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父、奏多守はほら吹きではなかった  作者: てへろっぱ


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第76話 扉の向こうから、父を呼ぶ声



透明な箱の中。


封筒の表面へ。


内側から。


指の形が浮かび上がった。


一本。


二本。


三本。


人の手。


そう見えた。


蒼汰は息を止める。


「……親父」


「なんだ」


「これ、人だと思う?」


守は答えなかった。


代わりに。


エルナが低く言う。


「近づかないで」


蒼汰は一歩。


下がった。


冬城も。


すでに名簿を閉じている。


透明な箱。


その中。


封筒へ押しつけられた指が。


ゆっくり動いた。


右へ。


左へ。


まるで。


こちらを探している。


そして。


――こん。


音がした。


指先が。


封筒の内側を叩く。


――こん。


もう一度。


蒼汰は。


思わず。


「聞こえてます」


と言いそうになった。


だが。


寸前で止めた。


父に。


返事をするな。


と言われた。


さっきとは違う信号でも。


何が起きるかわからない。


「偉い」


頭の中で。


守が言った。


蒼汰の眉が寄る。


「子ども扱いすんな」


「昔のお前なら返事してた」


「昔っていつだよ」


「十歳くらい」


「そりゃ子どもだろ」


こん。


こん。


三回目。


エルナが計測器を近づける。


透明な石が。


激しく明滅した。


「おかしい」


「何がです?」


「向こう側の距離が測れない」


蒼汰が首を傾げる。


「遠すぎる?」


「逆」


エルナは。


透明な箱を見る。


「近すぎる」


「……近い?」


「境界の向こうにいる反応じゃない」


冬城が問う。


「では、こちら側ですか」


「それも違う」


「どちらでもない?」


「そう」


エルナが。


嫌そうに言った。


「扉の途中」


蒼汰は。


その言葉を聞いて。


旧校舎を思い出した。


境界。


こちら。


向こう。


その間。


誰かが。


そこへ。


挟まっている。


「生きてるんですか」


蒼汰が聞く。


エルナは。


答えられなかった。


冬城も。


黙った。


すると。


箱の中。


封筒が。


小さく。


震える。


今度は。


指ではない。


文字。


封筒の表面へ。


内側から。


なぞるように。


一文字。


浮かんだ。


――か。


蒼汰が目を細める。


次。


――な。


その次。


――た。


蒼汰の顔が変わる。


「奏多……?」


冬城が。


無意識に。


棺を見る。


エルナの顔から。


血の気が引いた。


そして。


四文字目。


――ま。


蒼汰の心臓が。


大きく鳴る。


五文字目。


――も。


六文字目。


――る。


完全に。


書かれた。


――奏多守。


誰かが。


父の名前を。


封筒の内側から。


書いている。


「親父」


蒼汰は。


頭の中へ問いかける。


「知り合いか」


「名前だけじゃわからん」


守の声も。


明らかに緊張していた。


「お前の名前を知ってる誰かだ」


「ああ」


「多い?」


「……多い」


「だよな」


広間にいる弔問者だけでも。


数え切れない。


守の名前を知る者など。


いくらでもいる。


だから。


これだけでは。


わからない。


蒼汰は考える。


そして。


聞いた。


「冬城さん」


「はい」


「向こうから文字を書けるなら」


「質問だけ書くことってできますか」


守がすぐに反応した。


「蒼汰」


「返事はしない」


「じゃあ何を」


「こっちから伝えるんじゃなくて」


蒼汰は封筒を見る。


「向こうが誰なのか」


「向こう自身に証明してもらう」


冬城が。


蒼汰を見る。


エルナも。


少し考えて。


頷いた。


「それなら」


「こちら側から接続を返す必要はない」


蒼汰が尋ねる。


「どうやるんです」


エルナが鞄から。


白い板を一枚取り出した。


薄い。


紙ほど。


それを。


透明な箱の外側へ貼る。


「この板は、向こうから押された情報だけ拾う」


「こっちの情報は?」


「通さない」


「本当に?」


「多分」


