第83話 名前が消える前に、本人へ聞く
――なまえが。
――きえはじめた。
その文字を。
蒼汰は。
何度も読んだ。
意味が。
すぐには。
飲み込めなかった。
いや。
意味はわかる。
だからこそ。
嫌だった。
「名前が」
蒼汰が呟く。
「消えるって」
冬城は。
透明な箱から。
目を離さない。
エルナも。
さっきまでの。
軽い表情を。
完全に消している。
頭の中で。
守が言った。
「蒼汰」
「急ぐぞ」
さっきまで。
父は。
ずっと。
急ぐな。
と言っていた。
一人で行くな。
帰すなら。
ちゃんと帰せ。
本人に。
選ばせろ。
それなのに。
今。
初めて。
父から。
急ぐ。
という言葉が出た。
蒼汰は。
棺を見る。
「親父」
「時間がないって」
「どういう意味」
守が。
少し考える。
「第十四区画は」
「長く居すぎると」
「人間の輪郭が薄くなる」
「輪郭?」
「名前」
「年齢」
「家族」
「自分が誰だったか」
守は。
一つずつ。
言った。
「最初は」
「細かいことから忘れる」
「好きだった食い物」
「学校」
「仕事」
「次に」
「人の顔」
「最後に」
「自分の名前」
蒼汰は。
言葉を失う。
「名前が消えたら」
「どうなる」
返事は。
少し遅れた。
「帰還先を」
「自分で選べなくなる」
エマ。
ルカ。
帰る。
帰らない。
本人が。
決める。
そのためには。
自分が。
誰なのか。
知らなければならない。
家族が。
誰なのか。
どこが。
家なのか。
それが。
消えたら。
選択そのものが。
できない。
「だから」
蒼汰は。
透明な箱を見る。
「もう選べない」
文字が。
一度だけ。
淡く光った。
肯定。
そう見えた。
エルナが。
すぐに動く。
「冬城」
「第十四区画の残存記録」
「名前が残ってるもの」
「全部出して」
「はい」
冬城が。
古い記録板。
名簿。
紙束。
複数の資料を。
長卓へ並べる。
蒼汰も。
椅子を寄せる。
「俺も見ます」
守が。
頭の中で。
「休め」
「今それ言う?」
「葬儀の途中だぞ」
「だから」
蒼汰は。
少しだけ。
父へ言い返す。
「途中だから」
「できる範囲だけやる」
全部。
今夜。
解決するつもりはない。
港も。
家も。
第十四区画も。
でも。
名前が。
消え始めている。
なら。
今できること。
それだけ。
やる。
「まず」
蒼汰が言う。
「名前を残す」
冬城が。
手を止める。
「蒼汰様?」
「帰せるかどうかは」
「あと」
「行くかどうかも」
「あと」
「でも」
「今消えそうなら」
「名前だけ」
「こっちに写せないですか」
エルナが。
蒼汰を見る。
数秒。
考える。
そして。
「できるかもしれない」
「本当ですか」
「ただし」
「向こうから」
「本人が名乗れる人だけ」
蒼汰が。
すぐに頷く。
「それでいいです」
「勝手にこっちで決めない」
「そう」
エルナは。
鞄を開く。
中から。
薄い板を。
三枚。
取り出す。
一枚。
白。
一枚。
透明。
一枚。
黒。
「これは?」
「名前を保存する装置」
「そんな便利なものが?」
「今から作る」
「今から!?」
エルナは。
当然のように言う。
「部品はある」
「理論もある」
「足りないのは」
「やる理由だけだった」
蒼汰は。
少し。
エルナを見る。
百年以上。
研究して。
人を。
残すことと。
生かすことを。
間違えた人。
その人が。
今。
本人が。
名乗った名前だけを。
残そうとしている。
守が。
頭の中で。
「いいな」
蒼汰が。
小さく笑う。
「何が」
「エルナ」
「前より」
「ずっといい研究してる」
蒼汰は。
その言葉だけ。
伝えた。
「親父が」
「今の研究」
「いいって」
エルナの手が。
一瞬。
止まる。
「……そう」
それだけ。
そして。
また。
作業へ戻った。
冬城が。
別の資料を。
蒼汰へ向ける。
「蒼汰様」
「これを」
そこには。
数字。
名前ではない。
一。
二。
三。
四。
途中から。
抜けている。
そして。
十四。
十五。
十六。
「第十四区画の」
「初期確認人数です」
「何人?」
「最初に守様が確認できたのは」
「四十三名」
蒼汰が。
息を吐く。
思っていたより。
少ない。
いや。
四十三人でも。
十分多い。
「今も」
「四十三?」
冬城は。
首を振った。
