第91話 父の存在を削ったものは、人ではなかった
ユイの膝に現れた紙には、父の字で三行だけが残されていた。
――眠る前に、蒼汰へ一つだけ言っておく。
――俺が死んだ理由を、俺のせいだけだと思うな。
――俺の存在を削ったものは、第十四区画の中にある。
蒼汰は最後の一行を何度も読み返した。
第十四区画の中にあるもの。
その言葉だけなら、何者かに襲われたようにも読める。向こう側に敵がいて、父の命を奪った。そう考えれば単純だったし、怒る相手も決められる。
けれど、今日ここまで聞いてきた父の話は、そんな簡単な答えばかりではなかった。
「エルナさん。これだけで、向こうに敵がいるって考えるのは早いですよね」
エルナはすぐに頷いた。
「早いわ。“もの”と書いてあるでしょう。守が人や生き物を指すなら、たぶんこんな書き方はしない」
「じゃあ、境界現象?」
「その可能性が高い。でも推測はここまで。調べる前から名前を付けると、あとで事実をその名前に合わせて見ちゃうから」
「了解です」
蒼汰が素直に引くと、エルナは一瞬だけ目を丸くした。
「あなた、本当に守の息子?」
「今日だけでそれ何回言われるんですか」
頭の奥から、ごく小さな父の声がした。
『俺だって話は聞く』
「その台詞を百十二回安静命令破った直後に言うの、かなり強いぞ」
『それは別件だ』
「別件じゃない」
声は遠い。それでも、まだ父はいる。
蒼汰は紙を長卓へ置き、冬城へ視線を向けた。
「第十四区画について、親父が残した記録でまだ戻ってない部分ってあります?」
「確認します」
冬城は、これまで断片的に復元された七回分の進入記録を並べた。日付と入域時刻、帰還時刻。人数。状態。いくつかの名前。そして、欠落したままの欄。
六回目にはアイラ・フェルンの帰還。
七回目には、後任を自動指定しないという父と母の取り決め。
だが、五回目の記録だけが異様に薄かった。
「ここ」
蒼汰が指差した。
「ほとんど何も戻ってない」
「はい。入域十七時間、帰還確認のみ。活動記録は空白です」
エルナも覗き込む。
「十七時間もいたのに?」
「親父」
蒼汰が呼ぶと、しばらくして返事があった。
『……五回目』
「思い出せる?」
『少しだけ』
守の声が、眠気の底から記憶を探るようにゆっくり続く。
『あの頃には、第十四区画の人間が増えすぎてた。新しく流れ着く奴と、昔からいる奴が混ざって、俺でも全員の顔を追えなくなってた』
最初は四十三人。
その後、百人を越えた。
今日、名前を残そうとした時にはさらに増えていた。
「それで五回目に何をした?」
『目印を作った』
「目印?」
『帰り道の』
蒼汰は、旧校舎、南海自由港、奏多家を結んでいた一本の道を思い出した。
守は言う。
『第十四区画に長くいると、自分がどっちから来たのかわからなくなる。だから、こっち側を指す目印を置いた』
「物を?」
『違う』
守は一度黙った。
『名前だ』
エルナの表情が変わった。
「……守、自分の名前を使ったの?」
蒼汰が代わりに問い直す。
「親父。奏多守って名前を、帰還路の目印にした?」
『ああ』
「それ、危険だった?」
『その時は、そこまでだと思ってなかった』
エルナが額へ手を当てた。
「馬鹿」
『聞こえてないからって言いたい放題だな』
「蒼汰、伝えて」
「嫌です。今回は俺も同意なので」
『おい』
だが、エルナが怒った理由はすぐにわかった。
「名前はただの文字じゃないの。境界では特にね。守という人間を示す情報の束――記憶、関係、履歴、本人だと認識するためのもの。そこに帰還路を結びつけたなら、第十四区画からこちらを探すたび、守の存在情報を少しずつ使った可能性がある」
蒼汰は紙を見る。
――俺の存在を削ったもの。
「じゃあ、第十四区画に何か化け物がいたわけじゃなくて」
「まだ断定はしない。でも」
エルナは慎重に言葉を選んだ。
「帰還路そのものが、守を目印として消費していた可能性はある」
