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父、奏多守はほら吹きではなかった  作者: てへろっぱ


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88/102

第88話 父が最後に用意していた、小さな席



「オムライス」


ユイがそう答えた瞬間、それまで薄い膜の向こうにいるようだった少女の姿が、ふっと現実へ馴染んだ。


黒い髪も、白い服も、床についている裸足もはっきり見える。蒼汰は思わず何度か瞬きをしたが、目を開き直してもユイは消えなかった。冬城もエルナもサーラも、同じ場所を見ている。


そして何より、誰も名前を忘れていない。


「ユイ」


蒼汰が確認するように呼ぶと、少女は小さく頷いた。


「うん」


その返事も消えない。


エルナはすぐに計測器を確認したが、さっきまでのように慌ててユイへ近づこうとはしなかった。本人が自分で名前を言い、自分で食べたいものを選んだ。その二つだけで定着反応が大きく改善した以上、今は余計なことをしない方がいいと判断したらしい。


「存在反応、安定してる。完全じゃないけど、少なくとも目を離した瞬間に全員の記憶から消える状態ではなくなったわ」


「どれくらい持ちます?」


「それはまだわからない」


エルナは正直に答えた。


「だから検査は必要。でも、まずはオムライスね」


「研究者がそう言ってくれると安心します」


「失礼ね。私は学習する研究者よ」


頭の中で守が笑った。


『昔は絶対、飯より先に検査してた』


「親父が、昔なら検査優先だったって」


「守」


エルナの笑顔が一瞬で冷たくなった。


「死んでなかったら一回殴ってるわ」


『何で俺が』


「余計なこと言うからだろ」


ユイが、蒼汰と何もない空間を交互に見た。


「まもる、いるの?」


蒼汰は返答に迷った。


ここは難しい。


父は死んでいる。それは誤魔化してはいけない。しかし蒼汰には声が聞こえている。それをどう説明するか考えていると、守の方から言った。


『ちゃんと言え』


「……父さんは死んだよ」


ユイの表情が少し曇った。


蒼汰は続ける。


「でも今だけ、俺には声が聞こえてる。どうして聞こえるのかは、まだよくわかってない」


ユイは棺のある広間の方を見る。


「まもる、しんだの?」


「うん」


「もう、こない?」


蒼汰は答えられなかった。


第十四区画で何度も守を待っていた人たち。その中でユイも、守が再び来ることを信じていたのかもしれない。


守が静かに言った。


『蒼汰』


「何?」


『言ってくれ。悪かったって』


蒼汰は眉を寄せた。


「それだけ?」


『あと、帰して終わりにしたのも悪かった』


父の声には、いつもの言い訳がなかった。


『俺はあの子を第十四区画から出せば何とかなると思った。こっちに出たあとまで考えてるつもりだったのに、結局、自分につないで安心した』


今日、何度も聞いた話と同じだった。


冬を越した後の春。港を閉じた後の再開。門を通した後の食事や寝床。父はそのたびに、「その瞬間を助ける」だけでは足りないと、人から教えられてきた。


なのに最後の最後でも、まだ間違えた。


完璧にはならなかった。


蒼汰は、それが少しだけ嬉しかった。


父が最後まで人間だった証拠だからだ。


「ユイ」


少女が蒼汰を見る。


「父さんが、ごめんって」


「……なにが?」


「第十四区画から出して、それで帰せたつもりになったこと。ユイがこの世界でちゃんと暮らせるところまで考えきれなかったって」


ユイはしばらく黙っていた。


それから、とても小さな声で言った。


「でも、まもる、ごはんくれた」


蒼汰が止まる。


「ご飯?」


「うん」


ユイは指を折って思い出そうとする。


「パンと、スープと……たまご」


守の声が少し明るくなった。


『思い出した』


「また?」


『家に帰した日だ。あいつ、何食わせても最初は少ししか食わなくてさ』


ユイのために買ったスリッパや歯ブラシ。その記憶と一緒に、別の記憶も戻ってきたらしい。


守は任務から戻った夜、奏多家の台所で簡単な食事を作った。巴はすでに事情を聞かされていた。蒼汰はその頃、別の部屋で寝ていたらしい。


「俺、家にいたの?」


