第93話 名前を忘れた祖父は、息子の名前だけ覚えていた
白い板には、奇妙な記録が残っていた。
本人名は空欄。状態は「名前消失」。帰還先には「守」、そして関係の欄には、ただ一文字――父。
蒼汰は、そこからなかなか目を離せなかった。
第十四区画のどこかに祖父がいる。少なくとも、記録の上ではそう読める。ただし、自分が誰だったのかはもう残っていない。それでも守との関係だけは消えず、帰還先として息子の名が記されている。
「エルナさん。これって……生きてるってことなんですか?」
「まだ、そうは言えないわ」
エルナの返答は慎重だった。計測器を白い板へ向けながら、何度か表示を切り替えていく。
「人として存在しているのか、境界に残った情報なのか、それとも第十四区画そのものに組み込まれた記録なのか。今わかるのは、“守の父だった何か”が完全には消えていない、それだけ」
「だった何か、か……」
「冷たく聞こえるでしょうけど、ここでお祖父さん本人だと決めつける方が危険よ」
蒼汰は小さく頷いた。
今日だけで何度も学んだ。名前が同じだから本人とは限らない。記憶が残っているから同一人物とも限らない。逆に、名前を失ったから人間ではなくなったとも決められない。
わからないなら、わからないところから始める。
「冬城さん。じいちゃんについて残っている普通の記録ってあります?」
「境界関係ではなく、こちら側の記録という意味でしょうか」
「はい。仕事とか、家族とか。親父の父親になる前から、ちゃんと一人の人だったはずだから」
冬城は一瞬だけ蒼汰を見たあと、静かに頷いた。
「調べます」
古い境界記録とは別に、戸籍、雇用記録、住居記録が開かれていく。しかし年代が古いうえ、境界の影響を受けた人物の記録はところどころ欠けていた。
それでも、完全に消えてはいない。
冬城が最初に見つけたのは、古い給与記録だった。
「職業は鉄道整備員。所属は旧東環状鉄道保守局です」
「鉄道?」
「はい。境界関係の仕事ではありません」
蒼汰は少し驚いた。
「普通の仕事してたんだ」
「少なくとも、当初は」
線路の点検。信号設備の整備。夜間作業。冬場の除雪。
魔王も異世界も出てこない。
本当に、普通の仕事だ。
「親父の父親って聞いたから、もっとこう……最初から境界関係なのかと思った」
眠っているはずの守から返事はない。
けれど、その沈黙がむしろ自然だった。父自身も、祖父について知らなかったことの方が多かったのかもしれない。
次に見つかったのは、家族欄だった。
配偶者。
守の母。
そして、子。
奏多守。
蒼汰がそこを見ていると、ユイが隣から覗き込んだ。
「まもる、こどもだった?」
「そりゃそうだよ」
「へんなの」
「何で?」
「ずっと、おじさんだとおもってた」
蒼汰は笑った。
「俺も想像できないけど」
ユイも少し笑い、その笑顔を見たエルナの計測器が穏やかな青を示した。
ちゃんと、ここにいる。
そんな何でもない確認が、今は少し嬉しかった。
冬城が別の記録を開く。
「守様が七歳の時の学校記録があります」
「七歳?」
「保護者欄に、お祖父様の署名が残っています」
蒼汰は身を乗り出した。
そこに名前がある。
はずだった。
だが、署名部分だけが白く抜けていた。
苗字の「奏多」だけが薄く読める。名の部分は、紙そのものから削り取られたように空白になっている。
「こっちの記録からも消えてるんだ……」
「かなり深く固定に使われたのでしょう」
エルナが言った。
「守より長い期間だった可能性もある」
蒼汰は空白を見つめた。
名前を失う。
それは第十四区画の中だけの話ではない。
こちら側の記録からも、少しずつ人が消えていく。
写真があったとしても。
手紙があったとしても。
そこに誰がいたのか、誰もわからなくなる。
「だから親父は、名前にこだわったのかな」
蒼汰が呟いた。
帰還者の名前を確認する。
名簿へ残す。
呼び方を取り戻す。
それを、父は何度も繰り返していた。
冬城が答える。
「可能性は高いと思います。ただ――」
「まだ親父本人に聞けない」
「はい」
眠っている。
今は起こさない。
蒼汰はそう決めた。
父なら、何でも聞けば答えてくれるわけではない。むしろ今まで、聞いてもろくに答えなかった。だったら少しくらい、本人がいなくても考えてみればいい。
「他に、じいちゃんがどんな人だったかわかるものあります?」
冬城が記録を追う。
勤務評定。
遅刻なし。
無断欠勤なし。
同僚からの評価。
無口。
頑固。
整備工具を他人に貸したがらない。
しかし新人の工具が足りなければ、自分の予備を黙って置いていく。
蒼汰は、途中から妙な顔になった。
