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父、奏多守はほら吹きではなかった  作者: てへろっぱ


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第90話 父を救った人は、父に休み方を教えた



 扉の向こうから杖の音が近づいてくるたび、蒼汰の頭の中で父が妙に静かになっていった。


 これまでにも、守が苦手そうにしている相手はいた。百十二年来の友人エルナには昔の失敗を暴露され、マルタには港を勝手に閉じた件で怒鳴られ、サーラには百十二回もの安静命令違反を突きつけられた。それでも父は、文句の一つくらいは返していた。


 ところが今回は違う。


「親父」


『……なんだ』


「本当にそんなに怖い人なの?」


『怖いっていうか』


 守は少し迷ってから、観念したように言った。


『逆らっても意味がない』


「それ、相当じゃん」


 やがて扉が開き、一人の老女が姿を現した。


 百歳近いのではないかと思えるほど小柄で、背中も少し曲がっている。灰色の修道服の上から古びた外套を羽織り、片手には木の杖を持っていた。装飾品らしいものはなく、首から小さな木製の輪が下がっているだけだ。


 けれど、弱々しいという印象はなかった。


 老女は広間へ入ると、冬城の案内を待たずに守の棺を見つけ、そのまま真っ直ぐ歩いてきた。そして棺の前へ立つと、長い時間、何も言わず守の顔を見つめた。


「ずいぶん静かになりましたね」


 穏やかな声だった。


 頭の中で守がぼそりと言う。


『死んでるからな』


 蒼汰は思わず吹き出しそうになったが、老女はまるでその返事を予想していたように目を細めた。


「生きていた頃も、それくらい静かにしてくだされば助かったのですが」


『ほら』


「何が、ほらなんだよ」


 蒼汰が小声で返すと、老女がこちらを見る。その瞳は年齢を感じさせないほど澄んでいた。


「あなたが蒼汰さんですね」


「はい。奏多蒼汰です」


「アーデル・ロウと申します。昔、あなたのお父様を三か月ほど預かったことがあります」


 蒼汰は首を傾げた。


「預かった?」


「拾った、と言った方が正しいかもしれません」


「拾った!?」


 思わず父の棺を見ると、守が頭の中で抗議した。


『遭難してただけだ』


「人間って遭難したら拾われるんだな」


「当時の守は、だいたいその程度の状態でしたよ」


 アーデルが静かに答えた。


 どうやら父の声は聞こえていない。それなのに、また会話が成立している。


 冬城が補足した。


「アーデル様は、旧北境修道院の元院長です。守様がまだ境界任務に慣れていなかった頃、最初期に保護された方でもあります」


「親父が保護したんじゃなくて?」


「されました」


 即答だった。


 蒼汰は少し嬉しくなった。


「なんか新鮮ですね」


『喜ぶな』


 アーデルは棺のそばに置かれた椅子へ腰を下ろした。蒼汰も向かい側へ座る。


「何があったんですか?」


「大したことではありません」


 アーデルはそう言ったが、頭の中で父がすぐ反応した。


『大したことあった』


「本人は大したことあったって言ってます」


「そうでしょうね」


 アーデルは少し笑った。


「守にとっては、世界が終わるほど大変なことだったでしょう。何しろ、初めて自分の力ではどうにもならなくなったのですから」


 今から百年以上前。


 守がまだ、自分の仕事の全体像さえ理解していなかった頃。


 北境一帯で巨大な境界嵐が発生した。


 複数の世界が一時的に重なり、道と建物と人間が次々に別の場所へ押し流された。守は現地へ入り、帰還可能な者を片端から外へ出した。


 七人。


 十二人。


 二十人。


 次々に。


 しかし、境界嵐は収まらなかった。


「守は三日間、一度も眠らなかったそうです」


 アーデルの言葉に、蒼汰は父を睨む。


「親父」


『その頃は若かった』


「そういう問題じゃない」


「食事も、ほとんど取っていませんでした」


「親父」


『水は飲んだ』


「褒められねえよ」


 四日目。


 守は、最後に残っている集落を探しに行った。


 だが、そこには誰もいなかった。


 住民はすでに別の救助隊によって避難していた。


 そのことを。


 守は知らなかった。


 誰かが残っている。


 まだ助けられていない。


 そう思い込み、何時間も。


 誰もいない町を。


 一人で。


 探し続けた。


 やがて境界嵐が再び起こり、守自身が道を失った。


「そこから」


 アーデルが言った。