『いた。起こさなかった』


「なんで」


『夜中だったから』


「普通だな」


『俺だって普通の父親だぞ』


「今日一日聞いた話のどこに普通要素があったんだよ」


守は文句を言ったが、ユイが少し笑った。


その笑い方を見て、サーラがそっと言う。


「台所を借りましょう。オムライスを作るなら、ここでいつまでも立たせておく必要はありません」


冬城が頷いた。


「葬儀場の厨房を使用できます。材料も揃っています」


「俺が作ります」


蒼汰が言うと、冬城とエルナとサーラが同時に蒼汰を見た。


「何ですか」


「料理できますか?」


冬城の質問が妙に慎重だった。


「オムライスくらい作れますよ」


頭の中で守が言った。


『昔、卵焦がしてたけどな』


「何年前の話だよ!」


「何て?」


エルナが聞く。


「親父が余計なこと言ってます」


「死者の証言は参考程度にしましょう」


「ありがとうございます」


『ひどくないか?』


ユイがまた笑った。


その姿が先ほどより自然に見えたので、蒼汰はそれ以上父と言い争わなかった。


厨房へ移動することになったが、そこで一つ問題が起きた。


ユイが広間の入口で止まったのだ。


「どうした?」


「……いっていい?」


蒼汰は質問の意味がわからず、少し考えた。


「厨房に?」


「うん」


「もちろん」


答えた瞬間、ユイの輪郭がまた少し濃くなった。


エルナがそれを見逃さない。


「今のも本人選択ね」


「こんな小さいことでも?」


「むしろ小さいことだから重要なのかも」


行っていいか。


座っていいか。


何を食べるか。


どこで眠るか。


これまで誰かに決められ、あるいは自分という存在そのものが消えかけていたユイにとって、自分で選ぶ一つ一つが「ここにいる」という証明になる。


蒼汰は、それから必要以上に先回りするのをやめた。


厨房へ着いても、まず椅子を指した。


「どこ座りたい?」


ユイは三つ並んだ椅子を見て、真ん中を選んだ。


「ここ」


「わかった」


「飲み物は?」


「みず」


「冷たいのと、あったかいの」


「つめたい」


一つずつ。


小さな選択。


そのたびにユイの存在反応は安定した。


サーラが少し離れた場所から身体状態を確認し、エルナは装置を置いて記録だけ取る。冬城は必要な食材を出してくれたが、調理そのものには手を出さなかった。


蒼汰は玉ねぎを刻みながら、ふと気づく。


「親父」


『なんだ』


「お前、最後の任務から戻った時も、ユイに卵食わせたんだよな」


『ああ』


「何作った?」


守が黙った。


「まさか」


『……卵焼き』


ユイが首を横へ振った。


「くろかった」


蒼汰は吹き出した。


エルナも笑い、サーラまで口元を押さえる。


「親父!」


『体調悪かったんだよ!』


「言い訳になってねえよ!」


「にがかった」


ユイが追い打ちをかける。


『ユイ、お前そこまで覚えてたのか!?』


もちろん守の声は聞こえないが、ユイは棺の方角を見て少し笑った。


「まもる、へた」


「だそうです」


『伝えなくていい!』


久しぶりに、ただのくだらない会話だった。


第十四区画でもない。


境界でもない。


帰還責任でもない。


六歳の子どもが、昔食べた不味い卵焼きを覚えている。


それだけ。


蒼汰はケチャップライスを作り、卵を焼いた。父ほどではないと信じたいが、妙に緊張する。


皿へ盛り付けると、ケチャップを手に持った。


「何か描く?」


ユイが考える。


「おうち」


蒼汰の手が止まった。


「家?」


「うん」


そこで勝手に奏多家を描くのは違う気がした。


「どんな家?」


ユイは困ったように眉を寄せた。


「わかんない」


その言葉を聞き、誰も口を挟まなかった。


ユイ自身の家。


父や母。


出身地。


まだ何も戻っていない。


だから蒼汰は、ケチャップをユイへ渡した。


「じゃあ、自分で描く?」


ユイが目を丸くする。


「いいの?」


「もちろん」


ユイは少し迷ってから、ケチャップの容器を両手で持った。


丸い屋根。


四角。


窓。


扉。


上手とは言えない。


それでも。


一軒の家。


