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父、奏多守はほら吹きではなかった  作者: てへろっぱ


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72/102

第72話 父に負けた将軍は、棺の前で敬礼した



扉が開いた。


最初に見えたのは、銀色の金属だった。


脚。


右脚の膝から下が、義足になっている。


床を踏むたび。


硬い音が鳴った。


一歩。


また一歩。


男は、ゆっくりと広間へ入ってきた。


大きい。


年齢は七十を越えているように見える。


白くなった短い髪。


左頬から顎へ走る古い傷。


右手には黒い杖。


だが。


支えとして使っているというより。


義足の歩幅を整えるためのものらしい。


胸には。


勲章がひとつもなかった。


軍人だというのに。


制服にも見える濃紺の上着は着ている。


しかし。


階級章も。


飾緒も。


肩章さえ外されていた。


ただ。


襟元に、小さな銀色の徽章だけがある。


剣を地面へ伏せた意匠。


蒼汰は立ち上がった。


男が止まる。


そして。


棺を見た。


長い。


本当に長い沈黙だった。


冬城が声を落とす。


旧東方連合軍、第十二攻城師団元司令官。


グスタフ・レインハルト様です


蒼汰は小さく頭を下げる。


奏多蒼汰です


知っている


低い声だった。


怖い声ではない。


ただ。


よく通る。


戦場で何千人にも命令を届けてきた声なのだろう。


グスタフは蒼汰を見た。


父親には似ていないな


よく言われます


そうか


そこで。


頭の奥から声がした。


失礼だろ


蒼汰は眉を寄せる。


親父も似てないって言ってただろ


俺が言うのと他人が言うのは違う


めんどくさいな


グスタフが片眉を上げた。


どうした


父が文句を言っています


ほう


まだ喋るのか、あの男は


少しだけ


では伝えてくれ


なんですか


うるさい


蒼汰は吹き出しそうになった。


頭の奥で。


守が言った。


あいつ昔からそればっかりだな


知り合いなんだな


知り合いというほど仲良くはない


グスタフが杖を進める。


仲良くなどなるものか


聞こえてるんですか?


聞こえん


だが、あの男なら何を言うかは大体わかる


それはそれで凄い。


グスタフは棺の前まで来た。


そして。


義足を揃えた。


杖を脇へ置く。


背筋を伸ばす。


右手を上げた。


敬礼。


ぴたりと。


一切の揺れもなく。


老いた元将軍は。


自分を敗北させた男の棺へ。


軍人として。


完璧な敬礼をした。


その姿勢のまま。


グスタフが言う。


第十二攻城師団。


元司令官。


グスタフ・レインハルト


奏多守殿へ


敗北の報告に参った


蒼汰は瞬いた。


敗北の報告?


グスタフは手を下ろす。


そうだ


何十年前の話ですか


五十四年前だ


だいぶ前だな


だが


まだ正式には報告していなかった


何をです?


グスタフは蒼汰を見る。


私が


あの日


完全に負けたことをだ


広間が静かになった。


グスタフは棺へ顔を向けたまま話し始める。


五十四年前。


東方連合と北方王国の間で戦争があった。


理由は。


土地。


水源。


交易路。


宗教。


過去の報復。


条約違反。


それぞれが。


それぞれに正しい理由を持っていた。


だから。


戦争になった。


グスタフは言う。


私は第十二攻城師団を率いていた


兵力、一万四千


工兵二千


攻城砲百八十門


騎兵三個連隊


当時の私は


自分が優秀な軍人だと信じていた


実際、優秀でした


冬城が言った。


四年間で十二要塞を陥落。


連合軍史上最年少の師団長です


余計なことを言うな


事実ですので


冬城は平然としている。


グスタフが小さく鼻を鳴らした。


そして。


十三番目の都市。


ラーデン。


そこを包囲した。


蒼汰が尋ねる。


その都市を親父が守ったんですか


違う


グスタフは即答した。


守は


ラーデン側ではなかった


蒼汰が止まる。


……じゃあ、どっちだったんです?