「三日後の朝、私たちの修道院の畑に落ちてきました」


「落ちてきた?」


「空から」


 蒼汰は目を閉じた。


「親父」


『俺にも理由はわからん』


「お前の人生、わからないこと多すぎるだろ」


 当時の守はひどい状態だった。


 全身に傷。


 脱水。


 高熱。


 片足はまともに動かず、意識も途切れ途切れ。


 それでも。


 目を覚ました最初の言葉は。


「まだ残ってる」


 だった。


 アーデルは言う。


「私は聞きました。何が残っているのですか、と」


 守は答えた。


 人。


 まだ。


 帰していない人がいる。


「でも」


 蒼汰が言った。


「もう誰も残ってなかったんですよね」


「はい」


 他の救助隊による確認も済んでいた。


 全員。


 避難完了。


 未帰還者。


 ゼロ。


 その報告を。


 守へ。


 何度説明しても。


 聞かなかった。


『聞いた』


「聞いてないじゃん」


『聞こえてはいた』


「もっと悪いよ!」


 アーデルが楽しそうに目を細めた。


「その通りです。耳には入っていましたが、守は納得していませんでした」


 守はベッドから起きようとした。


 止められた。


 また起きようとした。


 止められた。


 杖を使おうとした。


 取り上げられた。


 窓から出ようとした。


「窓!?」


 蒼汰が叫ぶ。


『一階だった』


「高さの問題じゃない!」


「守は、とにかく外へ出ようとしました」


 アーデルは淡々と続けた。


「そこで私は、部屋の鍵を閉めました」


 蒼汰は思わず笑った。


「物理的に?」


「はい」


『軟禁だぞ』


「患者監禁ですね」


「親父、今でも文句言ってます」


「元気そうで何よりです」


 アーデルはまったく気にしていない。


 だが。


 問題は。


 そのあとだった。


 守は。


 外へ出ることを。


 諦めた。


 代わりに。


 何もしなくなった。


 天井を見る。


 食事が来ても。


 食べない。


 話しかけられても。


 返事をしない。


 何時間も。


 ただ。


 動かなかった。


 蒼汰は少し驚いた。


 父に。


 そんな時期があったとは思えない。


「親父」


 返事がない。


 アーデルが静かに言う。


「守は、自分が役に立っていない時間に耐えられなかったのです」


 助ける人がいる。


 なら。


 動ける。


 仕事がある。


 なら。


 立てる。


 だが。


 全員帰った。


 自分は怪我をしている。


 休むしかない。


 そうなった途端。


 守は。


 自分が。


 何をすればいい人間なのか。


 わからなくなった。


 蒼汰は父の棺を見る。


 その性格は。


 今日。


 何度も。


 聞いてきた。


 他人を。


 先にする。


 自分を。


 後にする。


 でも。


 もっと根っこの部分。


 何もしなくていい時。


 父は。


 休み方そのものを。


 知らなかった。


「それで」


 蒼汰が聞く。


「アーデルさんは何をしたんです?」


「何もしませんでした」


「え?」


「三日間」


 アーデルは答えた。


「何もさせませんでした」


 守のベッドの横へ椅子を置き。


 自分も。


 座った。


 本を読む。


 祈る。


 時々。


 茶を飲む。


 それだけ。


 守が起きようとすれば。


 座っていなさい。


 と言う。


 誰かを助けに行かなければ。


 と言えば。


 今日は誰も助けなくていい。


 と言う。


 それでいいのか。


 守が聞く。


 それでいい。


 アーデルは。


 何度でも。


 同じ答えを返した。


「親父は?」


「怒りました」


『怒ってない』


「怒ってましたよ」


 アーデルが即座に否定する。


「二日目には、あなたに何がわかる、と言われました」


 頭の中で守が黙った。


 蒼汰は少し眉を寄せる。


「親父、そんなこと言ったの?」


『……言った』


 その一言を。


 アーデルは。


 怒らなかった。


 ただ。


 答えた。


 何もわかりません。


 あなたが。


 どれだけの人を。


 助けたのかも。


 どれだけの人を。


 助けられなかったのかも。


 私は。


 知りません。


「ただし」


 アーデルは守へ。


 こう続けた。


「今、あなたが眠らなければならないことだけは、私にもわかります」


