第89話 空いた椅子には、まだ誰も座らせない
白い板には、二つの名前が並んでいた。
ユイ――帰還済み。
ユナ――未帰還。
父が死ぬ十日前に買った二脚の小さな椅子。その片方には、いまユイが座ることができる。けれど、もう片方はまだ空いたままだ。
蒼汰はその事実を見つめながら、胸の奥で湧き上がる焦りを押さえた。
四歳の子どもが、第十四区画に残されている。
そう聞けば、今すぐ迎えに行かなければならない気がする。父なら、きっとそう思ったはずだ。いや、少し前の自分だって同じだったかもしれない。
けれど、今日一日で何度も聞いてきた。
急いで連れて帰ることと、ちゃんと帰すことは違う。
「ユイ」
蒼汰は少女の前にしゃがんだ。
泣いた跡がまだ頬に残っている。ユイは小さな手で服の裾を握り、白い板に浮かぶ妹の名前を見つめていた。
「ユナのこと、思い出せる範囲で教えてくれる?」
ユイはすぐには答えなかった。
「無理に思い出さなくていい。わからないところは、わからないでいいから」
その言葉に、ユイは少しだけ肩の力を抜いた。
「……ユナ、よんさい」
「うん」
「おしゃべり、すくない」
「昔から?」
ユイは首を横に振った。
「むこうにいってから」
エルナの表情が変わったが、口を挟まない。蒼汰も続きを待った。
ユイによれば、最初の頃のユナはよく喋る子だったらしい。姉の後ろをついて回り、眠くなると抱っこをせがみ、食べ物を見つければ先に欲しがる。ごく普通の、四歳の妹だった。
けれど、第十四区画にいるうちに少しずつ言葉が減った。
「なまえ、わすれた?」
蒼汰が聞くと、ユイは首を横に振った。
「ユナって、いえる」
「じゃあ何を忘れた?」
ユイは考え込み、やがて自分の胸を指した。
「こえ」
「声?」
「じぶんのこえ、へんっていう」
守が頭の中で低く呟いた。
『思い出した』
蒼汰はすぐに聞く。
「何を?」
『ユナは、途中から自分が喋った声を自分の声だと思えなくなってた』
エルナへ伝えると、彼女はすぐに険しい顔になった。
「自己認識の剥離ね。名前より先に起きることもあるわ」
「どういう状態です?」
「自分が何をしたか、何を言ったか。その出来事と“自分”がつながらなくなる。ひどくなると、自分で選んだことさえ他人に決められたように感じる」
蒼汰はユナという名前を見る。
それでは、帰るかどうかを聞いたところで意味がない。
本人が「帰る」と答えても、その言葉を自分の意思だと認識できない可能性がある。
「だから親父は、ユイだけ先に帰した?」
守はしばらく黙った。
『違う』
「違う?」
『俺が決めたんじゃない』
父の記憶が、また少し戻ってきた。
第十四区画で見つけた姉妹。帰還路は極めて不安定で、一度に一人しか通せない。しかも、その時点で二人とも存在情報が崩れ始めていた。
守は姉妹に説明した。
一人なら、今すぐ帰せる。
次がいつになるかは、わからない。
ユイは妹を先にと言った。
けれど、ユナは姉の服を握ったまま首を横に振った。
「ユナが?」
蒼汰が聞く。
『ああ』
守は、当時の少女の声を思い出していた。
――おねえちゃんが、さき。
それがユナ自身の意思だったのか。
それとも、すでに自己認識が崩れ始めていたせいなのか。
守には判断できなかった。
だから、聞き直した。
何度もではない。
一度だけ。
「どうして?」
蒼汰が聞くと、父は答えた。
『ユナが、“おねえちゃんは自分で帰りたいって言えるから”って』
蒼汰は息を止めた。
四歳の子どもが、自分では選べなくなりかけていることを、自分でわかっていた。
ユイが小さく続ける。
「ユナ、いった」
「何て?」
「わたし、まだ、きめちゃだめって」
厨房から戻った時よりも、ユイの声ははっきりしていた。自分の名前を自分で持てるようになったことで、妹の記憶まで少しずつ取り戻しているのかもしれない。
「まもるが、きいてくれるまで、まつって」
蒼汰は棺を見た。
「親父」
守が苦しそうに答える。
『ああ』
父はユナを置いてきたのではない。
選べなくなりかけていた四歳の少女に、無理やり選ばせなかった。
そして、自分がもう一度戻るつもりだった。