どちらでもない


その頃の奏多守は、戦争とは無関係の任務で現地に滞在していた。


境界異常。


帰還者保護。


そういう。


守本来の仕事だった。


だが。


戦争は。


そんな事情を待ってくれなかった。


グスタフは続ける。


ラーデンは落ちる寸前だった


城壁は二か所崩落


食糧は十日分以下


援軍は来ない


私は降伏勧告を出した


向こうは拒否した


だから私は決めた


翌朝


総攻撃を行う


蒼汰は何となく察した。


都市ひとつ。


総攻撃。


攻城戦。


その意味を。


グスタフは淡々と話す。


当時の軍規では


降伏勧告を拒否した城塞都市に対して


総攻撃後の略奪を一定時間認めていた


蒼汰の顔から表情が消える。


略奪……


兵への報奨だ


古い時代の軍では珍しくなかった


ただし


私は略奪時間を短くするつもりだった


十二時間


それを慈悲だと思っていた


グスタフは笑わなかった。


蒼汰も何も言えない。


五十四年前の。


戦争。


今の感覚だけで。


簡単に言えることではない。


それでも。


十二時間。


都市の中には。


兵士だけがいるわけではない。


老人。


子ども。


病人。


普通に暮らしている人間。


それくらいはわかった。


グスタフは言った。


夜明け前だった


私の本陣に


一人の男が来た


蒼汰が棺を見る。


親父ですね


ああ


軍服も着ていない


旗も持っていない


護衛もいない


一人で来た


いつものやつだ


蒼汰が呟く。


頭の奥で守が言った。


あの時は一人の方が早かった


そういうところだぞ


グスタフは続ける。


門兵が止めた


守は言った


司令官に会わせろ


当然、拒否された


するとあの男は


本陣の柵を越えた


蒼汰が額を押さえる。


不法侵入じゃん


軍事拠点だ


不法侵入どころか


普通なら即射殺だ


親父……


だが


撃てなかった


何でです?


グスタフは少し考えた。


全員


何が起きているのかわからなかった


蒼汰は想像して。


少しわかった。


戦争中。


夜明け前。


一万四千人の軍隊。


その本陣へ。


普通の格好をした父親が。


柵を越えて歩いてくる。


怖いというより。


意味不明だ。


守が頭の奥で言った。


ちゃんと手は上げてたぞ


そういう問題じゃない


グスタフは本陣へ通された守と対面した。


当時。


グスタフ三十三歳。


守は。


見た目こそ今と大きく変わらなかったという。


最初の言葉は。


攻撃をやめろ


だった。


私は断った


理由は?


敵だからだ


簡潔だった。


グスタフは都市を落とす。


それが任務。


敵軍は降伏しない。


だから攻める。


それだけ。


守は聞いた。


中に何人いる


兵力なら約三千だ


違う


全員だ


グスタフは答えられなかった。


軍人である彼は。


敵軍の人数なら把握していた。


城壁の高さも。


砲台の位置も。


食糧量も。


井戸の数も。


だが。


町に住む人間の総数は。


知らなかった。


奏多守は言った。


二万七千四百十一人いる


グスタフの目が、ほんの少し細くなった。


今でも覚えている


一人単位で言った


そして


こう続けた


そのうち


武器を持ってるのは三千二百


残りは?


私は言った


民間人だ


守は言った


じゃあお前が攻めるのは三千二百人じゃない


二万七千四百十一人だ


蒼汰は黙って聞いた。


グスタフが言う。


私は答えた


戦争とはそういうものだ


守は


そうか


とだけ言った


それから。


机の地図を見た。


グスタフが立てた。


攻城計画。


砲撃位置。


進軍経路。


突破予定地点。


守はしばらく眺めて。


言った。


これ


勝てるのか


私は当然だと答えた


損害は出るが


昼までには城内を制圧できる


すると


あの男は言った


じゃあ駄目だ


蒼汰が首を傾げる。


勝てるのに?


ああ


意味がわからなかった


私も聞いた


なぜだ


守は答えた


勝てると思ってるから止まれない


その言葉を。


グスタフは五十四年間。


忘れなかった。


グスタフは言う。


守は


私に負けろと言った


蒼汰が目を見開く。


負けろ?


一度だけ


命令を無視しろ


攻撃を中止しろ


司令官として負けろ


そうすれば


兵士は生きて帰れる


町の人間も生きる


私は怒った


当然だ


軍人へ


負けろと言ったのだからな


グスタフは。


守へ剣を向けた。


護衛も入ってきた。


天幕の中には。


殺気が満ちた。


だが。


守は逃げなかった。


ただ。


地図を指した。


ここ


東門の北


地下水路がある


蒼汰が瞬く。


地下水路?


