第82話 父が初めて帰せなかった少年
老婆は、黄色い傘を胸に抱いたまま、棺の前まで歩いてきた。
一歩ごとに時間がかかる。
冬城が手を貸そうとしたが、老婆は小さく首を振った。
「大丈夫ですよ。ここまでは、自分で歩きたかったから」
そして守の棺の前に立つ。
「守さん」
震える声だった。
「やっと、会いに来られました」
頭の中で。
父は何も言わない。
さっきまで、魚だの廊下だので騒いでいたのに。
蒼汰には、それだけでわかった。
この人は。
父にとって、特別な相手だ。
冬城が静かに紹介する。
「西部第四居住区、旧リンド村」
「エマ・ハーシェル様です」
老婆――エマは蒼汰を見た。
「あなたが、蒼汰さん?」
「はい」
蒼汰は立ち上がり、頭を下げる。
「奏多蒼汰です」
「そう」
エマは目を細めた。
「守さんが、よく話していました」
蒼汰は思わず父の棺を見る。
「……また?」
頭の中で、守がぼそりと言った。
「家族の話くらいするだろ」
「俺の知らないところでしすぎなんだよ」
エマは、そんな親子の会話を知らないまま、少し笑った。
「パンの耳を残す話も聞きましたよ」
蒼汰は固まった。
「親父!」
守が頭の中で笑った。
「有名だな」
「お前が広めたんだろ!」
エマが不思議そうに首を傾げる。
「どうしました?」
「いえ……父への苦情です」
「そう」
エマは笑う。
「なら、あとで私の分もお願いします」
その言葉に。
ほんの少しだけ、広間の空気が和らいだ。
しかし。
蒼汰は、エマが抱えている黄色い傘から目を離せなかった。
古い。
布の一部は色褪せている。
骨も一本、補修されていた。
けれど。
捨てられず。
何十年も。
大事に残されてきたものだとわかる。
蒼汰が聞いた。
「それは……?」
エマは傘を見る。
「息子のものです」
そして。
名前を口にした。
「ルカ」
頭の中で。
守が小さく言った。
「……ああ」
蒼汰は父の声を聞く。
「何歳だった?」
「十一」
答えはすぐに返ってきた。
何十年前のことでも。
そこは。
忘れていなかった。
エマが、ゆっくり話し始める。
四十八年前。
リンド村。
小さな農村だった。
山。
畑。
川。
そして。
雨の多い地域。
その日も。
朝から雨が降っていた。
ルカは学校へ行った。
黄色い傘を持って。
母親に。
行ってきます。
と。
いつも通り言って。
家を出た。
けれど。
帰ってこなかった。
最初は。
川が増水して。
足止めされているのだと思った。
次に。
道を間違えたのだと思った。
村中で探した。
川沿い。
森。
学校。
納屋。
崖。
何日も。
何日も。
でも。
見つからなかった。
「それで」
エマが棺を見る。
「守さんが来たんです」
境界異常が検知された。
村の外れ。
古い石橋。
雨の日だけ。
橋の下に。
別の道が現れる。
その道へ。
ルカは迷い込んだ可能性が高かった。
守は。
入った。
当然。
一人で。
蒼汰が聞く。
「親父」
「一人?」
「……一人」
「その頃からかよ」
「その頃は人手がなかった」
「今もそう言いそうだから信用できない」
守は黙った。
エマが続ける。
守は。
三日後。
帰ってきた。
一人で。
蒼汰の胸が重くなる。
手には。
黄色い傘。
それだけ。
「父は……」
蒼汰が言葉を選ぶ。
「見つけられなかったんですか」
エマは。
少しだけ首を振った。
「いいえ」
蒼汰が顔を上げる。
「見つけたんです」
広間が静まった。
「ルカを?」
「はい」
守は。
見つけた。
石橋の向こう。
雨が降り続く。
小さな町。
そこに。
ルカはいた。
生きていた。
怪我も。
ほとんどない。
父は。
帰ろう。
と言った。
ルカも。
頷いた。
ここまで聞いて。
蒼汰は。
わからなくなる。
「だったら」
「どうして……」
エマは。
黄色い傘を握る。
「帰れなかったんです」
その世界と。
こちらでは。
時間の流れが。
違っていた。
守にとって。
三日。
こちらでも。
三日。
けれど。
ルカがいた場所では。
二十七年。
経っていた。
蒼汰は息を止める。
「二十七年……?」
守が。
頭の中で。
静かに言った。
「俺が着いた時」
「ルカは」
「もう三十八だった」
蒼汰は何も言えなかった。
十一歳で。
迷い込んだ。
向こうで。
二十七年。
生きた。
父は。
少年を探しに行って。
大人になった本人を見つけた。
エマが続ける。
