第78話 父が息子に残したのは、命令ではなかった
――そういった。
紙に浮かんだ最後の一行を。
蒼汰は。
しばらく見つめていた。
父は。
自分でも覚えていない場所で。
十四番へ。
今度は息子に頼む。
そう言ったらしい。
「……親父」
「なんだ」
「本当に覚えてない?」
「覚えてない」
守の返事は早かった。
だが。
いつもの。
知らん。
とは違う。
声に。
迷いがある。
蒼汰は棺を見る。
「じゃあ」
「俺に何を頼んだんだよ」
「それも」
守が言葉を止める。
「わからん」
蒼汰は眉を寄せた。
困った。
父が自分へ。
何かを託した。
それ自体は。
あり得る。
だが。
これまでの話を聞いて。
蒼汰はもう知っている。
父は。
自分の仕事を。
丸ごと息子へ押しつける人ではない。
少なくとも。
最後の頃は。
そうしないようにしていた。
母も。
それを許さなかった。
だから。
おかしい。
「冬城さん」
「はい」
「親父」
蒼汰は紙を指した。
「『息子に頼む』って言い方」
「しそうですか?」
冬城は。
すぐには答えなかった。
少し考える。
「その一文だけでしたら」
「守様らしくありません」
守が。
頭の中で言った。
「おい」
蒼汰が返す。
「俺もそう思う」
「お前まで?」
「親父ならもっと雑だろ」
「そこじゃありません」
冬城が淡々と訂正した。
「奏多守様は」
「少なくとも蒼汰様に関することについて」
「最終的には」
「本人に決めさせるようになっていました」
蒼汰が。
静かに頷く。
そうだ。
母が残した。
勝手に決めない。
勝手に連れていかない。
勝手に守った気にならない。
父も。
それを。
学んでいた。
なら。
「息子に頼む」
だけでは。
足りない。
エルナが。
紙を覗き込む。
「文章が途中なんじゃない?」
蒼汰が見る。
「途中?」
「これ」
エルナが指差した。
紙は。
封筒から。
半分ほどしか出ていない。
まだ。
中に続きがある。
「引っ張ったら?」
「駄目です」
冬城。
即答。
「ですよね」
蒼汰も。
もう慣れてきた。
勝手に触らない。
勝手に開けない。
勝手に返事しない。
今日一日で。
随分。
慎重になった気がする。
頭の中で。
守が言った。
「成長したな」
「誰のせいだよ」
エルナが。
白い観測板を調整する。
「向こうから出てくるのを待ちましょう」
「出てくるかな」
「必要なら」
エルナは。
透明な箱を見る。
「向こうが続けるでしょう」
待つ。
蒼汰は。
以前なら。
苦手だったかもしれない。
答えが目の前にある。
手を伸ばせば。
取れそう。
でも。
取らない。
数秒。
十秒。
一分。
何も起きない。
「……出ないですね」
「出ないわね」
「もう終わり?」
「かもしれない」
蒼汰が。
少し肩を落とした。
その時。
冬城が。
古い記録板を見ながら言った。
「いいえ」
「続きがあります」
蒼汰が振り返る。
「どこに?」
「守様の七回目の再進入記録です」
さっきまで。
活動内容は。
空欄だった。
日付。
入域。
帰還。
それしか残っていなかった記録。
だが。
今。
一番下。
今まで何もなかった場所へ。
小さな文字が。
浮かんでいる。
冬城が読む。
「帰還前伝言」
蒼汰が。
息を止めた。
守も。
黙る。
文字は。
ゆっくり。
一行ずつ。
戻ってくる。
まるで。
十四番が。
向こうから。
父の記録を。
返しているように。
――対象。
――未帰還者群。
群。
蒼汰の眉が動く。
やはり。
十四番は。
一人ではない。
次。
――人数。
そこで。
文字が乱れた。
数字にならない。
十三。
二十。
五十。
百。
いくつもの数字が。
重なって。
最後には。
黒い染みになる。
エルナが呟く。
「数えられない」
冬城が続ける。
――状態。
――帰還経路確保不能。
――こちら側への強制移動禁止。
蒼汰が。
そこを見る。
「強制移動禁止……」
守が。
小さく言った。
「そうだ」
蒼汰が反応する。
「思い出した?」
「少し」
境界の。
奥。
帰れない者たち。
だが。
無理やり連れてくれば。
本人そのものが。
壊れる。
記憶。
身体。
時間。
名前。
何かを。
置いてくる。
「だから」
守は言う。