そのために二脚の椅子を買った。
姉だけで終わりにしないために。
「でも、お前は死んだ」
『……ああ』
蒼汰の言葉は責めるように聞こえたかもしれない。
けれど、守は言い訳をしなかった。
「それでユナは、まだ待ってる」
『多分な』
「多分?」
『今のユナが何を望んでるかは、俺にもわからない』
その答えに、蒼汰は少し安心した。
父はもう、「迎えに行けばいい」とは言わない。
ユナが二十一日前でも、十日前でもなく、今この瞬間に何を望んでいるのか。それを知らないまま答えを決めてはいけない。
エルナが白い板を見ながら言った。
「ユナ本人と接続できれば、自己認識がどのくらい残っているか確認できるかもしれない」
「でも、こちらから呼ぶのは?」
「まだ危険。第十四区画全体との接続が開く可能性があるわ」
冬城も頷いた。
「少なくとも、葬儀の途中で試みるべきではありません」
蒼汰は即座に同意した。
「じゃあ今日はやらない」
ユイが不安そうに蒼汰を見る。
「ユナ、むかえにいかない?」
その問いに、蒼汰は少し考えてから答えた。
「今日はいかない」
ユイの目が揺れた。
蒼汰は続ける。
「でも、忘れない。ユナがどうしたいのか聞ける方法を作る。それから決める」
「……おそい?」
「遅いかもしれない」
誤魔化さなかった。
「だから、名前が消えないようにする準備は今からやる。でも、急いだからってユナの代わりに答えを決めたくない」
ユイは長く蒼汰を見つめた。
やがて、小さく頷いた。
「うん」
エルナの計測器が、またわずかに反応した。
ユイ自身の選択が一つ増えた。
サーラが静かに椅子を指した。
「ユイさん。少し座りますか?」
今度は誰も、「座りなさい」と言わない。
ユイは二脚の子ども用椅子を見比べた。
片方。
もう片方。
そして、父が自分用に買ったはずの椅子へ腰掛けた。
もう一脚には触れなかった。
蒼汰はそれを見て、何となくほっとした。
空いているからといって、そこをユナの席だと決める必要はない。
ユナが帰ると決めるかもしれない。
帰らないと決めるかもしれない。
別の場所へ行きたいと言うかもしれない。
その椅子が必要かどうかさえ、まだわからない。
だから、空いたままでいい。
今は。
守が頭の中で言った。
『蒼汰』
「何?」
『その椅子』
「うん」
『ユナ用に買った』
蒼汰は少し眉を寄せる。
「さっきと言ってること違わない?」
『買った時はな』
父は苦笑した。
『でも、今のお前の言う通りだ。だからって、ユナがそこに座らなきゃいけないわけじゃない』
蒼汰は小さく笑った。
「やっとわかった?」
『だいぶ前にわかってた』
「今日だけで何回言ってるんだ、それ」
ユイが不思議そうに蒼汰を見る。
「まもる、なんて?」
「その椅子、ユナのために買ったけど、ユナが座らなきゃいけないわけじゃないって」
ユイは空いた椅子を見る。
それから、ぽつりと言った。
「じゃあ、あいてていいね」
「うん」
蒼汰も同じ答えを返した。
「空いてていい」
その時だった。
白い板に新しい反応が出た。
全員が振り返る。
本人名。
――ユナ。
蒼汰の心臓が跳ねた。
エルナがすぐに手を上げる。
「誰も話しかけないで」
こちらからは呼んでいない。
向こうから来た。
白い板に、次の項目が浮かぶ。
――状態。
文字が少し乱れた。
――名前保持。
――弱。
次。
――自己認識。
そこで何度も文字が滲む。
最後に。
――不安定。
エルナが険しい顔になる。
「まだ選択を聞ける状態じゃない」
蒼汰は頷く。
「じゃあ聞かない」
次。
――帰還意思。
全員が身構えた。
だが、文字は出なかった。
空欄。
蒼汰は、その空欄をじっと見つめた。
答えられない。
それが今の答えだ。
「冬城さん」
「はい」
「空欄のまま残してください」
「承知しました」
帰りたい。
帰りたくない。
どちらも勝手に書かない。
わからないなら、わからない。
それを残す。
すると。
白い板に。
別の文字が浮かんだ。
――おねえちゃん。
ユイが息を呑む。
蒼汰は話しかけそうになり、止まった。
ユナが書いているかもしれない。
でも、まだ決めつけない。
次。
――いる?
