第71話 春に蒔く一袋だけは、開けるな
オットー・グリュンは、棺の前に二つの袋を置いた。
片方は大きい。
使い込まれた麻袋で、ところどころ継ぎが当てられている。
もう片方は、その半分ほどしかない。
だが、小さい方だけは妙に丁寧だった。
厚手の布が二重にされ、口には古びた鉛の封印。
中央には、麦の穂を三本束ねた紋章が押されている。
蒼汰は二つを見比べた。
こっちが、食べる方ですか
大きい袋を指す。
オットーは頷いた。
当時、北部種子庫に残っていた通常備蓄の象徴です
じゃあ、小さい方が
種籾です
短い返事だった。
オットーはしゃがみ、小さな袋の封印へ指を触れた。
封は割れていない。
随分古いもののはずなのに、まるで昨日閉じたように残されていた。
これは、あの日から一度も開けておりません
蒼汰が眉を寄せる。
中身、大丈夫なんですか
もう種として使えるものではありません
でしたら、なぜ
捨てられなかったのです
オットーは棺を見た。
あなたのお父上と、私が初めて本気で殴り合いになりかけた日の袋ですから
蒼汰は少しだけ黙った。
それから冬城を見る。
殴り合い?
正確には、守様が種子庫へ入り、オットー様が扉の前に立ち塞がりました
冬城は淡々と言った。
守様は退けと三度。
オットー様は断ると三度。
四度目で守様が扉ごと押し開けようとなさいました
親父
蒼汰は棺を見た。
何してんだよ
頭の奥で、気まずそうな沈黙があった。
あの時は急いでた
それ、最近一番信用できない言い訳だからな
オットーの眉が、ほんの少し動いた。
やはり、まだ聞こえるのですか
たまに
では、よく言っておいてください
オットーは棺へ向かって言った。
今でも私は正しかったと思っている、と
頭の奥で守がぼそりと答えた。
ああ
蒼汰はため息をついた。
本人も認めてます
そうでしょうな
意外にも、オットーは満足そうだった。
あの男は、間違いを認めない男ではなかった
ただし
認めるまでが面倒だった
冬城が小さく頷いた。
そこは否定できません
するなよ
頭の奥で守が言う。
冬城は聞こえていないはずなのに、なぜか棺へ一度だけ視線を向けた。
オットーは話し始めた。
大飢饉が始まった年。
北部では、夏の終わりから雨が降らなかった。
畑は割れた。
井戸は浅いところから順に枯れた。
収穫量は平年の三割を切った。
冬へ入る前には、すでに村単位で食糧が尽き始めていた。
王都から救援物資は出た。
だが、足りなかった。
道も悪かった。
馬も減っていた。
運べる量にも限界があった。
そして、その冬。
北部最大の保管施設だった王立北部種子庫には、まだ大量の穀物があった。
ただし。
その多くは、翌春の播種用だった。
オットーは言う。
民衆から見れば、同じ麦です
腹が減っている者には、種籾も食糧もありません
袋を開けば食べられる
粉にすればパンになります
目の前で子どもが腹を空かせているのに、倉庫の中には麦が積んである
当然、こう言われました
なぜ出さない
人殺し
倉庫番が麦を抱え込んでいる
蒼汰は何も言えなかった。
想像できてしまった。
扉一枚。
その向こうには食べ物がある。
こちらでは誰かが倒れていく。
そこに理由があったとしても。
待てと言われる側には関係ない。
オットーは続けた。
そこへ、あなたのお父上が来た
いかにも親父が揉めそうだな
揉めました
即答だった。
守様は倉庫に入るなり、備蓄量を聞いた
私は帳簿を見せた
通常食糧分。
飼料分。
非常時分。
そして播種分。
あなたのお父上は全部見たあと、言いました
全部開ける
蒼汰は目を閉じた。
やっぱりか
はい
私は答えました
嫌です
ずいぶん簡潔ですね
長く説明する時間が惜しかった
オットーの声は静かだった。
守様は言った
外で人が死んでる
私は答えました
知っています
なら開けろ
開けません
なぜだ
春が死ぬからです
その言葉で。
初めて守が止まったという。
オットーは小さな種籾袋を持ち上げた。
これを食べれば、何人かは今日を越せる
だが春に蒔くものがなくなる
春に蒔けなければ、夏に収穫できない
夏に収穫できなければ、次の冬はもっと多く死ぬ
目の前で飢えている人間を見捨てろと言っているわけではない
今日を救うために
明日全員が死ぬ方法を選ぶな
私はそう言いました
蒼汰は棺を見る。
親父は?