ラーデンから外へ抜ける


古い避難路だった


都市側も存在を忘れていた


守は境界調査中に偶然見つけていた


そこから。


民間人を逃がせる。


負傷兵も。


戦えない者も。


だが。


一つ問題があった。


逃がすには。


時間が必要。


総攻撃が始まれば。


間に合わない。


守は言った。


朝まで待て


グスタフは拒否した。


命令では。


夜明けと同時に攻撃。


遅らせれば。


軍法会議。


下手をすれば処刑。


守は言った。


じゃあ理由を作る


何をしたんです


蒼汰が聞く。


グスタフが蒼汰を見る。


私の軍を


一人で止めた


蒼汰の顔が引きつる。


どうやって


橋を落とした


親父!


守が頭の奥で慌てる。


爆破じゃないぞ


聞いてねえよ!


冬城が説明した。


第十二攻城師団の主力部隊は


ラーデン東側の石橋を通る必要がありました


守様は橋を破壊していません


橋の基部に存在していた境界亀裂を一時的に表層化させ


通行不能にしただけです


もっと悪く聞こえるんだけど


翌日の昼には復旧しています


そういう問題でもない


グスタフは。


夜明けに攻撃できなくなった。


予定していた攻城砲も。


兵も。


進めない。


命令違反ではない。


事故。


想定外。


軍事行動不能。


そういう形を。


守は無理やり作った。


その間。


地下水路から。


ラーデン市民の退避が始まった。


老人。


子ども。


患者。


そして。


降伏を希望する兵。


グスタフは。


黙っていた。


知っていた。


守が何をしているか。


それでも。


攻撃を再開しなかった。


蒼汰が聞く。


気づいてたんですよね


ああ


止めなかったんですか


止めなかった


どうして


グスタフは長く黙った。


そして。


答えた。


怖くなった


蒼汰が少し驚く。


何がです?


勝つことがだ


グスタフは言う。


私は。


勝てる戦をしていた。


敵軍三千。


こちら一万四千。


兵站も。


火力も。


士気も。


こちらが上。


必ず勝てる。


だから。


その先を考えていなかった。


城門を破る。


敵を倒す。


旗を立てる。


報告書を書く。


昇進する。


それだけ。


だが。


守に。


二万七千四百十一人。


そう言われて。


初めて。


自分が。


何に勝とうとしていたのか。


わからなくなった。


グスタフは自分の義足を見る。


私は攻撃を延期した


市民退避を見逃した


そして


ラーデン守備隊へ


もう一度だけ降伏勧告を出した


今度は。


条件を変えた。


民間人への一切の危害禁止。


降伏兵の生命保障。


略奪禁止。


武装解除後。


全員を捕虜として扱う。


その条件で。


ラーデンは。


降伏した。


都市は焼かれなかった。


第十二攻城師団からも。


戦死者は出なかった。


蒼汰は小さく息を吐く。


……じゃあ


親父は


都市だけじゃなく


あなたの兵も


ああ


グスタフが頷く。


一万四千人


助けられた


その後。


グスタフは軍法会議へ送られた。


命令遅延。


独断での降伏条件変更。


敵兵への過度な保護。


当然。


処罰の対象だった。


蒼汰が聞く。


親父は?


来た


裁判に?


ああ


勝手にな


だろうな


守は証言台へ立ち。


言った。


攻撃を遅らせたのは俺だ


司令官は止めようとした


全部俺がやった


グスタフは。


その言葉に怒ったという。


嘘だったから。


グスタフ自身も。


途中から。


止める気などなかった。


守だけの責任ではない。


だから。


法廷で。


初めて。


グスタフは命令に逆らった。


私は言った


違う


私が決めた


攻撃しないと


私が決めた


守は横から


余計なこと言うな


と言った


グスタフは棺を見る。


だから私も言った


うるさい


蒼汰は笑ってしまった。


なるほど。


五十四年経っても。


変わらない。


グスタフは。


最終的に。


司令官職を解かれた。


階級も二つ下げられた。


だが。


処刑も。


投獄もされなかった。


その数年後。


戦争は終わる。


そして。


ラーデンでの降伏条件が。


新しい軍規の基礎になった。


降伏都市への略奪禁止。


民間人保護。


捕虜の生命保障。


それまで。


曖昧だったものが。


正式な条文になった。


グスタフは言った。


私は


あの男に軍人として敗北した


命令を遂行できなかった


都市を落とさなかった


功績も失った


だが


その後の人生で


一度も


あの日に勝てばよかったと思ったことはない


蒼汰は父の棺を見る。


それは。


父が勝った話ではなかった。


グスタフが。


負けることを選んだ話。


いや。


違う。


何に勝つかを。


選び直した話だった。


グスタフが胸元へ手を入れる。


小さな。


古い金属片を取り出した。


銀色。


剣を地面へ伏せた徽章。


今。


彼の襟についているものと同じ。


蒼汰が見る。


これは?


