第85話 父は、約束を忘れても破らなかった
――ミア・フェルン。
白い板に浮かんだ名前を。
蒼汰は。
しばらく見つめていた。
最初に名乗った少女。
十二歳。
左の靴紐が。
いつもほどけていた。
その子が。
二十一年前に帰還した。
アイラ・フェルンの娘。
「親父」
「……ああ」
「ミアのお母さんを」
「帰したんだな」
守は。
すぐには答えなかった。
記憶を。
一つずつ。
拾い集めている。
「そうだ」
やがて。
低い声。
「アイラは」
「帰らなきゃならなかった」
蒼汰が眉を寄せる。
「ならなかった?」
「本人が帰りたかったんじゃなくて?」
「帰りたかった」
守は答える。
「でも」
「それだけじゃない」
白い板の。
アイラ・フェルン。
約束。
その文字が。
淡く光る。
守の記憶が。
少しずつ戻ってきた。
第十四区画。
六回目。
守がそこへ入った時。
アイラは。
ひどく弱っていた。
境界に。
長く居すぎたせいだった。
名前。
年齢。
出身地。
その多くは。
まだ残っていた。
だが。
身体が。
限界だった。
一方。
娘のミアは。
比較的。
安定していた。
「二人一緒に」
蒼汰が聞く。
「帰せなかった?」
「ああ」
帰還路。
一度に。
通せるのは。
一人。
しかも。
その時。
道は。
崩れかけていた。
一人を通せば。
閉じる。
次に。
いつ開くか。
わからない。
守は。
母娘へ。
説明した。
アイラは。
迷わなかった。
娘を先に。
そう言った。
だが。
ミアが。
拒んだ。
「なんで」
蒼汰が聞く。
守の声が。
少し。
柔らかくなる。
「母親が」
「次までもたないって」
「わかってた」
十二歳。
でも。
わかっていた。
自分が先に帰れば。
母親は。
次の道が開く前に。
いなくなるかもしれない。
だから。
ミアは言った。
お母さんを。
先に帰して。
アイラは。
怒った。
駄目。
子どもが先。
母親は後。
守も。
最初。
アイラの方に。
賛成した。
「親父」
蒼汰が。
少し呆れる。
「また勝手に」
「途中で気づいた」
「何に」
「ミアが」
守は言った。
「ちゃんと考えて」
「言ってるって」
子どもだから。
判断できない。
そう決めつけた。
でも。
違った。
ミアは。
怖かった。
帰りたかった。
母親と。
離れたくなかった。
全部。
わかった上で。
それでも。
母を先に。
選んだ。
守は。
もう一度。
聞いた。
本当にいいのか。
ミアは。
泣きながら。
頷いた。
「それで」
蒼汰は言った。
「アイラさんが帰った」
「ああ」
帰還する直前。
アイラは。
娘の手を。
離せなかった。
守が。
二人の間に。
立った。
無理に。
引き剥がしたわけではない。
ただ。
待った。
アイラ自身が。
手を離すまで。
そして。
最後に。
アイラは。
守へ。
頼んだ。
「何を」
蒼汰が聞く。
守は。
ゆっくり。
思い出す。
「ミアを」
「絶対に」
一度。
止まった。
「……違う」
「何が?」
「絶対に帰してくれ」
「じゃなかった」
蒼汰が。
黙って待つ。
守が。
言い直す。
「ミアが」
「帰りたいって言った時」
「帰れるようにしてくれ」
蒼汰の表情が。
少し変わった。
絶対。
連れて帰って。
ではない。
娘が。
自分で。
帰ると決めた時。
その道を。
残してほしい。
「それが」
「約束?」
「ああ」
そして。
アイラは。
もう一つ。
頼んだ。
もし。
ミアが。
帰らないと決めても。
怒らないでほしい。
無理に。
連れてこないでほしい。
「……すごいな」
蒼汰が呟く。
「何が」
「アイラさん」
母親なのに。
娘へ会いたいはずなのに。
それでも。
娘の選択を。
先にした。
守が。
小さく言う。
「あいつに」
「教わった」
「何を」
「待ってる側にも」
「我慢がいるって」
蒼汰は。
エマの話を。
思い出す。
帰らなかったルカ。
待つことを。
終えた母親。
そして。
今度は。
帰した母。
残った娘。
同じ。
帰還でも。
全然違う。
「親父は」
「そのあと」
「ミアに会った?」
「ああ」
七回目。
最後の進入。
その時。
ミアは。
まだ。
第十四区画にいた。
「帰りたいって?」
守が。
答えない。
「親父?」
「言わなかった」
「帰りたくない?」
「それも」
「言わなかった」
ミアは。
決められなかった。
母に会いたい。
でも。
第十四区画には。
もっと小さい子もいた。
名前を。
失いかけている人も。
いた。
そして。
ミアは。
その人たちを。
放って。
自分だけ。
帰ることが。