描き終わると、ユイは満足そうに頷いた。


「できた」


「うん」


蒼汰は笑った。


「いい家だな」


ユイはスプーンを持った。


だが、食べる前に周囲を見る。


「たべていい?」


「それも俺に聞かなくていいよ」


「……いいの?」


「ユイのご飯だから」


少女は少し考え、今度は誰にも許可を求めずに一口食べた。


目が丸くなる。


蒼汰は不安になる。


「どう?」


もぐもぐ。


飲み込む。


それから。


「おいしい」


頭の中で守が、悔しそうに言った。


『俺のより?』


「聞く必要ある?」


『ある』


ユイは当然、父の質問を知らない。


蒼汰は笑いを堪えながら聞いた。


「昔、父さんが作ったのと、どっちがおいしい?」


ユイは即答した。


「こっち」


『……そうか』


妙に落ち込んだ声がして、蒼汰は笑った。


ユイはゆっくり食べた。


途中で止まり、水を飲み、また食べる。誰も急かさなかった。


やがて皿が空になる。


「ごちそうさま」


その言葉と同時に、エルナの計測器が小さく音を鳴らした。


エルナが表示を見る。


「かなり安定した」


「食事で?」


「食事だけじゃない」


エルナはユイを見る。


「自分で決めて、自分で食べて、自分でごちそうさまを言った。それ全部よ」


蒼汰は、父が何度も「帰った後」を大事にしていた理由を、今までで一番具体的に理解した気がした。


名前だけでも駄目。


門を越えるだけでも駄目。


そこに座って。


飯を食って。


自分で美味しいと言って。


明日のことを考えられる。


それが帰るということなのだ。


「ユイ」


「うん」


「このあと、どうしたい?」


蒼汰は聞いた。


「検査してもらうこともできる。疲れてたら寝てもいい。葬儀の広間に戻ることもできる」


ユイは少し考えた。


それから。


「まもるのところ」


棺のある広間を指す。


「行きたい?」


「うん」


「わかった」


蒼汰はそれ以上、理由を聞かなかった。


皆で広間へ戻る。


ユイは今度、蒼汰の後ろではなく、隣を歩いた。


途中で一度だけ姿が薄くなったが、本人が自分で「ユイ」と口にすると、すぐ戻った。


エルナはその様子を見て、何か確信を得たらしい。


「自分の名前を、自分で保持でき始めてる」


「もう大丈夫?」


「まだ。でも、一歩目としてはかなり大きい」


広間へ戻ると、弔問者たちの視線が一斉にユイへ向いた。


蒼汰は少し警戒した。


大勢に見られれば怖いかもしれない。


だが、ユイは立ち止まらなかった。


棺まで。


自分で歩いた。


そして。


父の顔が見える位置で止まる。


「まもる」


頭の中で。


守が答えた。


『いるぞ』


蒼汰が伝えようとしたが、ユイが先に言った。


「ありがとう」


守が黙った。


ユイは続ける。


「でも」


少し。


頬を膨らませる。


「たまご、へた」


広間の何人かが吹き出した。


蒼汰も笑う。


頭の中で父が抗議する。


『最後にそれ言うのかよ!』


「父さんが、それ最後に言うのかって」


ユイは考える。


そして。


「うん」


『そうかよ……』


蒼汰は笑いながら、そのまま伝えた。


ユイも笑った。


そのあと。


少女は棺へ。


小さく頭を下げた。


「まもる」


「わたし」


一度、蒼汰を見る。


次に。


エルナ。


冬城。


サーラ。


そして。


自分の足元。


「もうちょっと」


「ここにいてみる」


蒼汰は、何も言わなかった。


その決定は。


自分たちのものではない。


ユイが。


自分で決めた。


頭の中で。


父が。


静かに答えた。


『それでいい』


蒼汰は、そのまま伝える。


「父さんも、それでいいって」


ユイが。


「うん」


と。


小さく返した。


その時だった。


冬城が何かを思い出したように、顔を上げた。


「蒼汰様」


「はい?」


「一つ、確認したいことがございます」


冬城は名簿ではなく、守の私物記録を開いた。


「守様が亡くなる十日前、奏多家近隣の店舗で購入された品があります」


「スリッパとか?」


「それとは別です」


表示された購入記録。


小さな机。


子ども用の椅子。