停戦徽章だ


ラーデン戦後


私の部下たちが勝手に作った


剣を抜かずに帰った兵の証


正式な勲章ではない


国から認められたものでもない


だから


今日まで


軍の式典では一度も着けていない


グスタフは。


その一つを。


棺の上へ置いた。


ただ。


今日は。


これを着けるべき日だと思った


蒼汰が尋ねる。


親父の分ですか


違う


グスタフは首を振った。


守は軍人ではない


これは似合わん


頭の奥から。


守が言う。


いらない


蒼汰は少し笑った。


本人もいらないって言ってます


そうだろうな


では、なぜ持ってきたんです?


グスタフは。


蒼汰を見た。


お前の分だ


蒼汰が固まる。


俺?


正確には


今すぐ渡すものではない


グスタフは徽章を棺から取り。


蒼汰の前へ。


差し出さなかった。


長卓の端に置いた。


いつか


お前が


勝てるのに


勝たない方を選んだ時


その時だけ


着けろ


蒼汰は。


しばらく徽章を見た。


それから言う。


そんな時


来ますかね


来る


グスタフは即答した。


お前は


奏多守の息子だ


絶対に来る


嫌な確信だな


頭の奥で守が笑った。


俺もそう思う


お前は黙れ


グスタフが杖を取り。


もう一度。


棺へ向き直る。


そして。


今度は敬礼ではなく。


深く頭を下げた。


奏多守


五十四年前


私はお前に負けた


今日


ようやく認める


私の


人生で最も誇れる敗北だった


頭を上げる。


グスタフの顔は。


泣いてはいなかった。


ただ。


とても穏やかだった。


ではな



私はまだ


もう少し生きる


貴様がいない世界が


どれだけ面倒になるか


見届けてやる


頭の奥で。


守が。


小さく答えた。


頼む


蒼汰は。


その一言だけは。


口に出した。


父が


頼むって


グスタフが止まる。


それから。


笑った。


初めて。


将軍ではなく。


ただの老人みたいに。


そうか


なら


仕方ない


長生きしよう


義足が。


床を鳴らす。


一歩。


二歩。


グスタフは。


列へ戻っていった。


蒼汰は。


長卓の端に置かれた。


小さな停戦徽章を見る。


勝った証ではない。


負けた証。


でも。


それを。


誇っていい日もある。


蒼汰は。


少しだけ。


わかった気がした。


冬城が名簿をめくる。


次の方ですが


蒼汰は先に言った。


今度は誰と揉めたんですか


頭の奥で守が言う。


毎回揉めてたみたいに言うな


毎回揉めてるだろ


冬城が答える。


次の方とは


揉めておりません


蒼汰がほっとする。


よかった


むしろ


非常に仲が良かった方です


それなら安心……


ただ


冬城が続けた。


奏多守様が


生涯でただ一度


自分から


「もう来るな」


と言った相手です


蒼汰の表情が止まった。


……仲良かったんですよね?


はい


非常に


じゃあ何したんだよ


応接室の向こうから。


明るい女の声が聞こえた。


守ー!


死んだって聞いたから来たわよー!


広間にいた全員が。


一瞬。


固まった。


冬城が。


珍しく。


眉間を押さえた。


頭の奥で。


父が叫んだ。


帰せ


蒼汰は目を見開く。


え?


今すぐ帰せ


なんでだよ!?


扉が勢いよく開いた。


赤い髪の女性が。


両手いっぱいの花束を抱えて立っていた。


見た目は。


どう見ても。


二十代後半。


だが。


冬城が紹介する。


異界都市国家ネブラ。


元中央研究院長。


エルナ・ヴァレンタイン様


奏多守様とは


百十二年前からのお知り合いです


蒼汰は。


女性と。


冬城と。


棺を順番に見た。


百十二年?


エルナが。


満面の笑みで言った。


あら


あなたが蒼汰ね


守から聞いてるわ


小さい頃


お風呂で――


親父が。


頭の中で。


過去最大級の声を出した。


帰せえええええっ!


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