「……親父じゃん」
エルナも肩を揺らす。
「血って怖いわね」
「いや、俺にも来てる可能性あるんですけど」
「気をつけなさい」
「はい」
さらに。
家族の証言として残された古いメモ。
守が幼い頃、熱を出した。
父親は仕事を休んだ。
だが、心配だからとは言わない。
たまたま休暇が余っていた。
そう言い張った。
「親父じゃん」
今度は蒼汰だけでなく冬城まで、ほんの少し視線を逸らした。
「似ておられますね」
「なんでこの家の男、気持ちを口に出さないんだよ」
ユイが不思議そうに聞く。
「そうたも?」
「俺は言うよ」
答えたあと、少しだけ自信がなくなる。
「……多分」
エルナが笑った。
「今のうちに直しなさい」
「気をつけます」
そんなやり取りをしている間にも、白い板には変化がなかった。
祖父を示す記録。
本人名は空白のまま。
帰還先――守。
そこだけが消えない。
蒼汰は、ふと思った。
「じいちゃんって」
「どうしました?」
「親父に帰れって言ったんですよね」
「記録上は、はい」
「じゃあ自分が帰れないってわかってて、息子だけ帰した」
十七歳の守。
父親を探しに行った。
見つけた。
でも。
連れて帰れなかった。
父親自身が、他の未帰還者のために残ることを選んだから。
「それで親父は、そのあと自分も固定役に加わった」
「はい」
「……じいちゃん、怒ったんじゃないかな」
エルナが蒼汰を見る。
「どうして?」
「帰れって言ったのに」
息子を帰した。
自分のようになるな。
そういう意味だったかもしれない。
なのに、その息子は何年か後。
同じ場所へ戻り。
父を助けるため。
そこにいる人たちを助けるため。
自分まで帰還路の目印になった。
「親子だなあ……」
蒼汰は額を押さえた。
父親が自分を犠牲にする。
息子がそれを見て、同じことをする。
そして。
守は蒼汰へ。
同じことをさせないようにした。
自動継承を禁止。
血縁者への義務継承禁止。
拒否したら説得するな。
「親父」
眠る父へ声をかける。
返事はない。
「やっと止めたんだな」
祖父から。
父へ。
父から。
息子へ。
本来なら続いていたかもしれない。
自分を削って。
帰り道になる。
そんな継承。
守は。
自分のところで。
止めようとした。
完璧にはできなかった。
蒼汰へ鍵を残した。
記録も残した。
でも。
やれとは書かなかった。
「……そこは」
蒼汰は少し笑った。
「褒めてもいいか」
その時だった。
白い板が。
ごく淡く。
光った。
全員が見る。
本人名。
空白。
状態。
名前消失。
帰還先。
守。
そして。
新しい項目。
――記憶保持。
文字が。
ゆっくり現れる。
――一。
「一?」
蒼汰が眉を寄せる。
エルナが装置を確認する。
「一つだけ、記憶が残っている?」
次の行。
――対象。
しばらく。
何も出ない。
それから。
たった二文字。
――守。
ユイが小さく呟く。
「まもる」
祖父は。
自分の名前を忘れた。
妻の名前も。
仕事も。
家も。
年齢も。
全部。
失った。
それでも。
息子だけ。
覚えている。
蒼汰の胸が強く締まった。
次。
――記憶内容。
白い板の文字が乱れる。
一度。
消えかける。
そして。
少しずつ。
文章になった。
――守は。
――帰ったか。
蒼汰は息を止めた。
誰も。
すぐには。
答えなかった。
こちらから返事をすれば接続が強まる可能性がある。
まして。
相手が本当に祖父本人なのか。
まだ確定していない。
だから。
蒼汰は口を閉じた。
「エルナさん」
「うん」
「返事はしない方がいい?」
「今はね」
「わかりました」
白い板。
さらに。
文章。
――あのこは。
一拍。
――ちゃんと。
――帰ったか。
あの子。
十七歳だった。
守。
祖父にとっては。
最後に見た。
息子。
蒼汰は棺を見る。
帰った。
父は。
ちゃんと。
あの日。
帰った。
その後。
百年以上。
生きた。
巴と出会った。
結婚した。
蒼汰が生まれた。
大勢を帰した。
間違えた。
怒られた。
学んだ。
家へ帰って。
そして。
死んだ。
「……教えてやりたいな」
蒼汰が小さく言った。
エルナも、珍しくすぐには止めなかった。
「私もそう思う」
「でも?」
「今はまだ」
「うん」
ちゃんと。
準備してから。
祖父が。
本当に。
聞ける状態なのか。
返事を受け取ったことで。
何が起こるのか。
確認してから。
「急がない」
蒼汰は自分へ言い聞かせた。
「ちゃんと返す」
父が。
何度も言った。
帰すなら。
ちゃんと帰せ。
返事も。
同じだ。
ただ答えれば。
いいわけではない。
相手へ。
届く形で。
返す。
白い板は。