「守さんは」
「ルカを連れて帰ろうとしたそうです」
でも。
帰還路に。
問題があった。
境界を越えれば。
向こうで過ごした二十七年が。
こちらの身体に。
どう反映されるかわからない。
三十八歳のまま帰れるのか。
十一歳へ戻るのか。
身体だけ。
時間から外れるのか。
最悪。
二十七年分の時間差が。
一度に。
身体へかかる。
「死ぬかもしれなかった?」
蒼汰が聞く。
守が答える。
「ああ」
だから。
父は。
ルカへ。
説明した。
全部。
危険。
可能性。
帰れるかもしれない。
帰れないかもしれない。
帰れたとしても。
同じ姿ではないかもしれない。
「それで」
蒼汰が聞く。
「ルカさんは?」
エマが。
ゆっくり。
笑った。
「帰らないって」
蒼汰は。
一瞬。
理解できなかった。
「……自分で?」
「はい」
二十七年。
そこには。
生活があった。
仕事。
友人。
そして。
妻。
子どもが二人。
ルカにとって。
母がいる。
生まれ故郷。
それも。
家。
でも。
二十七年かけて。
作った家族。
そこも。
家だった。
守は。
何度も聞いたという。
本当にいいのか。
母親に。
会わなくていいのか。
帰る方法を。
もう少し探さなくていいのか。
ルカは。
言った。
会いたい。
帰りたい。
でも。
ここにいる妻と子どもを。
置いてはいけない。
「親父は」
蒼汰が聞く。
「なんて言った?」
頭の中で。
守が答える。
「わかった」
短い。
ただ。
それだけ。
「引っ張って帰らなかったんだ」
「ああ」
「十一歳でいなくなった子どもなのに」
守が。
静かに言った。
「見つけた時は」
「三十八歳の父親だった」
その一言が。
蒼汰の胸に残った。
探していた側にとっては。
十一歳の少年。
でも。
本人は。
二十七年。
生きている。
子どものまま。
止まっていたわけではない。
エマは言った。
「守さんは」
「私に全部話してくれました」
帰ってきた時。
黄色い傘を持って。
エマの家へ。
来た。
そして。
頭を下げた。
すみません。
帰せませんでした。
「……親父」
蒼汰は。
棺を見る。
守は答えない。
エマが続けた。
「私は」
「守さんを」
「叩きました」
蒼汰が驚く。
頭の中で。
守が言った。
「痛かった」
「お前、よく殴られてんな」
「仕方ないだろ」
エマは。
少しだけ。
申し訳なさそうに笑う。
「何度も」
「帰せませんでした、って」
「謝るから」
「腹が立って」
蒼汰が。
静かに聞く。
「どうして」
「帰せなかったんじゃない」
エマは言った。
「帰らなかったんです」
自分の息子が。
自分で。
選んだ。
母へ。
会いたくないからではない。
忘れたからでもない。
新しい家族を。
守るため。
そこに残った。
「なのに守さんは」
「自分が失敗したみたいに」
「ずっと言うんです」
エマは棺を睨んだ。
「本当に」
「馬鹿な人」
頭の中で。
守が小さく。
「悪かった」
と言った。
蒼汰は。
今度は伝えなかった。
多分。
エマには。
もう必要ない。
「じゃあ」
蒼汰は。
黄色い傘を見る。
「これは」
「ルカさんから?」
エマが頷く。
守が。
帰る時。
ルカが。
渡した。
十一歳の時。
持ってきた。
黄色い傘。
二十七年間。
ずっと。
持っていた。
母親から。
最後に。
持たされたもの。
そして。
一通の手紙。
守は。
それを。
エマへ届けた。
「手紙には」
蒼汰が聞く。
「何て」
エマは。
少しだけ。
目を閉じた。
「ごめんね」
最初の一行。
「ただいまって言えなくて、ごめん」
でも。
次。
「僕は元気です」
「ちゃんと大人になりました」
「仕事もしています」
「結婚しました」
「母さんは驚くと思うけど」
「子どもも二人います」
そして。
最後。
「母さん」
「僕を探すのを」
「もう終わりにしてください」
「僕は」
「迷子じゃありません」
蒼汰は。
唇を噛んだ。
守も。
何も言わない。
エマが。
黄色い傘へ。
頬を寄せた。
「嬉しかったんです」
涙は。
流れていなかった。
もう。
何度も。
何十年も。
泣いたあとなのだろう。
「息子は帰らなかった」
「でも」
「どこかで」
「ちゃんと生きていた」
それが。
わかった。
だから。
待つことを。
やめられた。
「守さんは」
「ルカを連れて帰せなかった」
「でも」
エマは。
棺を見る。
「私を」
