第67話 名前が決まる前でも、今日の給料は今日のもの
応接室へ入ってきた男からは。
削った木と。
乾いた朱肉の匂いがした。
木札。
契約板。
職人印。
賃金受取証。
一本の木材を商品へ変える者ではない。
その仕事が。
誰によって。
いつ行われ。
いくらの価値になったのか。
記録へ残し続けてきた者の匂いだった。
年齢は七十代半ばほど。
身体は細く。
背筋はまっすぐ伸びている。
黒い礼装の上には、濃い黄土色の肩布。
胸元には。
木槌。
開かれた手。
二つに割られた木札。
それらを組み合わせた銀の徽章が留められていた。
腰には。
大小七本の職人印が下げられている。
名工。
親方。
組合監。
検品官。
役目ごとに印が違うらしい。
後ろには若い組合吏が二人。
一人が厚い賃金台帳。
もう一人が、平たい木箱と、黄土色と青色の旗包みを抱えていた。
冬城が告げる。
王都木工職人組合。
元契約監、ベルント・ハウザー様です。
ミナ・アルベル様が。
まだ正式な生活名を選ばれていなかった頃。
本人名のない就業契約と。
最初の賃金支払いを認められた方になります。
男――ベルントは蒼汰へ深く頭を下げた。
奏多蒼汰殿。
私はベルント・ハウザー。
王都木工職人組合で四十三年間。
見習い契約。
製作品の帰属。
賃金支払いを管理しておりました。
そして守殿に。
名前が決まるまで給料を預かるというのは。
預かる側にだけ都合のよい言葉だと責められた者です。
蒼汰は一拍置き、頭の奥へ問いかける。
守。
何だ。
ミナさんの給料。
最初は払われなかったのか。
支払日は決まっていた。
だが。
本人名のない受取証へ
署名できないと言われた。
それで預かることになった?
ああ。
父さんは怒っただろ。
かなり。
何て言った。
名前を決めるまで腹も減らないのか、と。
ベルントの眉がわずかに動く。
ほぼ、そのままです。
蒼汰は額へ手を当てた。
父らしい。
正しいことを言っていても。
最初の言い方だけで、相手を怒らせる。
蒼汰は椅子へ座る。
ベルントも向かいへ腰を下ろした。
机の上へ、分厚い賃金台帳が置かれる。
職人名。
見習い名。
所属工房。
作業日。
作業内容。
製作数。
検品結果。
日当。
受領署名。
組合印。
その頁の途中。
本人名。
未選択。
仮識別。
非公開連結番号。
工房内呼称。
新人。
作業内容。
樫材名札の研磨。
穴開け。
縁取り。
完成数。
二十七枚。
検品合格。
二十四枚。
日当。
銀貨四枚、銅貨八枚。
受領署名。
空欄。
支払状態。
組合預かり。
その横へ。
父の字が強く書き込まれていた。
働いた日は今日だ
名前が決まるのは先でも
今日の賃金まで先へ送るな
蒼汰は文字を見つめる。
でも。
署名がないと。
本人へ渡した証明ができないんですよね。
はい。
ベルントは迷わず答えた。
組合が賃金を支払う時。
本人が受取証へ署名する。
文字を書けない者は。
本人印を押す。
手が使えない者は。
証人二名の前で受領意思を示す。
何らかの形で。
誰が受け取ったかを
記録へ残さなければならない。
口頭だけで渡せば。
親方が。
もう払ったと言える。
見習いが。
まだ受け取っていないと言える。
横取り。
二重請求。
計算違い。
後から確かめる方法がなくなります。
蒼汰は小さく頷いた。
給料を止めたいわけではない。
払ったことを。
正しく記録したかった。
ミナ様の場合。
本人名がない。
正式な署名ができない。
救助番号の赤三号は。
仕事の契約へ使わないと
すでに決められていた。
非公開連結番号は。
組合の契約監しか閲覧できない。
親方や支払係へ見せれば。
救助記録を公開しないために分けた意味がなくなる。
そこで。
生活名が決まるまで。
賃金を組合が預かり。
正式名登録後に
まとめて支払う。
それが。
最も安全だと判断しました。
守が頭の奥で言う。
安全なのは
金を持ってる組合だけだ。
蒼汰は少し眉を寄せる。
ベルントも同じことを言われたのだろう。
守殿は。
組合が預かれば
金は失われないと言う私へ。
金は失われなくても。
今日。
ミナが使える夕食代は失われる。
そう言われました。
私は。
保護院で食事は出ると答えた。
守殿は。
働いた者が。
保護されているから給料を待てと言われるのは。
支払いではなく
管理だと仰いました。
応接室が静かになる。
ミナには。
寝床がある。
食事もある。
衣服も配られる。
だから。
今すぐ金を渡さなくても
困らないように見える。
だが。
働いて得た金を。
何に使うか。
いつ使うか。
本人が決められない。
それでは。
生活を始めたことにはならない。
父さん。
最初は。
名前の代わりに
赤三号の印を使わせろって言わなかったか。
守は少し黙る。
言った。
やっぱり。
ベルントが厳しい顔で頷く。
私は拒否しました。
赤三号は。
ミナ様の救助記録。
公開の受取証へ残せば。
工房の支払係。
親方。
会計監。
税務吏。
多くの者へ。
ミナ様が身元不明児だったことを
知らせることになる。
守殿は。
番号を書かず。
非公開連結番号を使えばよいと提案。
それも拒否しました。
非公開番号を。
賃金支払係が見られるようにすれば。
非公開ではなくなる。
守殿は。
では名前を選ばせろと。
父さん。
