第80話 死んだ魚は、港の方角を向いた
扉の向こう。
マルタが担いでいた。
死んでいるはずの守魚。
その尾が。
一度だけ。
床を叩いた。
――ばん。
「蒼汰!」
マルタの声が飛ぶ。
「こいつ、動いた!」
蒼汰は立ち上がった。
「親父!」
「見えてる!」
「お前、頭の中だろ!」
「雰囲気でわかる!」
「適当言うな!」
それでも。
蒼汰は急いで扉へ向かう。
冬城。
エルナも続いた。
広間の外。
廊下。
マルタが。
魚を床へ下ろしていた。
一メートルを超える。
銀色の守魚。
目は濁っている。
鰓も動いていない。
明らかに。
死んでいる。
蒼汰が。
少し離れてしゃがむ。
「本当に動いたんですか」
「このあたしが」
マルタが睨む。
「魚の死後痙攣と見間違えると思うかい」
「思いません」
即答した。
元港湾総監。
しかも。
魚と海を何十年も見てきた人。
そこは。
疑わない方がいい。
エルナが。
計測器を近づける。
「触らないで」
「はい」
「マルタも」
「あたしもかい」
「全員」
「わかったよ」
透明な石。
青。
白。
そして。
灰色。
さっき。
父の帰還確認簿に出たのと。
同じ色。
エルナの顔が変わった。
「境界反応」
冬城が尋ねる。
「魚体からですか」
「違う」
エルナが。
計測器を。
魚の頭。
腹。
尾。
順番に動かす。
「外から入ってる」
蒼汰が眉を寄せる。
「どこから?」
「それを探す」
エルナは。
計測器を少しずつ離した。
廊下。
壁。
天井。
床。
そして。
ある方向で。
石が強く光った。
全員が。
そちらを見る。
マルタが。
真っ先に気づいた。
「あっちは」
「何です?」
蒼汰が聞く。
「南だ」
「港の方角」
その瞬間。
魚の尾が。
もう一度。
動いた。
――ばん。
蒼汰の背中に。
冷たいものが走る。
だが。
魚が蘇ったわけではない。
頭も。
鰓も。
口も。
動かない。
ただ。
尾だけ。
そして。
ゆっくり。
魚体そのものが。
ほんの少し。
向きを変えた。
頭。
南。
尾。
北。
「……方角を合わせてる」
蒼汰が呟く。
マルタが。
顔を険しくする。
「あの日と同じだ」
「三十四年前?」
「ああ」
港に浮いた魚。
全て。
港から離れるように。
同じ方向を向いた。
今回は。
逆。
この魚は。
海へ。
いや。
南海自由港へ。
頭を向けている。
頭の中で。
守が低く言った。
「呼ばれてる」
蒼汰が聞く。
「魚が?」
「違う」
守は答えた。
「道が」
蒼汰の眉が寄る。
「道?」
「境界の道は」
守が言う。
「場所と場所を」
「まっすぐ繋いでるわけじゃない」
川みたいなものだ。
枝分かれする。
合流する。
一度消えたように見えて。
別の場所へ。
出口が出る。
三十四年前。
南海自由港の海底に開いた亀裂。
父は。
それを塞いだ。
だが。
「塞いだだけ?」
蒼汰が聞く。
守が。
少し黙る。
「……多分」
「入口を」
「閉じただけだ」
エルナが。
すぐに理解する。
「道そのものは残った」
「そういうこと?」
蒼汰が聞く。
「可能性は高い」
エルナは。
廊下の南側を見る。
「第十四未帰還区画が」
「一点じゃないなら」
冬城が続けた。
「複数の境界経路と接続している」
「旧校舎」
蒼汰が言う。
「南海自由港」
「他にもあるかもしれません」
冬城が答える。
嫌な話だ。
一つの扉なら。
閉めればいい。
一つの場所なら。
調べればいい。
でも。
第十四区画。
そこへ繋がる道が。
世界中に。
いくつもあるなら。
話が変わる。
マルタが。
魚を睨む。
「港に戻る」
蒼汰が顔を上げる。
「今から?」
「あたしはね」
マルタが。
鋭い目で言う。
「港が変だと聞いて」
「明日まで待てるほど」
「出来た人間じゃない」
頭の中で。
守が言った。
「俺と同じだな」
蒼汰は即答した。
「だから一人で行かせない」
マルタが。
ぴたり。
と止まる。
「何だって?」
「親父と同じなら」
蒼汰が言う。
「なおさらです」
「親父が勝手に一人で行こうとして」
「あなたが殴って止めたんでしょう」
マルタが。
一瞬。
黙った。
それから。
「……言うようになったね」
「今日だけで」
蒼汰は棺のある広間を見る。
「かなり勉強しましたから」
守が。
頭の中で。
「誰のおかげだ」
「お前の失敗のおかげ」
「ひどい」
マルタは。
腕を組んだ。
「じゃあどうする」
蒼汰は。
すぐには答えなかった。
自分一人で。
決めない。
「冬城さん」
「はい」