 蒼汰の口元が少し緩む。


「強いな」


『強いんだよ、この人』


 父が。


 しみじみ言った。


 アーデルは三日間。


 守を。


 誰かを助ける人として。


 扱わなかった。


 境界管理者でも。


 英雄でも。


 特別な人でもない。


 怪我をして。


 疲れて。


 眠らなければならない。


 一人の青年。


 それだけ。


 四日目。


 守は。


 初めて。


 朝まで眠った。


 十六時間。


 起きて。


 食事を。


 全部。


 食べた。


「何食べたの?」


 蒼汰が聞く。


 父の声がすぐ返ってくる。


『豆のスープと黒パン』


「覚えてるんだ」


『美味かった』


 アーデルが微笑む。


「おかわりもしました」


『三杯』


「食いすぎだろ」


「四日分ですから」


「アーデルさんまで甘い」


 それから。


 守は。


 三か月。


 修道院にいた。


「三か月!?」


 蒼汰は驚く。


『仕方なかった』


「仕事は?」


『止められた』


「誰に」


 守が答えるより先に。


 アーデルが。


 自分を指した。


「私です」


「そんな権限あったんですか?」


「ありません」


「ないの!?」


「だから、守の上司へ手紙を書きました」


 内容。


 この人を今すぐ働かせるなら。


 あなたも同じ部屋へ入れて。


 一緒に三か月休ませます。


「それで?」


「許可が出ました」


 蒼汰は笑ってしまった。


「上司も怖かったんだ」


『あいつ後で礼言ってた』


「誰が?」


『俺の上司』


 その三か月。


 守は。


 畑を手伝った。


 薪を割った。


 料理をした。


 修道院の子どもたちへ。


 文字を教えた。


 屋根も直した。


 でも。


 一つだけ。


 禁止された。


「人助け禁止?」


「いいえ」


 アーデルは首を振る。


「自分が必要だから、という理由で助けることを禁止しました」


 蒼汰の表情が。


 少し変わる。


「どういう意味です?」


「守は」


 アーデルが言った。


「誰かを助けることで、自分がここにいていい理由を作っていました」


 困っている人。


 帰れない人。


 怪我をした人。


 そういう人を前にすれば。


 守は迷わない。


 自分には仕事がある。


 自分は必要だ。


 だから。


 動く。


 でも。


 誰も困っていない。


 誰も助けを求めていない。


 そんな時。


 ただ。


 そこにいる。


 それが。


 守には。


 できなかった。


「だから私は」


 アーデルは続ける。


「何もしなくても、食卓へ来なさいと言いました」


 仕事をしていなくても。


 席はある。


 誰も助けていなくても。


 スープは出る。


 役に立たなくても。


 おはよう。


 と言われる。


 夜。


 眠る場所がある。


 守は。


 それを。


 三か月。


 練習した。


 蒼汰は。


 しばらく。


 何も言えなかった。


 父の帰還思想。


 食事。


 乾いた服。


 寝床。


 家。


 ただいま。


 おかえり。


 そこまで揃って。


 初めて。


 帰還。


 その原型が。


 ここにある。


「親父」


『……なんだ』


「もしかして」


「帰還者に飯食わせたり」


「寝床まで気にするようになったの」


「アーデルさんのせい?」


 守は。


 すぐに否定しなかった。


『……かなり』


 アーデルが。


 少しだけ。


 笑った。


「守は帰るということを、最初は移動だと思っていました」


 境界の向こう。


 こちら。


 線を越える。


 それで。


 終わり。


 でも。


 修道院で。


 三か月。


 何もしない時間を。


 生きた。


 その中で。


 知った。


 帰った人間には。


 帰った後の。


 時間がある。


 そして。


 その時間を。


 生きられなければ。


 帰還は。


 まだ。


 終わっていない。


「だから」


 蒼汰は。


 静かに言った。


「親父が」


「帰した後まで」


「うるさくなった」


『うるさくはない』


「濡れた髪で寝るなとか」


『風邪引くだろ』


「飯食えとか」


『腹減るだろ』


「寝ろとか」


『寝ないと死ぬぞ』


 蒼汰は。


 少し笑った。


「全部」


「自分が言われたことじゃん」


