↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
父、奏多守はほら吹きではなかった  作者: てへろっぱ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
89/102

第89話 空いた椅子には、まだ誰も座らせない



白い板には、二つの名前が並んでいた。


ユイ――帰還済み。

ユナ――未帰還。


父が死ぬ十日前に買った二脚の小さな椅子。その片方には、いまユイが座ることができる。けれど、もう片方はまだ空いたままだ。


蒼汰はその事実を見つめながら、胸の奥で湧き上がる焦りを押さえた。


四歳の子どもが、第十四区画に残されている。


そう聞けば、今すぐ迎えに行かなければならない気がする。父なら、きっとそう思ったはずだ。いや、少し前の自分だって同じだったかもしれない。


けれど、今日一日で何度も聞いてきた。


急いで連れて帰ることと、ちゃんと帰すことは違う。


「ユイ」


蒼汰は少女の前にしゃがんだ。


泣いた跡がまだ頬に残っている。ユイは小さな手で服の裾を握り、白い板に浮かぶ妹の名前を見つめていた。


「ユナのこと、思い出せる範囲で教えてくれる?」


ユイはすぐには答えなかった。


「無理に思い出さなくていい。わからないところは、わからないでいいから」


その言葉に、ユイは少しだけ肩の力を抜いた。


「……ユナ、よんさい」


「うん」


「おしゃべり、すくない」


「昔から?」


ユイは首を横に振った。


「むこうにいってから」


エルナの表情が変わったが、口を挟まない。蒼汰も続きを待った。


ユイによれば、最初の頃のユナはよく喋る子だったらしい。姉の後ろをついて回り、眠くなると抱っこをせがみ、食べ物を見つければ先に欲しがる。ごく普通の、四歳の妹だった。