ユイの目から、涙が溢れた。
「ユナ……」
エルナが止めようとした。
しかし。
ユイは蒼汰を見る。
「こたえていい?」
蒼汰は答えなかった。
代わりにエルナを見る。
エルナは装置を確認し、数秒考えた。
「ユイ本人が、自分の意思で答えるなら」
「危険は?」
「ゼロではない。でも、“第十四区画全体へ返答する”のではなく、ユイ自身の存在情報として記録する方法ならできる」
蒼汰はユイへ戻る。
「どうしたい?」
ユイは迷わなかった。
「いう」
「何て?」
「ここにいるって」
蒼汰は頷いた。
エルナが装置の設定を変えた。
白い板ではなく、ユイ自身の名前を保存している記録板へ接続する。
「この板に言って。向こうへ送るのは私じゃない。ユイ自身の情報として残すだけ」
ユイは立ち上がった。
小さな手を胸へ当てる。
そして。
はっきりと言った。
「ユイは、ここにいる」
記録板が青く光った。
白い板。
ユナの欄。
少し時間があって。
文字。
――よかった。
ユイが泣いた。
今度は、声を出して。
蒼汰は何も言わず、隣にしゃがんだ。
抱きしめることもしない。
手を握ることもしない。
ユイが自分で選べるように待つ。
しばらくして。
ユイの方から。
蒼汰の袖を。
そっと掴んだ。
蒼汰はその手を振りほどかなかった。
白い板には、もう一つだけ文字が浮かんだ。
――まだ。
――きめられない。
蒼汰は静かに息を吐いた。
「それでいい」
今回は。
返事ではなく。
自分たちへ向けて言った。
決められない。
なら、決めさせない。
それも一つの選択として守る。
守が頭の中で、ゆっくり言った。
『蒼汰』
「何?」
『俺が行った最後の時』
父の声が、また少し遠くなる。
『ユナに同じこと言えなかった』
蒼汰は棺を見る。
『俺、時間がなかったから』
父は続けた。
『帰るか、残るか。どっちか決めてもらわなきゃって焦ってた』
「でも、決めさせなかったんだろ?」
『最後にはな』
「なら、それでいいじゃん」
『……そうか?』
「完璧じゃないと駄目なの?」
守が黙った。
蒼汰は言う。
「途中で間違えて、最後にやめられたなら、それも残しとけばいいだろ」
父の声がしばらく返ってこなかった。
そして。
『そうだな』
と。
小さく笑った。
その直後。
冬城が静かに立ち上がった。
「蒼汰様」
「はい」
「次の弔問者をお通ししてもよろしいでしょうか」
蒼汰はユイを見る。
「どうする?」
「ここにいる」
「疲れたら言って」
「うん」
サーラがユイの近くへ椅子を移した。エルナも装置の監視を続ける。
蒼汰は、自分の席へ戻った。
「お願いします」
冬城が名簿を開く。
次の名前を確認したところで、その表情がほんの少しだけ変わった。
「どうしました?」
「次の方は……守様を救った方です」
蒼汰は瞬いた。
「親父が助けたんじゃなくて?」
「はい」
珍しい。
今日聞いた話の多くで、父は誰かを助けたり、止めたり、帰したりしてきた。
その父を。
助けた人。
頭の中で守が言った。
『……誰だ?』
蒼汰が少し笑う。
「お前も覚えてないのかよ」
冬城が名を読み上げた。
「旧北境修道院、元院長」
「アーデル・ロウ様」
守の声が。
完全に止まった。
蒼汰はすぐに気づく。
「親父?」
返事がない。
「知ってる?」
長い沈黙。
そして。
守が。
今日初めて。
明確に怯えた声を出した。
『蒼汰』
「何」
『俺』
父は。
棺の中にいるというのに。
逃げようとするみたいな声で言った。
『あの人には』
『頭が上がらない』
扉の向こうから。
杖の音がした。
こつ。
こつ。
ゆっくり。
穏やかな足音。
そして。
年老いた女性の声。
「守」
「逃げる必要はありませんよ」
一拍置いて。
とても優しく。
続けた。
「あなたは昔から」
「逃げても必ず、私のところへ戻ってきましたから」
頭の中で。
父が。
小さく呻いた。