 父は。


 何も言わなくなった。


 アーデルは。


 棺へ目を向ける。


「その通りです」


 父は。


 自分が。


 できなかったことを。


 帰還者へ。


 していた。


 食べろ。


 眠れ。


 休め。


 もう。


 働かなくていい。


 今日くらい。


 何もしなくていい。


 それは。


 誰かへ向けた。


 立派な教えではない。


 昔。


 一人の青年が。


 自分へ。


 言ってもらった言葉。


 それを。


 次へ。


 渡していただけだった。


 アーデルは。


 懐から。


 小さな。


 木の器を取り出した。


 使い込まれた。


 古いスープ皿。


「これは?」


 蒼汰が聞く。


「守が修道院にいた頃」


 アーデルが答える。


「毎朝使っていた皿です」


 守が。


 頭の中で。


 驚いた声を出す。


『まだあったのか』


「親父、覚えてるって」


「そうでしょうね」


 底。


 小さな傷。


 守。


 と。


 不器用な字。


「自分で名前を書いた?」


 蒼汰が聞く。


『違う』


 アーデルが笑う。


「修道院の子どもたちです」


 守が。


 自分の皿を。


 毎回。


 誰かへ。


 譲ろうとするから。


 子どもたちが。


 名前を書いた。


 これは。


 守の。


 だから。


 自分で。


 使え。


「親父」


『なんだ』


「子どもにまで怒られてたの?」


『怒られてない』


「怒られてます」


 アーデルが。


 きっぱり言った。


 蒼汰は。


 笑った。


 アーデルは。


 その皿を。


 長卓へは置かなかった。


 蒼汰へ。


 差し出した。


「俺に?」


「はい」


「でも」


「親父のものなら」


 アーデルは。


 首を振る。


「守のために持ってきたのではありません」


 蒼汰を。


 まっすぐ見る。


「あなたのためです」


 蒼汰は。


 皿を受け取らないまま。


 少し。


 戸惑った。


「どうして」


「今日」


 アーデルは言った。


「あなたはずっと」


「人の話を聞いていますね」


「はい」


「父親のことを知ろうとして」


「帰れない人のことを考えて」


「ユイさんのことを考えて」


「これから第十四区画のことも」


「考えるのでしょう」


 蒼汰は。


 何も言えない。


「だから」


 アーデルは。


 木の皿を。


 もう一度。


 差し出した。


「食事をするのを忘れないように」


 蒼汰が。


 思わず。


 父の棺を見る。


 守が。


 頭の中で。


 少し笑った。


『受け取れ』


「お前が言う?」


『俺が言う』


「説得力ないけど」


『だからだよ』


 蒼汰は。


 少しだけ。


 笑った。


 そして。


 木の皿を。


 受け取った。


「ありがとうございます」


「どういたしまして」


 アーデルは。


 満足そうに。


 頷いた。


「ただし」


 蒼汰の手が。


 止まる。


「まだ何か?」


「その皿を」


「誰かへ譲ってはいけませんよ」


「……はい」


「あなたが使いなさい」


「はい」


「困っている人がいたからといって」


「自分の分まで」


「全部渡さない」


 蒼汰は。


 その言葉を。


 少しだけ。


 重く受け取った。


 父の。


 いいところ。


 悪いところ。


 自分は。


 どちらも。


 受け継ぐかもしれない。


 だったら。


 悪いところだけ。


 先に。


 知っておける。


 それは。


 ありがたい。


「親父」


『なんだ』


「俺」


「お前より」


「休むの上手くなるわ」


 守が。


 少し。


 不満そうに言う。


『競うものか?』


「百十二回破った奴よりは」


『それを言うな』


 アーデルが。


 棺を見た。


 そして。


 ゆっくり。


 立ち上がる。


「守」


 今までと。


 同じ。


 穏やかな声。


「あなたは」


「長い間」


「よく働きました」


 守が。


 何も言わなくなる。


「助けられた人も」


「助けられなかった人も」


「たくさんいたでしょう」


「できたことも」


「できなかったことも」


「たくさんあったでしょう」


 アーデルは。


 棺の縁へ。


 そっと。


 手を置いた。


「でも」


「もう」


 一度。


