第69話 二本で一組とは、同じ色という意味ではない
応接室へ入ってきた女からは。
革。
蜜蝋。
染料。
乾いた麻紐。
そして。
何百人もの足元を見続けてきた店の匂いがした。
年齢は七十代後半ほど。
背は低い。
だが腰は曲がっておらず。
小さな歩幅で、まっすぐ蒼汰の前まで進んでくる。
黒の礼装の上には、濃い焦茶色の前掛け。
正式な弔問の場には似合わない。
それでも。
彼女にとっては。
長年、客の靴へ触れる時に身につけてきた前掛けこそが。
最も正しい正装なのだろう。
胸元には。
一足の靴。
左右へ伸びる二本の紐。
中央に小さな結び目。
それらを組み合わせた銀の徽章。
右手には。
青い紐。
黄色い紐。
一本ずつ束ねた小さな輪を持っている。
後ろには若い靴具商が二人。
一人は細長い販売台帳。
もう一人は、平たい革箱と、青と黄色の旗包みを抱えていた。
冬城が告げる。
王都南市場。
元靴具商、イルゼ・マイヤー様です。
ミナ・アルベル様が。
最初の賃金で。
右足用に青。
左足用に黄色。
異なる色の靴紐を一本ずつ購入された際。
市場の組売り規則を
一人分だけ変更された方になります。
女――イルゼは蒼汰へ深く頭を下げた。
奏多蒼汰殿。
私はイルゼ・マイヤー。
王都南市場で五十二年間。
靴。
靴底。
留め金。
靴紐を売っておりました。
そして守殿に。
一組とは。
店が同じ色へ揃えた二本ではなく。
客が両足へ使うため選んだ二本だと
言い直された者です。
蒼汰は一拍置き。
頭の奥へ問いかける。
守。
何だ。
最初は二組買わせようとしたんだよな。
勧めただけだ。
ミナさんの給料で?
予備があった方がいいと思った。
本人は。
二本だけ欲しかったんだろ。
ああ。
父さん。
また本人より先に
正しい買い方を決めたな。
……そうだな。
イルゼの眉が、わずかに動く。
守殿は。
二組買えばよい。
余った二本は
切れた時の予備になる。
非常に合理的だと
三度説明されました。
父さん。
二度だ。
イルゼ様。
三度です。
一度目は店内。
二度目は価格表の前。
三度目は。
余った紐を保護院へ寄付すれば
無駄にならないと仰った時です。
守が黙る。
蒼汰は小さく息を吐く。
最近。
弔問客たちが。
父の回数をごまかさせなくなってきている。
蒼汰は椅子へ座る。
イルゼも向かいへ腰を下ろした。
机の上へ、販売台帳が置かれる。
商品名。
色。
長さ。
素材。
組数。
仕入額。
販売額。
在庫数。
その日の頁。
靴紐。
麻蝋引き。
長さ。
七十センチ。
青。
在庫、五組。
黄色。
在庫、三組。
販売希望。
青一本。
黄色一本。
販売結果。
特別混成一組。
価格。
通常一組分。
残在庫。
青、四組と一本。
黄色、二組と一本。
その横へ。
父の字が書かれていた。
余った一本を
半端と呼ぶな
次に別の色を一本だけ欲しい者へ
渡せる在庫だ
蒼汰は記録を見つめる。
在庫管理が。
かなり面倒になりそうだな。
なりました。
イルゼは即答した。
当時。
南市場の靴紐は。
同じ色。
同じ長さ。
同じ素材。
二本を一組として仕入れ。
一組として販売していました。
左右の靴へ。
同じ条件の紐を使う。
それが一般的だったからです。
一組を開封し。
一本だけ販売すれば。
残った一本は
正規の商品単位から外れる。
仕入台帳は。
一組。
販売台帳も。
一組。
在庫確認も。
一組単位。
一本という欄がありませんでした。
蒼汰は少し眉を寄せる。
一本だけ売ると。
帳簿上では。
一組全部を売ったことになるんですか。
はい。
または。
一組が破損したとして
損失処理する。
どちらにしても。
残った一本を
正式な商品として扱えません。
守殿は。
残った一本を
次に売ればよいと言いました。
私は。
その一本を。
どの組の。
どの仕入れ日の。
どの染料番号の在庫として残すのか。
