第75話 父は帰ってこない
名簿の文字が。
ゆっくりと。
形を作っていく。
――奏多 守。
その横。
来訪理由。
――帰還。
蒼汰は椅子から立ち上がった。
「……親父」
頭の中から。
守の声。
「俺も知らん」
「お前の名前だぞ」
「見ればわかる」
「帰還って書いてある」
「それもわかる」
「じゃあ説明しろよ!」
「だから知らん!」
久しぶりに。
親子らしい言い合いだった。
だが。
誰も笑わなかった。
冬城は名簿へ顔を近づけている。
エルナも。
さっき使った計測器を取り出した。
「触らないで」
蒼汰の手が止まる。
「これも境界反応?」
「強い」
エルナの声から。
いつもの軽さが消えていた。
「さっきの封筒よりずっと強いわ」
透明な石が。
青。
白。
金。
そして。
見たことのない。
淡い灰色に光った。
エルナが眉を寄せる。
「何だ、これ」
蒼汰が聞く。
「知らないんですか」
「知らない」
「百八十何年も生きてるのに?」
「年齢の話をするな」
「すみません」
条件反射で謝った。
冬城が。
名簿の端へ指を置く。
「この名簿は」
静かに言う。
「来訪予定者を管理するためだけのものではありません」
蒼汰が冬城を見る。
「違うんですか」
「元々は」
冬城はページをめくった。
古い。
黄ばんだ紙。
文字。
印。
消された名前。
書き直された名前。
「帰還確認簿です」
「帰還確認……」
「はい」
境界を越えた者が。
本当に。
こちら側へ戻ったのか。
名前。
身体。
意識。
帰る場所。
それらを。
一人ずつ確認する。
そのための帳簿。
後になって。
守の弔問者があまりにも多く。
しかも。
普通の来客名簿では管理できない者まで混ざったため。
冬城が。
この古い帰還確認簿を。
弔問名簿として流用していた。
蒼汰は。
嫌な予感がした。
「じゃあ」
名簿を見る。
「ここに親父の名前が出たってことは」
冬城が答えない。
代わりに。
エルナが言った。
「何かが帰ってきた」
広間が。
静まり返る。
蒼汰は。
棺を見る。
父は。
そこにいる。
死んで。
横たわっている。
頭の中には。
時々。
声まで聞こえる。
それなのに。
何が。
今さら。
帰ってくる。
「親父」
「なんだ」
「お前」
蒼汰は。
少し迷った。
「ちゃんと全部、ここにいるのか?」
守が。
黙った。
蒼汰の心臓が。
一つ。
強く鳴る。
「親父?」
「……わからん」
今度は。
言い争う声ではなかった。
守自身も。
戸惑っている。
「俺は」
守が言う。
「死ぬ前に、一度だけ」
言葉を止める。
「戻り切れてないかもしれない」
蒼汰の顔が強張った。
冬城が棺を見る。
エルナは。
さらに表情を険しくする。
「いつ」
蒼汰が聞いた。
「死ぬ九日前?」
「違う」
「もっと前だ」
「どれくらい」
「……三十六年前」
エルナが。
息を止めた。
「守」
聞こえないはずの相手へ。
低く言う。
「まさか」
蒼汰がエルナを見る。
「知ってるんですか」
「三十六年前」
エルナは。
ゆっくりと口にした。
「守が六日間、行方不明になったことがある」
頭の中で。
守が言う。
「五日と十九時間だ」
蒼汰が怒鳴る。
「細かい!」
その一言で。
少しだけ。
空気が緩む。
だが。
すぐ戻った。
当時。
守は。
境界崩落事故へ巻き込まれた。
帰還者。
七人。
全員。
帰した。
最後に。
守自身が。
帰ってきた。
少なくとも。
そう記録されていた。
「身体検査もしたわ」
エルナが言う。
「記憶も」
「位相も」
「本人確認も」
「全部問題なし」
「じゃあ何が」
蒼汰が聞く。
エルナは答えた。
「一個だけ」
当時。
奇妙なことがあった。
守が帰還した。
その瞬間。
帰還確認簿に。
守の名前が。
二回。
記録された。
一つ目。
――奏多守 帰還完了。
二つ目。
――奏多守 帰還待機。
蒼汰が眉を寄せる。
「同じ人が?」
「そう」
「間違いじゃなく?」
「何度調べても消えなかった」
守本人は。
気にしなかった。
身体はある。
記憶もある。
仕事もできる。
七人も救えた。
なら。
問題ない。
そう言った。
「親父らしい……」
蒼汰が額を押さえる。
エルナが険しい顔で棺を見る。
「私は調べるって言った」
「でもこいつ」
「面倒だからいい」
「って」
頭の中から。
守が言った。
「その時は忙しかった」
蒼汰が怒る。
「お前、そればっかりだな!」
「帰還者七人いたんだぞ!」
「自分も帰還者だろうが!」
守が黙った。
正論だったらしい。
冬城が。
現在の名簿と。
古い記録を照合している。
やがて。
指が止まった。
「ありました」
一枚。
紙を取り出す。
三十六年前。
奏多守。
帰還完了。
そして。
その下。
薄い字。
――帰還待機。
その文字へ。
今。
黒い線が。
勝手に引かれた。
蒼汰が息を呑む。
線の横。
