第77話 父は、帰れない人たちに息子の話をしていた
広間には。
誰も。
すぐに声を出せなかった。
透明な箱。
その中の封筒は。
もう動いていない。
手形も。
文字も。
消えている。
なのに。
蒼汰の目には。
最後の三文字だけが。
まだ残っているように見えた。
――そうた。
「……なんで」
蒼汰が呟く。
「なんで俺の名前を知ってるんだ」
頭の中で。
守も答えない。
冬城が。
ゆっくりと透明な箱へ近づいた。
エルナが止める。
「待って」
「触れません」
「ならいい」
冬城は。
箱の外から。
封筒を観察する。
表。
裏。
封印。
何も変わっていない。
「蒼汰様」
「はい」
「一つ確認してもよろしいですか」
「何です?」
「守様が境界側で」
冬城は一度。
棺を見る。
「蒼汰様のお名前を話した可能性はありませんか」
蒼汰も。
棺を見る。
「親父」
「ある?」
守が。
少し考える。
「……ある」
蒼汰の眉が寄る。
「どこで」
「覚えてない」
「またそれかよ」
「いや」
守の声が。
少し強くなる。
「違う」
「話した記憶はある」
「相手が思い出せない」
蒼汰は黙った。
それは。
もっと気持ちが悪い。
守は。
自分の息子の話をしたことは覚えている。
だが。
誰に話したのか。
そこだけ。
抜け落ちている。
エルナが。
計測器を見ながら言った。
「記憶欠損じゃないかもしれない」
「どういうことです?」
「消されたんじゃなくて」
エルナは。
こめかみを指で叩く。
「最初から記憶として持ち帰れてない」
蒼汰が首を傾げる。
「話したことだけ覚えてるのに?」
「そういうこともある」
境界では。
出来事が。
丸ごと記憶になるとは限らない。
声だけ。
感情だけ。
手触りだけ。
結果だけ。
一部が。
帰還する。
逆に。
本人の顔。
名前。
場所。
肝心なところだけ。
向こうへ残る場合もある。
「親父の弁当箱みたいに?」
「近いわね」
エルナが頷く。
「守は三十六年前」
「何かを帰し損ねた」
「それが弁当箱だけだったとは限らない」
蒼汰は。
少し嫌そうな顔をする。
「親父」
「お前、どれだけ忘れ物してるんだよ」
頭の中で。
守が言った。
「だから境界は嫌いなんだ」
「初めて聞いた」
「好きだと思ってたのか」
「しょっちゅう行ってるから」
「仕事だ」
即答だった。
少しだけ。
いつもの空気が戻る。
だが。
蒼汰の視線は。
透明な箱から離れない。
「俺のこと」
「何を話した?」
守は。
長く黙った。
「たぶん」
ようやく言う。
「普通のことだ」
「普通?」
「ああ」
「お前が小さい頃」
「飯を食わないとか」
蒼汰が止まる。
「ちょっと待て」
「寝ないとか」
「親父」
「靴を左右逆に履くとか」
「おい」
エルナが。
口元を押さえた。
冬城も。
視線を外す。
「何で境界の向こうでそんな話してんだよ!」
「暇だったんだよ!」
「未帰還者と!?」
「ずっと緊張してたらもたないだろ!」
妙に。
説得力があった。
守は。
帰れない人間のそばに。
何日も。
何週間も。
いたことがある。
助ける側。
助けられる側。
そんな関係だけで。
ずっと一緒にはいられない。
食べ物。
眠気。
家族。
くだらない話。
帰ったら何をする。
そういう話を。
きっと。
していた。
蒼汰が小さく聞く。
「……俺の話」
「よくしてた?」
守の返事は。
少し遅れた。
「ああ」
「なんで」
「帰りたくなるから」
蒼汰は。
何も言えなくなった。
守が続ける。
「お前の話してると」
「家を思い出す」
「巴の話もした」
「今日何食うかな、とか」
「帰ったら怒られるかな、とか」
「そんなの」
「それだけだ」
蒼汰は。
棺を見る。
英雄。
境界管理者。
未帰還者を救った男。
そういう父しか。
最近は。
見ていなかった気がする。
でも。
境界の向こうで。
父を。
家へ引っ張っていたのは。
大層な使命ではない。
母。
息子。
夕飯。
風呂。
明日の予定。
そんな。
普通の家だった。
冬城が静かに言う。
「でしたら」
「十四番が蒼汰様のお名前を知っていても」
「不自然ではありません」
「でも」
蒼汰は言う。
「三十六年前なら」
自分は。
まだ生まれていない。
広間が。
静かになる。
そう。
そこだ。
守が。
蒼汰の話をした。