台帳へ書く欄がないと説明しました。
守殿は。
欄を作れと。
蒼汰は額へ手を当てる。
父さんらしいな。
必要だった。
イルゼが続ける。
ですが。
市場全体の台帳様式を。
靴紐二本のために
即日変更することはできません。
仕入れ組合。
染色工房。
税務所。
市場監。
全てが。
組単位の数量で確認している。
私が勝手に一本欄を増やせば。
帳尻が合わなくなる。
税を少なく申告したと
疑われる可能性もある。
そこで私は。
二組を購入するよう
ミナ様へ勧めました。
青一組。
黄色一組。
四本。
価格も二組分。
余った二本は。
保管する。
誰かへ譲る。
予備にする。
それが。
規則上。
最も簡単でした。
蒼汰は青と黄色の紐を見る。
でも。
ミナさんが欲しかったのは
一本ずつ。
はい。
イルゼは頷く。
ミナ様は。
自分には靴が一足しかない。
必要な紐は二本。
青を右。
黄色を左。
余分な二本へ払う金は。
今はない。
そう仰いました。
買えないわけではありません。
銀貨一枚。
銅貨八枚。
手元にはある。
二組買えば。
残りの金は
ほとんどなくなる。
ですが。
買おうと思えば買えた。
だから守殿は。
予備にもなると考えられたのでしょう。
頭の奥で。
守が答える。
ああ。
靴紐は。
いずれ切れる。
一本だけ買うより。
二組買った方が
長期的には困らない。
それ自体は。
間違った考えではない。
蒼汰は少しだけ目を細める。
でも。
ミナさんは。
今。
自分で選んだ二本だけを
買いたかった。
ミナ様は。
守殿へ言いました。
私が初めて受け取った給料を。
将来切れるかもしれない紐へ
先に使わないでください。
私は。
今日。
右と左へ違う色を通したい。
明日の予備は。
次に働いた金で買うかもしれない。
買わないかもしれない。
それを。
今の私の代わりに決めないでください。
守は黙る。
蒼汰は頭の奥へ尋ねる。
その時。
何て返したんだ。
最初は。
今日買っておけば
次に来る手間が減ると。
父さん。
だから三度目まで行ったのかよ。
……ああ。
イルゼが淡々と続ける。
ミナ様は。
守殿へ。
次に店へ来るかどうかも
自分で決める。
手間を減らしたいのは
守殿であって。
自分ではない。
そう答えました。
私は。
非常に正しいと思いました。
蒼汰も深く頷いた。
父は。
効率を考えると。
本人があとで選ぶはずのことまで。
先にまとめて決めようとする。
それが。
相手のためになると思っている。
守。
今なら分かるか。
ああ。
予備を持つかどうかは
ミナが決めることだった。
イルゼが販売台帳の別頁を開く。
問題は。
本人の希望が正しいと分かっても。
店側が。
一本ずつ売れる仕組みを
持っていなかったことです。
守殿は。
青一組と。
黄色一組。
それぞれを開封。
青一本。
黄色一本。
ミナ様へ渡す。
残った二本は。
店の見本にすればよいと提案しました。
蒼汰は少し考える。
見本なら。
在庫から外せるんじゃないですか。
一度だけなら。
ですが。
同じ希望を持つ客が
次に来た時。
また別の二組を開けるのか。
残った一本は。
毎回見本へするのか。
見本ばかり増えます。
守殿は。
残った青と黄色を
次の混成一組として売ればよいと。
それなら。
確かに。
在庫として残せます。
ですが。
次の客が。
青と黄色を欲しがるとは限りません。
赤と白かもしれない。
黒と緑かもしれない。
残りの一本が。
いつ売れるか分からない。
日焼け。
染料落ち。
湿気。
長く置けば。
反対側の新しい一本と
色味が合わなくなる。
靴紐は。
ただの紐ではない。
左右で。
長さ。
太さ。
伸び方。
違いすぎれば。
歩きにくい。
守殿は。
なら。
半端在庫を。
長さ。
素材。
製造日。
一本ずつ記録すればよいと。
父さん。
また台帳を増やそうとしたな。
一冊だけだ。
イルゼ。