「港側の人へ」
「今の時点で何を頼めますか」
冬城は。
少し考える。
「閉港はまだ早いでしょう」
マルタが頷く。
「魚一匹じゃ」
「町中は止められない」
「ですが」
冬城が続ける。
「三十四年前の亀裂周辺」
「そこだけ」
「立入禁止にはできます」
「できる」
マルタが即答した。
「古い防波堤周辺なら」
「今は作業区域だ」
「今夜だけ閉めても大した影響はない」
「船は?」
「通さずに済む」
「潜水員も入れない」
蒼汰は。
エルナを見る。
「計測は?」
「遠隔なら」
エルナが答える。
「私の装置を貸せる」
「現地に設置できれば」
「亀裂が再開いているかくらいは」
「こっちから確認できる」
蒼汰は頷いた。
「じゃあ」
「今日はそこまで」
マルタが眉を上げる。
「行かないのかい」
「行きません」
「怖い?」
マルタは。
試すように聞いた。
蒼汰は。
少し考えて。
「怖いです」
正直に答えた。
「でも」
「それより」
広間を見る。
「今は葬儀の途中です」
マルタは。
何も言わない。
蒼汰は続ける。
「もし港が」
「今すぐ人が死ぬ状態なら」
「行きます」
「でも」
「現時点では」
「立入禁止と監視で止められる」
「なら」
「今ここにいる人たちを」
「途中で置いていきたくない」
頭の中で。
父が。
何も言わなくなる。
蒼汰は。
それに気づいた。
「親父?」
「……なんだ」
「何か言えよ」
少し。
間。
そして。
守が言った。
「俺なら」
「行ってた」
蒼汰が笑う。
「知ってる」
「だから」
守も。
少し笑った。
「お前の方がいい」
蒼汰は。
返事をしなかった。
ただ。
少しだけ。
胸が温かくなった。
マルタが。
鼻を鳴らす。
「わかった」
「港はあたしが止める」
「必要なところだけね」
「お願いします」
「ただし」
マルタは。
指を一本立てた。
「異常が増えたら」
「葬式だろうが何だろうが呼ぶよ」
「はい」
「魚が全部沖を向いたら?」
「呼んでください」
「海が光ったら?」
「呼んでください」
「船が十年若返ったら?」
「それは即呼んでください!」
マルタが。
にやり。
と笑った。
「よし」
元港湾総監の顔だった。
判断が早い。
マルタは。
懐から。
小さな通信具を出した。
「港湾局」
「マルタだ」
いきなり。
命令が始まった。
「旧南防波堤の第三作業区」
「今すぐ閉鎖」
「理由?」
「魚が変だ」
蒼汰が。
目を見開く。
守が。
頭の中で。
爆笑した。
「同じじゃねえか!」
マルタが。
通信具へ怒鳴る。
「細かい説明は後!」
「潜るな!」
「船を近づけるな!」
「海面の魚を見張れ!」
「異常があったら全部記録!」
通信を切る。
蒼汰が。
じっと見る。
「……親父に怒ってましたよね」
「何が」
「魚が変だけで港閉めるなって」
「港全部じゃない」
「作業区一つ」
「規模の問題!?」
マルタが。
豪快に笑った。
「学習したんだよ!」
頭の中で。
守が言う。
「俺も学習した」
「張り合うな」
エルナが。
魚へ。
もう一度。
計測器を近づけた。
「反応」
「少し落ちてる」
「立入禁止にしたから?」
蒼汰が聞く。
「そんなすぐには」
エルナが首を振る。
「多分違う」
その時。
守魚の口が。
一度だけ。
開いた。
全員。
固まった。
ぽと。
何かが。
床へ落ちる。
小さな。
白いもの。
蒼汰は。
近づかない。
エルナが。
長い器具で。
それを拾う。
「……貝?」
マルタが眉を寄せる。
小さな。
二枚貝。
白。
表面に。
黒い線。
自然の模様ではない。
文字だ。
冬城が。
目を細める。
「数字です」
蒼汰にも。
見えた。
――14。
十四。
守魚の腹から。
第十四区画を示す。
小さな貝が。
出てきた。
「親父」
「知らん」
早い。
「今回は本当に?」
「本当に」
エルナが。
貝を調べる。
境界反応。
強い。
だが。
危険な動きはない。
表面。
十四。
裏側にも。
何か。
細い傷。
エルナが。
ひっくり返す。
そこに。
短い文字。
――みち。
蒼汰が読む。
「道」
そして。
もう一枚。
貝殻の内側。
――ひとつ。
「一つ?」
冬城が。
静かに言う。
「第十四区画への道が」
「一つ」
蒼汰が。
首を振る。
「違う気がする」
全員が。
蒼汰を見る。
「どうして?」
エルナが尋ねる。
蒼汰は。
二枚貝を見る。
殻は。
二つ。
でも。
元は。
一匹。
「道が一つ」
「じゃなくて」
「一つの道が」
「いろんな場所に出てる」
