第86話 父は百十二回、安静命令を破った
長卓へ。
診療記録が。
どさり。
と積まれた。
一冊。
二冊。
ではない。
十冊。
二十冊。
いや。
もっと。
蒼汰は。
山になった記録と。
父の棺を。
交互に見る。
「……これ」
サーラが答える。
「奏多守、一名分です」
「一名分!?」
頭の中で。
守が言った。
「大袈裟だ」
サーラは。
棺へ。
にっこりと。
笑いかけた。
「百十二回です」
「だから数えるなよ!」
「聞こえてないのに会話成立してる……」
蒼汰は。
少し怖くなった。
北央境界医療院。
元主任看護師。
サーラ・メイン。
境界任務で。
負傷した人間。
異界から帰還した人間。
普通の病院では。
診られない症状を持つ患者。
そういう人たちを。
四十年以上。
診てきた。
そして。
父は。
どうやら。
相当な。
常連だったらしい。
サーラは。
一冊目を開いた。
「安静命令違反、一回目」
蒼汰が。
思わず聞く。
「一回目からやるんですか?」
「全部やると言いました」
「今日中に終わります?」
「必要なら朝まで」
「葬儀終わらない!」
頭の中で。
守が。
珍しく蒼汰へ。
「もっと言え」
と。
応援している。
サーラは。
仕方なさそうに。
一冊閉じた。
「では」
「代表例だけにしましょう」
守が。
ほっとする。
蒼汰にも。
わかった。
「親父」
「安心すんな」
「してない」
「声がしてる」
サーラは。
一枚の記録を。
取り出した。
「まず」
「肋骨三本骨折」
「左肩脱臼」
「境界熱」
「四十二度」
蒼汰の顔が。
引きつる。
「それで?」
「十二時間の絶対安静」
「当然ですね」
「奏多守は」
サーラが。
淡々と読む。
「十九分後に病室から消えました」
蒼汰は。
棺を見る。
「親父」
「事情が」
「十九分だぞ?」
「急患が来たんだ」
「お前も急患だろ!」
サーラが。
次。
「右大腿部裂傷」
「縫合二十四針」
「失血中等度」
「翌朝まで歩行禁止」
「これは?」
「三十五分」
「記録更新してる場合じゃねえ!」
「便所に」
守が言う。
「行こうとしただけだ」
蒼汰が。
少し止まる。
「それなら仕方ない?」
サーラが。
即座に。
「尿器を置いていました」
「駄目だ親父!」
「嫌だったんだよ!」
「患者の好き嫌いで治療決めるな!」
エルナが。
横で。
腹を抱え始めた。
「守」
「昔から変わらないわね」
頭の中で。
守が。
「お前に言われたくない」
と。
返す。
サーラは。
三枚目。
「境界性平衡障害」
「立位禁止」
「視界反転あり」
「これは」
蒼汰が。
嫌な予感を覚える。
「何分?」
「七分」
「最速!」
「立てるか確認しただけだ」
「立つなって言われてるだろ!」
「倒れました」
サーラが言った。
「でしょうね!」
「その後」
「患者本人が」
「床は危ないな」
「と発言」
蒼汰は。
額を押さえた。
「親父」
「床のせいにしたの?」
「滑った」
「平衡障害だよ!」
冬城が。
静かに。
顔を横へ向けた。
肩が。
ほんの少し。
揺れている。
絶対。
笑っている。
「冬城さん」
「はい」
「これ知ってたんですか」
「一部は」
「止めなかったんです?」
「止めました」
即答。
「止まらなかった?」
「はい」
蒼汰は。
父の棺を見る。
「本当に」
「周りの人」
「大変だったんだな」
守が。
少し。
気まずそうになる。
サーラは。
さらに。
記録をめくる。
だが。
途中から。
蒼汰は。
少し。
笑えなくなってきた。
同じことが。
何度も。
書いてある。
負傷。
治療。
安静。
離床。
再負傷。
帰還者がいる。
行く。
未帰還者の情報が来る。
行く。
誰かが。
自分より。
重症。
ベッドを譲る。
食事。
半分残す。
薬。
後回し。
「……親父」
守は。
返事をしない。
サーラが。
一冊。
閉じた。
「守さんは」
初めて。
棺ではなく。
蒼汰を見た。
「自分が丈夫だと」
「勘違いしていました」
守が。
頭の中で。
小さく。
「丈夫ではあった」
蒼汰が言う。