けれど、第十四区画にいるうちに少しずつ言葉が減った。


「なまえ、わすれた?」


蒼汰が聞くと、ユイは首を横に振った。


「ユナって、いえる」


「じゃあ何を忘れた?」


ユイは考え込み、やがて自分の胸を指した。


「こえ」


「声?」


「じぶんのこえ、へんっていう」


守が頭の中で低く呟いた。


『思い出した』


蒼汰はすぐに聞く。


「何を?」


『ユナは、途中から自分が喋った声を自分の声だと思えなくなってた』


エルナへ伝えると、彼女はすぐに険しい顔になった。


「自己認識の剥離ね。名前より先に起きることもあるわ」


「どういう状態です?」


「自分が何をしたか、何を言ったか。その出来事と“自分”がつながらなくなる。ひどくなると、自分で選んだことさえ他人に決められたように感じる」


蒼汰はユナという名前を見る。


それでは、帰るかどうかを聞いたところで意味がない。


本人が「帰る」と答えても、その言葉を自分の意思だと認識できない可能性がある。


「だから親父は、ユイだけ先に帰した?」


守はしばらく黙った。


『違う』


「違う?」


『俺が決めたんじゃない』


父の記憶が、また少し戻ってきた。


第十四区画で見つけた姉妹。帰還路は極めて不安定で、一度に一人しか通せない。しかも、その時点で二人とも存在情報が崩れ始めていた。


守は姉妹に説明した。


一人なら、今すぐ帰せる。


次がいつになるかは、わからない。


ユイは妹を先にと言った。


けれど、ユナは姉の服を握ったまま首を横に振った。


「ユナが?」


蒼汰が聞く。


『ああ』


守は、当時の少女の声を思い出していた。


――おねえちゃんが、さき。


それがユナ自身の意思だったのか。


それとも、すでに自己認識が崩れ始めていたせいなのか。


守には判断できなかった。


だから、聞き直した。


何度もではない。


一度だけ。


「どうして?」


蒼汰が聞くと、父は答えた。


『ユナが、“おねえちゃんは自分で帰りたいって言えるから”って』


蒼汰は息を止めた。


四歳の子どもが、自分では選べなくなりかけていることを、自分でわかっていた。


ユイが小さく続ける。


「ユナ、いった」


「何て?」


「わたし、まだ、きめちゃだめって」


厨房から戻った時よりも、ユイの声ははっきりしていた。自分の名前を自分で持てるようになったことで、妹の記憶まで少しずつ取り戻しているのかもしれない。


「まもるが、きいてくれるまで、まつって」


蒼汰は棺を見た。


「親父」


守が苦しそうに答える。


『ああ』


父はユナを置いてきたのではない。


選べなくなりかけていた四歳の少女に、無理やり選ばせなかった。


そして、自分がもう一度戻るつもりだった。


そのために二脚の椅子を買った。


姉だけで終わりにしないために。


「でも、お前は死んだ」


『……ああ』


蒼汰の言葉は責めるように聞こえたかもしれない。


けれど、守は言い訳をしなかった。


「それでユナは、まだ待ってる」


『多分な』


「多分?」


『今のユナが何を望んでるかは、俺にもわからない』


その答えに、蒼汰は少し安心した。


父はもう、「迎えに行けばいい」とは言わない。


ユナが二十一日前でも、十日前でもなく、今この瞬間に何を望んでいるのか。それを知らないまま答えを決めてはいけない。


エルナが白い板を見ながら言った。


「ユナ本人と接続できれば、自己認識がどのくらい残っているか確認できるかもしれない」


「でも、こちらから呼ぶのは?」


「まだ危険。第十四区画全体との接続が開く可能性があるわ」


冬城も頷いた。


「少なくとも、葬儀の途中で試みるべきではありません」


蒼汰は即座に同意した。


「じゃあ今日はやらない」


ユイが不安そうに蒼汰を見る。


「ユナ、むかえにいかない?」


その問いに、蒼汰は少し考えてから答えた。


「今日はいかない」


ユイの目が揺れた。


蒼汰は続ける。


「でも、忘れない。ユナがどうしたいのか聞ける方法を作る。それから決める」


「……おそい?」


「遅いかもしれない」


誤魔化さなかった。


「だから、名前が消えないようにする準備は今からやる。でも、急いだからってユナの代わりに答えを決めたくない」


ユイは長く蒼汰を見つめた。


やがて、小さく頷いた。


「うん」


エルナの計測器が、またわずかに反応した。


ユイ自身の選択が一つ増えた。


サーラが静かに椅子を指した。


「ユイさん。少し座りますか?」


今度は誰も、「座りなさい」と言わない。


ユイは二脚の子ども用椅子を見比べた。


片方。


もう片方。


そして、父が自分用に買ったはずの椅子へ腰掛けた。


もう一脚には触れなかった。


蒼汰はそれを見て、何となくほっとした。


空いているからといって、そこをユナの席だと決める必要はない。


ユナが帰ると決めるかもしれない。


帰らないと決めるかもしれない。


別の場所へ行きたいと言うかもしれない。


その椅子が必要かどうかさえ、まだわからない。


だから、空いたままでいい。


今は。


守が頭の中で言った。


『蒼汰』


「何?」


『その椅子』


「うん」


『ユナ用に買った』


蒼汰は少し眉を寄せる。


「さっきと言ってること違わない?」


『買った時はな』


父は苦笑した。


『でも、今のお前の言う通りだ。だからって、ユナがそこに座らなきゃいけないわけじゃない』


蒼汰は小さく笑った。


「やっとわかった?」


『だいぶ前にわかってた』


「今日だけで何回言ってるんだ、それ」


ユイが不思議そうに蒼汰を見る。


「まもる、なんて?」


「その椅子、ユナのために買ったけど、ユナが座らなきゃいけないわけじゃないって」


ユイは空いた椅子を見る。


それから、ぽつりと言った。


「じゃあ、あいてていいね」


「うん」


蒼汰も同じ答えを返した。


「空いてていい」


その時だった。


白い板に新しい反応が出た。


全員が振り返る。


本人名。


――ユナ。


蒼汰の心臓が跳ねた。


エルナがすぐに手を上げる。


「誰も話しかけないで」


こちらからは呼んでいない。


向こうから来た。


白い板に、次の項目が浮かぶ。


――状態。


文字が少し乱れた。


――名前保持。


――弱。


次。


――自己認識。


そこで何度も文字が滲む。


最後に。


――不安定。


エルナが険しい顔になる。


「まだ選択を聞ける状態じゃない」


蒼汰は頷く。


「じゃあ聞かない」


次。


――帰還意思。


全員が身構えた。


だが、文字は出なかった。


空欄。


蒼汰は、その空欄をじっと見つめた。


答えられない。


それが今の答えだ。


「冬城さん」


「はい」


「空欄のまま残してください」


「承知しました」


帰りたい。


帰りたくない。


どちらも勝手に書かない。


わからないなら、わからない。


それを残す。


すると。


白い板に。


別の文字が浮かんだ。


――おねえちゃん。


ユイが息を呑む。


蒼汰は話しかけそうになり、止まった。


ユナが書いているかもしれない。


でも、まだ決めつけない。


次。


――いる?


