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父、奏多守はほら吹きではなかった  作者: てへろっぱ


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第94話 誰か一人を道にするのは、もう終わりにする



 祖父が「帰らない」と選んだ直後、第十四区画を支えていた最古の固定反応が消えた。


 それ自体は、間違ったことではない。何十年も、あるいはそれ以上の時間、自分自身を帰還路の杭にされ続けた人が、ようやく息子が無事に帰ったと知り、自分はもう帰らないと決めた。その選択を、道が崩れるからという理由で取り消させることなどできない。


 けれど、正しい選択のあとに問題が起きないとは限らなかった。


「エルナさん、どうです?」


「待って。今、古い固定点が消えた影響を切り分けてる」


 エルナは長卓いっぱいに計測器を広げ、白い板から送られてくる反応をいくつもの表示へ分解していた。普段なら難しい専門用語を口にしながら勢いで説明してくるところだが、今回は蒼汰が理解できる言葉へ置き換えようとしている。


「第十四区画を一本の橋だと思って。今までその橋を、何本かの柱で支えていた。その一番古い柱がお祖父さん、途中から追加された柱が守。だけど守ももう、ほとんど固定力を失ってる」


「親父は死んでますからね」


「ええ。それでも完全にゼロじゃなかったのよ。向こう側に残った記録と、あなたが聞いている声、それに奏多家や鍵へ残された情報が、細いながら支えになってた」


 蒼汰は棺を見た。父は眠ったまま、声を返さない。


「つまり、じいちゃんが抜けたせいで親父側に負担が?」


「違う。そこはもう増えてない。むしろ、その仕組み自体が限界に来てる」


 エルナは一つの表示をこちらへ向けた。


 何本もの線が、ひどく不安定に揺れている。その中には旧校舎、南海自由港、奏多家を示す反応もあった。一本の道が複数の場所へ姿を変えて現れている。そこまでは、すでにわかっている。


 問題は、その中央だった。


 何十、何百という細い線が絡み合い、中央の一点へ集中している。


「これ全部……人?」


「そう」


「帰れない人たち?」


「正確には、第十四区画にいる人たちが持っている“帰りたい場所の記憶”」


 蒼汰は画面へ目を落とした。


 父親。


 海の町。


 家。


 帰らない。


 奏多家。


 今日、白い板へ記録した言葉が頭へ浮かぶ。


「帰り道って、一つじゃないんだ」


「最初からね」


 エルナは頷いた。


「守も、お祖父さんも、巨大な一本の出口を作っていたわけじゃない。向こうにいる人たちが、それぞれ自分の帰る場所を思い出すための共通目印になってた。だから一人の存在を使えば、管理は楽だった」


「その一人が削れるけど」


「そういうこと」


 便利だった。


 誰か一人を、ここが帰る方向だと示す標識にする。


 その人が覚えている限り、道はある。


 その人が存在する限り、向こうにいる人たちはこちらを見失わない。


 けれど、その代わりに標識となった人間が少しずつ消えていく。


 祖父がそうなった。


 父もそうなった。


「なら、やっぱり同じやり方は無しですね」


「当然」


「俺を使うのも」


「論外」


「奏多家そのものを杭にするのは?」


 エルナは少し考えた。


「家を“場所”として使うなら可能性はある。でも、今の奏多家は守の記憶と強く結びつきすぎてる。単純に家だけ残しても、守を経由する構造が残るかもしれない」


「じゃあ、もっと別のもの」


「ええ」


 蒼汰は白い板を見た。


 人を道にしない。


 なら。


 何を道にする。


 考えていると、子ども用の椅子に座っていたユイが、ぽつりと聞いた。


「みち、ものじゃだめ?」


「物?」


 蒼汰が振り返る。


 ユイは、自分の膝の上で両手を組みながら言った。


「まもる、かぎ、つかってた」


 銀色の鍵。


 祖父から守へ。


 守から蒼汰へ。


 今も蒼汰の手元にある。


 エルナがすぐに首を振った。


「鍵一個だけに集中させるのは危険。今度は鍵そのものが壊れたら全部終わる」


「じゃあ」


 ユイが考える。


「いっぱい」


「いっぱい?」


「かぎ、いっぱい」


 蒼汰とエルナが同時に黙った。


 冬城が、少し遅れて口を開く。


「複数の固定点を設ける、という意味でしょうか」


 エルナの目が、研究者のそれへ変わった。


「一人に全部集めるんじゃなく、帰還情報そのものを分散する……」


「できます?」


「理屈では」


「その返事、だいたい危ないやつですよね」


「理屈がなきゃ始められないでしょう」


 エルナは一気に複数の記録を開いた。


「守が残した名前保存装置。奏多家に残っている帰還反応。旧校舎の境界記録。南海自由港の観測点。第十四区画から自発的に送られてきた本人情報。それぞれを別々の固定点として使えば、一個が消えても全体が落ちない構造にできるかもしれない」


