第92話 父にも、帰ってこなかった父がいた
古い記録の裏側に浮かんだ文字を、蒼汰は何度見直しても読み間違えようがなかった。
――帰還路固定担当。
名前の大半は削れ、姓だけが残っている。
――奏多。
そして、その横に記された続柄。
――父。
守の父親。
蒼汰にとっては祖父にあたる人物が、奏多守よりも前に第十四区画の帰還路を自分の存在で支えていた。
「冬城さん」
蒼汰は記録から目を上げた。
「これ、本当に親父の父親って意味ですか?」
「確認します」
冬城もすぐには断定しなかった。古い帰還記録を数冊取り出し、年代と管理番号を照合していく。その慎重さが、今はありがたかった。大きな事実だからこそ、勢いで決めてはいけない。
エルナも横から記録を覗き込んだが、珍しく口を挟まない。守は眠りに入ったらしく、頭の中から声がしなくなっていた。
数分後、冬城の指が止まった。
「間違いありません」
「……そうですか」
「守様が境界業務へ正式に関与される以前の記録です。この続柄は、後から付け加えられたものではありません」
「名前は?」
「まだ読み取れません」
消えている。
名前そのものが、第十四区画に長く使われた結果なのかもしれない。
蒼汰は棺を見た。
「俺、じいちゃんの話なんて聞いたことないんだけど」
ほら話なら嫌というほど聞いた。
魔王と飲んだ。異世界で勇者になった。星を救った。月へ行った。
しかし、守自身の父親について聞いた記憶はない。
祖父はどんな人だったのか。何をしていたのか。いつ死んだのか。
そもそも、死んでいるのか。
何も知らない。
エルナが静かに言った。
「私も、守のお父さんには会ったことがないわ」
「百十二年の付き合いでも?」
「ええ。守自身がほとんど話さなかったもの」
「何か聞いたことは?」
エルナは少し考えた。
「一度だけ」
「何て?」
「父親は嫌いだ、と」
蒼汰は棺へ目を向けた。
その言葉は、妙に胸へ刺さった。
自分も。
父が死ぬ前なら、似たようなことを言ったかもしれない。
「理由は?」
「聞かなかった。あの頃の守、そういうことを聞くと余計に黙る人だったから」
「今も大して変わってないですよ」
「少しはマシになったわよ」
その時、ユイが子ども用の椅子から小さく手を挙げた。
「そうた」
「ん?」
「まもるの、おとうさん?」
「そうみたい」
ユイは、しばらく記録を見つめた。
「かえってない?」
蒼汰は答えられなかった。
帰還路固定担当。
守より前。
そして、その名前はほとんど消えている。
嫌な予感しかしない。
「調べよう」
蒼汰は言った。
「ただし、勝手に死んだことにはしない。帰ってないとも決めない」
冬城が頷く。
「では、旧記録を年代順に追います」
守が第十四区画へ最初に入ったのは三十六年前。
だが、その前身にあたる異常現象についての資料は、さらに古くから残されていた。
四十二年前。
四十七年前。
五十三年前。
記録名も違う。
第十四未帰還区画ではない。
当時は。
――北方第十四帰路異常。
そう呼ばれていた。
「最初から“区画”じゃなかったんだ」
「はい」
帰還者を収容する場所ではなく、もともとは帰還経路に発生した異常だった。
複数の異界から帰還する人間が、同じ場所で道を失う。
出口へ進んでいるはずなのに、同じ白い街路へ戻る。
何度歩いても。
何日進んでも。
帰れない。
「それを最初に調べたのが……」
冬城が、一枚の古い報告書を取り出した。
担当者名。
消えている。
だが、姓だけ。
奏多。
蒼汰は息を吐いた。
「じいちゃんか」
報告書は途中まで読めた。
異常を発見。
内部へ進入。
未帰還者七名を確認。
既存の帰還法は使用不能。
外部との接続維持のため――
そこから先。
大きく欠けている。
エルナが紙へ計測器を向けた。
「消されたんじゃない。持っていかれてる」
「また?」
「守の記録と同じ」
つまり。
父と祖父は。
同じ場所で。
同じように。
記録を失った。
蒼汰の表情が硬くなる。
「この時点で、もう自分を目印に?」
「可能性はあります」
「でも、それなら」
蒼汰は年代を確認した。
「親父はどうして知ったんだろ」
父親が。
第十四区画へ入った。
自分を帰還路の目印にした。
その後。
守も同じ場所へ入った。
偶然にしては出来すぎている。
冬城が、さらに資料をめくった。
そして。
止まった。
「蒼汰様」
「何かありました?」
「守様の最初の境界接触記録です」
蒼汰が身を乗り出した。
「正式に仕事を始める前?」
「はい」
守、十七歳。
蒼汰は一瞬、読み間違えたかと思った。
