第73話 父が唯一「もう来るな」と言った女
「帰せえええええっ!」
頭の中で。
父が叫んだ。
今まで聞いた中で。
間違いなく一番大きな声だった。
蒼汰は思わず耳を押さえる。
意味はない。
頭の中だから。
それでも押さえた。
「ちょ、親父うるさい!」
「帰せ!」
「何で!?」
「いいから!」
「説明しろ!」
その間にも。
赤い髪の女――エルナ・ヴァレンタインは、にこにこと笑いながら広間へ入ってくる。
両腕いっぱいの花束。
赤。
青。
黄色。
白。
見たことのない色まで混じっている。
葬儀へ持ってくるには。
少々。
いや。
かなり派手だ。
「守ー!」
エルナは棺へ向かって大きく手を振った。
「本当に死んでるー?」
「確認の仕方!」
蒼汰が思わず突っ込む。
「だって、この男、昔から三回くらい死亡届出てるもの」
「三回!?」
蒼汰は棺を見る。
「親父?」
頭の中から。
少し気まずそうな声。
「事故だ」
「死亡届が三回出る事故って何だよ!」
冬城が淡々と補足した。
「正確には、死亡推定二回、存在消失判定一回です」
「増えた!」
エルナが笑った。
「そのたびに帰ってくるのよ、この馬鹿」
「馬鹿って言ったな!」
守が反応する。
当然。
エルナには聞こえない。
だが。
彼女は棺へ向かって言った。
「今、馬鹿って言うなって怒ってるでしょ」
蒼汰が固まった。
「……何でわかるんです?」
「百十二年の付き合いを舐めないで」
エルナは胸を張った。
「守が怒る場所くらいわかるわ」
「親父」
「こいつ嫌いだ」
「絶対嘘だろ」
本当に嫌いなら。
百十二年も付き合わない。
エルナは棺の前まで来ると。
巨大な花束を。
どさり。
と置いた。
棺の半分が見えなくなった。
冬城の眉が微妙に動く。
「エルナ様」
「なに?」
「花は祭壇へ」
「あら」
「棺へ直接積まないでください」
「守、花嫌いだったから」
「ではなぜ大量に」
「嫌がらせ」
「帰せ!」
守が叫んだ。
蒼汰は。
とうとう笑った。
「なるほど」
「何がなるほどだ!」
「親父にも、こういう友達いたんだな」
これまで。
父を訪ねてきた人たちは。
父に救われた。
助けられた。
止められた。
人生を変えられた。
どこか。
父を大きく見ている人が多かった。
だが。
エルナは違う。
棺の前でも。
守を。
奏多守という英雄ではなく。
ただの。
長い付き合いの男として扱っている。
エルナが蒼汰を見る。
「もっと小さいかと思ってた」
「もう成人してます」
「知ってるわよ」
「さっき小さい頃のお風呂がどうとか」
「ああ」
エルナが手を叩いた。
「そうそう。守から聞いたのよ。あなた三歳くらいの頃――」
「言うな!」
守。
絶叫。
蒼汰の目が細くなる。
「……何したんだ、俺」
「聞きたい?」
「聞きたいです」
「聞くな!」
「お風呂で――」
「エルナ!」
頭の中なのに。
名前まで叫んだ。
エルナがふっと笑う。
「やっぱり怒ってるわね」
蒼汰は少し悩んで。
「あとで聞きます」
「やめろ!」
「もちろん」
「やめろおおお!」
冬城は。
ほんのわずか。
顔を横へ向けた。
多分。
笑っている。
「ところで」
蒼汰はエルナを見る。
「百十二年前からの知り合いって」
見た目は。
どう考えても。
二十代後半。
「何歳なんですか?」
エルナの笑顔が止まった。
冬城が。
一歩。
後ろへ下がった。
頭の中で。
守が言った。
「蒼汰」
「何」
「逃げろ」
「え?」
エルナが笑った。
にこり。
「蒼汰」
「はい」
「女性に年齢を聞くのはよくないわ」
「すみませんでした」
