったのですか」
「はい。少なくとも、こちらから名前を送って書かせたものではありません」
「守さんが思い出したから表示された、というだけでもない?」
「最初に『ミア』と届いたあと、父が姓と昔のことを思い出しました。別々に確認しています」
アイラは目を閉じ、ゆっくり息を吐いた。
「そうですか。なら……まだ、自分の名前を持っているんですね」
最初に喜んだのが「生きている」ではなく、「名前を持っている」ことだった。
蒼汰には、その意味が今ならわかる。
第十四区画では、身体が残っているだけでは安心できない。自分の名前、家族の名前、好きだったもの、帰りたい場所。その一つ一つが削られ、最後には自分で選ぶことさえできなくなる。
アイラは二十一年間、その恐怖を知ったまま待っていたのだ。
「アイラさん」
「はい」
「父との約束について、少し聞いてもいいですか」
彼女は棺を一度見てから頷いた。
「そのために来ました」
アイラは守の六回目の第十四区画進入で帰還した。
当時、母娘を同時に帰せる道はなく、身体の状態が限界に近かったアイラを先に通すことになった。ただし、それを決めたのは守ではない。娘のミア自身が、母を先に帰してほしいと選んだ。
そして帰還の直前、アイラは守に頼んだ。
娘が「帰りたい」と自分で言った時、帰れる道を残してほしい。
もし「帰らない」と選んだなら、それも受け入れてほしい。
「二十一年前の私は、本当は別のことを言いたかったんです」
アイラは自嘲するように笑った。
「何て?」
「絶対に連れて帰ってください、と。何があっても、私のところへ戻してください、と」
当然だ、と蒼汰は思った。
十二歳の娘を異常な場所へ残し、自分だけこちらへ帰る。そんな母親が「娘の意思を尊重します」と簡単に割り切れるはずがない。
「でも、それを言わなかった」
「言えませんでした」
アイラは首を振った。
「ミアが私を先に帰した時、あの子は子どもなりに全部考えていました。怖かったはずです。私と離れたくなかったはずです。それでも、自分で決めた。だったら私がこちらへ帰った途端、その選択を無かったことにしてはいけないと思ったんです」
守は、その言葉を聞いていた。
そして後に、何度も似た考えを使うようになった。
帰還とは、連れて帰ることではない。本人が帰るかどうかを選べるところまで支えること。
父が最初から知っていた考えではない。
こうして誰かから教わり、受け取り、次の誰かへ渡していったものだ。
「それから二十一年」
蒼汰は尋ねた。
「ずっと待っていたんですよね」
「はい」
「帰ってきてほしいと思いながら?」
アイラは少し考えた。
「毎日」
迷いのない答えだった。
「一日も、帰ってきてほしいと思わなかった日はありません」
それでも。
「だからといって、『帰ってこい』とは言いません」
蒼汰は黙って彼女を見る。
アイラも白い板を見ていた。
「母親が二十一年待った。それを聞かされたら、子どもは帰らなければならないと思うでしょう。ましてミアは、昔から人を置いて自分だけ楽になるのが苦手な子でした。そんな子に私の二十一年を背負わせたくありません」
「でも、会いたい」
「会いたいですよ」
今度は、少し笑った。
「今すぐ抱きしめたい。叱りたいし、何を食べていたのか聞きたいし、髪をちゃんと梳いているのか確認したい。十二歳だった娘が向こうでどうなったのか、全部知りたいです」
その笑顔のまま、目から一筋だけ涙が落ちる。
「でも、それは私の気持ちです。ミアの答えではありません」
蒼汰は、棺へ視線を向けた。
眠っている父の声は聞こえない。
けれど、聞いていたらきっと何か言っただろう。
そしてたぶん、今回ばかりは余計なことを言わずに頷いた。
その時、ユイが子ども用の椅子からアイラを見上げた。