「わかりません」
「増えた可能性が」
「あります」
「どうして」
守が。
頭の中で。
答えた。
「流れ着く」
蒼汰が。
眉を寄せる。
「人が?」
「ああ」
第十四区画。
一つの。
閉じた部屋ではない。
いくつもの。
帰還路が。
途中で。
流れ込む場所。
帰れなくなった人。
道を失った人。
別の境界から。
押し出された人。
そういう人間が。
少しずつ。
溜まる。
「それ」
「親父が七回行ってた間にも?」
「ああ」
「増えてた?」
「多分」
守は。
少し。
苦しそうに言った。
「俺」
「数を」
「数え切れなくなった」
蒼汰の胸が。
詰まる。
十三。
二十。
五十。
百。
さっき。
記録に。
数字が。
重なっていた。
あれは。
間違いではない。
父が。
行くたび。
人数が。
変わっていた。
「じゃあ」
蒼汰は。
ゆっくり。
言う。
「全員を」
「今夜」
「名前だけでも確認するのは」
エルナが。
首を振る。
「無理」
即答。
蒼汰は。
少し。
悔しそうに。
透明な箱を見る。
「じゃあ」
「一人でも多く」
守が。
頭の中で。
「ああ」
と。
答えた。
「それでいい」
エルナの装置が。
形になる。
白い板。
透明板。
黒い板。
三枚を。
重ねる。
中央へ。
小さな。
丸い穴。
そこへ。
封筒を入れた箱から。
反応だけを。
受ける。
こちらから。
何も。
送らない。
向こうが。
名乗った時だけ。
文字が。
こちらへ。
残る。
「できた」
エルナが言った。
蒼汰が。
少し疑う。
「早くないですか」
「私を誰だと思ってるの」
「年齢聞いたら怒る人」
「違う」
冬城が。
ほんの少し。
口元を緩める。
エルナが。
白い板を。
透明な箱の横へ置く。
「これで」
「向こうが」
「自分から名乗れば」
「名前が残る」
「消えない?」
「少なくとも」
「こちら側の記録としては」
「残せる」
「本人の記憶は?」
そこが。
大事。
エルナは。
少しだけ。
顔を曇らせる。
「保証できない」
蒼汰は。
静かに頷く。
「でも」
「名前が残れば」
冬城が言う。
「後から」
「本人確認の手掛かりになります」
「家族も」
「探せるかもしれない」
「はい」
蒼汰は。
箱を見る。
「じゃあ」
「やりましょう」
エルナが。
装置を起動する。
何も。
起きない。
一秒。
十秒。
三十秒。
蒼汰は。
待つ。
白い板。
空白。
やがて。
小さく。
音。
――こん。
一度。
そして。
板の上。
文字が。
浮かんだ。
――ミア。
蒼汰が。
息を止める。
最初の。
名前。
冬城が。
すぐに書き写す。
「ミア」
エルナが。
装置を確認する。
「残った」
文字は。
消えない。
蒼汰は。
少しだけ。
胸を撫で下ろす。
次。
――アベル。
次。
――トーマ。
次。
少し。
間。
――リナ。
一人ずつ。
名乗っている。
どこか。
暗い場所で。
自分の名前が。
まだ言えるうちに。
「冬城さん」
「はい」
「全部」
「残してください」
「もちろんです」
紙。
記録板。
二重。
三重。
名前を。
写す。
ミア。
アベル。
トーマ。
リナ。
ガレス。
ノノ。
フェイ。
名前だけ。
誰なのか。
わからない。
何歳。
どこの人。
帰りたいのか。
残りたいのか。
何も。
わからない。
でも。
名前。
それだけは。
今。
ここにある。
蒼汰は。
気づく。
父が。
何度も。
名前を。
大事にした理由。
名前がある。
それだけで。
探せる。
呼べる。
本人へ。
聞ける。
帰る。
帰らない。
その前に。
まず。
あなたは。
誰ですか。
そこから。
始められる。
「親父」
蒼汰が。
小さく言う。
「こういうこと?」
守が。
少しだけ。
笑う。
「ああ」
「名前は」
「帰る場所を」
「探す最初の手掛かりだ」
白い板。
また。
文字。
――セオ。
――ユナ。
――ベル。
そして。
次。
文字が。
途中で止まる。
――エ。
そこから。
出ない。
蒼汰が。
身を乗り出す。
「消えた?」
エルナが。
板を見る。
「違う」
「思い出せない」
蒼汰の胸が。
強く締まる。
文字。
――エ。
その次。
何度も。
何度も。
薄い線。
でも。
続かない。
守が。
頭の中で。
低く言った。
「呼ぶな」
蒼汰が。
言い返しそうになって。
止まる。
そうだ。
こちらから。