即答した。
何か。
本能的に。
謝った方がいい気がした。
エルナは満足そうに頷く。
「よろしい」
そして。
自分の頬を指でつついた。
「私はちょっと身体の時間を止めてるだけ」
「時間を?」
「正確には細胞老化の進行率を極端に落としてるの」
「それ大丈夫なんですか」
「今のところ」
「今のところ?」
「百八十三年くらいは」
蒼汰は黙った。
そして。
聞かなかったことにした。
エルナ・ヴァレンタイン。
異界都市国家ネブラ。
元中央研究院長。
生命位相学。
境界情報学。
帰還者医学。
その他。
いくつもの分野で名前を残した研究者。
冬城によれば。
現在使われている帰還者の身体検査法の基礎を作った人物でもあるという。
「親父とはどうやって知り合ったんです?」
「守が研究院の壁を壊した」
「また!?」
「違う!」
守が叫ぶ。
エルナが言う。
「正確には、壁の中から出てきたの」
「もっと悪い!」
百十二年前。
ネブラ中央研究院。
地下実験区画。
突然。
壁の一部が黒く歪み。
そこから。
奏多守が転がり出てきた。
「第一声が」
エルナは楽しそうに言った。
「水」
だった。
「……親父らしいな」
「三日間、境界迷走してたのよ」
「水くらい欲しくなる」
エルナは守へ水を与え。
身体を調べ。
帰還経路を調べ。
そして。
守が普通の遭難者ではないと知った。
そこから。
長い付き合いが始まった。
守がネブラへ来るたび。
エルナの研究院へ寄る。
異常な症例を持ってくる。
知らない鉱物を持ってくる。
未知の病気の患者を担ぎ込む。
時には。
本人が半死半生で来る。
「迷惑な患者だったわ」
「お互い様だろ」
守が言う。
蒼汰が代わりに伝える。
「親父が、お互い様だって」
「私は壁から入ってきたことないもの」
「ぐっ」
守が黙った。
蒼汰は少し笑った。
だが。
ここで。
ずっと気になっていたことを聞く。
「そんなに仲が良かったのに」
エルナが蒼汰を見る。
「何?」
「親父は何で」
少し迷って。
そのまま言った。
「もう来るなって言ったんですか?」
広間の空気が変わった。
ほんの少し。
エルナの笑顔が。
消えた。
守も。
何も言わなくなる。
冬城は口を挟まない。
エルナは。
しばらく。
棺を見ていた。
そして。
「私が」
言った。
「守を、生き返らせようとしたから」
蒼汰の呼吸が止まる。
「……え?」
エルナは。
静かに続ける。
正確には。
まだ死んでいなかった。
百十二年の間。
守には。
何度も。
帰れないかもしれない事故があった。
境界の向こうで。
身体そのものが。
ほとんど失われたことも。
一度。
あった。
その時。
エルナは。
考えた。
身体がなくても。
記録がある。
記憶がある。
境界に残った情報がある。
それを集めれば。
奏多守という人間を。
再構築できるのではないか。
蒼汰は。
「もう一人の蒼」を思い出した。
自分からこぼれ落ち。
境界側で。
一人の存在になった。
もう一人の自分。
エルナが頷く。
「そう」
蒼汰が何も言っていないのに。
まるで考えを読んだようだった。
「あなたが見たものと、考え方の根っこは近い」
身体。
記憶。
癖。
声。
情報。
それらを揃える。
そして。
新しい器へ。
戻す。
エルナは。
それを。
可能にしかけた。
「親父は怒ったんですか」
「ものすごく」
エルナは笑った。
だが。
その笑顔は。
さっきまでとは違う。
少しだけ。
寂しかった。
守は言った。
それは俺じゃない。
エルナは反論した。
記憶が同じ。
性格も同じ。
身体も同じ。