「十七?」
「はい」
守が。
まだ。
少年だった頃。
境界管理者でもない。
勇者でもない。
英雄でもない。
ただの。
十七歳。
発生場所。
奏多家旧住所近辺。
進入理由。
そこへ書かれていた短い文章を、冬城はすぐには読まなかった。
「どうしました?」
「……ご自身でご覧になりますか」
蒼汰は記録を受け取った。
進入理由。
――行方不明となった父親の捜索。
蒼汰の指が止まった。
「親父……」
十七歳の守は。
世界を救うために。
境界へ入ったのではなかった。
知らない誰かを。
帰すためでもない。
自分の父親を。
探しに行った。
「これが」
蒼汰は呟く。
「親父の最初?」
冬城が答える。
「現時点で確認できる限りでは、そうです」
その記録の少し前。
守の父は。
失踪していた。
普通の失踪として。
警察にも。
届けが出されていた。
会社へ行った。
帰ってこない。
目撃情報もない。
事故の痕跡もない。
ただ。
消えた。
家族へ。
何の説明もなく。
蒼汰は。
何となく。
わかってしまった。
「だから親父」
「父親を嫌いって……」
十七歳なら。
事情なんて。
知らない。
家族を置いて。
突然いなくなった父。
戻ってこない。
連絡もしない。
理由もわからない。
それだけ。
「親父も」
蒼汰は少し笑った。
笑える話ではないのに。
「同じじゃん」
自分も。
父の事情を知らなかった。
家にいない。
変な話ばかりする。
肝心なことは言わない。
そして。
死んでから。
本当のことを知った。
「守も、自分の父親を何も知らなかったのね」
エルナが静かに言った。
「多分」
蒼汰は棺を見る。
「ずっと」
そして。
十七歳の守は。
一人で。
父を探し始めた。
普通の捜索では見つからない。
だから。
父の部屋。
持ち物。
最後にいた場所。
全部。
自分で調べた。
そこで。
一つの鍵を。
見つけた。
蒼汰の表情が変わる。
「鍵?」
冬城が記録を読む。
「銀色。材質不明。持ち手部分に境界刻印あり」
蒼汰の手が。
無意識に。
胸元へ伸びた。
父から。
自分へ残された鍵。
第2話で。
冬城から渡された。
あの。
古びた鍵。
「まさか」
冬城も。
気づいた。
すぐに。
保管されていた父の遺品箱を確認する。
銀色。
細かな傷。
持ち手に。
長年使われた擦れ。
蒼汰は。
その鍵を。
手に取った。
「これ……」
父のものではなかった。
最初から。
「じいちゃんの?」
エルナが計測器を向ける。
灰色。
強い反応。
そして。
今まで一度も出なかった。
二つ目の色。
薄い。
青。
「古い」
エルナが呟いた。
「守より前の存在情報が残ってる」
蒼汰は。
鍵を握った。
父が。
幼い蒼汰へ。
そのうち分かる。
そういうのは、早く知っても面白くないんだよ。
そんな軽口を。
言っていた鍵。
でも。
父自身も。
十七歳の時。
同じものを。
父親から。
残されていた。
「……笑えないだろ」
蒼汰は。
棺へ言った。
「親父」
返事はない。
眠っている。
それでも。
言わずにはいられない。
「お前」
「自分がされたこと」
「俺にもやってんじゃん」
鍵だけ残す。
説明しない。
本人が。
自分で。
辿り着くまで。
待つ。
もちろん。
父は。
途中から。
そのやり方が駄目だと知った。
母に怒られ。
拒否権を残し。
自動継承を止めた。
だから。
完全に。
同じではない。
でも。
根っこには。
自分の父から。
受け取ったものがあった。
冬城が。
十七歳の守の捜索記録を。
さらに読む。
「守様は、この鍵を使用して境界へ進入」
「うん」
「内部で」
冬城が止まった。
「何?」
「一名を発見しています」
蒼汰の心臓が。
強く鳴った。
「じいちゃん?」
「記録上は」
冬城は。
慎重に答えた。
「不明です」
発見者。
成人男性。
年齢不明。
氏名。
消失。
本人は。
自分の名前を。
言えなかった。
長期間。
帰還路の固定に。
使われたため。
存在情報の。
ほとんどが。
削れていた。
「でも」
蒼汰は聞く。
「親父なら、顔を見れば」
自分の父親か。
わかる。
はず。
冬城が。
次の行を。
読む。
――対象男性。
――奏多守との血縁反応を確認。
蒼汰の呼吸が止まった。
「いたんだ」
十七歳の守は。
父を。
見つけた。
行方不明になった。
自分を置いていったと。
思っていた。
父親を。
ちゃんと。
見つけた。
「帰したの?」
ユイが。
小さく聞いた。
誰も。
すぐに。
答えられなかった。
記録。
その下。
帰還結果。
――失敗。