「今でも言ってます」
サーラの目が。
細くなる。
「そうですか」
「今のは伝えない方がよかった?」
「遅い」
守が。
ぼそっと言った。
サーラは。
長卓へ。
一枚だけ。
別の紙を置いた。
「これは」
「百十二回目」
蒼汰が。
少し身構える。
「最後?」
「はい」
日付は。
父が死ぬ。
十一日前。
蒼汰の表情が。
変わる。
「……最近だ」
守も。
黙った。
診断。
境界疲労。
微細な位相崩壊。
心肺機能低下。
神経伝達遅延。
蒼汰には。
専門用語の。
全部は。
わからない。
でも。
一番下。
赤字。
それだけは。
読めた。
――任務停止。
――最低七日間の完全休養。
「親父」
「……ああ」
「死ぬ十一日前」
「休めって言われてたの?」
「言われた」
「休んだ?」
返事が。
ない。
「親父」
「……二日」
蒼汰は。
目を閉じた。
「七日のうち?」
「二日」
「何で!」
守が。
言い訳しない。
それが。
逆に。
重かった。
サーラが。
静かに言う。
「三日目」
「守さんは」
「病院へ来ませんでした」
蒼汰が。
目を開ける。
「逃げた?」
「いいえ」
サーラは。
首を振った。
「電話がありました」
「本人から」
何と言ったのか。
サーラは。
覚えている。
今日。
一人だけ。
帰してくる。
終わったら。
戻る。
「戻ったんですか」
蒼汰が聞く。
「はい」
意外だった。
守は。
本当に。
戻ってきた。
夜。
ひどく。
疲れた顔で。
自分から。
病室へ。
戻った。
「親父が?」
蒼汰が。
思わず聞き返す。
守が。
少し不満そうに言う。
「俺だって戻る」
「これまでの百十一回が」
「説得力を消してるんだよ」
サーラが。
ほんの少し。
笑った。
「私も」
「驚きました」
そして。
守は。
ベッドへ横になった。
点滴も。
受けた。
薬も。
飲んだ。
食事も。
完食した。
「完食?」
蒼汰が驚く。
サーラが頷く。
「珍しかったので」
「記録しました」
「そこまで?」
守が。
頭の中で。
「腹減ってた」
と。
言った。
でも。
サーラは。
その夜の。
別の言葉も。
覚えていた。
「守さんが」
「私に」
「こう聞いたんです」
サーラ。
もし。
俺が。
あと一回。
無理をしたら。
どうなる。
蒼汰の胸が。
冷たくなる。
「サーラさんは」
「何て?」
「死ぬかもしれません」
はっきり。
そう答えた。
境界任務で。
一度。
大きく力を使えば。
今の状態では。
戻れない可能性がある。
「親父」
蒼汰の声が。
少し低くなる。
「知ってた?」
守は。
黙る。
「知ってたのかよ」
「ああ」
短い。
返事。
蒼汰は。
拳を握った。
父は。
死ぬ可能性を。
知っていた。
その上で。
何かへ。
行った。
父の死。
その直前。
今まで。
あまり。
詳しく。
聞いていなかった部分。
「じゃあ」
「親父が死んだのは」
言いかけて。
サーラが。
止めた。
「違います」
蒼汰が見る。
サーラの声は。
強かった。
「ここを」
「間違えないでください」
「守さんは」
「安静命令を破ったから」
「死んだのではありません」
蒼汰が。
少し。
眉を寄せる。
「でも」
「死ぬかもしれない状態で」
「任務に?」
「はい」
「じゃあ」
サーラは。
首を振る。
「それでも」
「単純に」
「自業自得という話ではありません」
蒼汰は。
黙る。
「私は」
サーラが言う。
「医療者です」
「患者に休んでほしい」
「当然です」
「守さんには」
「何百回でも」
「休めと言いました」
「ですが」
一度。
棺を見る。
「最後の一回だけは」
「私も」
「行くなとは言えませんでした」
守が。
頭の中で。
「……サーラ」
と。
小さく呼んだ。
蒼汰が。
ゆっくり聞く。
「何があったんです」
サーラは。
答える前に。
記録の。
裏面を。
蒼汰へ向けた。
そこには。
守の字。
短い。
文章。
――対象一名。
――帰還猶予、推定二時間。
――代替要員なし。
蒼汰の目が。
止まる。
「一人?」
「はい」
「誰?」
サーラが。