本人と区別できない。
なら。
何が違う。
守は。
答えた。
「俺が選んでない」
蒼汰は。
棺を見る。
父らしい。
本当に。
父らしい答えだった。
エルナは言った。
「私はそれでも止めなかった」
「どうして」
「死んでほしくなかったから」
短い。
それだけだった。
百年以上。
友達だった。
何度も。
死にかけて帰ってきた。
そのたび。
治した。
助けた。
怒った。
また来た。
だから。
次は。
帰ってこないかもしれない。
そう思った時。
怖くなった。
エルナは。
守本人の意思より。
守を失わないことを。
優先しようとした。
「それで」
エルナが棺を見る。
「守に言われた」
もう来るな。
俺を残すために。
俺を別のものへ変えるなら。
もう。
俺のところへ来るな。
蒼汰は。
何も言えなかった。
厳しい。
でも。
わかる。
父は。
人を救う時。
ずっと。
その人が帰ったあとを見ていた。
家族。
食事。
名前。
暮らし。
選択。
なら。
自分自身についても。
同じだった。
生きていることだけ。
残っていることだけが。
正解ではない。
エルナが言った。
「私は腹が立ったわ」
「でしょうね」
「三十七年間、会わなかった」
「長っ!」
思わず声が出た。
エルナが笑う。
「私たちにとってはそんなでもないわ」
「時間感覚がおかしい」
そして。
三十七年後。
エルナは。
突然。
守の前へ現れた。
守は。
最初に言った。
何しに来た。
エルナは答えた。
謝りに。
守は言った。
遅い。
エルナは言った。
三十七年しか経ってない。
守は言った。
長い。
そこから。
また。
付き合いが戻った。
蒼汰は。
少し笑う。
「じゃあ、『もう来るな』って」
「絶縁じゃないわ」
エルナが言った。
「宿題だったの」
蒼汰が首を傾げる。
「宿題?」
「人を残すことと、人を生かすことは違う」
エルナは。
長卓の上。
オットーの種籾袋を見る。
そして。
グスタフが置いた停戦徽章を見る。
「私は研究者だったから」
できるか。
できないか。
そこばかり見ていた。
できるなら。
やる。
治せるなら。
治す。
残せるなら。
残す。
でも。
守は。
その前に聞いた。
本人は。
それを望んでいるのか。
「……巴さんにも」
エルナが言った。
蒼汰が顔を上げる。
母の名前。
「会ったことがあるんですか」
「もちろん」
エルナが微笑む。
「あの人、強かったわね」
「母さんが?」
「守より怖かった」
「そんなに?」
頭の奥から。
守が言う。
「それは本当だ」
蒼汰は少し笑った。
エルナは続ける。
巴は。
エルナの研究を知っていた。
だから。
蒼汰が生まれた時。
一つだけ。
約束させた。
蒼汰に何かあっても。
本人の意思なく。
作り直さない。
残さない。
勝手に決めない。
「母さんらしい」
「そうね」
エルナは。
しばらく。
蒼汰を見る。
「あなた」
「はい」
「ちゃんと二人の子ね」
蒼汰は。
少しだけ。
照れた。
頭の中で。
守が嬉しそうにする。
「似てるって」
「さっき似てないって言っただろ」
「中身の話だ」
「都合いいな」
エルナが首を傾げる。
「何て?」
「喜んでます」
「でしょうね」
そして。
エルナは。
持っていた小さな鞄を開けた。
花とは別に。
黒い箱を取り出す。
薄い。
手のひらほど。
蒼汰の表情が変わる。
「これは?」
「私が今日来た本当の理由」
守が。
頭の中で。
息を呑んだ。
蒼汰にもわかった。
父が。
これを知っている。
エルナは。
箱を開いた。
中にあったのは。
一本の。
細い。
透明な筒。
