第87話 父が最後に帰した少女は、誰にも覚えてもらえなかった
白い板には、三つの情報が残っていた。
本人名――ユイ。
年齢――六歳。
帰還状態――帰還済み。
そして、その下。
現在地――不明。
蒼汰は、その四文字をしばらく見つめていた。
「帰還済みなのに、行方不明って……どういうことですか」
冬城はすぐには答えなかった。手元の記録板を何度も操作し、帰還記録、保護記録、移送記録を順番に開いていく。
だが、どれにもユイの名前はなかった。
「おかしいですね」
「さっき親父は、冬城さんに預けたって言いましたよね」
「はい。しかし、その記憶が私にはありません」
頭の中で守が言う。
「俺は覚えてる」
「どこまで?」
「家から出たところまでだ」
守は記憶を探るように、ゆっくりと言葉を続けた。
六歳の少女を奏多家から帰還させた。その時、ユイは立つことも難しいほど衰弱していた。
守は毛布で包み、家の玄関から外へ出た。
そこには冬城がいた。
「真琴に渡した。間違いない」
蒼汰は冬城を見る。
「だそうです」
冬城の眉間に、深い皺が寄った。
「私は、守様の言葉を疑っているわけではありません。しかし、その日の記録上、私は奏多家を訪問していないことになっています」
「記録が消えた?」
エルナが首を振った。
「それだけなら、もう慣れた話ね」
「慣れたくないですけど」
「問題は、冬城本人の記憶までないことよ」
エルナは白い板へ近づき、ユイの名前の横へ計測器をかざした。
石は青く光り、次に灰色へ変わる。
その色を見た瞬間、エルナの顔が険しくなった。
「これ……」
「何かわかったんですか」
「ユイは帰還してる」
「それは書いてあります」
「そういう意味じゃないの」
エルナは自分のこめかみを指した。
「身体はこちら側に帰った。でも、人から認識されるための情報が、ほとんど帰ってきてない」
蒼汰は眉を寄せる。
「認識されるための情報?」
「名前を聞いた。顔を見た。一緒にいた。そういう記憶って、本来は相手の中にも残るでしょう?」
「はい」
「ユイは、それが残らない」
広間が静かになった。
エルナは続けた。
「会っても忘れる。記録しても消える。写真に写っても、あとから見れば『誰だったか』がわからなくなる。ひどければ、目の前から離れた瞬間に存在そのものを忘れる」
蒼汰の背中に冷たいものが走った。
「だから冬城さんも……」
「おそらく」
冬城が自分の手を見る。
そこに、六歳の少女を抱いた感触があったのかもしれない。
でも。
覚えていない。
「親父」
「……ああ」
父の声は重かった。
「俺も、そこまでは気づいてなかった」
「でも、お前は覚えてる」
「今はな」
守はそこで止まった。
蒼汰にもわかった。
今は。
父も、一度は忘れていた。
今日、第十四区画の情報が戻り始めて、ようやくユイを思い出した。
「じゃあ」
蒼汰は白い板を見る。
「ユイは、帰ってきたあと……誰にも覚えてもらえないまま?」
誰も答えられなかった。
六歳。
知らない世界。
父に助けられ。
やっと帰ってきた。
それなのに。
誰かが手を握ってくれても。
次の瞬間には忘れられる。
名前を伝えても。
消える。
助けを求めても。
相手が助けようとしたこと自体を忘れる。
「それ……」
蒼汰の声が少し掠れた。
「帰還って言えるんですか」
守が何も言わない。
しばらくして。
「あの時の俺は」
静かな声が返ってきた。
「言えなかった」
蒼汰は棺を見る。
だから。
父は。
死ぬかもしれない状態でも、もう一度動いた。
ただ境界から引っ張り出すだけでは、帰したことにならなかったから。
サーラが持ってきた最後の診療記録。
対象一名。
帰還猶予、推定二時間。
代替要員なし。
あれは、境界を越えるまでの猶予ではなかったのかもしれない。
ユイが。
ユイとして。
こちら側へ帰れるまでの時間。
「親父」
「なんだ」
「何した?」
守は答えなかった。
「ユイを帰したあと、お前、何したんだ」
長い沈黙。
やがて。
守が言う。
「名前を」