新しい文字が浮かぶ。
――完了。
冬城が。
呟いた。
「三十六年間」
「残っていた」
エルナも。
理解した。
「守の一部が」
「境界側に」
蒼汰は。
棺を見る。
「一部って何です」
エルナは首を振る。
「わからない」
「記憶かもしれない」
「身体情報かもしれない」
「ただの残留記録かもしれない」
「もっと別の何かかもしれない」
蒼汰は。
頭の中へ問いかける。
「親父」
「なんだ」
「今、何か変わった?」
沈黙。
守は。
自分自身を。
確かめるように。
しばらく黙っていた。
そして。
「あ」
蒼汰が身構える。
「何!?」
「思い出した」
「何を!」
守は。
小さく言った。
「弁当箱」
「……は?」
広間中。
誰も動かない。
「弁当箱?」
「ああ」
「三十六年前」
「なくしたと思ってた」
蒼汰は。
何を言えばいいかわからなかった。
エルナが。
目を閉じた。
冬城も。
わずかに。
肩を落とす。
「親父」
「なんだ」
「今すごく大事な場面なんだけど」
「俺にとっては大事だぞ」
「どんな弁当箱だよ!」
「巴にもらったやつだ」
蒼汰が止まった。
守の声が。
少し。
柔らかくなる。
「最初の結婚記念日に」
「弁当作ってくれて」
「箱も買ってくれた」
「俺」
「境界でなくしたと思ってた」
それだけ。
でも。
蒼汰には。
わかった。
帰ってきたのは。
力ではない。
英雄の記録でもない。
秘密の兵器でもない。
父が。
三十六年前。
帰り損ねた。
ほんの小さな。
日常だった。
「……そっか」
蒼汰は呟いた。
帰還とは。
そういうものなのかもしれない。
大きな身体が。
門を越えることだけじゃない。
名前。
家族。
食事。
服。
寝床。
思い出。
大事だった。
小さなもの。
父自身が。
もう忘れていた。
家へ持って帰るはずだったもの。
それまで。
帰って初めて。
帰還。
蒼汰は。
少し笑った。
「親父」
「なんだ」
「それ」
「ちゃんと帰ってきたな」
守は。
しばらく答えなかった。
それから。
「……ああ」
とだけ。
言った。
名簿の。
奏多守。
帰還。
その文字が。
淡く光る。
そして。
消えた。
完全に。
名前ごと。
蒼汰が驚く。
「消えた」
冬城が。
古い記録を確認する。
帰還待機。
その文字も。
消えている。
残ったのは。
たった一行。
――奏多守 帰還完了。
エルナが。
棺へ手を置いた。
「これで」
言う。
「全部帰ったのね」
蒼汰は。
その言葉に。
ほんの少し。
胸が痛んだ。
全部帰った。
なら。
本当に。
終わった。
父は。
帰ってきたのではない。
生き返ったのでもない。
むしろ。
逆だった。
今まで。
どこかに。
ほんの少しだけ。
帰り残していたものまで。
全部。
こちらへ帰って。
父の人生が。
ようやく。
閉じた。
エルナが。
蒼汰を見る。
「大丈夫?」
「はい」
蒼汰は答えた。
少しだけ。
声が詰まった。
「大丈夫です」
父が帰ってこないことは。
わかっていた。
でも。
帰ってこないことと。
全部帰ったことは。
違う。
今なら。
少しだけ。
その違いがわかる。
蒼汰は。
棺へ手を置いた。
「おかえり」
頭の中で。
守が。
笑った気がした。
「ただいま」
たった。
それだけだった。
やがて。
声が。
少し遠くなる。
蒼汰が眉を寄せた。
「親父?」
「なんだ」
「今」
「声」
守が。
少し黙る。
「……そうか」
「何」
「多分」
守は。
静かに言った。
「俺も」
「そろそろ」
蒼汰は。
手を強く握った。
「待て」
「まだ葬儀終わってないだろ」
「わかってる」
「なら勝手に消えるな」
守が笑う。
「勝手には決めない」
その言葉。
母が守った。
父が学んだ。
そして。
蒼汰が。
今まで何度も聞いてきた言葉。
「ちゃんと」
守が続ける。
「お前に言ってから行く」
蒼汰は。
俯いた。
そして。
小さく頷いた。
「……それならいい」
エルナは。
何も言わなかった。
冬城も。
次の名を。
まだ読まない。
少しだけ。
家族の時間を。
待ってくれていた。
しかし。
その時。
透明な保管箱。
父の封筒を入れた箱から。
音がした。
――こん。
蒼汰が顔を上げる。
さっきまでの。
三、一。
ではない。
――こん。
もう一度。
一定の間隔。
エルナが計測器を見る。
「これは」
冬城の顔色が変わる。
「違います」
蒼汰が聞く。
「何が」
冬城が。
ゆっくり。
透明な箱を見る。
「帰還信号ではありません」
――こん。
――こん。
――こん。
それは。
信号ではない。
まるで。
向こう側から。
誰かが。
扉を。
叩いているような音だった。
頭の中で。
守が低く言う。
「蒼汰」
「今度のは」
「俺も知らない」
透明な箱の中。
開けていない封筒。
その表面へ。
内側から。
ゆっくり。
指の形が。
浮かび上がった。