しばらく。
静かだった。
やがて。
最後に。
一行だけ。
浮かぶ。
――よかった。
蒼汰の目が。
わずかに見開かれる。
「返事してないのに?」
冬城も。
首を傾げる。
エルナが。
すぐに。
別の装置を見る。
「待って」
「何?」
「第十四区画へ」
エルナの顔が。
少しずつ変わる。
「こちらから」
「何か送られた」
蒼汰の背筋が伸びた。
「誰が?」
誰も。
操作していない。
白い板も。
封筒も。
触れていない。
エルナが。
発信源を探す。
長卓。
棺。
壁。
そして。
止まった。
「そこ」
指差した先。
蒼汰の手。
正確には。
握っていた。
銀色の鍵。
「鍵?」
古びた鍵が。
ごく淡い。
青色に。
光っていた。
冬城が息を呑む。
「お祖父様の存在情報が残っている鍵……」
蒼汰は。
手の中を見る。
祖父が残した。
父が受け取った。
そして。
父から。
蒼汰へ渡った鍵。
それ自体が。
返事をした。
「何を送った?」
エルナが解析する。
長い。
数秒。
そして。
表示された。
情報は。
言葉ではなかった。
記憶。
一つの。
小さな。
記憶。
十七歳の守が。
境界から。
こちら側へ。
帰った瞬間。
玄関を開け。
膝から崩れ。
泣きながら。
それでも。
ただいま。
と言った。
その記録。
蒼汰は。
何も言えなくなった。
鍵は。
ずっと。
持っていた。
祖父が。
一番知りたかった答えを。
「親父」
蒼汰は。
眠っている父へ。
小さく言った。
「お前」
「ちゃんと」
「帰ってたんだな」
当然だ。
そう返す父の声は。
聞こえなかった。
それでも。
白い板には。
もう一度。
祖父からの。
たった一言が。
浮かんだ。
――よかった。
そして。
帰還先。
ずっと。
守。
と表示されていた欄から。
ゆっくり。
文字が。
消え始めた。
蒼汰が。
息を止める。
「エルナさん」
「待って」
消失ではない。
装置の反応が。
変わっている。
帰還先。
新しい文字。
――なし。
蒼汰は。
胸騒ぎを覚えた。
だが。
さらに。
その下。
選択状態。
そこへ。
初めて。
文字が出た。
――帰らない。
蒼汰は。
白い板を。
じっと見つめた。
祖父は。
息子が。
ちゃんと帰ったことを知った。
そして。
何十年。
あるいは。
それ以上。
守だけを。
帰還先として残してきた人は。
もう。
自分が帰る必要はないと。
初めて。
自分で。
選んだ。
その瞬間。
第十四区画を示していた。
古い記録の一部が。
音もなく。
崩れた。
エルナが。
顔色を変える。
「まずい」
「何が?」
「固定反応が一つ消えた」
祖父が。
帰らない。
そう選んだ。
それは。
本人の意思として。
尊重しなければならない。
でも。
同時に。
祖父は。
第十四区画の。
帰還路を支える。
最も古い固定点でもあった。
エルナが。
計測器を握る。
「蒼汰」
「はい」
「帰還路が」
一度。
息を呑む。
「崩れ始めてる」
白い板。
百を超える。
名前。
そのいくつかが。
同時に。
揺らぎ始めた。
蒼汰は。
鍵を握ったまま。
立ち上がった。
祖父の選択を。
取り消すことはできない。
してはいけない。
なら。
やることは。
一つ。
誰か一人を。
もう一度。
道の杭にすることではない。
「エルナさん」
「わかってる」
エルナも立ち上がった。
「新しい道を作る」
「人を削らないやつを」
「ええ」
蒼汰は。
白い板を見る。
帰りたい人。
帰らない人。
まだ決められない人。
そして。
名前を失い始めた人。
全員の選択を。
残すために。
「葬儀は」
冬城が聞く。
蒼汰は。
すぐには。
答えなかった。
ここまで。
今いる人を。
途中で置いていかない。
そう決めていた。
でも。
状況が。
変わった。
第十四区画の。
帰還路が。
今。
崩れ始めている。
それでも。
一人で。
走り出さない。
「まず」
蒼汰は言った。
「どれくらい猶予があるか調べてください」
エルナが。
すぐ計測へ入る。
「わかった」
「冬城さんは」
「はい」
「弔問の人たちに」
蒼汰は。
広間を見渡す。
「少しだけ」
「待ってもらえるか」
一度。
言葉を切る。
「俺から」
「ちゃんと説明します」
冬城は。
深く。
頭を下げた。
「承知しました」
蒼汰は。
棺を見る。
眠っている父。
そして。
手の中の。
祖父から父へ。
父から自分へ。
渡された鍵。
継ぐためではない。
同じことを。
繰り返さないために。
ここまで。
届いたもの。
「親父」
返事はない。
それでも。
蒼汰は。
少しだけ笑った。
「今度は」
「人を道にしないからな」
鍵の光が。
一度だけ。
強くなった。