「ミア、しってる?」
アイラが少女へ視線を向ける。
「あなたは?」
「ユイ」
「ユイさん」
アイラは名前を繰り返した。
ユイの存在反応が、エルナの装置の上で穏やかに青く光る。
「ミアは私の娘です」
「むこうにいる」
「そうみたいですね」
アイラは、ユイが第十四区画から帰還した少女だとまだ詳しく聞いていない。それでも必要以上に質問せず、まず本人の言葉を受け取っていた。
ユイは少し考えてから言った。
「ミア、やさしい」
アイラの表情が固まった。
「会ったことがあるの?」
「うん」
蒼汰も驚いた。
ユイが第十四区画から帰還したのは父が死ぬ直前、わずか十日ほど前だ。ミアは二十一年前から向こうに残っている。なら二人が会っていても不思議ではない。
「どんな人だった?」
アイラが反射的に聞きかけ、そこで自分から止めた。
「……ごめんなさい。一度に聞かなくていいですね」
ユイが首を傾げる。
蒼汰は少し笑った。
「ユイ、話したい?」
「うん」
「じゃあ、話せるところだけでいいよ」
ユイは自分で頷いた。
「ミア、くつ」
その一言で、蒼汰は思い出した。
十二歳の頃のミア。
左の靴紐が、いつもほどけていた。
「今も?」
蒼汰が聞く。
ユイは少し笑った。
「ひとの、なおす」
アイラの口元が震えた。
昔は自分の靴紐を何度結んでもほどいていた少女が、今は誰かの靴を直している。
「それから?」
「なまえ、きく」
「名前を?」
「わすれそうなひとに、なんども」
エルナが手を止めた。
蒼汰も意味を理解する。
第十四区画で、名前を忘れかけた人へ何度も本人の名前を尋ねる。
答えられたら記憶する。
また忘れたら、もう一度聞く。
「まさか」
蒼汰が白い板を見る。
最初に自発的な名前が大量に届いた時、あれほど多くの人が自分の名前をまだ答えられた理由。
父が残した仕組みだけではなかったのかもしれない。
「ミアが、向こうで名前を守ってた?」
ユイは難しい言葉がわからなかったようだが、少し考えてから頷いた。
「ミア、いっぱい、おぼえてる」
アイラは両手で口元を覆った。
二十一年間。
娘は、ただ待っていたわけではなかった。
父の代わりでもない。
母のためでもない。
自分でそこに残ると決めたあと、自分にできることを見つけていた。
「……あの子らしい」
アイラの声は泣いていた。
「昔から、人の忘れ物ばかり覚えている子でした。自分の宿題は忘れるのに」
蒼汰が思わず笑う。
「そこは父と違いますね」
「守さんは、自分の予定も人の予定も忘れていました」
眠っている棺から反論が聞こえそうだった。
エルナが装置を確認しながら口元を緩める。
「それは否定できないわね」
ほんの少し、広間の緊張が解けた。
だが蒼汰は、大事なことを忘れていなかった。
「アイラさん。今、ミア本人の帰還意思はまだ確認できていません」
「はい」
「お母さんがここにいることを向こうへ送るのも、まだしていません。接続が強くなる危険があるので」
「それで構いません」
即答だった。
「待てます」
「二十一年待ってるのに?」
「二十一年待ったからです」
アイラは蒼汰を見る。
「ここで焦って、あの子の二十一年まで壊したくありません」
その答えを聞き、蒼汰は深く頷いた。
父だったら。
昔の父なら。
今すぐ何とかしようとしたかもしれない。
でも今は違う。
一人で行かない。
勝手に連れて帰らない。
本人が選べる状態を先に作る。
そして、待つ側の気持ちまで相手へ背負わせない。
守が長い時間をかけて覚えたことを、蒼汰たちは最初から使える。
「エルナさん。ミアについて、今ある情報だけもう一度整理できます?」
「やってみる」
本人名――ミア・フェルン。
家族名――アイラ・フェルン。
過去の本人意思――帰還希望あり。ただし最終確認は未実施。