「多分!?」


「百パーセントなんて研究者は言わないの」


「今だけは言ってほしい!」


頭の中で守が言う。


「やめとくか?」


蒼汰は。


少し考えた。


一人では決めない。


「冬城さん」


「私は」


冬城が答える。


「試す価値はあると思います」


「エルナさん」


「同じく」


「親父」


しばらく。


沈黙。


それから。


守が答えた。


「俺は反対だ」


蒼汰は。


少し驚いた。


「なんで」


「相手が俺を知ってる」


「それだけで十分危険だ」


「でも」


「助けを待ってる人かもしれない」


「わかってる」


守が。


低く言った。


「だから反対してる」


蒼汰の眉が寄る。


「どういう意味」


「俺だったら」


守が答える。


「助ける方に寄る」


「危険でも」


「ああ」


「だから」


少し。


自嘲するように笑った。


「俺の意見は」


「今は信用するな」


蒼汰は。


何も言えなかった。


父は。


自分の癖を。


もう知っている。


助けを求める誰か。


帰れない誰か。


そういうものを前にした時。


自分が。


冷静でいられないことを。


「……わかった」


蒼汰は言った。


「じゃあ三対一」


「多数決じゃないぞ」


「知ってる」


蒼汰は。


封筒を見る。


「でも」


「危ないから全部やめるのも」


「俺が勝手に決めることになる」


冬城が。


静かに頷いた。


エルナが白い板を起動する。


表面へ。


細い線が走った。


こちらから。


問いかけはしない。


ただ。


向こうが書くものを。


見る。


蒼汰たちは。


待った。


こん。


一回。


そして。


封筒の内側。


新しい文字が浮かぶ。


――守。


次。


――聞こえるか。


蒼汰の喉が動く。


父へ。


呼びかけている。


だが。


守は答えない。


答えれば。


接続が返るかもしれない。


蒼汰も。


口を閉じたまま。


見ている。


文字が。


消える。


次。


――約束を。


一文字ずつ。


――忘れたか。


守が。


息を呑んだ。


蒼汰は。


すぐに気づく。


「知ってるのか」


守が答えない。


「親父」


「……待て」


守の声が。


明らかに変わった。


記憶を。


探している。


封筒へ。


次の文字。


――十三人。


蒼汰の顔が強張る。


第74話。


父が話した。


古い帰還信号。


三、一。


十三人は帰ってきた。


そして。


十四人目が。


ついてきた。


「親父」


守が。


低く。


呟いた。


「……まさか」


文字が続く。


――十三人を帰した。


――十四人目を。


そこで。


一度。


止まった。


指の跡が。


封筒へ強く押しつけられる。


そして。


最後。


――置いてきた。


蒼汰が。


息を止めた。


「置いてきた?」


守は。


何も言わない。


「親父」


「……違う」


「何が」


「俺は」


守の声が。


掠れた。


「十四人目を連れて帰った」


蒼汰は。


覚えている。


父は言った。


十三人帰った。


十四人目が。


俺についてきた。


「じゃあ」


蒼汰は聞く。


「置いてきたって何だよ」


守は。


答えられなかった。


エルナが。


急に。


封筒へ近づく。


「守」


「思い出して」


蒼汰が代わりに聞く。


「何を?」


エルナが。


父の声が聞こえないまま。


言う。


「十四人目は」


「こっちへ来たあと」


「どうなったの」


蒼汰が止まる。


そうだ。


父は。


十四人目が。


ついてきた。


としか言っていない。


その後。


どうしたのか。


まだ。


聞いていない。


「親父」


長い。


長い沈黙。


そして。


守が。


言った。


「……いなくなった」


「いつ」


「帰還直後」


「どうやって」


「わからん」


守の声。


「十三人を確認して」


「振り返ったら」


「いなかった」


蒼汰の背中へ。


冷たい汗が流れる。


冬城が尋ねる。


「記録は」


蒼汰が代わりに聞く。


守は答えた。


「ない」


「名前も?」


「ない」


「姿は?」


「……覚えてない」


蒼汰の眉が。


強く寄る。


「親父」


「それ」


「おかしくないか」


「ああ」


守も。