勝手に。
名前を付けてはいけない。
エ。
それしか。
思い出せない。
なら。
今は。
それを。
そのまま残す。
蒼汰が。
冬城へ言う。
「エ」
「一文字で」
冬城が。
すぐに記録する。
「はい」
しばらくして。
板に。
小さな。
丸。
まるで。
安心したように。
一つ。
印がついた。
蒼汰は。
少し。
息を吐く。
「それでいいんだ」
エルナが。
静かに言う。
「そうね」
次。
――名前。
そこで。
止まる。
蒼汰が。
眉を寄せる。
――名前。
――ない。
広間が。
静まる。
冬城の手が。
止まりかける。
蒼汰は。
すぐに言った。
「そのまま」
「名前なし」
「じゃなくて」
少し。
考える。
「本人が」
「名前がないって言った」
「それを残してください」
冬城が。
頷く。
――本人申告・名前なし。
誰かが。
名前を忘れたのか。
元から。
名前がなかったのか。
わからない。
でも。
勝手に。
付けない。
その人が。
言ったことを。
そのまま。
残す。
白い板。
また。
丸。
一つ。
その時。
守が。
頭の中で。
「蒼汰」
と。
呼んだ。
「何」
「今の」
「覚えとけ」
「名前がない人間も」
「名前をなくした人間も」
「同じ扱いにするな」
蒼汰が。
ゆっくり頷く。
「わかった」
記録は。
続いた。
十三人。
二十人。
三十一人。
最初の。
四十三人を。
越えた。
冬城が。
顔を上げる。
「四十四」
蒼汰の表情が。
変わる。
やはり。
増えている。
五十。
六十。
七十。
それでも。
止まらない。
エルナが。
装置を見る。
「反応が」
「増えてる」
「壊れそう?」
「装置は大丈夫」
「向こうが」
「集まってきてる」
名前を。
残せる。
そうわかって。
人が。
集まっている。
蒼汰は。
白い板を見る。
一つ。
一つ。
名前が。
増える。
八十一。
九十三。
百二。
百十七。
蒼汰が。
息を呑む。
「百人以上……」
守は。
何も言わない。
父が。
最後に。
把握できた時より。
ずっと。
増えている。
そして。
百二十九人目。
――ルカ。
蒼汰の目が。
止まった。
「ルカ?」
さっき。
エマが。
話していた。
ルカ・ハーシェル。
でも。
帰らないことを。
選んだ人。
別世界で。
家族と。
生きている。
「同じ名前?」
冬城が聞く。
蒼汰が。
そう思った瞬間。
文字が。
続いた。
――ルカ。
――ハーシェル。
広間の空気が。
変わった。
「……え?」
蒼汰が。
立ち上がる。
守も。
頭の中で。
「待て」
と。
鋭く言う。
「ルカさんは」
「向こうに残ったんですよね」
「そうだ」
「第十四区画じゃない」
「そうだ」
「じゃあ」
蒼汰は。
板を見る。
「なんで」
ルカ・ハーシェル。
文字は。
消えない。
そして。
その下。
もう一行。
――これは。
蒼汰の心臓が。
強く鳴る。
――ぼくの。
次。
――なまえではない。
蒼汰たちは。
息を止める。
文字が続く。
――ぼくが。
――あずかった。
冬城が。
眉を寄せる。
「預かった?」
次。
――なまえ。
その下。
別の文字。
――エマ。
蒼汰が。
息を呑む。
また。
――ハーシェル。
エマ・ハーシェル。
さっきまで。
ここにいた。
ルカの母親。
だが。
第十四区画に。
いるはずがない。
守が。
頭の中で。
低く言った。
「これは」
「人の名前じゃない」
蒼汰が。
板を見る。
「じゃあ何」
守が。
答える前に。
白い板へ。
次の一行。
――かえりたい。
――ばしょの。
――なまえ。
蒼汰は。
完全に。
黙った。
エマ。
ルカ。
巴。
蒼汰。
家。
人の名前が。
場所の名前になる。
帰りたい。
会いたい。
忘れたくない。
その記憶が。
境界の中で。
帰還先を示す。
目印になっている。
「じゃあ」
蒼汰は。
ゆっくり。
言った。
「名前が消えるって」
「本人の名前だけじゃない」
守が。
答えた。
「ああ」
「帰りたい人の名前も」
「消える」
母。
父。
妻。
夫。
子。
友人。
家。
その名前まで。
消えたら。
本当に。
帰る場所が。
なくなる。
蒼汰は。
拳を握る。
「冬城さん」
「はい」
「本人の名前と」
「帰りたい場所の名前」
「分けて残しましょう」
冬城が。
即座に。
記録様式を変える。
本人名。
帰還先。