「うん」
「俺につないだ」
エルナが、はっと顔を上げた。
蒼汰には意味がわからない。
「どういうことです?」
エルナが守の代わりに説明した。
「帰還者がこちら側に定着するには、本人だけじゃ足りない場合があるの」
名前を呼ぶ人。
その人を知っている人。
帰ってきた、と認識する人。
家族。
知人。
記録。
いくつものものが重なって。
その人は、この世界にいる。
という事実が固定される。
でも。
ユイには。
それがなかった。
名前が消えかけていた。
帰る家も。
家族も。
本人自身さえ。
ほとんど忘れていた。
「だから守は」
エルナが棺を見る。
「自分を、ユイの帰還先にした」
蒼汰は息を止めた。
白い板に。
何度も出てきたもの。
本人名。
帰還先。
奏多家。
奏多守。
人の名前が。
帰る場所の名前になる。
「親父がユイを覚えてる限り」
蒼汰がゆっくり言う。
「ユイは、消えない?」
「おそらく」
エルナが答えた。
「でも守が死んだ」
「ええ」
その瞬間。
蒼汰の中で。
いくつかのものが繋がった。
父の身体は生きていた。
医療上、すぐ死ぬ状態ではなかった。
それなのに。
存在反応だけが。
少しずつ薄くなった。
「まさか」
蒼汰は棺を見る。
「親父が死んだのって」
「ユイをつないだから?」
守がすぐに答えた。
「決めつけるな」
強い声だった。
蒼汰が止まる。
「でも」
「可能性はある」
「じゃあ」
「可能性だ」
父はもう一度言った。
「俺自身も、何が起きたか全部わかってない」
サーラも頷いた。
「守さんの存在反応が薄くなった原因は、最後まで特定できませんでした」
エルナも言う。
「今ある情報だけで、ユイを原因にするのは駄目」
蒼汰は唇を噛んだ。
そうだった。
決めつけない。
わからないものを。
わかったことにしない。
それも。
今日。
父の話から。
何度も学んだ。
「……わかりました」
蒼汰は息を吐いた。
「じゃあ、そこは保留」
「それがいい」
守の声も少し柔らかくなる。
だが。
一つ。
問題は残っている。
ユイ。
帰還済み。
現在地不明。
蒼汰は、白い板を見る。
「今どこにいるんだ」
その時だった。
――こと。
小さな音がした。
全員が振り返る。
何もない。
「今の」
蒼汰が聞く。
冬城が。
広間の入口を見る。
「廊下からです」
――こと。
また。
小さな音。
今度は。
もう少し近い。
まるで。
軽いものが。
床に置かれたような音。
エルナが計測器を向けた。
石が。
灰色に光る。
「いる」
蒼汰の心臓が跳ねた。
「ユイ?」
「わからない。でも、同じ反応」
蒼汰は。
走らなかった。
ゆっくり。
廊下へ出る。
冬城とエルナも。
一緒に。
「一人で行かない」
頭の中で守が言う。
蒼汰は小さく答えた。
「わかってる」
廊下。
誰もいない。
でも。
床に。
一つ。
小さな紙コップが置かれていた。
半分ほど。
水が減っている。
「これ」
蒼汰がしゃがむ。
触らない。
見るだけ。
紙コップの側面。
黒いペン。
子どもの字。
――ユイ。
全員が。
息を止めた。
「いつから」
蒼汰が聞く。
冬城が答える。
「少なくとも、先ほどまではありませんでした」
その先。
廊下の角。
今度は。
小さな。
皿。
上に。
半分食べられた。
菓子。
弔問客用に。
用意されていたものだ。
蒼汰は。
振り返る。
広間の端。
確かに。
菓子は置いてある。
誰かが。
一つ取った。
でも。
誰も。
覚えていない。
「……ここにいる」
蒼汰が呟く。
帰還して。
どこかへ。
消えたのではない。
ずっと。
近くにいる。
ただ。
誰にも。
覚えてもらえない。
蒼汰たちは。
さらに。
廊下を進む。
小さな痕跡が。
一つずつ。
残っていた。
椅子。
少しだけ。
引かれている。
毛布。
端が。
床に落ちている。
子ども用の。
スリッパ。
片方だけ。
「これ」
蒼汰は。
見覚えがなかった。
でも。
冬城が。
スリッパの裏を見る。
そこには。
新しい。
購入シール。
購入日。
十日前。