ようやく。


認めた。


「おかしい」


人を。


十三人も。


命懸けで帰した。


その後ろへ。


十四人目がついてきた。


なのに。


顔も。


名前も。


姿さえ。


思い出せない。


そして。


今。


その出来事を知る誰かが。


父へ。


呼びかけている。


文字が。


また浮かぶ。


――守。


――約束した。


守が。


かすかに言う。


「約束……」


次。


――迎えに来ると。


蒼汰の目が。


大きく見開かれる。


「親父」


守が。


完全に黙った。


だが。


蒼汰には。


わかった。


父は。


今。


何かを。


思い出しかけている。


封筒へ。


さらに文字。


――ずっと。


――待っている。


そして。


最後の一行。


――まだ。


――帰っていない。


広間が。


凍りついた。


蒼汰は。


透明な箱から。


目を離せなかった。


帰っていない。


未帰還者。


父が。


約束した。


迎えに行くと。


それなのに。


父は。


死んだ。


「親父」


守が。


声を絞り出した。


「……名前」


「思い出した?」


「違う」


守は。


苦しそうに言った。


「名前じゃない」


「じゃあ何」


「呼び方だ」


蒼汰は。


息を止める。


守が。


ゆっくり。


言った。


「俺は」


「そいつを」


「十四番って呼んでた」


その瞬間。


透明な箱が。


激しく震えた。


こん。


こん。


こん。


こん。


今までとは違う。


何度も。


何度も。


内側から。


叩く。


エルナが叫ぶ。


「下がって!」


全員が。


一斉に。


距離を取る。


封筒へ。


大きな。


手形。


その横。


小さな。


手形。


蒼汰が。


止まる。


「……二人?」


守も。


何も言えない。


手形が。


さらに増える。


三つ。


四つ。


五つ。


大人。


子ども。


小さい手。


大きい手。


封筒の。


内側。


狭いはずの。


ただの封筒の向こうから。


次々と。


手が。


押し当てられる。


十。


二十。


数え切れない。


蒼汰の顔から。


血の気が引く。


「十四番って」


「一人じゃないのか?」


守が。


震える声で。


答えた。


「……知らない」


そして。


封筒いっぱいに。


一つの言葉が。


浮かび上がった。


――迎えに来て。


蒼汰は。


その文字を。


じっと見た。


怖い。


危険かもしれない。


罠かもしれない。


でも。


もし。


本当に。


待っている人たちなら。


父は。


約束を残した。


そして。


自分は。


父の役職全部を継いだわけじゃない。


ただ。


一つだけ。


引き受けた。


未帰還者への。


応答責任。


蒼汰は。


静かに。


言った。


「冬城さん」


「はい」


「エルナさん」


「いるわ」


「親父」


返事は。


少し遅れた。


「……いる」


蒼汰は。


三人を。


順番に見る。


「葬儀が終わったら」


一度。


息を吸う。


「調べます」


「でも」


透明な箱を見る。


「一人では行きません」


冬城が。


深く頷く。


エルナも。


笑わず。


頷いた。


守は。


長い沈黙のあと。


言った。


「それでいい」


蒼汰は。


封筒へ。


返事はしなかった。


ただ。


心の中で。


思った。


待っていてくれ。


とは。


まだ言えない。


必ず迎えに行く。


とも。


約束できない。


でも。


調べる。


知る。


そして。


自分で。


選ぶ。


その時。


封筒の手形が。


一つずつ。


消え始めた。


最後に。


小さな手が。


一つだけ。


残った。


その指先が。


ゆっくり。


文字を書く。


――そうた。


蒼汰の呼吸が。


止まった。


父の名ではない。


自分の名前。


守が。


頭の中で。


低く言った。


「蒼汰」


「そいつ」


「お前を知ってる」


小さな手形が。


消えた。


透明な箱の中。


封筒は。


完全に。


静かになった。


広間には。


誰も。


すぐに声を出せなかった。


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