そして。
小さな封筒。
表には。
父の字。
――エルナへ。
蒼汰は目を見開く。
「親父が?」
「預けられたの」
「いつ」
エルナが答える。
「守が死ぬ、九日前」
広間が。
完全に静かになった。
蒼汰は。
ゆっくり。
棺を見る。
「……親父」
返事がない。
「親父?」
まだ。
ない。
さっきまで。
あれほど騒いでいたのに。
エルナが封筒を持ち上げる。
「守は言ったわ」
もし俺が死んで。
蒼汰が。
自分の意思で。
俺の仕事に触れるところまで来たら。
これを渡してくれ。
それまでは。
絶対に見せるな。
蒼汰の喉が鳴った。
「中身は」
「知らない」
エルナは首を振った。
「私は約束を守った」
百十二年の付き合いで。
最後に。
ようやく。
勝手に開かなかった。
そう言って。
少し笑った。
「だから今日は」
棺を見る。
「宿題を返しに来たのよ」
蒼汰は。
封筒を見る。
父が。
死ぬ九日前。
自分の死後を想定して。
残したもの。
冬城も。
初めて見るらしい。
その表情が。
わずかに硬い。
エルナが。
封筒を差し出す。
蒼汰は。
すぐには受け取らなかった。
「これ」
聞く。
「今、開けないと駄目ですか」
エルナは。
一瞬。
目を丸くした。
そして。
笑った。
「いいえ」
「俺が決めていい?」
「もちろん」
蒼汰は。
数秒。
考えた。
それから。
封筒を受け取る。
だが。
開かなかった。
胸元へ。
大事にしまう。
「葬儀が終わってからにします」
冬城が蒼汰を見る。
エルナも。
何も言わない。
蒼汰は続けた。
「今は」
棺を見る。
「まだ親父に会いに来た人がいるから」
それを。
先に聞きたい。
父が死ぬ前に残した。
答え。
それがどれほど大事でも。
今。
ここへ来てくれた人を。
後回しにしたくない。
しばらくして。
頭の奥で。
小さな声がした。
「……そうか」
蒼汰は。
笑った。
「親父」
「なんだ」
「今、ちょっと安心しただろ」
「してない」
「嘘つけ」
エルナが聞く。
「何て?」
「してないって」
エルナは鼻で笑った。
「してるわよ」
頭の奥で。
守が呻いた。
「やっぱりこいつ嫌いだ」
蒼汰は。
今度こそ。
声を出して笑った。
エルナも笑う。
冬城も。
ほんの少しだけ。
口元を緩めた。
百十二年来の友人は。
最後に棺へ近づいた。
花に埋もれた父の顔を見る。
「守」
静かな声だった。
「今度は」
勝手に戻さない。
勝手に残さない。
あなたが。
自分で終わった場所を。
ちゃんと。
あなたの終わった場所にする。
エルナは。
棺へ。
軽く。
指先で触れた。
「じゃあね」
少しだけ。
声が震えた。
「今度こそ」
「ちゃんと、さよなら」
頭の中で。
父は。
何も言わなかった。
ただ。
蒼汰には。
何となく。
わかった。
父も。
きっと。
同じ言葉を。
返していた。
エルナが列へ戻る。
冬城が。
名簿へ視線を落とした。
だが。
次の名前を読む前に。
蒼汰の胸元。
そこへしまった。
父の封筒が。
一度だけ。
かすかに。
震えた。
蒼汰が止まる。
「……え?」
もう一度。
震える。
封筒ではない。
中に。
何か入っている。
エルナも振り返った。
その表情から。
さっきまでの笑みが消える。
冬城が低く言う。
「蒼汰様」
「はい」
「それを」
視線が。
蒼汰の胸元へ落ちる。
「今は絶対に開けないでください」
蒼汰の背中に。
冷たいものが走った。
頭の中で。
父が。
今度は。
はっきりと言った。
「蒼汰」
「それ」
「俺が入れたものじゃない」
蒼汰は。
動けなくなった。