「迎えに行くだけじゃ駄目だった」
「帰れる状態を」
「向こう側で作る必要があった」
蒼汰は。
その言葉を覚えておく。
帰還。
ただ。
引っ張ってくることではない。
父が。
ずっと。
やってきたことと同じ。
そして。
次の記録。
――暫定管理呼称。
――十四番。
その下。
――代表個体ではない。
蒼汰の目が止まる。
「代表じゃない?」
冬城も。
同じ箇所を見る。
さらに文字。
――十四番とは。
――十四番目の帰還者を意味しない。
守が。
息を呑んだ。
蒼汰が聞く。
「じゃあ何なんだ」
答えは。
次の行に出た。
――第十四未帰還区画。
広間が。
静まり返った。
「……人の名前じゃない」
蒼汰が呟く。
十四番。
それは。
誰か一人を指す呼び方ではなかった。
場所。
区画。
そこにいる。
帰れない人たち。
だから。
あれだけの。
手があった。
大人。
子ども。
何十人。
何百人。
あるいは。
もっと。
守が。
低い声で言った。
「思い出した」
蒼汰は。
棺を見る。
「全部?」
「いや」
「でも」
守が続ける。
「俺はあそこを」
「十四番って呼んでた」
場所の正式名称は。
長すぎた。
境界座標。
管理符号。
位相分類。
いくつもの記号。
だから。
父は。
勝手に。
十四番。
そう呼んだ。
「人じゃなかったんだ」
蒼汰が言う。
「ああ」
「じゃあ」
「向こうから話しかけてるのは?」
守が答えられない。
エルナが言った。
「区画そのものか」
「そこにいる誰かが代表しているか」
「全員の情報が混ざって一つになっているか」
「まだわからない」
だから。
決めつけない。
冬城が。
次の記録を読む。
――第十四未帰還区画。
――帰還計画。
――継続。
その下。
――担当。
――奏多守。
そして。
最後。
――担当死亡時。
蒼汰の心臓が。
強く鳴った。
来る。
多分。
ここだ。
父が。
自分へ。
何を頼んだのか。
文字が。
ゆっくり現れる。
――後任を自動指定しない。
蒼汰が。
目を見開く。
さらに。
――血縁者への義務継承禁止。
蒼汰は。
息を吐いた。
頭の中で。
守が。
「ああ」
と。
小さく言った。
「親父」
「思い出した」
守の声が。
少しだけ。
安心していた。
記録は続く。
――ただし。
――奏多蒼汰本人が。
――自分の意思で記録に到達した場合のみ。
蒼汰は。
黙って読む。
――第十四区画からの応答要請が存在することを伝える。
その次。
――決定は。
――奏多蒼汰本人に委ねる。
蒼汰は。
目を閉じた。
やっぱり。
そうだった。
父は。
頼んでいた。
でも。
命令していない。
息子だから。
やれ。
とは。
一度も書いていない。
「今度は息子に頼む」
その意味は。
俺の代わりに。
絶対助けろ。
ではない。
俺が死んだあと。
もし。
あいつ自身が。
ここまで来たなら。
聞いてみてくれ。
それだけ。
行くか。
行かないか。
助けるか。
助けられないか。
誰と行くか。
いつ行くか。
全部。
蒼汰が決める。
「……母さんに怒られた成果だな」
蒼汰が言う。
守が。
頭の中で苦笑した。
「だいぶ怒られたからな」
「どれくらい」
「三時間」
「長っ」
エルナが。
少し笑った。
冬城も。
ほんのわずか。
表情を緩める。
そして。
記録には。
もう一行。
あった。
――なお。
――蒼汰が拒否した場合。
蒼汰が読む。
――絶対に説得するな。
思わず。
笑った。
「母さんだ」
守が言う。
「ああ」
「これ母さんだろ」
「そこだけ巴が書いた」
「やっぱり」
父の記録へ。
母が。
一行。
足していた。
想像できる。
父が。
珍しく。
真面目に書類を書いて。
母が。
横から読んで。
そして。
一言。
これだけじゃ足りない。
と。
追加させた。
「じゃあ」
蒼汰は。
透明な箱を見る。
「俺」
「別に」
「行かなくてもいいんだな」
守が。
即答する。
「ああ」
「断っていい」
「十四番が待ってても?」
守は。
少し。
黙った。
それから。
「ああ」
と。
もう一度。
答えた。
「待ってることと」
「お前が行かなきゃならないことは」
「別だ」
蒼汰は。
その言葉を。
ゆっくり。
飲み込んだ。
ずっと。