蒼汰は。
鍵を握ったまま。
動けなくなった。
父が。
最初に。
帰せなかった人。
それは。
エマの息子ルカではなかった。
ルカは。
見つけたあと。
自分で。
帰らないと決めた。
でも。
そのもっと前。
十七歳の守には。
本当に。
帰したかったのに。
帰せなかった人がいた。
自分の父。
「どうして」
蒼汰が聞く。
「帰せなかった?」
冬城が。
最後の記録へ。
視線を落とした。
――帰還路固定解除を試行。
――解除時、区画内未帰還者全員の帰還路消失を確認。
蒼汰の表情が。
ゆっくり変わった。
「じいちゃんを外したら」
「はい」
冬城が答える。
「当時、第十四帰路異常の内部にいた方々全員が」
「帰れなくなる状態だったようです」
父親一人を。
連れて帰れば。
他の人の。
道が消える。
十七歳の守は。
選ばなければならなかった。
父を。
帰すか。
知らない人たちの。
帰り道を残すか。
「……そんなの」
蒼汰は。
言葉を失う。
十七歳。
今の自分より。
ずっと若い。
その少年へ。
誰が。
そんな選択を。
させた。
しかし。
記録は。
そこで終わっていなかった。
――選択者。
蒼汰は。
息を止める。
――固定担当本人。
「本人?」
冬城が頷く。
「守様ではありません」
父親自身が。
選んだ。
自分を。
外すな。
ここへ。
残す。
守は。
拒否した。
何度も。
帰ろう。
そう言った。
だが。
名前を。
ほとんど失っていた男は。
最後に。
一つだけ。
覚えていた。
「何を?」
蒼汰が聞く。
記録の。
最下部。
音声転記。
わずか。
一行。
――守。
蒼汰の目が。
熱くなる。
自分の名前は。
忘れた。
仕事も。
家も。
何歳かも。
忘れた。
それでも。
息子の名前だけは。
覚えていた。
そして。
次。
――帰れ。
たった。
それだけ。
蒼汰は。
しばらく。
記録を見たまま。
動かなかった。
守は。
帰った。
一人で。
父を。
置いて。
帰った。
その日から。
奏多守は。
帰れない人を。
探すようになった。
知らない誰かを。
自分の父のように。
置いて帰りたくなかったから。
蒼汰は。
ようやく。
父の始まりを。
知った。
「親父」
眠っている父へ。
静かに言う。
「お前も」
「帰ってこなかった父親の」
「息子だったんだな」
返事は。
なかった。
でも。
不思議と。
今は。
聞こえなくても。
よかった。
蒼汰は。
鍵を。
手の中で。
ゆっくり握り直した。
祖父。
まだ。
死んだとは。
書かれていない。
帰還失敗。
固定担当。
名前消失。
そして。
その固定役を。
後に。
守が。
引き継いだ。
「冬城さん」
「はい」
「じいちゃんの固定が」
「いつ親父に変わったんです?」
冬城は。
次の頁を。
開いた。
そして。
表情を変えた。
「……記録上」
「守様が最初に第十四区画へ進入した時点では」
「旧固定担当の反応は」
「まだ残っています」
蒼汰が。
眉を寄せる。
「じゃあ」
「二人いた?」
「一時期は」
「その可能性があります」
エルナが。
すぐに。
古い反応値を確認する。
そして。
顔を上げた。
「違う」
「何が?」
「守は」
エルナが。
記録を指した。
「お父さんから役目を引き継いだんじゃない」
「じゃあ?」
「自分を」
一度。
言葉を止める。
「追加したのよ」
蒼汰の顔が。
固まった。
父親を。
外せば。
帰還路が消える。
だから。
守は。
外せなかった。
でも。
そのまま。
父一人へ。
背負わせ続けることも。
できなかった。
十七歳の少年は。
自分も。
同じ道の。
目印になった。
父を救えなかった代わりに。
父と一緒に。
道を支え始めた。
そして。
長い年月のどこかで。
祖父の反応だけが。
完全に消えた。
蒼汰は。
息を止めた。
「それって」
エルナも。
同じことへ。
気づいていた。
「守より前に」
「存在を削り切られた可能性がある」
その瞬間。
白い板が。
強く。
光った。
ユイが。
振り返る。
今まで。
本人名が。
並んでいた場所。
一番下。
新しい。
文字。
本人名。
そこには。
何も出ない。
代わりに。
状態。
――名前消失。
帰還先。
――守。
蒼汰の心臓が。
大きく鳴った。
そして。
最後。
関係。
文字が。
一つずつ。
浮かぶ。
――父。
蒼汰は。
白い板から。
目を離せなくなった。
祖父は。
記録から。
完全に消えたわけではなかった。
第十四区画のどこかに。
名前を失ったまま。
まだ。
父親としての。
最後の一つだけを。
残していた。