「人間を杭にしない?」


「しない」


「誰かの名前を勝手に使わない?」


「本人が自分で申告した情報だけ」


「帰りたくない人は?」


「帰還路へ乗せない」


「まだ決められない人は?」


「保留。名前や自己認識だけ保存する」


 蒼汰は、そこでようやく頷いた。


「それなら」


「ええ」


 エルナも頷く。


「守のやり方を、仕組みに置き換えられる」


 父が一人で背負っていたものを。


 父より優秀な一人へ渡すのではない。


 誰にも背負わせない形へ変える。


「親父が聞いたら」


 蒼汰は棺を見る。


「自分がやった方が早いとか言いそうだな」


 返事はない。


 だからこそ、少し笑えた。


「でも今回は却下」


 冬城が小さく頷く。


「では、役割を分けましょう」


「お願いします」


 そこからは早かった。


 冬城は現在利用できる観測点を洗い出す。エルナは各地点の境界反応を比較し、個人情報を固定点へ変換する方法を組み立てる。サーラはユイの状態を見ながら、長時間の作業で誰かが倒れないように食事と休憩の手配を始めた。


 蒼汰がその様子を見ていると、サーラが当然のようにこちらへ言った。


「蒼汰さんも食べます」


「まだ大丈夫です」


「その台詞を、あなたのお父様から何度聞いたと思いますか」


「食べます」


 即答した。


 エルナが吹き出す。


「学習が早い」


「百十二回の実例見た直後ですからね」


 アーデルから受け取った木の皿へ、簡単なスープが注がれた。


 自分の分。


 譲らない。


 誰かが困っているからといって、全部渡さない。


 蒼汰はきちんと食べた。


 ユイも隣で、小さなパンを自分で選んで食べている。


「おいしい?」


「うん」


「もっといる?」


 ユイはパン籠を見て、少し考えた。


「あと、はんぶん」


「了解」


 半分。


 本人が決めた。


 それだけで、エルナの装置には安定した青い反応が出る。


 大きな選択だけではない。


 何を食べる。


 どこに座る。


 何個欲しい。


 そういう小さな判断を、自分のものとして取り戻すこと。それ自体が、存在をこちら側へ定着させる。


 蒼汰は思った。


 第十四区画にいる全員へ必要なのは、巨大な救助作戦だけではないのかもしれない。


「エルナさん」


「なに?」


「帰還路を作る前に、向こうの人たちへ小さい選択を増やせません?」


 エルナの手が止まる。


「どういうこと?」


「名前だけじゃなくて。好きな食べ物とか、行きたい場所とか、誰に会いたいとか。答えられるものだけ」


「自己認識の補強……」


「帰る、帰らないを決めろって言われても、ユナみたいに決められない人がいる。でも、今パン食べたいとか、眠いとかなら答えられる人もいるかもしれない」


 エルナは数秒。


 本当に黙った。


 それから。


「蒼汰」


「はい」


「それ、かなり大事」


「珍しく素直ですね」


「今は茶化すところじゃない」


「すみません」


 しかし、エルナの表情は明るかった。


「守はずっと、“帰る場所を思い出させる”ことに集中してた。でも、自己認識が崩れている人へいきなり帰還先を聞くより、先に“自分が何を好きか”を取り戻してもらった方がいい」