三冊でした。
何のために。
蒼汰が尋ねる。
色別。
長さ別。
入荷日別。
守が答える。
必要だろ。
一冊の中で欄を分ければいいだろ。
最終的には
そうなりました。
イルゼが小さく息を吐く。
守殿は。
物を残そうとすると。
まず帳簿を増やす方でした。
物の置き場より先に。
記録の置き場を作る。
おかげで。
書類棚が
半端な紐より先に埋まりかけました。
蒼汰は笑いを堪える。
父さん。
何だ。
小さな靴具店に
帳簿三冊を増やそうとするなよ。
一本を見失うよりいい。
書く人の時間も考えろ。
……それで減らした。
最終的に作られたのは。
混成紐票。
小さな一枚の札でした。
イルゼが革箱を開く。
中には。
薄い木札が入っていた。
表。
色。
青。
黄色。
長さ。
七十。
七十。
素材。
麻蝋引き。
麻蝋引き。
製造時期。
同月。
販売形態。
本人選択混成一組。
裏。
残在庫。
青一本。
黄色一本。
次回混成可。
品質再確認日。
一か月後。
同じ色かどうかではない。
二本が。
同じ一足へ安全に使えるか。
その条件だけを記録する。
色は。
客が選ぶ。
店は。
長さ。
素材。
状態。
そこだけ確認する。
二本で一組とは。
同じ色の二本ではなく。
一人が。
両足へ使う二本。
守殿は。
そのように市場規則を書き換えるべきだと仰いました。
蒼汰は札を見る。
でも。
左右で違う色を使う人って。
当時は珍しかったんですよね。
非常に。
イルゼは答える。
一部の旅芸人。
子ども。
市場の呼び込み。
それくらいでした。
大人の見習い職人が。
左右で違う色の紐を使えば。
目立つ。
からかわれる可能性もある。
私は。
ミナ様へ。
本当に違う色でよいのかと
三度確認しました。
守殿は。
確認しすぎだと私を責めました。
蒼汰は頭の奥へ言う。
父さん。
自分は二組買えって
三度言ったくせに。
それとこれは別だ。
全然別じゃないよ。
イルゼが続ける。
私は。
客が選んだ物を売る前に。
人前で使うことまで
本当に理解しているか確かめたかった。
守殿は。
本人が青と黄色と言っているなら
売ればよいと。
ですが。
ミナ様は。
私の三度の確認へ。
三度とも。
はいと答えました。
一度目。
右と左を
すぐ見分けられるから。
二度目。
同じ色でなければならない理由が
自分には分からないから。
三度目。
自分で働いた金で。
初めて選ぶ物だから。
他人から見て正しい組ではなく。
自分が一組だと思う二本を買いたいから。
蒼汰は小さく息を吐く。
名前を選ぶ前。
ミナは。
靴紐を選んだ。
青と黄色。
小さな選択。
だが。
おそらく。
誰かから与えられた候補ではなく。
自分で欲しいと思った物を。
自分で稼いだ金で買う。
最初の行為だった。
守。
だから。
父さんは。
何としても買わせたかったのか。
ああ。
途中からな。
最初は。
二組買わせようとしてたけど。
……それはもういいだろ。
よくない。
記録は正直に残すんだろ。
守が黙る。
イルゼが青と黄色の紐を机へ置く。
私は。
青一組を開け。
黄色一組も開けました。
それぞれ。
長さを測る。
蝋の状態。
伸び。
先端金具。
問題なし。
青一本。
黄色一本。
二本を。
一つの紙帯で巻きました。
紙帯には。
混成一組。
そう書いた。
価格は。
通常一組と同じ。
二組分ではありません。
ミナ様は。
銅貨を一枚ずつ
自分で数えました。
守殿は横から。
間違えていないか
一緒に数えようとしました。
父さん。
本人が数えてるのに
口出したのか。
数え間違えると困る。
イルゼは。
ミナ様が。
守殿の手を
軽く叩いたと記録しています。
叩かれたのかよ。
軽くだ。
父さん。
それで黙った?
一枚多い気がした。
黙ってないじゃん。
イルゼの口元が、少しだけ上がる。
ミナ様は。
守殿を店の外へ出しました。
そこまで?