「待つ場所から」
「帰してくれました」
蒼汰は。
息を吐いた。
帰還。
また。
意味が。
増えた。
人を。
こちらへ連れてくることだけではない。
帰らないと。
本人が決めることもある。
そして。
待っている人へ。
その選択を。
届ける。
それで。
ようやく。
帰れる人もいる。
エマが。
傘を。
棺へ差し出しかける。
だが。
途中で。
止めた。
「これは」
「置いていきません」
蒼汰が。
少し驚く。
「いいんですか」
「はい」
「これは」
エマが笑う。
「私のものだから」
守が。
頭の中で。
小さく。
「そうだ」
と言った。
蒼汰は。
その言葉だけ。
伝えた。
「父も」
「そうだって」
エマが。
ほんの少し。
目を潤ませた。
「そう」
それから。
傘の柄へ。
手を添える。
「でも」
「今日は」
「もう一つ」
持ってきたものがあるんです」
小さな鞄を開く。
出てきたのは。
封筒。
とても。
新しい。
蒼汰が。
目を瞬く。
「これは?」
エマが言う。
「三日前」
「届きました」
蒼汰の表情が変わる。
「誰から」
エマは。
封筒を。
両手で持った。
「ルカからです」
頭の中で。
守が。
完全に黙った。
蒼汰も。
言葉を失う。
四十八年前。
三十八歳だったルカ。
普通なら。
今。
生きていたとしても。
八十六歳。
それ自体は。
おかしくない。
でも。
境界の向こう。
時間の違う世界。
その人から。
三日前。
手紙が届いた。
「どうやって?」
冬城が。
初めて口を挟む。
エマは首を振った。
「わかりません」
「朝」
「郵便受けに」
入っていた。
切手なし。
消印なし。
差出人。
ルカ・ハーシェル。
そして。
宛名。
母さんへ。
エマは。
手紙を読んだ。
ルカは。
生きている。
今も。
同じ場所で。
そして。
その手紙には。
こう書いてあった。
「守さんが」
「もうすぐ」
「そちらへ帰ると聞きました」
蒼汰の背中へ。
冷たいものが走る。
「……帰る?」
守が。
頭の中で。
「知らない」
と呟いた。
エマは続ける。
「だから」
「母さん」
「もし守さんに会えたら」
「伝えてください」
一度。
息を整える。
「僕は」
「帰らないと決めたことを」
「後悔していません」
「だから」
「守さんも」
「もう謝らなくていい」
蒼汰は。
棺を見る。
父は。
何も言わない。
そして。
まだ。
続きがあった。
エマの手が。
少し震える。
「それから」
「蒼汰さんへ」
蒼汰が顔を上げる。
「俺?」
「はい」
ルカは。
蒼汰へも。
一行。
残していた。
エマが。
その文章を読む。
「お父さんが帰せなかった人を」
「全部」
「帰そうとしないでください」
蒼汰は。
息を止めた。
次。
「帰らないことを」
「選んだ人もいます」
その言葉。
第十四区画。
何十。
何百。
いるかもしれない。
未帰還者たち。
迎えに来て。
そう書いた。
でも。
全員が。
帰りたいとは。
限らない。
「……そうか」
蒼汰は。
小さく言った。
今まで。
帰すことばかり。
考え始めていた。
人数。
出口。
家。
食事。
身体。
でも。
その前。
一番大事なこと。
本人は。
帰りたいのか。
「危なかったな」
蒼汰が呟く。
守が聞く。
「何が」
「俺」
「十四番に行くことになったら」
「全員連れて帰る方法を」
「考えるところだった」
守は。
少し黙った。
それから。
「ああ」
と言った。
「俺も」
「最初はそうだった」
蒼汰は。
棺を見る。
「だからルカさんに」
「教わった?」
「ああ」
守の声は。
とても静かだった。
「帰還は」
「帰らせることじゃない」
「帰るかどうかを」
「本人が選べるところまで」
「連れていくことだ」
蒼汰は。
その言葉を。
覚えた。
また一つ。
父から。
いや。
父が誰かから教わったものを。
受け取った。
エマが。
手紙を胸へ戻す。
「これは」
「蒼汰さんへ渡すものではありません」
「はい」
蒼汰は。
すぐに答えた。
その手紙は。
エマのもの。
息子から。
母へ。
四十八年越しに届いた。
二通目の手紙。
「でも」
エマは言う。
「言葉だけ」
「持っていってください」
蒼汰は。
深く頭を下げた。
「はい」
エマも。
棺へ向き直る。
「守さん」
「私ね」
少し笑う。
「もう」
「あなたを恨んでません」
頭の中で。
守が言った。
「知ってる」
エマは。