サーラが静かに診療記録を開いた。
「それなら、最後の症状とも一致します。身体ではなく、存在反応だけが薄くなった」
脈はあった。
呼吸もあった。
会話もできた。
なのに、世界の側から少しずつ奏多守が見えなくなっていった。
病気ではなかった。
怪我でもない。
父は、長い時間をかけて帰り道の標識として削られていた。
蒼汰は棺を見た。
「親父。知ってた?」
『途中から』
「いつ」
『六回目くらい』
「アイラさんを帰した時?」
『多分な』
「じゃあ、七回目も行ったのかよ」
声が強くなりかけた。
だが、蒼汰はそこで止めた。
怒るのは簡単だ。父なら行く。そういう人だった。
問題は、なぜ行ったのかではなく、その時に何を考え、何を変えたのかだ。
「……七回目は、同じ方法で目印にした?」
『しなかった』
守が答えた。
『だから後任を自動指定しないって記録を残した。俺が死んだら、次の誰かを同じ目印にする仕組みを止めた』
蒼汰は息を吐いた。
そこまで父は気づいていた。
自分が削られている。
このままでは次の担当者も同じことになる。
だから、役目を血縁へ自動継承させなかった。
息子にも。
誰にも。
「だったら、第十四区画へ行くとしても」
蒼汰はエルナを見る。
「俺を新しい目印にはしない」
「絶対にしない」
即答だった。
「奏多家も?」
「家そのものが“出口のイメージ”として使われているのと、あなた個人を固定杭にするのは別。そこは切り分ける必要がある」
冬城も続ける。
「であれば、今後の調査項目へ追加します。第十四区画の帰還路を、特定個人へ依存しない形へ置き換えること」
「お願いします」
蒼汰は木の皿を見た。
アーデルから受け取った、父が修道院で使っていた皿。
何もしなくても席はある。
役に立たなくても食事は出る。
そんなことを父へ教えた人がいた。
なのに父は、そのずっと後になっても、自分自身を道具のように使っていた。
「結局お前、自分を後回しにしてるじゃん」
『……そうだな』
珍しく、父は否定しなかった。
「アーデルさんに三か月も教わったのに」
『人間、全部一回で直るか』
「開き直るなよ」
『でも』
守の声が少しだけ笑う。
『昔よりはマシだった』
「どこが」
『次の奴を同じ目に遭わせないようにした』
蒼汰は黙った。
確かに。
父は完璧には直らなかった。
最後まで自分を使い潰す癖は残った。
それでも、昔と同じ失敗をそのまま繰り返したわけではない。
自分が止まれないなら、せめて次の人間が同じ道へ入らない仕組みを残した。
それも。
成長なのだろう。
「親父」
『なんだ』
「じゃあ、死んだ理由」
「全部、自分のせいじゃないって書いたのは?」
父はすぐに答えなかった。
しばらくして、静かな声が返ってくる。
『お前が、俺の真似して背負いそうだったから』
蒼汰の眉が寄った。
「俺が?」
『父親が自分を削って残した仕事。だったら息子の自分が返さなきゃ、って考えるだろ』
図星だった。
もし何も知らずに「父は第十四区画のために死んだ」とだけ聞かされていたら、自分にはその続きをやる義務があると考えたかもしれない。
『でも違う』
守は言う。
『俺がやった方法が悪かった部分もある。境界そのものの性質もある。俺が気づくのが遅かったこともある。誰か一人が悪い話じゃない』
「だから」
『お前が償う話でもない』
蒼汰は、棺から目を離せなくなった。
父は死ぬ前から。
そこまで。
考えていた。
息子へ仕事を残すより。
息子が自分の死を理由に、勝手に鎖を背負わないように。
「……母さんに相当言われたんだな」
『まあな』
「何時間?」
『そこ聞く?』
「聞く」
『五時間半』
「最長記録じゃん」
エルナが吹き出し、冬城も口元を押さえた。サーラは小さく「巴さん、お疲れさまでした」と呟いた。
蒼汰も笑った。
少しだけ。
胸の重さが減った。
第十四区画は。