守が。
最後の任務から。
帰った翌日。
蒼汰の呼吸が止まった。
「誰が買ったんです」
冬城が。
記録を確認する。
レシート。
購入者。
――奏多守。
「親父」
守の声が。
震えた。
「……俺だ」
一気に。
記憶が戻る。
病院へ戻る前。
守は。
ユイのため。
小さなスリッパを買った。
歯ブラシ。
着替え。
子ども用のコップ。
髪を結ぶ。
小さなゴム。
「家に」
蒼汰が聞く。
「連れて帰ったの?」
「ああ」
「母さんは?」
守が。
少し。
黙った。
「……巴は」
そこで。
声が止まった。
また。
記憶が欠ける。
蒼汰は。
追及しなかった。
今は。
ユイ。
「どこにいる」
その瞬間。
蒼汰の。
すぐ後ろ。
本当に。
すぐ。
一メートルもない場所から。
声がした。
「ここ」
幼い。
女の子の声。
蒼汰は。
振り返った。
誰もいない。
冬城も。
エルナも。
同じ場所を見る。
「今」
エルナが言う。
「聞こえた」
「私もです」
冬城も。
聞いた。
でも。
見えない。
「ユイ?」
蒼汰は呼んだ。
守が。
頭の中で。
鋭く言う。
「待て」
蒼汰は。
はっとする。
こちらから。
勝手に。
名前を固定してはいけない。
今聞こえたのが。
本当に。
ユイか。
まだ。
本人へ聞いていない。
蒼汰は。
言い直した。
「ごめん」
誰もいない空間へ。
「君の名前」
「自分で言える?」
沈黙。
一秒。
二秒。
やがて。
小さな声。
「……ユイ」
エルナの計測器が。
強く。
青く光った。
蒼汰は。
ほんの少し。
笑った。
「そっか」
それだけ。
言う。
「ユイ」
今度は。
呼んだ。
計測器。
さらに。
強く光る。
廊下の空気が。
少し歪む。
そこに。
輪郭。
小さな。
人影。
六歳くらい。
裸足。
白い服。
肩までの。
黒い髪。
一瞬。
見えた。
だが。
次の瞬間。
消える。
蒼汰の頭からも。
何かが。
抜け落ちかけた。
何を。
見た?
誰を。
呼んだ?
「……」
蒼汰の口が止まる。
その時。
頭の中で。
父が叫んだ。
「ユイ!」
蒼汰の意識が。
戻る。
「……ユイ!」
名前を。
言う。
目の前。
もう一度。
少女の輪郭が。
戻った。
エルナも。
すぐに。
「ユイ」
冬城も。
「ユイさん」
サーラも。
広間から出てきて。
「ユイ」
一人。
また一人。
名前を。
呼ぶ。
少女が。
少しずつ。
見えるようになる。
黒い髪。
細い腕。
大きな瞳。
両手。
胸の前で。
強く握っている。
そして。
その手には。
一枚の。
紙。
蒼汰は。
すぐには。
近づかなかった。
「ユイ」
「うん」
「俺」
自分を指す。
「蒼汰」
少女の瞳が。
少しだけ。
大きくなる。
「……そうた」
「知ってる?」
ユイが。
小さく。
頷いた。
「まもるが」
父の名前。
「おしえてくれた」
また。
同じだ。
境界の中。
父は。
この子にも。
息子の話をしていた。
「親父」
守が。
小さく。
「……ああ」
と。
答える。
ユイが。
蒼汰へ。
紙を差し出す。
でも。
途中で。
手を止めた。
怖そうに。
周りを見る。
「また」
小さな声。
「わすれる?」
蒼汰の胸が。
強く締まった。
誰かに。
見つけてもらう。
名前を聞いてもらう。
助けてもらう。
でも。
少ししたら。
全部。
忘れられる。
六歳の子が。
それを。
何度。
繰り返したのか。
蒼汰は。
すぐに。
大丈夫。
とは言わなかった。
約束できない。
今は。
まだ。
方法がわからない。
だから。
「わからない」
正直に言った。
ユイの顔が。
少し。
曇る。
「でも」
蒼汰は続ける。
「忘れない方法を」
「みんなで探す」
後ろ。
エルナ。
冬城。
サーラ。
「俺一人じゃなくて」
「この人たちと」
「それから」
少しだけ。
棺のある広間を見る。
「親父がまだ喋れるうちに」
守が。
頭の中で。
「まだって言うな」
蒼汰は。
少し笑った。
ユイも。
ほんの少しだけ。
笑った。
「だから」
蒼汰は言う。
「今すぐ」
「俺の家族になるとか」