蒼汰が尋ねる。
はい。
私は。
初めての買い物を。
客本人だけで
最後まで終えさせたいと考えました。
守殿は。
店の入口から
かなり心配そうに見ていましたが。
代金。
品物。
釣銭。
全て。
ミナ様と私だけで確認しました。
蒼汰は少し驚く。
父が。
外へ出されたまま。
中へ戻らなかった。
守。
よく待てたな。
イルゼが扉を閉めた。
閉められたのかよ。
外から開けるのは
さすがに違うと思った。
少しは分かってるんだな。
買い物を終えたミナ様は。
店の前の腰掛けへ座りました。
古い靴紐を外す。
右足から。
切れかけた灰色の紐。
左足も。
同じ灰色。
保護院から支給された物です。
新しい青い紐を。
右足へ。
黄色い紐を。
左足へ。
守殿は。
左右が逆ではないかと尋ねました。
父さん。
本人が決めたんだよ。
青が左でもよかったんじゃないかと思った。
それを決めるのも本人だよ。
ミナ様は。
守殿へ。
自分から見て右が青。
左が黄色。
明日。
気が変わったら入れ替える。
そう答えました。
守殿は。
毎日入れ替えると
紐の摩耗が偏ると。
父さん。
……余計だった。
ミナ様は。
今度は。
守殿の靴を見ました。
両方とも。
同じ黒い紐。
片方は。
途中で結び直され。
長さが違っていた。
ミナ様は。
守殿へ。
同じ色でも。
同じ状態ではない。
それでも一組として使っている。
なら。
色が違っても。
自分が両足へ使えば一組だと。
守殿は。
そこでようやく。
完全に黙りました。
蒼汰は父の気配へ言う。
負けたな。
負けたわけじゃない。
何て返したんだ。
……その通りだと。
それを負けたって言うんだよ。
認めただけだ。
イルゼが続ける。
ミナ様は。
店の前を。
新しい紐で三往復しました。
ほどけないか。
長さは合っているか。
片方だけ強く締まらないか。
歩いて確かめた。
問題なし。
そのあと。
足元を何度も見ながら。
工房へ戻られました。
守殿は。
少し後ろを歩いていた。
靴紐がほどけていないか
見ていたのでしょう。
父さん。
ああ。
転ばないか気になった。
でも。
声は掛けなかったんだな。
一度だけ。
何て。
黄色の方が
少し長く見える。
掛けてるじゃん。
ミナ様は振り返らず。
歩けば揃うと答えたそうです。
蒼汰は小さく笑った。
イルゼが販売台帳の後ろを開く。
本人選択組売り規則。
通常。
二つ以上の商品を。
一組として販売する場合。
製造者の組み合わせを使用する。
ただし。
用途上。
組み合わせを変更しても安全であり。
客本人が。
異なる商品を一組として選んだ場合。
本人選択一組として販売できる。
店は。
品質。
長さ。
規格。
安全性。
そこを確認する。
色。
模様。
左右。
順番。
使用者が選べる部分へ。
店側の普通を
強制しない。
また。
残った単品を。
破損品や廃棄品として扱わない。
単品在庫として記録。
次の客が。
別の組み合わせを希望した時に使える。
ただし。
長期保管で品質が変化した場合。
再検査。
組み合わせられない状態なら。
修理材料。
見本。
単品用途。
別の使い道を探す。
イルゼは。
青と黄色を売ったあと。
残った青一本。
黄色一本。
それらを棚へ置きました。
二週間後。
別の客が来ました。
右足の靴紐だけ
犬に噛み切られた男性です。
左は。
まだ使える。
新しい一組を買う金はある。
ですが。
使える左紐を捨てたくない。
色は。
茶色。
残っていた青一本を見て。
これでよいと選びました。
右、青。
左、茶。
さらに一週間後。
残っていた黄色一本は。
荷札を束ねるため
一本だけ長い紐を探していた客へ売れました。
靴に使わなくてもよかったのか。
蒼汰が尋ねる。
品質上。
荷札へ使って問題はありません。
靴紐という商品名が。
使い道を一つに限定していただけです。
守殿は。
そこでも。
靴紐として仕入れた物を
荷札用として売れば税区分が変わるのではないかと。
父さん。
細かいな。
必要だろ。
イルゼは。