食器。


毛布。


そして。


もう一つ。


「……これ」


蒼汰が目を細める。


子ども用椅子。


二脚。


ユイは。


一人。


「なんで二つ?」


守も。


頭の中で。


黙った。


「親父?」


『……思い出せない』


エルナが眉を寄せる。


ユイも。


記録を見ていた。


その顔が。


少しずつ。


強張っていく。


「ユイ?」


少女は。


両手で。


自分の服を握った。


「もうひとり」


蒼汰の表情が変わる。


「何?」


ユイが。


震える声で。


言った。


「いっしょだった」


広間が。


静まり返る。


「誰が?」


ユイは。


思い出そうとする。


目を閉じる。


苦しそうに。


眉を寄せる。


「わかんない」


「無理しなくていい」


蒼汰はすぐに止めた。


「思い出せるところだけでいい」


ユイは。


しばらく。


息を整えた。


そして。


右手を。


少し低い位置へ伸ばす。


まるで。


誰かの手を。


握っていたように。


「わたしより」


「ちいさい」


蒼汰の胸が。


冷たくなる。


「一緒に帰ってきた?」


ユイは頷こうとして。


止まる。


そして。


首を横に振った。


「ちがう」


「じゃあ?」


ユイの目に。


涙が浮かんだ。


「わたしが」


「さきに」


一度。


声が詰まる。


「かえった」


蒼汰は。


何も言えなくなった。


守が。


頭の中で。


息を呑む。


記憶が。


また。


戻ってくる。


『……そうだ』


「親父?」


『いた』


守の声が。


震えた。


『ユイだけじゃない』


父は。


死ぬ十一日前。


最後の任務で。


一人を帰した。


そう。


記録していた。


だが。


それは。


一人しか。


いなかったという意味ではない。


『二人いた』


守が言う。


『姉妹だった』


蒼汰は。


ユイを見る。


「妹?」


ユイの目から。


涙が落ちた。


「……うん」


その瞬間。


白い板が。


強く光った。


新しい本人名。


文字が。


一つずつ。


浮かび始める。


――ユ。


蒼汰たちは。


黙って待つ。


次。


――ナ。


二文字。


――ユナ。


年齢。


――四。


ユイの妹。


四歳。


さらに。


帰還状態。


文字が。


現れる。


――未帰還。


蒼汰の胸が。


強く締まった。


第十四区画に。


まだ。


一人。


父が最後まで。


帰せなかった子がいる。


ユイは。


泣きながら。


蒼汰を見る。


「ユナ」


「まだ」


「ひとり?」


蒼汰は。


大丈夫とも。


必ず連れて帰るとも。


言わなかった。


ただ。


ユイの目を見て。


答えた。


「調べる」


そして。


少しだけ。


言葉を足した。


「ユナが今どうしてるか」


「ユナが帰りたいか」


「まず、それをちゃんと聞く」


ユイは。


涙を拭きながら。


頷いた。


「うん」


頭の中で。


父が。


とても小さく。


言った。


『蒼汰』


「何」


『頼む』


蒼汰は。


すぐに。


「嫌だ」


と答えた。


守が。


一瞬。


黙る。


『え?』


「お前の頼みだからやるんじゃない」


蒼汰は。


白い板。


ユナ。


その名前を見る。


「俺が調べるって決めたからやる」


長い。


沈黙。


そして。


父が。


笑った。


『……そうか』


「うん」


『それなら』


父の声が。


今までで一番。


穏やかだった。


『頼まなくていいな』


蒼汰は。


小さく笑った。


「最初からそうしろよ」


白い板には。


二つの名前が。


並んでいた。


ユイ。


帰還済み。


ユナ。


未帰還。


父が最後に用意していた。


二脚の。


小さな椅子。


一脚には。


今日。


ようやく。


ユイが座れる。


もう一脚は。


まだ。


空いたままだった。


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