怒っていましたよ
相当
どうせ、じゃあ今死にそうな子どもに春まで待てって言うのか、とか言ったんだろ
オットーが蒼汰を見た。
ほぼ、そのままです
……親子って嫌だな
守が頭の奥で言った。
俺は嬉しいけどな
黙ってろ
蒼汰が小さく呟く。
オットーは薄く笑った。
ですが。
そこで終わらなかった
あなたのお父上は、私の胸倉を掴む代わりに
もう一度帳簿を開いた
蒼汰が顔を上げる。
もう一度?
ええ
そして聞いた
春に絶対必要な量はどれだ
私は答えました
守様はまた聞いた
一粒でも余計に入れてないだろうな
私は腹を立てました
種籾を減らせと言われたと思ったからです
ですが違った
オットーは、大きい麻袋を指した。
守様は
春へ残す量を、まず確定した
そこには手をつけない
誰が泣こうと
誰が怒鳴ろうと
自分自身が開けろと言おうと
開けない
そう決めた
蒼汰は少し驚いた。
自分が開けろって言ってたのに?
はい
そのうえで
残り全部を机へ並べた
食用。
飼料。
軍用予備。
役所用。
王族用。
儀礼用。
輸送途中。
近隣領の予備。
そして
守様自身が持っていた帰還用備蓄
蒼汰の眉が動いた。
帰還用?
異界移動時、事故で戻れなくなった場合に備える個人用非常食です
冬城が説明した。
本来なら、絶対に手放してはいけないものです
……手放したんだろ
はい
全部
またか
蒼汰は額を押さえた。
オットーが続ける。
それでも足りなかった
すると守様は言った
この町に今日食えるもの、まだあるだろ
私はないと答えた
守様は言った
倉庫じゃない
蒼汰は嫌な予感がした。
何したんですか
王宮へ行きました
冬城が目を伏せる。
北部離宮で、収穫祈願祭の宴席が予定されていました
蒼汰が固まった。
まさか
はい
オットーが頷く。
宴会用の麦、肉、塩漬け、乾燥豆。
来賓用の菓子。
酒造用の穀物。
全部止めました
親父
守が小さく言う。
宴会は後でもできる
そういう問題じゃないだろ
結果として、王族の冬季晩餐会は薄い豆粥になりました
冬城が淡々と補足した。
陛下は?
おかわりなさいました
いい人だな!
蒼汰は思わず言った。
オットーが、初めてはっきり笑った。
ええ
あの王は良い方でした
それから。
北部の配給は組み直された。
種籾には手をつけない。
だが、種籾以外の食べられるものは徹底的に探す。
王宮も。
軍も。
商会も。
寺院も。
学校も。
食糧を持っている場所は全部洗い直す。
馬を殺して運ぶようなやり方はしない。
輸送を止めて別の誰かを飢えさせない。
一つずつ。
専門家と相談しながら。
春を残したまま。
冬を越す方法を探した。
オットーは言った。
あの日。
最初のあなたのお父上なら
種籾まで開けていた
私はそう思います
蒼汰は否定しなかった。
多分、そうだった。
目の前で泣いている一人を見たら。
父は、扉を壊した。
規則を破った。
順番を変えた。
それで助かった人は確かに多い。
でも。
だからこそ。
その後ろにいる人を見落とすこともあった。
春の人間。
まだ生まれていない腹。
来年、その畑から取れるはずだったパン。
父には最初、それが見えなかった。
オットーが見せた。
蒼汰は静かに言った。
それで親父は、考え直したんですね
はい
そして、翌朝
私は謝罪されました
蒼汰は驚いた。
親父が?