市場監へ確認し。
紐類として統一しました。
守殿の懸念が。
珍しく。
制度を簡単にした例です。
珍しくって言われてるぞ。
守が少し不満そうに黙る。
イルゼが平たい革箱の底から。
二本の古い靴紐を取り出す。
青。
黄色。
色は薄れ。
表面の蝋もほとんど落ちている。
途中には。
何度も結び直した跡。
先端の金具も。
新しい物へ交換されている。
これは。
ミナ様が。
最初に購入された二本です。
蒼汰は驚く。
まだ残ってたんですか。
はい。
何年も使われました。
切れたあとも。
短く繋ぎ直し。
工具袋の留め紐。
名札箱の取っ手。
帳簿を束ねる紐。
使い道を変えながら残った。
現在は。
成人名選択相談部で。
名前の候補札を束ねる紐として
使われていました。
ただし。
本式の日だけ。
守殿へお見せするため
ミナ様から預かりました。
守が頭の奥で言う。
予備を買わなくても。
かなり持ったな。
蒼汰は少し笑う。
父さん。
何だ。
本人の選び方で。
十分だったな。
ああ。
イルゼは青と黄色の旗包みを開く。
旗の地は。
左右で色が違う。
右半分が青。
左半分が黄色。
中央には。
一足の茶色い靴。
左右の紐は。
それぞれ違う色。
靴の下へ。
二本で一組。
そう刺繍されている。
本式の日。
南市場靴具商会では。
この旗を半旗とします。
同時に。
全ての組売り商品を確認します。
二本。
二個。
二枚。
二足。
同じ色。
同じ形。
同じ模様。
それだけを理由に。
組み合わせを固定していないか。
客本人が。
別の組み合わせを望み。
安全や機能に問題がないなら。
選べるようにする。
ただし。
本人が迷っている時に。
選択肢を全て崩して
大量に見せることもしません。
父さん。
四百八十二個のことだぞ。
分かってる。
イルゼが続ける。
候補は。
一度に三つまで。
もっと見たいと言われれば。
次の三つ。
見たくないと言われれば。
通常の一組を出す。
同じ物を選ぶ自由も。
違う物を選ぶ自由も。
どちらも残します。
また。
異なる組み合わせを選んだ客へ。
目立つ。
変に見える。
後悔する。
そうした言葉で
店側の好みを押しつけません。
安全上の注意と。
周囲の好みは分ける。
紐が短いなら止める。
色が違うだけなら止めない。
守殿が。
二組買わせようとし。
帳簿を三冊作ろうとし。
最後には店外へ出されたことで
作られた規則です。
守が頭の奥でぼそりと言う。
店外へ出されたことは
制度と関係ない。
イルゼは父の棺がある方角を見る。
大いにあります。
客本人へ。
自分で選び。
自分で払い。
自分で受け取る時間を渡す。
そのためには。
善意で口を出す者を
店外へ出す必要がある場合もあります。
蒼汰は笑いを堪えられなかった。
父さん。
何だ。
弔問客に。
正式に店から追い出されてるぞ。
買い物が終わるまではな。
戻ったのかよ。
靴紐の状態を確認するために。
やっぱり戻ってるじゃん。
イルゼの厳しい表情も。
少しだけ和らいだ。
最後に。
父の字が残る紙片が差し出される。
一組とは
店が決めた同じ物の数ではない
使う者が
一緒に使うと選んだ物だ
余るからと
余分まで買わせるな
残った一本は
次の誰かの選択肢として残せ
蒼汰は紙片を何度も読み返した。
父は。
余ることを嫌った。
使える物。
時間。
道。
食事。
水。
全て。
無駄にしない方法を考える。
だが。
無駄にしないことと。
必要のない物まで。
今の人へ持たせることは違う。
余る物は。
次の人へ残せばいい。
今の人に。
予備という名で
背負わせる必要はない。
守。
何だ。
父さん。
俺に。
二十三通全部の予備説明とか
用意してないだろうな。
予備説明?
一通読むたび。
本当はこういう意味だったって
別紙が三枚ずつ出てくるとか。
守が黙る。
父さん。
……補足はある。
何枚。
一通目は。
五枚。
多いよ。
本文より長いだろ。
説明不足を防ぐためだ。
それを。
一通読んだ時に
全部渡すつもりだった?