父の話を聞いて。
帰れない人。
待っている人。
救われた人。
そんなものを。
何十人。
何百人と。
見てきた。
だから。
もし。
今。
誰かに。
行け。
と言われたら。
断る方が。
難しかったかもしれない。
でも。
父は。
そこまで。
わかっていた。
だから。
逃げ道を。
残していた。
母と一緒に。
「……ずるいな」
蒼汰が呟く。
守が聞く。
「今度は何が」
「行かなくていいって」
「ちゃんと書かれてる方が」
透明な箱を見る。
「逆に」
「ちゃんと考えたくなる」
守が。
少し笑った。
「そうか」
その時。
封筒から出ていた紙が。
もう一度。
ゆっくり。
動いた。
蒼汰たちは。
身構える。
だが。
今度は。
文字だけ。
――わかった。
蒼汰が。
目を見開いた。
エルナも。
驚く。
「こちらの会話を?」
「聞いてる?」
冬城が。
すぐに首を振る。
「まだ判断できません」
次の文字。
――いまは。
――こなくていい。
蒼汰は。
何も言えなくなった。
十四番。
その向こうにいる誰かは。
迎えに来て。
と。
書いた。
でも。
蒼汰が。
すぐ行くとは言わなかった。
調べる。
一人では行かない。
決めるのは自分。
そうした結果。
向こうも。
待つと。
言った。
さらに。
文字。
――まもるも。
――そういった。
守が。
息を呑む。
――いそぐな。
――かえすなら。
――ちゃんとかえせ。
蒼汰の視線が。
ゆっくり。
棺へ移る。
守は。
しばらく。
何も言わなかった。
そして。
「ああ」
と。
小さく。
答えた。
「それは」
「俺だ」
蒼汰が聞く。
「思い出した?」
「今のは」
守が言う。
「覚えてる」
父が。
未帰還者たちへ。
最後に。
何度も言っていた言葉。
急がない。
無理に連れ出さない。
一人欠けた状態で。
帰還完了にしない。
「帰すなら」
「ちゃんと帰す」
蒼汰が。
父の言葉を繰り返した。
その瞬間。
封筒から出ていた紙が。
すっと。
中へ戻った。
一センチ。
二センチ。
全部。
そして。
封筒は。
静かになった。
エルナが計測器を見る。
「反応」
「落ちた」
「消えました?」
「消えてはいない」
「じゃあ」
エルナが。
少しだけ笑う。
「本当に待つみたい」
蒼汰は。
透明な箱を。
しばらく見ていた。
それから。
「冬城さん」
「はい」
「第十四区画のこと」
「葬儀が終わったら」
「全部調べましょう」
「承知しました」
「でも」
蒼汰は付け足す。
「行くって決めたわけじゃないです」
冬城は。
はっきり頷いた。
「もちろんです」
エルナも。
「それでいい」
と言う。
最後に。
蒼汰は。
棺を見る。
「親父」
「なんだ」
「お前も」
「それでいいんだよな」
父は。
迷わなかった。
「いい」
短い。
はっきりした。
返事だった。
蒼汰は。
少し笑った。
「なら」
自分の椅子へ戻る。
透明な箱は。
長卓の奥へ。
今は。
置いておく。
答えは。
あと。
今。
先にすることがある。
蒼汰は。
扉を見る。
まだ。
弔問を待っている人がいる。
「冬城さん」
「はい」
「次の人」
冬城は。
一瞬だけ。
蒼汰を見る。
そして。
名簿を開いた。
今度こそ。
勝手に文字は増えない。
普通の。
次の名前。
冬城が読み上げる。
「次の方は」
「南海自由港自治評議会」
「元港湾総監」
「マルタ・ベイル様」
蒼汰は。
少し肩の力を抜く。
「今回は普通ですか?」
冬城が。
一拍。
黙った。
その時点で。
嫌な予感がした。
「冬城さん?」
「マルタ様は」
「守様が」
「港を丸ごと三日間閉鎖した件について」
「お話ししたいそうです」
蒼汰は。
ゆっくり。
棺を見る。
「親父」
「なんだ」
「港を?」
「閉めた」
「丸ごと?」
「丸ごと」
「三日?」
「三日」
「何で?」
守は。
少しだけ。
言いづらそうに答えた。
「魚が」
蒼汰が眉を寄せる。
「魚?」
応接室の向こうから。
女の怒鳴り声が聞こえた。
「奏多守!」
「死んだからって逃げられると思うんじゃないよ!」
蒼汰は。
目を閉じた。
「……普通じゃなかった」
冬城が静かに答える。
「守様の知人ですので」
扉が。
勢いよく。
開いた。