非常に不本意そうな顔で
そこまで言わなくていいだろ
頭の奥で守が言う。
なんて謝ったんですか
オットーは少し考えた。
すまん
お前が止めなかったら、春まで食った
それだけです
蒼汰は笑いそうになった。
父らしい。
妙に短い。
格好もつけない。
オットーは小さな種籾袋を持ち上げた。
そして春。
この袋と同じ倉から出した種が、北部全域へ配られました
蒔かれた麦は育った。
大豊作ではない。
平年にも届かなかった。
それでも。
夏には穂が出た。
秋には刈れた。
次の冬。
北部では、前年のような餓死者は出なかった。
オットーの手が、袋を強く握る。
守様が冬を救った、と言う者は多い
ですが私は違うと思っています
あの人が救ったのは
春です
広間が静かになった。
蒼汰は父の棺を見る。
今日だけじゃなく。
帰ったあと。
眠ったあと。
朝起きたあと。
次の日。
そして。
次の季節。
今まで聞いた父の話が、少しずつ一本につながっていく。
父は最初から全部できたわけじゃない。
人に怒鳴られた。
止められた。
間違えた。
考え直した。
それでも。
次に同じことが起きた時には。
前より少しだけ。
遠くを見るようになった。
蒼汰は呟いた。
親父
なんだ
ちゃんと人の話、聞けたんだな
時々な
時々かよ
蒼汰は小さく笑った。
オットーが立ち上がる。
そして。
小さな種籾袋を長卓へ置こうとして。
止まった。
いえ
これは違いますな
そう言って、袋を蒼汰へ差し出した。
俺に?
はい
これは勲章ではない
感謝状でもない
守様の物でもない
あの日。
あの人と私が
二人とも自分が正しいと思って争い
最後に
どちらか一方ではなく
冬と春の両方を残した証です
蒼汰は袋を受け取った。
重くはなかった。
だが。
妙に手に残る重さだった。
オットーは深く頭を下げた。
奏多蒼汰様
どうか
お父上の正しさだけを継がないでください
蒼汰は目を見開いた。
間違えたことも
止められたことも
人の話を聞いて考え直したことも
全部合わせて
奏多守という人でした
蒼汰はしばらく返事をしなかった。
それから。
小さく頷く。
はい
俺も
間違えたら
誰かに止めてもらいます
オットーの表情が緩んだ。
それがよろしい
蒼汰は少し考えて付け足した。
できれば、胸倉掴まれる前に
それは努力してください
冬城が即答した。
頭の奥で守が笑った。
広間の空気が、ほんの少し軽くなった。
オットーは棺へ最後の一礼をして、列へ戻っていく。
蒼汰は種籾袋を長卓へ置いた。
黒箱。
旗。
勲札。
鍵。
帳簿。
手袋。
数え切れない父の痕跡。
その中へ。
春へ残された一袋が加わった。
冬城が次の名簿を開く。
ですが
次の方は少々事情が違います
蒼汰が嫌そうな顔をする。
また親父が何かやったんですか
冬城は一拍置いた。
はい
ただし今回は
守様が助けた方ではありません
応接室の扉の向こう。
金属が床に触れる。
重い音がした。
一度。
二度。
杖ではない。
もっと重い。
武器にも聞こえる。
冬城が告げた。
旧東方連合軍
第十二攻城師団元司令官
グスタフ・レインハルト様
奏多守様によって
都市ひとつを攻め落とす命令を
軍勢ごと止められた方です
蒼汰は扉を見る。
……今度は
助けられた側じゃないのか
扉の向こうから。
低い男の声がした。
その通りだ
私は
奏多守に敗北させられた人間だ
扉が開いた。