「それも本人が自分で答えるなら」


「固定に使える」


 冬城がすぐに記録形式を追加する。


 本人名。


 帰還先。


 家族名。


 関連名。


 帰還意思。


 そして。


 ――本人選択。


「具体的には?」


 冬城が聞く。


 蒼汰は少し考えた。


「最初は簡単なのでいいと思います。暑いか寒いか。明るい方がいいか暗い方がいいか。食べたいか眠りたいか」


 サーラが補足する。


「身体感覚が残っている方なら、そこから始められます」


 ユイが口を挟む。


「すきなものも」


「うん」


「いろ」


「色?」


「ユナ、きいろすき」


 蒼汰が少し笑う。


「じゃあ、それも」


 エルナは装置の送信側を慎重に制限した。こちらから答えを提示しない。選択肢を押しつけない。質問すら、できるだけ本人が理解できる形に留める。


 そして最初に行ったのは、問いを送ることではなかった。


 第十四区画から自発的に届いている情報の中に、すでに「好き」「嫌い」「寒い」「眠い」といった断片がないか、過去の反応を解析することだった。


「ある」


 エルナが言った。


「かなりある」


 次々に出てくる。


 ――さむい。


 ――みず。


 ――ねむい。


 ――くらいのいや。


 ――あまいの。


 ――うみ。


 ――あか。


 名前ではない。


 帰還先でもない。


 ただの。


 その人自身の言葉。


「これ全部、残しましょう」


 蒼汰が言う。


「はい」


 冬城が答える。


 一つずつ。


 分類しないまま。


 まずはそのまま。


 勝手に意味を決めない。


 そして。


 白い板へ。


 変化が起きた。


 本人名――不明。


 帰還先――不明。


 その下。


 本人選択。


 ――あまいの。


 蒼汰は思わず笑った。


「誰だかわからないけど、甘いもの好きなんだ」


 ユイも笑った。


 次。


 本人名――エ。


 帰還先――不明。


 本人選択。


 ――あか。


 以前、名前を「エ」までしか思い出せなかった人。


 それでも。


 好きな色は。


 覚えている。


「名前以外からも戻せる」


 エルナが呟く。


 名前を失えば終わり。


 そう思っていた。


 でも。


 赤が好き。


 甘いものが食べたい。


 寒い。


 眠い。


 海が見たい。


 それらも全部。


 人の一部だ。


 誰かの。


 その人らしさ。


 父は名前を大事にした。


 それは正しかった。


 でも。


 名前だけが人間ではない。


「親父」


 蒼汰は棺へ言った。


「また一個」


 返事はない。


「お前の続き」


「増えたぞ」


 少しだけ。


 嬉しかった。


 父が全部を完成させなかったから。


 自分たちが。


 足せる。


 直せる。


 変えられる。


 しばらくして、エルナが全体反応を確認した。


「崩壊速度、落ちた」


「止まった?」


「まだ。でも、さっきよりかなり遅い」


「どれくらい猶予あります?」


「今の状態を維持できれば、最低でも葬儀を中断して今すぐ飛び込む必要はない」


 蒼汰は大きく息を吐いた。


「よかった」


「ただし、今日中に新しい固定方式の試験はしたい」


「それはやりましょう」


 冬城が弔問者の列へ目を向ける。


「では、葬儀を再開しても?」


 蒼汰は白い板を見る。


 名前。


 好きな色。


 食べたいもの。


 帰りたい場所。


 まだ帰りたくない。


 決められない。


 全部。


 今は。


 残っている。


「はい」


 蒼汰は頷いた。


「待ってもらった人たちに、先に俺から説明します」


 そして立ち上がる。


 弔問者たちへ向き直った。


 今日。


 父の葬儀へ。


 それぞれの理由で来てくれた人たち。


「すみません」


 蒼汰は頭を下げた。


「少し、父の仕事の方で問題が起きました」


 何人かが顔を見合わせた。


 だが。


 誰も。


 驚いていない。


 むしろ。


 何とも言えない顔。


「……何ですか、その反応」


 前の方にいたグスタフが咳払いした。


「奏多守の葬儀で」


 マルタが続ける。


「何も起きないと思ってた奴」


 エルナが数えるように周囲を見る。


「多分、一人もいないわよ」


 広間のあちこちから。


 小さな笑い。


 蒼汰は。


 額を押さえた。


「親父……」


 眠っている父へ。


 小さく呟く。


「死んでからも信用ないな」


 その時。


 本当に。


 かすかに。


 頭の奥。


『失礼な』


 蒼汰の目が。


 大きく開いた。


「親父?」


 聞こえた。


 ほんの。


 一瞬。


 でも。


 確かに。


 守の声。


『……うるさくて』


『起きた』


 蒼汰は。


 笑った。


「ごめん」


『何があった』


「あとで話す」


『今じゃないのか』


「今は休んどけ」


 一拍。


『……わかった』


 素直だった。


 蒼汰は少し驚いて、それから笑う。


 父の声は、また眠りへ沈んでいった。


 冬城が名簿を開く。


「次の弔問者をお通しします」


「お願いします」


 名前。


 冬城の指が。


 止まる。


 蒼汰はまた嫌な予感がした。


「今度は誰です?」


「アイラ・フェルン様です」


 広間の空気が。


 静かに変わった。


 ユイの母。


 二十一年前。


 第十四区画から。


 娘を残して。


 一人だけ帰った女性。


 ずっと。


 順番を待っていた。


 ユイが。


 椅子から立ち上がった。


「おかあさん」


 声が。


 震える。


 蒼汰は。


 すぐに手を伸ばさなかった。


 代わりに。


 聞いた。


「会いたい?」


 ユイは。


 目に涙を溜めたまま。


 自分で。


 頷いた。


「うん」


 扉が。


 ゆっくり。


 開いた。


 二十一年。


 娘を待った母親が。


 そこに立っていた。


 そして。


 六歳のままの娘を見た瞬間。


 アイラ・フェルンは。


 その場から。


 一歩も。


 動けなくなった。


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