できなかった。
蒼汰は。
少し。
父に似ていると思った。
だが。
すぐに。
違うとも思った。
ミアは。
自分が。
全部やる。
とは言わなかった。
ただ。
今は。
まだ帰れない。
そう言った。
守は。
それを。
認めた。
「その時」
守が言う。
「俺」
「アイラの名前を」
「向こうに残した」
蒼汰が。
白い板を見る。
「どうやって」
「ミアが」
「忘れないように」
境界では。
人の名前が。
消える。
自分の名前も。
家族の名前も。
だから。
守は。
第十四区画の。
壁。
記録板。
いくつもの場所へ。
アイラ・フェルン。
と。
残した。
文字で。
音で。
記録で。
「それが」
蒼汰は呟く。
「約束として残ってた」
「ああ」
守自身の記憶から。
消えても。
向こうには。
残っていた。
アイラ。
母親。
帰る場所。
そして。
娘が。
いつか。
選ぶための。
目印。
蒼汰は。
少しだけ。
息を吐いた。
「親父」
「何だ」
「忘れてたのに」
「約束」
「破ってなかったんだな」
守が。
長く。
黙った。
それから。
「……そうだな」
どこか。
救われたような。
声だった。
今日。
父は。
何度も。
自分の失敗を。
思い出してきた。
間違えた。
止められた。
忘れた。
帰し損ねた。
でも。
全部が。
失敗だったわけではない。
記憶を。
奪われても。
約束そのものは。
形を変えて。
残っていた。
白い板。
その時。
新しい文字。
――まもる。
全員が。
見る。
次。
――やくそく。
守が。
息を止める。
――わすれた。
蒼汰が。
少し顔をしかめる。
容赦がない。
しかし。
続き。
――でも。
――なまえ。
――のこした。
そして。
最後。
――だから。
一度。
止まる。
――まってた。
蒼汰は。
その文字を。
静かに読んだ。
責めていない。
そう。
感じた。
守も。
何も言わない。
蒼汰が。
聞く。
「ミア?」
白い板。
反応はない。
こちらからの。
問いかけは。
届かない。
だから。
決めつけない。
でも。
次に。
一文字。
浮かんだ。
――うん。
蒼汰が。
目を見開く。
エルナが。
装置を見る。
「こちらから送ってない」
「じゃあ」
冬城が言う。
「向こうが」
「蒼汰様の声を」
「聞いている可能性があります」
守が。
すぐに言う。
「返事するな」
蒼汰も。
今度は。
すぐ頷く。
「わかってる」
偶然かもしれない。
こちらを。
聞いているのかもしれない。
まだ。
わからない。
だから。
接続を。
強めない。
白い板も。
それ以上。
動かなかった。
しばらくして。
冬城が。
静かに名簿を閉じた。
「蒼汰様」
「はい」
「アイラ様の順番は」
「まだ先です」
「わかってます」
蒼汰は。
白い板を見る。
聞きたい。
今すぐ。
本人へ。
母親へ。
二十一年間。
何を思って。
待っていたのか。
父へ。
何を言いに来たのか。
でも。
だからこそ。
順番を。
飛ばさない。
「次の人を」
「お願いします」
冬城が。
頷く。
次の頁。
名前。
「北央境界医療院」
「元主任看護師」
「サーラ・メイン様」
蒼汰が。
少しだけ。
ほっとした。
「看護師さん」
「はい」
「今回は」
「親父が何か壊したとか」
「軍を止めたとか」
「港を閉めたとか」
「ないですよね?」
冬城が。
一拍。
黙る。
蒼汰の顔が。
嫌そうになる。
「その間」
「やめてもらえません?」
冬城が答える。
「物は」
「壊しておりません」
「物は?」
頭の中で。
守が。
「あ」
と言った。
蒼汰は。
即座に。
「何した」
「……覚えてる」
「何を!」
応接室の扉が。
静かに開いた。
入ってきたのは。
背の高い。
六十代ほどの女性。
灰色の髪。
白い手袋。
そして。
両腕いっぱい。
何十冊もの。
古い診療記録。
女性は。
守の棺を見る。
長く。
深く。
ため息をついた。
「奏多守」
「ようやく」
「患者として」
「逃げられない状態になりましたね」
蒼汰が。
ゆっくり。
棺を見る。
頭の中で。
父が言った。
「帰ってもらえ」
「また!?」
女性――サーラは。
まるで聞こえたかのように。
にっこり笑った。
「今日は」
「あなたが百十二回破った」
「安静命令について」
「全部」
「息子さんへお話しします」
蒼汰は。
目を見開いた。
「百十二回!?」
守が。
頭の中で。
珍しく。
本気で焦った。
「数えるなよ!」
サーラは。
診療記録を。
長卓へ。
どさり。
と置いた。
「数えました」
広間に。
重い音が。
響いた。