父の仇ではない。
少なくとも、今の段階でそう決める理由はない。
帰れない人たちがいる。
道が壊れている。
そして、その道を維持するために父という一人の人間を使ってしまった仕組みがある。
なら。
直すべきなのは。
誰かを倒すことではない。
「エルナさん」
「なに?」
「個人を削らない帰還路、作れます?」
「簡単に言うわね」
「無理?」
エルナは一瞬だけ考え、それから口元を上げた。
「面白い」
「それ、できる人の反応?」
「少なくとも“守を杭にする”よりはまともな方法を作る」
『俺の方式そんな悪かった?』
「悪かった」
蒼汰とエルナが同時に答えた。
父が黙った。
ユイが、子ども用の椅子から蒼汰を見上げる。
「ユナも」
「うん?」
「あたらしいみちなら」
ユイは言葉を探しながら続けた。
「いたくない?」
蒼汰はすぐには答えなかった。
「わからない」
正直に言う。
「でも、誰か一人が痛くならない道にする。その方法を探す」
ユイは少し考え。
「うん」
と頷いた。
エルナの装置が、かすかに青く光った。
また一つ。
本人が選んだ返事が。
こちら側に残る。
その時。
父の声がした。
『蒼汰』
「何?」
『もう一個』
「まだあるの?」
『大事なやつ』
「言って」
父の声は、ひどく遠い。
眠りへ落ちる直前のようだった。
『第十四区画の道』
『俺が作ったんじゃない』
蒼汰の表情が変わる。
「どういう意味?」
『俺が目印を付けた時には』
一度。
声が途切れた。
「親父?」
『……もう』
また。
小さく。
『誰かの名前が』
『使われてた』
エルナが顔を上げる。
蒼汰は急いで聞いた。
「誰の名前?」
返事。
なし。
「親父」
数秒。
そして。
ようやく。
『思い出せない』
蒼汰は息を吐いた。
だが。
守が続ける。
『ただ』
『俺じゃない』
『もっと前から』
『第十四区画には』
『帰り道の目印になった奴がいた』
広間の空気が静かに変わった。
つまり。
父が最初ではない。
奏多守より前に。
誰かが。
同じ役目を負っていた。
「その人は」
蒼汰が聞く。
「どうなった?」
守の返事は。
今度こそ。
聞こえなかった。
「親父?」
呼ぶ。
何もない。
もう一度。
「親父」
静寂。
蒼汰の胸が強く鳴った。
だが。
少しして。
ほんの。
ほんの僅か。
『……寝る』
声がした。
蒼汰は。
目を閉じる。
「うん」
もう。
引き止めなかった。
「おやすみ」
返事はなかった。
ただ。
棺の中の父の顔が。
ほんの少しだけ。
穏やかに見えた。
冬城も。
次の名前を読もうとはしない。
ユイが。
小さな椅子から。
棺へ向かって言った。
「おやすみ」
サーラも。
エルナも。
何も言わなかった。
少しだけ。
守を眠らせる時間。
蒼汰は。
そう思った。
その時。
長卓の端に置いてあった。
三十六年前の。
第十四区画初回記録。
誰も触れていない紙が。
ゆっくり。
一枚だけ。
めくれた。
冬城が気づく。
「蒼汰様」
紙の裏。
今まで。
完全な空白だった場所。
そこへ。
古い文字が。
浮かび始めていた。
父の字ではない。
冬城の字でもない。
ずっと。
昔に書かれたような。
掠れた筆跡。
蒼汰は。
その一行を読んだ。
――帰還路固定担当。
その下。
一つの名前。
しかし。
ほとんど。
消えている。
読めたのは。
姓だけ。
――奏多。
蒼汰は。
息を止めた。
冬城も。
完全に。
動きを止める。
エルナが。
ゆっくり。
蒼汰を見る。
「守より前の固定担当」
蒼汰は。
消えかけた名前を。
見つめた。
奏多。
父と。
同じ姓。
そして。
その横。
もう一つ。
わずかに残っていた。
続柄。
――父。
蒼汰は。
言葉を失った。
奏多守より前に。
第十四区画の帰り道を。
自分の存在で。
支えていた人間。
それは。
守の父。
蒼汰にとって。
一度も話を聞いたことのない。
祖父だった。