首を振る。
「名前は」
「私には」
「知らされませんでした」
頭の中で。
守も。
すぐには。
答えない。
「親父」
「思い出せる?」
長い。
沈黙。
「……名前は」
守が言う。
「わからない」
また。
境界に。
持っていかれた記憶か。
だが。
今度は。
続いた。
「でも」
「顔は」
「覚えてる」
「どんな人」
守の声が。
かすかに。
変わる。
「子ども」
蒼汰の胸が。
締まる。
「何歳くらい?」
「六つ」
「女の子」
「名前は?」
「わからん」
「帰した?」
守は。
答えない。
蒼汰が。
棺を見る。
「親父」
やがて。
父は言った。
「帰した」
「じゃあ」
「親父はその時に」
「無理をして」
「死んだ?」
「違う」
今度は。
守が。
即答した。
「俺は」
「帰った」
蒼汰が。
止まる。
「え?」
「任務から」
「戻った」
「自分で?」
「ああ」
サーラも。
頷いた。
「守さんは」
「その日の夜」
「もう一度」
「病院へ戻っています」
「生きて?」
「はい」
蒼汰は。
混乱する。
父が死んだのは。
その後。
なら。
六歳の少女の救助が。
直接。
死因ではない。
「じゃあ」
「何があった」
守が。
黙る。
記憶が。
ない。
サーラが。
代わりに。
次の記録を。
出す。
最後の。
診療記録。
帰還後。
守。
意識あり。
会話可能。
全身状態。
悪化。
だが。
生命維持。
可能。
サーラは。
守へ。
言った。
もう。
絶対に。
どこにも行くな。
今度こそ。
本当に。
死ぬ。
そして。
守は。
初めて。
答えた。
「わかった」
蒼汰が。
息を止める。
「親父が?」
「はい」
サーラは。
少しだけ。
笑った。
「百十二回目で」
「ようやく」
「安静命令を」
「守りました」
守が。
頭の中で。
小さく言う。
「遅かったな」
蒼汰は。
何も言えなかった。
父は。
そのあと。
病室を。
抜け出していない。
任務にも。
行っていない。
薬も。
飲んだ。
眠った。
翌朝。
退院も。
していない。
それなのに。
数日後。
父は。
死んだ。
「……どうして」
蒼汰が聞く。
サーラの表情が。
曇る。
「わかりません」
「医療上は?」
「説明できませんでした」
急変。
ではない。
心停止。
でもない。
臓器不全でもない。
ある朝。
守の身体から。
何かが。
少しずつ。
抜け始めた。
体温。
脈拍。
呼吸。
それは。
残っている。
なのに。
「存在反応だけが」
サーラは言った。
「薄くなっていった」
エルナの表情が。
一変する。
「位相消失?」
「似ています」
「でも」
「完全には違いました」
守の身体は。
そこにある。
生きている。
でも。
世界の側が。
奏多守を。
認識しなくなっていく。
サーラが。
名前を呼ぶ。
守さん。
返事は。
ある。
しかし。
計器は。
反応を。
拾わなくなる。
そして。
最後。
守が。
サーラへ。
言った。
「家に帰る」
蒼汰の指が。
僅かに。
動いた。
「……家?」
「はい」
「退院させたんですか」
サーラは。
一瞬。
苦しそうな顔をした。
「私が」
「許可しました」
医療者として。
正しいか。
今でも。
わからない。
でも。
守は。
もう。
病院で治せる状態ではなかった。
だから。
「最後くらい」
サーラは言った。
「帰りたい場所へ」
「帰しなさい」
そう。
自分で。
決めた。
蒼汰の胸が。
強く締まった。
父は。
家へ。
帰った。
そこで。
死んだ。
でも。
「親父」
「覚えてる?」
「ああ」
今度の返事は。
はっきりしていた。
「最後に」
「家に帰った」
「母さんは?」
「いた」
「俺は?」
長い。
一瞬。
父が。
笑う。
「いた」
蒼汰の喉が。
詰まった。
思い出せる。
父が。
少し。
具合が悪そうだった日。
でも。
いつものように。
帰ってきた。
ただいま。
そう言った。
母が。
おかえり。
と。
返した。
蒼汰も。
多分。
ゲームをしながら。
適当に。
おかえり。
と。
言った。
あの日。
だったのか。
「……言えよ」