それなら。
三十六年前ではない。
十四番と。
父は。
その後も。
会っていた。
蒼汰が。
ゆっくりと口を開く。
「親父」
「十四番に」
「一回しか会ってない?」
守が。
答えない。
「親父」
「……わからん」
「じゃあ」
蒼汰は。
さらに聞く。
「三十六年前のあと」
「同じ場所に行ったことは?」
「ある」
「何回」
「数えてない」
「数えろよ!」
「仕事だったんだぞ!」
「記録は?」
蒼汰が冬城を見る。
冬城は。
すぐに動いた。
鞄から。
薄い端末のようなものを出す。
紙ではない。
黒い板。
指で表面をなぞる。
文字が。
いくつも浮かぶ。
「守様の境界活動記録」
「三十六年前以降」
「同一座標への再進入……」
冬城の指が。
止まった。
「あります」
蒼汰が身を乗り出す。
「何回?」
冬城が。
珍しく。
即答しなかった。
「冬城さん?」
「七回です」
「七回?」
守も。
頭の中で。
息を呑んだ。
「そんなに行ったか?」
蒼汰が。
顔をしかめる。
「お前が驚くなよ」
冬城は続ける。
「ただし」
「奇妙です」
「何が」
「七回とも」
「活動内容が記録されていません」
日付。
入域。
帰還。
所要時間。
それだけ。
目的。
同行者。
救助対象。
何をしたのか。
全部。
空欄。
「親父」
「俺は書いたはずだ」
「本当に?」
「ああ」
守の声は。
今度こそ。
はっきりしていた。
「こういう記録は」
「巴に怒られてから」
「絶対残してた」
蒼汰が。
少しだけ目を細める。
「母さんに?」
「一回」
「三日帰らなかった時」
「帰ってきてから」
「せめてどこ行ったか書けって」
「当たり前だよ」
エルナが。
七件の記録を見る。
「消えてる」
「消された?」
蒼汰が聞く。
「違う」
エルナは首を振る。
「欠け方がおかしい」
「書いたものを消したなら」
「跡が残る」
「これは」
指で。
空欄をなぞる。
「書いた部分だけ」
「向こうへ持っていかれてる」
蒼汰の背中が。
少し寒くなる。
七回。
父は。
十四番と関係するかもしれない場所へ戻っている。
そこで。
何かをした。
記録も残した。
だが。
その中身だけが。
こちら側から消えている。
そして。
最後には。
父自身の記憶からも。
相手の顔。
名前。
約束。
それらが。
薄れている。
「でも」
蒼汰が。
封筒を見る。
「向こうは覚えてる」
エルナが頷く。
「そうみたい」
その時。
透明な箱の中で。
封筒が。
小さく。
一度だけ。
震えた。
全員が。
身構える。
だが。
手形は出ない。
音もしない。
代わりに。
白い紙片が。
封筒の端から。
ほんの少し。
飛び出した。
蒼汰が目を見開く。
「開いてないですよね?」
「開いてない」
エルナが即答する。
封は。
そのまま。
なのに。
紙だけが。
中から。
押し出されてくる。
一センチ。
二センチ。
三センチ。
そこで止まった。
冬城が言う。
「触れないでください」
「わかってます」
紙には。
文字が見える。
蒼汰は。
距離を取ったまま。
目を凝らす。
子どものような。
少し歪んだ字。
そこに。
こう書かれていた。
――そうたは。
一行。
次。
――ぱんのみみを。
蒼汰の顔が固まる。
――のこす。
沈黙。
エルナが。
蒼汰を見る。
冬城も。
見る。
頭の中で。
守が。
吹き出した。
「お前!」
「笑うな!」
蒼汰の顔が赤くなる。
「何で知ってんだよ!」
「俺が話したんだろ」
「そんなことまで話すなよ!」
「お前、真ん中しか食わなかっただろ!」
「何歳の話だよ!」
「四歳!」
即答だった。
透明な箱。
その向こう。
誰かが。
蒼汰の。
四歳の頃の癖を知っている。
それは。
冬城の記録にも。
境界の名簿にも。
載っていない。
守と。
家族くらいしか。
知らない話。
蒼汰の表情から。
少しずつ。
怒りが消える。
「……本当に」
「親父から聞いたんだ」
守も。
もう笑っていなかった。
「ああ」
紙が。
さらに出てくる。
次の文字。
――まもるが。
――いつも。
一度。
止まる。
――かえりたいと。
――いっていた。
蒼汰の喉が。
詰まった。
その次。
――そうたに。
――あいたいと。
守が。
何も言わなくなる。
蒼汰は。
棺を見た。
父は。
自分が知らない場所で。
自分の話をしていた。