守が。
頭の中で。
息を呑んだ。
「……そうか」
冬城も。
理解する。
「旧校舎と南海自由港は」
「別々の入口ではなく」
エルナが続けた。
「同じ境界路の」
「違う地点」
蒼汰は。
小さく頷いた。
川。
父が。
さっき言った。
枝分かれする。
合流する。
第十四区画。
そこへ続く。
一本の。
長い。
帰還路。
その途中が。
旧校舎にも。
港にも。
触れている。
もし。
そうなら。
全ての入口を。
追いかける必要はない。
「源を探せばいい」
蒼汰が呟く。
守が。
答えた。
「ああ」
「道の始まり」
そこに。
第十四区画がある。
マルタが。
魚を見下ろす。
「こいつ」
「もう動かないね」
守魚は。
完全に。
静かになっていた。
境界反応も。
ほとんど消えている。
エルナが確認する。
「ただの死んだ魚に戻った」
蒼汰が。
少しだけ。
ほっとする。
「蘇ってなくて良かった……」
頭の中で。
守が言った。
「焼いたら美味いぞ」
全員が真面目にしている中。
蒼汰だけ。
顔をしかめた。
「お前、この状況で食う話すんなよ」
マルタが。
即座に反応する。
「守もそう言ってるのかい?」
「何でわかるんです?」
「魚見てる顔が同じだから」
「俺じゃなくて親父です!」
マルタは。
また魚を。
肩へ担いだ。
「じゃ」
「今度こそ行くよ」
「港へ?」
「ああ」
「こいつは」
魚を叩く。
「晩飯じゃなくなった」
「調べるんですか」
「いや」
マルタは。
少し笑った。
「港に持って帰る」
「三十四年前と同じ魚が」
「もう一度教えてくれた」
「若い連中にも」
「見せとかないとね」
止まる条件。
開く条件。
そして。
異常を。
馬鹿にしないこと。
それを。
次へ渡す。
「蒼汰」
「はい」
マルタが。
今度は。
真面目な顔で言った。
「葬式」
「ちゃんと終わらせな」
蒼汰が。
少し驚く。
「港は?」
「あたしがいる」
「でも」
「あんたが来ても」
マルタは言った。
「海のことは」
「あたしらの方が詳しい」
その言葉に。
蒼汰は。
父の話を思い出す。
専門家。
頼る。
一人でやらない。
「はい」
蒼汰は。
深く頭を下げた。
「お願いします」
「任された」
マルタは。
魚を担いで。
今度こそ。
歩き始めた。
そして。
数歩。
進んだところで。
振り返る。
「そうだ」
「何です?」
「守に言っときな」
マルタは。
笑った。
「今度は」
「ちゃんと先に相談してから港閉めるよ」
頭の中で。
守が答えた。
「成長したな」
蒼汰は。
そのまま伝えず。
言った。
「親父も見習うって」
「言ってない!」
マルタが。
大笑いした。
「そうしな!」
そのまま。
去っていく。
蒼汰たちは。
広間へ戻った。
長卓。
木札。
停戦徽章。
種籾袋。
そして。
透明な箱。
いろいろな。
父の残したもの。
でも。
今。
蒼汰には。
少し違って見える。
これは。
父が。
一人で成し遂げた証ではない。
オットー。
グスタフ。
エルナ。
マルタ。
父を。
止めた人。
怒った人。
助けた人。
教えた人。
一緒に。
最後までやった人。
守は。
一人で。
奏多守になったわけではない。
蒼汰は。
席へ戻る。
「冬城さん」
「はい」
「続けましょう」
冬城が。
名簿を開いた。
「次の方は――」
そこで。
透明な箱の中。
父の封筒が。
ほんの一度。
光った。
蒼汰は。
身構えた。
だが。
手形も。
文字も。
出ない。
代わりに。
父の封筒とは別に。
箱の底へ。
一枚。
紙が現れた。
最初から。
そこにあったように。
白い。
小さな紙。
エルナが。
息を呑む。
冬城も。
近づかない。
紙には。
地図。
一本の線。
旧校舎。
南海自由港。
そして。
その二点を結ぶ線を。
さらに。
ずっと先へ辿った場所。
蒼汰が。
地図を見る。
「ここ……どこです?」
冬城の顔から。
表情が消えた。
守も。
頭の中で。
何も言わない。
エルナが。
小さく答えた。
「場所じゃない」
蒼汰が見る。
「え?」
エルナは。
地図の終点を指した。
そこには。
地名ではなく。
一つの文字。
――家。
蒼汰の心臓が。
大きく鳴った。
そして。
冬城が。
ゆっくり。
蒼汰を見る。
「この座標」
「奏多家です」
蒼汰は。
言葉を失った。
第十四区画へ続く一本の道。
その三つ目の地点は。
旧校舎でも。
港でもなかった。
蒼汰が。
今日まで。
何も知らずに暮らしていた。
自分の家だった。