現在の役割と思われる情報――他の未帰還者の名前保持支援。
そこまで入力したところで。
白い板が光った。
誰も送っていない。
向こうから。
新しい記録。
――本人名。
――ミア・フェルン。
アイラの身体が強張る。
次。
――帰還意思。
長い空白。
蒼汰は、誰にも声を出さないよう手で合図した。
母親が目の前にいる。
でも、その情報はまだ向こうへ送っていない。
だから。
今から出る答えは。
少なくとも。
母親がここで待っていると知らされた結果ではない。
文字が浮かぶ。
――あり。
アイラが息を呑んだ。
帰りたい。
二十一年前と同じ。
ミアは今も、自分の意思で帰還を望んでいる。
アイラの膝が震えた。それでも、駆け寄って板へ触れることはしなかった。
「帰りたいって……」
「はい」
蒼汰も胸が熱くなる。
だが。
記録はまだ続いていた。
――帰還条件。
一度、文字が乱れる。
そして。
――単独帰還。
その下。
――拒否。
アイラが目を見開いた。
蒼汰も白い板を見つめる。
帰りたい。
でも。
一人では帰らない。
次の行。
――理由。
白い板に。
名前が。
一つ。
また一つ。
浮かび始めた。
ノノ。
ユナ。
本人名不明。
本人名「エ」。
さらに。
十。
二十。
三十。
止まらない。
アイラは途中で意味を悟った。
「ミア……」
娘は。
母親へ会いたくないのではない。
帰りたくないのでもない。
自分が帰ったあと。
名前を忘れかけた人たちを。
置いていくことができない。
蒼汰は棺を見た。
「似てるな……」
守に。
そして。
似ているからこそ。
同じ間違いをさせてはいけない。
蒼汰はすぐエルナを見る。
「ミア一人に、向こうの人の名前を支えさせる状態は終わらせましょう」
「私も同じこと考えてた」
「ミアが帰るためだけじゃないです。帰らないって決めても、一人で全員を背負う必要がないように」
「ええ」
アイラが蒼汰を見る。
その目に涙は残っていた。
それでも。
母親は言った。
「お願いします」
蒼汰は、少しだけ意外だった。
「『ミアを先に帰して』じゃなくて?」
アイラは白い板の娘の名前を見つめたまま首を横に振る。
「それを言ったら、二十一年前の私に戻ってしまいます」
一度、目を閉じる。
「ミアが一人で背負わなくてもよくなった時、それでも帰りたいと言うなら」
そして。
泣きながら笑った。
「その時に、私は『おかえり』と言います」
白い板が。
もう一度。
淡く光った。
帰還条件。
新しい一行。
――名前を。
次。
――誰か一人に。
――持たせない。
蒼汰の心臓が強く鳴った。
こちらの会話は。
送っていない。
それなのに。
ミアが。
同じ答えを出している。
父や祖父のように。
誰か一人を。
道にしない。
そして。
ミア自身も。
全員の名前を背負う一人にはならない。
蒼汰はエルナを見る。
「新しい帰還路」
「ええ」
「急いで作る理由、増えましたね」
エルナは頷いた。
「でも、急いで雑には作らない」
「はい」
その時。
白い板の一番下に。
これまでなかった項目が。
現れた。
――ミアからの要請。
蒼汰たちは息を止める。
内容。
――迎えに来る前に。
一拍。
――守に。
――聞いて。
蒼汰は眠る父の棺を見た。
まだ。
声は聞こえない。
そして。
最後の一行。
――あの約束を。
――今も覚えているか。
アイラの表情が変わった。
「約束?」
蒼汰は彼女を見る。
「心当たりが?」
「いいえ」
アイラは首を横に振る。
「私との約束ではありません」
白い板。
もう一行。
――ミアと。
――守だけの。
蒼汰は、静かな棺へ視線を戻した。
二十一年前。
母を先に帰した十二歳の少女と。
父だけが交わした。
まだ誰にも語られていない約束。
それを。
第十四区画に残ったミアは。
今も覚えていた。