何度も。
何度も。
帰れない場所で。
帰りたいと。
言っていた。
なのに。
家へ帰った父は。
そんなことを。
一度も言わなかった。
「……言えよ」
蒼汰が呟く。
守が。
小さく聞く。
「何を」
「会いたかったなら」
「会いたかったって」
「帰りたかったなら」
「帰りたかったって」
守は。
返事をしない。
蒼汰は。
少しだけ。
声を強くした。
「なんで俺には言わなかったんだよ」
しばらく。
何も聞こえない。
そして。
父が。
静かに答える。
「帰ったから」
蒼汰の眉が寄る。
「家に帰ったら」
守が続ける。
「会えるだろ」
「だから」
「言う必要ないと思ってた」
蒼汰は。
目を閉じた。
本当に。
父だ。
変なところで。
言葉が足りない。
帰りたい時には。
知らない誰かへ。
息子の話をして。
帰れたら。
何も言わない。
「馬鹿」
蒼汰が言った。
守が笑う。
「悪かった」
「謝るなら生きてる時にしろよ」
「それは無理だ」
「知ってるよ」
少しだけ。
鼻の奥が痛くなった。
紙が。
また動く。
今度は。
文字ではなく。
小さな絵。
三人。
大人が二人。
子どもが一人。
下手な。
棒人間。
その横。
もう一人。
少し離れた場所に。
小さな人。
四人目。
蒼汰が。
目を細める。
その下へ。
文字。
――まもる。
父の棒人間。
――ともえ。
母。
――そうた。
子ども。
そして。
離れた一人。
そこだけ。
名前ではない。
――じゅうよん。
蒼汰は。
息を止めた。
「十四番」
守が。
低く言う。
「ああ」
絵の中。
十四番は。
奏多家の三人を。
少し離れたところから。
見ている。
次の一行。
――まもるが。
――おしえてくれた。
――かぞく。
蒼汰は。
何も言えなかった。
十四番は。
蒼汰を。
直接知っているのではない。
父から。
ずっと。
聞いていた。
母のことも。
蒼汰のことも。
父が。
帰りたい家の話を。
その人は。
聞き続けていた。
エルナが。
小さく呟く。
「だから」
「蒼汰を呼んだ」
蒼汰は。
封筒を見る。
「親父が死んだから?」
誰も。
答えない。
紙に。
最後の文字が。
ゆっくり浮かぶ。
――まもるは。
――もう。
そこで。
一度。
止まった。
蒼汰の胸が。
強く締まる。
続き。
――こない。
守が。
何も言わない。
その次。
――だから。
蒼汰は。
読んだ。
――そうたに。
そして。
最後。
――きいた。
紙が。
止まる。
蒼汰は。
しばらく。
その文字を見ていた。
迎えに来て。
とは。
もう書いていない。
助けろ。
とも。
来い。
とも。
ただ。
聞いた。
父が。
もう来ないから。
その息子へ。
問いかけた。
蒼汰は。
小さく息を吐いた。
「……ずるいな」
頭の中で。
守が言う。
「何が」
「親父が」
蒼汰は棺を見る。
「向こうで俺の話しすぎたせいで」
「知らない人にまで」
「頼られてる」
「悪い」
「本当だよ」
でも。
声は。
怒っていなかった。
冬城が。
静かに言う。
「蒼汰様」
「はい」
「今すぐ」
「答えを出す必要はありません」
蒼汰は頷く。
「わかってます」
一人で行かない。
勝手に約束しない。
正体も。
状況も。
まだ調べる。
でも。
一つだけ。
もう。
わかった。
封筒の向こうにいるものは。
少なくとも。
父の名前を。
盗んだだけではない。
父と。
話をした。
家族の話を。
聞いた。
帰りたいという。
父の本音まで。
知っている。
蒼汰は。
透明な箱へ。
ほんの少しだけ近づいた。
返事はしない。
ただ。
見た。
紙の端。
そこへ。
もう一つ。
とても小さな文字が。
浮かんだ。
――まもるが。
――さいごに。
蒼汰の目が。
止まる。
――こんどは。
――むすこに。
守が。
息を呑んだ。
次。
――たのむ。
広間が。
完全に。
静まり返った。
蒼汰は。
ゆっくり。
棺を見る。
「親父」
「……知らない」
守の声が。
震えていた。
「俺は」
「そんなこと」
「覚えてない」
透明な箱の中。
紙へ。
最後の一行が。
浮かぶ。
――そういった。
蒼汰は。
父の棺から。
目を離せなくなった。
父は。
自分でも覚えていない場所で。
自分でも覚えていない相手へ。
最後に。
息子を頼むのではなく。
息子に。
続きを頼んでいた。