ユイの目から、涙が溢れた。


「ユナ……」


エルナが止めようとした。


しかし。


ユイは蒼汰を見る。


「こたえていい?」


蒼汰は答えなかった。


代わりにエルナを見る。


エルナは装置を確認し、数秒考えた。


「ユイ本人が、自分の意思で答えるなら」


「危険は?」


「ゼロではない。でも、“第十四区画全体へ返答する”のではなく、ユイ自身の存在情報として記録する方法ならできる」


蒼汰はユイへ戻る。


「どうしたい?」


ユイは迷わなかった。


「いう」


「何て?」


「ここにいるって」


蒼汰は頷いた。


エルナが装置の設定を変えた。


白い板ではなく、ユイ自身の名前を保存している記録板へ接続する。


「この板に言って。向こうへ送るのは私じゃない。ユイ自身の情報として残すだけ」


ユイは立ち上がった。


小さな手を胸へ当てる。


そして。


はっきりと言った。


「ユイは、ここにいる」


記録板が青く光った。


白い板。


ユナの欄。


少し時間があって。


文字。


――よかった。


ユイが泣いた。


今度は、声を出して。


蒼汰は何も言わず、隣にしゃがんだ。


抱きしめることもしない。


手を握ることもしない。


ユイが自分で選べるように待つ。


しばらくして。


ユイの方から。


蒼汰の袖を。


そっと掴んだ。


蒼汰はその手を振りほどかなかった。


白い板には、もう一つだけ文字が浮かんだ。


――まだ。


――きめられない。


蒼汰は静かに息を吐いた。


「それでいい」


今回は。


返事ではなく。


自分たちへ向けて言った。


決められない。


なら、決めさせない。


それも一つの選択として守る。


守が頭の中で、ゆっくり言った。


『蒼汰』


「何?」


『俺が行った最後の時』


父の声が、また少し遠くなる。


『ユナに同じこと言えなかった』


蒼汰は棺を見る。


『俺、時間がなかったから』


父は続けた。


『帰るか、残るか。どっちか決めてもらわなきゃって焦ってた』


「でも、決めさせなかったんだろ?」


『最後にはな』


「なら、それでいいじゃん」


『……そうか?』


「完璧じゃないと駄目なの?」


守が黙った。


蒼汰は言う。


「途中で間違えて、最後にやめられたなら、それも残しとけばいいだろ」


父の声がしばらく返ってこなかった。


そして。


『そうだな』


と。


小さく笑った。


その直後。


冬城が静かに立ち上がった。


「蒼汰様」


「はい」


「次の弔問者をお通ししてもよろしいでしょうか」


蒼汰はユイを見る。


「どうする?」


「ここにいる」


「疲れたら言って」


「うん」


サーラがユイの近くへ椅子を移した。エルナも装置の監視を続ける。


蒼汰は、自分の席へ戻った。


「お願いします」


冬城が名簿を開く。


次の名前を確認したところで、その表情がほんの少しだけ変わった。


「どうしました?」


「次の方は……守様を救った方です」


蒼汰は瞬いた。


「親父が助けたんじゃなくて?」


「はい」


珍しい。


今日聞いた話の多くで、父は誰かを助けたり、止めたり、帰したりしてきた。


その父を。


助けた人。


頭の中で守が言った。


『……誰だ?』


蒼汰が少し笑う。


「お前も覚えてないのかよ」


冬城が名を読み上げた。


「旧北境修道院、元院長」


「アーデル・ロウ様」


守の声が。


完全に止まった。


蒼汰はすぐに気づく。


「親父?」


返事がない。


「知ってる?」


長い沈黙。


そして。


守が。


今日初めて。


明確に怯えた声を出した。


『蒼汰』


「何」


『俺』


父は。


棺の中にいるというのに。


逃げようとするみたいな声で言った。


『あの人には』


『頭が上がらない』


扉の向こうから。


杖の音がした。


こつ。


こつ。


ゆっくり。


穏やかな足音。


そして。


年老いた女性の声。


「守」


「逃げる必要はありませんよ」


一拍置いて。


とても優しく。


続けた。


「あなたは昔から」


「逃げても必ず、私のところへ戻ってきましたから」


頭の中で。


父が。


小さく呻いた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。