「うちに住むとか」
「そういうことも」
「勝手に決めない」
ユイが。
じっと。
蒼汰を見る。
「ユイが」
「どうしたいか」
「それを」
「一緒に考えよう」
長い。
沈黙。
それから。
ユイが。
小さく頷いた。
「うん」
その瞬間。
少女の輪郭が。
少しだけ。
濃くなった。
エルナが。
息を呑む。
「選択」
「え?」
蒼汰が見る。
「本人が自分で答えるたび」
「定着が強くなってる」
名前。
ユイ。
自分で言った。
どうする。
一緒に考える。
自分で。
頷いた。
誰かから。
押しつけられた情報ではない。
本人自身の。
選択。
それが。
この世界へ。
ユイを。
つなぎ止める。
守が。
頭の中で。
ゆっくり言った。
「そういうことか」
蒼汰が聞く。
「何」
「俺」
「間違えた」
父は。
思い出した。
ユイを。
消さないため。
自分へ。
つないだ。
奏多守が。
この子を覚える。
奏多守が。
この子の帰る場所になる。
でも。
それでは。
足りなかった。
「俺が」
守が言う。
「この子の存在を」
「決めてた」
蒼汰は。
何も言わない。
父が続ける。
「ユイが」
「自分で」
「ここにいるって」
「決める必要があった」
エルナも。
同じ結論に。
たどり着いたらしい。
「他人から与えられた名前じゃなく」
「本人が選んだ名前」
「他人が決めた帰還先じゃなく」
「本人が決めた場所」
だから。
今まで。
守一人で。
支えても。
不安定だった。
蒼汰は。
ユイを見る。
「じゃあ」
「一個ずつ」
「聞いていい?」
ユイが。
少し考えて。
頷く。
「うん」
「今」
「お腹空いてる?」
少し。
意外だったのだろう。
ユイが。
目を丸くする。
それから。
「……すいた」
「何食べたい?」
ユイが。
考える。
長い。
長い。
六歳の子にとって。
大事な。
選択。
やがて。
小さく。
「たまご」
蒼汰が。
笑った。
「卵?」
「うん」
その瞬間。
少女の足元が。
はっきり見えた。
裸足。
両足。
ちゃんと。
床に。
触れている。
サーラが。
静かに。
「台所に確認します」
と言う。
冬城が。
首を振る。
「私が」
エルナも。
「卵なら」
と言いかける。
蒼汰は。
三人を見る。
「普通に作りましょう」
「普通に?」
「はい」
「この子」
ユイを見る。
「患者でも」
「研究対象でも」
「記録でもなく」
一度。
言葉を切る。
「まず」
「お腹空いた六歳の子なので」
サーラが。
少し笑った。
「その通りですね」
エルナも。
肩の力を抜く。
冬城が。
深く頷く。
その時。
ユイが。
持っていた紙を。
もう一度。
蒼汰へ差し出した。
「これ」
「俺に?」
「うん」
今度は。
受け取った。
紙は。
小さく。
何度も折られている。
表。
父の字。
蒼汰は。
一目でわかった。
――ユイが、自分で名前を言えたら渡すこと。
頭の中で。
守が。
完全に。
黙った。
蒼汰が。
ゆっくり。
紙を開く。
中には。
短い文章。
――蒼汰へ。
――この子を頼む、とは書かない。
蒼汰の目が。
止まる。
次。
――それを決めるのは、お前でも俺でもない。
――ユイ本人だ。
そして。
最後。
――ただし。
――腹が減っていたら、先に何か食わせてやってくれ。
蒼汰は。
しばらく。
紙を見た。
そして。
笑った。
「親父」
返事。
なし。
「親父?」
少し。
間があって。
小さな声。
「……なんだ」
「お前」
「最後まで」
「飯だな」
守が。
少し。
笑った。
「腹減ってると」
「大事なこと」
「決めにくいだろ」
蒼汰は。
ユイを見る。
「卵」
「どうやって食べたい?」
ユイは。
また。
ちゃんと考えた。
そして。
今度は。
少しだけ。
大きな声で答えた。
「オムライス」
その瞬間。
ユイの姿が。
完全に。
見えた。
誰も。
目を離していない。
誰も。
忘れていない。
六歳の少女が。
そこに立っていた。
蒼汰は。
静かに。
名前を呼ぶ。
「ユイ」
「うん」
返事が。
ちゃんと。
こちら側に残った。