家族名。
関連名。
不明。
全部。
別にする。
エルナも。
装置を調整する。
「向こうが」
「区別できるようにする」
「できます?」
「やる」
短い返事。
蒼汰は。
少しだけ。
笑った。
誰も。
一人で。
やっていない。
それでいい。
白い板。
新しい。
表示。
――本人。
――帰還先。
最初に。
一つ。
本人。
――ミア。
帰還先。
――おとうさん。
次。
本人。
――アベル。
帰還先。
――海の町。
次。
本人。
――トーマ。
帰還先。
――帰らない。
蒼汰が。
目を止める。
「帰らない」
いた。
ルカと。
同じ。
こちらへ。
帰ることを。
望まない人。
冬城が。
そのまま。
記録する。
守が。
頭の中で。
言った。
「それでいい」
蒼汰も。
頷く。
帰る人。
帰らない人。
まだ。
決められない人。
名前すら。
思い出せない人。
全員。
同じではない。
白い板に。
一つ。
一つ。
意思が。
残っていく。
そして。
百四十七人目。
本人。
――不明。
帰還先。
――奏多家。
蒼汰の呼吸が。
止まった。
次。
百四十八人目。
本人。
――不明。
帰還先。
――奏多家。
次。
百四十九。
同じ。
百五十。
同じ。
百五十一。
同じ。
次々に。
本人名。
不明。
帰還先。
奏多家。
蒼汰が。
顔を上げる。
「何人いる」
冬城が。
数える。
十。
二十。
三十。
増える。
エルナが。
計測器を見る。
「この人たち」
「名前が」
「ほとんど残ってない」
「でも」
蒼汰は。
自分の家。
その文字を。
見る。
「家だけは」
「覚えてる」
いや。
自分たちの。
本当の家ではない。
父が。
何度も。
話した。
奏多家。
父。
母。
息子。
夕飯。
風呂。
庭。
階段。
パンの耳。
くだらない。
普通の家。
それを。
自分たちの。
仮の帰還先として。
覚えている。
守が。
頭の中で。
小さく。
言った。
「蒼汰」
「何」
「家」
「準備しとけ」
蒼汰は。
少しだけ。
笑った。
「親父」
「まだ行くって」
「決めてないぞ」
「ああ」
守も。
笑った。
「だから」
「準備だけだ」
蒼汰は。
頷く。
それなら。
できる。
本人の選択を。
奪わない。
でも。
選べる状態を。
守る。
名前を。
残す。
帰りたい場所を。
残す。
そのための。
準備。
「冬城さん」
「はい」
「今日の弔問が終わったら」
蒼汰は。
透明な箱と。
白い板を見た。
「家の確認」
「名簿整理」
「港の状況確認」
「それと」
一度。
息を吸う。
「第十四区画の」
「名前保存を」
「最優先で」
冬城が。
深く頷く。
「承知しました」
エルナも。
「私も残る」
と言う。
頭の中で。
守が。
「俺も」
と言った。
蒼汰は。
少しだけ。
返事を遅らせた。
父の声は。
また。
遠くなっている。
でも。
今は。
まだ。
聞こえる。
「……うん」
蒼汰は答えた。
「今は」
「一緒にやろう」
守が。
静かに。
「ああ」
と。
答えた。
その時。
白い板の。
一番下。
新しい表示。
本人。
――奏多守。
全員の動きが。
止まった。
蒼汰が。
眉を寄せる。
「また親父?」
守が。
頭の中で。
「俺じゃない」
と。
即答する。
帰還先。
文字が。
浮かぶ。
――奏多家。
蒼汰は。
嫌な予感を覚えた。
そして。
最後。
状態。
――本人名ではない。
蒼汰が。
目を見開く。
次の一行。
――帰還先として。
――使われている名前。
守の名前。
奏多守。
それ自体が。
第十四区画の誰かにとって。
帰る場所の名前になっている。
さらに。
新しい文字。
――まもるが。
――いなくなるまえに。
一度。
止まる。
――きいて。
蒼汰の心臓が。
大きく鳴る。
最後。
――ぼくらを。
――おぼえているか。
広間が。
静まり返った。
蒼汰は。
棺を見る。
守は。
何も言わない。
「親父」
返事がない。
「親父?」
長い。
沈黙。
そして。
とても。
小さな声。
「……いる」
蒼汰が。
息を止める。
守が。
続けた。
「少しずつ」
「戻ってきた」
「何が」
「名前」
父の声が。
震える。
「向こうにいた」
「人たちの」
「名前」
蒼汰は。
白い板を見る。
百人を。
超える。
名前。
父は。
それを。
一人ずつ。
思い出し始めていた。