続ける。
「でも」
「一つだけ」
「まだ怒っています」
守が。
小さく。
「何だ」
蒼汰が代わりに聞く。
「何ですか?」
エマは。
黄色い傘を持ち上げた。
「この傘」
「返しに来た時」
「守さん」
「びしょ濡れだったんですよ」
蒼汰が。
少し首を傾げる。
「傘を持ってたのに?」
「はい」
「なんで」
エマが。
棺を睨む。
「途中で会った女の子に」
「自分の傘をあげたそうです」
蒼汰は。
目を閉じた。
頭の中で。
守が言った。
「雨降ってたから」
「傘はそういう時に使うんだよ!」
エマが。
くすくす笑う。
「風邪をひいて」
「翌日」
「寝込んだそうです」
「馬鹿じゃん」
「うるさい」
守が反論する。
「ルカの傘は」
「返すものだったから」
「使えなかった」
その答えに。
蒼汰は。
少しだけ。
笑った。
「……そこだけは」
「親父らしいわ」
「何だよそれ」
エマは。
長い間。
棺を見ていた。
それから。
黄色い傘を開いた。
屋内で。
静かに。
古い黄色が。
広がる。
傘の内側。
そこには。
小さな字が。
いくつも書かれていた。
蒼汰が気づく。
「これは?」
「ルカが子どもの頃」
「落書きしたんです」
名前。
魚。
家。
母親らしい人。
そして。
黄色い太陽。
雨の日に使う傘なのに。
内側には。
大きな。
太陽。
エマは。
それを。
棺へ見せた。
「守さん」
「見つけてくれて」
「ありがとう」
「連れて帰らないでくれて」
「ありがとう」
二つ。
どちらも。
同じくらい。
大切な感謝だった。
頭の中で。
父が。
しばらく。
何も言わない。
そして。
小さく。
「……よかった」
とだけ。
答えた。
蒼汰は。
その言葉を。
そのまま。
エマへ伝えた。
エマは。
目を閉じ。
笑った。
「ええ」
「私も」
「よかったです」
黄色い傘が。
ゆっくり。
閉じられる。
エマは。
列へ戻る前。
蒼汰を見た。
「蒼汰さん」
「はい」
「全部」
「お父さんと同じにしなくていいんですよ」
蒼汰は。
少し笑った。
「最近」
「それを色んな人から言われます」
「でしょうね」
エマも笑う。
「守さん」
「人に教えるより」
「人から教わることの方が」
「多かったから」
頭の中で。
守が。
不満そうに言う。
「そんなにか?」
蒼汰は。
即答した。
「多分な」
「お前まで」
エマは。
黄色い傘を抱え。
ゆっくり。
列へ戻っていった。
蒼汰は。
その背中を。
見送る。
そして。
透明な箱を見る。
第十四区画。
帰りたい者。
帰りたくない者。
帰れない者。
帰る場所そのものを。
もう失った者。
いろんな人が。
いるはずだ。
一つの答えで。
全員を。
動かしてはいけない。
蒼汰は。
冬城へ言った。
「第十四区画を調べる時」
「はい」
「人数だけじゃなく」
「一人ずつ」
「帰還意思を確認できる方法も」
「考えましょう」
冬城は。
深く頷いた。
「承知しました」
エルナも言う。
「それなら」
「私が作る」
蒼汰が見る。
「何を?」
「向こう側から」
「一人ずつ意思を返せる装置」
「できます?」
「今の私なら」
エルナは笑った。
「勝手に決めない装置くらい作れるわ」
守が。
頭の中で。
「成長したな」
蒼汰は。
今度は父へ言った。
「お前もな」
守が。
一瞬。
黙る。
「……そうか」
少し。
嬉しそうだった。
その時。
透明な箱の中で。
封筒が。
小さく。
一度だけ震えた。
蒼汰たちは。
身構える。
だが。
文字は。
一行だけ。
――かえらない。
蒼汰が。
目を細める。
そして。
その下。
――ひともいる。
さらに。
次。
――でも。
一拍。
――かえりたい。
次。
――ひともいる。
ここまでは。
わかる。
最後。
一行。
文字が。
ゆっくり浮かんだ。
――もう。
――えらべない。
蒼汰の表情が。
変わった。
「選べない?」
エルナが。
透明な箱へ近づく。
冬城も。
表情を硬くする。
守が。
頭の中で。
低く言った。
「蒼汰」
「第十四区画」
「思ってたより」
「時間がないかもしれない」
箱の中。
さらに。
最後の文字。
――なまえが。
――きえはじめた。
蒼汰は。
息を止めた。
帰るか。
残るか。
本人に。
選んでもらう。
そのためには。
まず。
本人が。
自分を。
覚えていなければならない。
第十四区画では。
その時間が。
失われ始めていた。