 息を吐く。


「あなたがいなくても」


「続きは続きます」


 蒼汰の胸が。


 少し。


 締まった。


 第十四区画。


 ユナ。


 アイラ。


 ユイ。


 まだ。


 帰れない人たち。


 父が。


 残したもの。


 全部。


 父が。


 やり切る必要は。


 もうない。


「守」


 アーデルは言った。


「今度こそ」


「休みなさい」


 頭の中で。


 父は。


 すぐには。


 答えなかった。


 蒼汰は。


 何も言わず。


 待った。


 長い。


 長い。


 沈黙。


 そして。


『……はい』


 今まで。


 聞いたことのない。


 素直な返事だった。


 蒼汰は。


 目を見開いた。


「親父」


『何だ』


「はいって言った?」


『言った』


「アーデルさんに?」


『言った』


 蒼汰は。


 少し笑った。


「伝えていい?」


『……頼む』


 蒼汰は。


 アーデルを見る。


「父が」


 声が。


 少しだけ。


 詰まった。


「はい、って」


 アーデルの。


 目元が。


 ほんの少し。


 濡れた。


「そうですか」


 それだけ。


 そして。


 笑った。


「百年以上」


「かかりましたね」


 守が。


 頭の中で。


 小さく。


 笑った。


 アーデルは。


 棺へ。


 深く。


 頭を下げた。


「おやすみなさい」


 蒼汰の胸が。


 強く。


 締まる。


 その瞬間。


 父の声が。


 一気に。


 遠くなった。


「親父?」


『……いる』


 いる。


 でも。


 小さい。


 今までより。


 ずっと。


「大丈夫?」


『ああ』


「消える?」


 守は。


 少し。


 考えてから。


『まだ』


 と。


 答えた。


『でも』


 一拍。


『だいぶ』


『眠い』


 蒼汰は。


 何も言えなくなった。


 今日。


 初めて。


 父が。


 眠い。


 と言った。


 誰かを。


 助けに行かなければ。


 でもなく。


 まだ。


 やることがある。


 でもなく。


 ただ。


 眠い。


 蒼汰は。


 木の皿を。


 胸へ抱えた。


「じゃあ」


 静かに。


 言う。


「無理して喋らなくていいよ」


 守の返事は。


 すぐには。


 来なかった。


 やがて。


『……うん』


 それだけ。


 アーデルは。


 もう一度。


 蒼汰へ。


 小さく頷き。


 列へ戻っていった。


 冬城は。


 すぐには。


 次の名簿を。


 開かなかった。


 広間にも。


 静かな時間が。


 流れる。


 ユイは。


 子ども用の椅子に。


 座ったまま。


 棺を見ていた。


 そして。


 小さな声で。


 言った。


「まもる」


 蒼汰は。


 父の返事を。


 待つ。


 でも。


 聞こえない。


「親父?」


 少し。


 不安になる。


 もう一度。


 呼ぼうとした。


 その時。


 ユイが。


 自分の膝の上を。


 指差した。


「これ」


 そこには。


 いつの間にか。


 一枚の。


 小さな紙。


 誰も。


 置いていない。


 蒼汰が。


 近づく。


 エルナが。


 すぐに計測器を向けた。


「境界反応は弱い。触って大丈夫そう」


 ユイが。


 自分で。


 紙を持ち上げた。


 そして。


 蒼汰へ。


 見せる。


 父の字。


 たった。


 一行。


 ――眠る前に、蒼汰へ一つだけ言っておく。


 蒼汰の心臓が。


 強く鳴った。


 その下。


 続き。


 ――俺が死んだ理由を、俺のせいだけだと思うな。


 広間の空気が。


 変わった。


 エルナが。


 顔を上げる。


 冬城も。


 表情を硬くする。


 サーラが。


 診療記録を見る。


 そして。


 最後。


 もう一行。


 ――俺の存在を削ったものは、第十四区画の中にある。


 蒼汰は。


 紙から。


 目を離せなくなった。


 父の死。


 最後の任務。


 ユイ。


 第十四区画。


 これまで。


 別々に見えていたものが。


 初めて。


 一つの線で。


 つながった。


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