蒼汰が。
小さく。
呟く。
守が。
静かに答える。
「言ったぞ」
「ただいまって」
「そうじゃねえよ」
「死ぬかもしれないって」
「そんなの」
言葉が。
少し。
震える。
「言えよ」
守は。
長く。
黙った。
そして。
「悪かった」
それだけ。
言った。
蒼汰は。
目を伏せる。
怒りたい。
でも。
もう。
棺の中。
今さら。
全部。
遅い。
サーラが。
蒼汰へ。
一冊の。
薄い記録帳を。
差し出した。
「これは」
「何です?」
「百十三冊目になるはずだった」
蒼汰が。
見る。
表紙。
名前。
奏多守。
中。
何も。
書いていない。
真っ白。
「百十三回目」
サーラが言う。
「安静命令違反の記録」
「作らなかったんです」
蒼汰が。
顔を上げる。
「どうして」
「守さん」
「最後は」
「ちゃんと」
「休みましたから」
守が。
何も言わなくなる。
サーラは。
その真っ白な記録帳を。
棺の脇へ。
置いた。
「だから」
棺を見る。
「これは」
「あなたの」
「違反記録じゃありません」
少し。
笑う。
「初めて」
「命令を守った記録です」
頭の中で。
守が。
かすかに。
笑った。
「それ」
「褒められてるのか?」
蒼汰は。
鼻をすすり。
少しだけ。
笑った。
「百十二回破った奴には」
「十分だろ」
サーラが。
棺へ。
手を置く。
「守さん」
「あなたは」
「人を休ませるのは」
「上手でした」
「でも」
「自分が休むのは」
「最後まで」
「下手でしたね」
守が。
小さく。
「ああ」
と。
答えた。
蒼汰は。
その言葉を。
サーラへ。
伝えた。
「父も」
「そうだって」
サーラは。
目を閉じる。
「そうですか」
そして。
一つ。
息を吐いた。
「なら」
「もう」
「休んでください」
頭の中で。
父は。
返事をしなかった。
蒼汰が。
少し。
不安になる。
「親父?」
一秒。
二秒。
そして。
「……ああ」
聞こえた。
でも。
また。
遠い。
明らかに。
前より。
小さい。
蒼汰は。
何も言わなかった。
父が。
いなくなる。
それは。
もう。
わかっている。
だからこそ。
今。
聞ける話を。
聞く。
サーラが。
記録の山を。
まとめ始める。
蒼汰は。
ふと。
一番上の。
最後の診療記録を見る。
死ぬ前。
六歳の少女。
名前不明。
一人。
救出。
その欄。
今まで。
空白だった。
帰還先。
そこへ。
薄い文字が。
浮かんでいる。
蒼汰の目が。
止まった。
「冬城さん」
「はい」
「これ」
全員が。
記録を見る。
帰還先。
――奏多家。
広間が。
静まった。
守も。
頭の中で。
息を呑む。
蒼汰が。
低く聞く。
「親父」
「六歳の子」
「家に連れて帰った?」
「……いや」
守が答える。
「帰還口として」
「使っただけだ」
「その子は」
「その後?」
守が。
記憶を探す。
「冬城に」
「預けた」
冬城の表情が。
変わった。
「私に?」
守が。
「ああ」
と。
答える。
だが。
冬城は。
覚えていない。
「そのような記録は」
「ありません」
エルナが。
診療記録を覗き込む。
「また」
「消されてる」
蒼汰の背中へ。
冷たいものが走った。
父の。
最後の救助。
六歳の少女。
奏多家から。
帰還。
そして。
その記録だけ。
消えている。
その時。
透明な箱。
第十四区画と繋がる。
封筒。
それが。
一度だけ。
強く光った。
白い板に。
新しい。
本人名。
ゆっくり。
浮かぶ。
――ユイ。
蒼汰が。
息を止める。
次。
年齢。
――六。
守が。
頭の中で。
「……その子だ」
と。
呟いた。
さらに。
帰還状態。
一文字ずつ。
――帰還済み。
蒼汰が。
少し。
息を吐きかける。
しかし。
その下。
もう一行。
――現在地。
文字が。
止まる。
そして。
――不明。
蒼汰の顔から。
表情が消えた。
父が。
死ぬ直前に。
命を削って帰した。
六歳の少女。
ユイ。
帰還したはずなのに。
こちら側でも。
第十四区画でも。
今。
どこにも。
いなかった。