必要なら。
蒼汰は青と黄色の紐を見る。
補足も。
俺が必要って言った分だけにして。
でも。
誤解が。
したら聞く。
分からなければ聞く。
父さんが。
先に全部背負わせるな。
守の気配が少しだけ縮む。
……分かった。
一通。
一つの話。
湯呑み二つ。
それだけでいい。
蒼汰は静かに言った。
余った説明は。
次に必要になった時まで
残しとけ。
守は少し黙ったあと。
ああ。
短く答えた。
イルゼが立ち上がる。
守殿。
あの日。
あなたは。
ミナ様へ。
将来困らないよう
四本買わせようとしました。
私も。
在庫を困らせないよう
同じ色二本を売ろうとしました。
どちらも。
本人が今日。
何を履きたいかを
後ろへ置いていた。
守が答える。
ああ。
蒼汰が伝える。
ああって。
イルゼは続ける。
ミナ様は。
青と黄色を選びました。
後日。
右と左を入れ替えた日もあります。
両方青にした日も。
片方だけ古い灰色へ戻した日もある。
最初に選んだ組み合わせを。
一生守る義務はありません。
選んだことは。
次も同じ物を選ぶ約束ではない。
その日。
自分で選べたことに
意味があったのです。
守の声が低く返る。
分かった。
蒼汰は伝えた。
分かったって。
イルゼは深く頷く。
では。
ご子息へ渡す二十三通も。
一通目を読んだからといって。
二通目も読むと
勝手に決めないでください。
守の気配が固まる。
蒼汰は先に答える。
それは。
俺が決めます。
イルゼは蒼汰へ目を向ける。
はい。
受け取る者が
一通ずつ選んでください。
読みたくない日は。
読まなくてよい。
二通読みたい日は。
二通でもよい。
ただし。
守殿。
一度に二十三通を並べ。
どれからでも選べとは
言わないように。
守。
……三通ずつにする。
三つずつ出す癖が付いてるな。
でも。
それくらいならいい。
蒼汰は少し笑った。
イルゼは父の棺がある方角へ。
青と黄色の紐を掲げる。
守殿。
南市場靴具商会。
本日の混成一組販売。
十七件。
うち。
安全規格不一致により
組み合わせを止めたもの。
二件。
本人が。
通常の同色一組へ戻したもの。
五件。
違う色を選び。
そのまま購入したもの。
十件。
同じ物を選んだ者も。
違う物を選んだ者も。
どちらも。
自分で決めました。
守が静かに答える。
頼む。
蒼汰は伝えた。
父さんが。
頼むって。
承りました。
イルゼは深く頭を下げ。
応接室を去った。
扉が閉まる。
革。
蝋。
染料。
そして。
青と黄色。
二本の古い紐が残った。
蒼汰は。
二本を並べて持ち上げる。
同じ色ではない。
長く使われ。
擦れ方も違う。
それでも。
ミナが。
自分の両足へ通した時。
確かに一組だった。
冬城が。
古い靴紐。
混成紐票。
南市場靴具商会旗。
それらを長卓へ運ぶ。
そして。
次の名簿を開いた。
蒼汰様。
うん。
次の方は。
ミナ様が。
青と黄色の靴紐で
初めて工房へ出勤された日。
入口で。
左右の色が違う靴を
作業規則違反として止められた。
元工房安全監、ハンス・ヴェルナー様です。
蒼汰は顔を上げる。
買えたのに。
工房へ入れなかったのか。
はい。
当時の木工組合では。
作業中。
左右で同じ規格の靴具を使用すること。
そう定められていました。
守が頭の奥で言う。
色は規格じゃない。
でも。
規則には。
同色同型と書かれていたんだろ。
ああ。
何で色まで。
木屑。
塗料。
血。
付着を見つけやすくするためだった。
蒼汰は青と黄色の紐を見る。
左右の色が違う。
それ自体は。
安全を損なわないように見える。
だが。
規則へ色が入った理由には。
作業中の異常を
早く見つける目的があった。
次に待っていたのは。
好きな色だから通すのでもなく。
規則だから止めるのでもない。
安全を守るために。
本当に同じでなければならない部分と。
違っていてもよい部分を。
一つずつ分け直した朝の話だった。
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