……ああ。
直前に。
急いで名前を決めさせるなって
ミナさんに怒られたばかりだろ。
覚えていた。
覚えてて言ったのかよ。
給料が必要だと思った。
それで名前を急かしたら。
同じことだろ。
ああ。
守の声が少しだけ小さくなる。
分かったのは。
ミナにもう一度怒られたあとだ。
ベルントの口元が、ほんの少しだけ緩む。
ミナ様は。
守殿へ。
給料を受け取るために
名前を買うつもりはない。
そう仰いました。
蒼汰は目を伏せる。
名前を決めれば。
働ける。
給料も受け取れる。
だが。
生活に必要なものを人質にして。
本人の選択を早めさせるなら。
それは自由に選んだことにはならない。
ベルントが賃金台帳の別頁を開く。
守殿は。
ようやく。
名前を使わず。
それでも。
本人が受け取ったと証明できる方法を考えようとされました。
最初の提案は。
手形へ指紋を押すこと。
蒼汰は少し考える。
それなら本人確認できるんじゃないですか。
技術的には可能でした。
ですが。
指紋は一度記録すれば
本人が後から変えられない。
さらに。
当時の犯罪捜査記録でも
指紋を使い始めていた。
身元不明の子どもだけへ。
賃金のために
身体情報を提出させるのは不公平です。
守殿は。
全職人へ指紋を出させれば公平だと仰いました。
父さん。
何だ。
話を大きくしすぎだろ。
私もそう思います。
ベルントが即答した。
組合員四千人分。
保管庫。
照合官。
誤読防止。
情報管理。
賃金支払い一件のために
組合制度全体を作り直すところでした。
守がぼそりと反論する。
長期的には使えた。
指紋を出したくない人もいるだろ。
それで却下された。
次の案は。
本人の手形。
朱肉で手のひら全体を
受取証へ押す。
これも。
身体情報の問題。
毎回汚れる問題。
紙を大量に使う問題。
全て却下。
三つ目。
ミナ様が。
自分だけの印を作る。
蒼汰は顔を上げた。
名前の印じゃなくてもいいんですか。
それまで。
本人印には。
名前の一部。
家紋。
工房紋。
どれかを使うのが通常でした。
誰の印か。
見て分かる必要があると
考えられていたからです。
しかし。
ミナ様には。
まだ名前がない。
家紋もない。
正式な所属工房も見習い中。
そこで守殿は。
本人だけが作り。
本人だけが持つ形なら。
名前でなくても本人印になるのではないかと提案しました。
ベルントが平たい木箱を開く。
中には。
小さな木製の印が入っていた。
親指ほどの大きさ。
持ち手には。
文字が刻まれていない。
印面には。
三本の短い線。
そのうち一本だけ。
途中に小さな欠けがある。
蒼汰は印を見つめる。
これは何の形ですか。
何の意味もない形です。
ベルントが答える。
少なくとも。
最初は。
ミナ様が。
練習用の木片へ
三本の線を彫った。
三本目で。
刃が少し滑り。
中央が欠けた。
守殿は。
その形なら誰とも重ならないと
すぐ本人印へ使おうとしました。
父さん。
本人に聞く前に?
……ああ。
ベルントが頷く。
ミナ様は。
失敗した形を
勝手に自分の印へするなと怒りました。
当然だな。
蒼汰が言う。
守の気配が少し縮む。
ですが。
ミナ様は。
少し考えたあと。
その形を自分の印へ使うと
ご自身で決められました。
蒼汰は意外に思う。
なぜですか。
ミナ様は。
欠けた線を。
失敗だから捨てるのではなく。
自分が最初に作った形として残したい。
そう仰いました。
ただし。
守殿が選んだからではない。
自分が選び直したから使う。
そのことを
記録へ必ず書けと求められた。
ベルントが賃金台帳の記載を指で示す。
本人印。
三線一欠。
作成者。
本人。
形状選択。
本人意思確認済み。
救助番号との公開連結。
なし。
非公開連結記録。
契約監保管。
生活名決定後。
継続使用または変更を
本人が選択。
文字の名前ではない。
過去を表す番号でもない。
本人が。
自分で選んだ形。
それなら。
公開の受取証へ押しても。
赤三号だった過去は知られない。
名前を決めたあとも。
使い続けるか。
新しい名前印へ変えるか。
本人が選べる。
それで解決したのか。
守が頭の奥で言う。
まだだった。
何が足りなかった。
印を持ってきた者が
本人とは限らない。
ベルントが頷いた。
印は盗めます。
落とすこともある。
親方が預かると言って
本人の代わりに押す可能性もある。
そこで。
割符を作りました。
若い組合吏が、木箱の中から二枚の細い木札を取り出す。
元は一枚だったのだろう。
中央で。
不規則に割られている。
片方には。
日当、銀貨四枚、銅貨八枚。
作業日。
工房番号。
検品数。
そして。
三線一欠の印。
もう片方にも。
同じ記録と印。
二枚を合わせると。
割れ目がぴたりと重なる。
片方をミナ様。
片方を組合が持つ。
支払時。
本人が。
自分の割符。
本人印。
二つを持参。
組合側の割符と
割れ目を照合。
印も照合。
さらに。
その日の作業内容を
本人へ尋ねる。
三つが一致した時。
賃金を渡す。
本人印だけではない。
割符だけでもない。
本人しか答えにくい作業記録。
複数で確認したのです。
蒼汰は少し眉を上げる。
でも。
毎日そんなことをしたら。
支払いに時間がかかりませんか。
かかりました。
最初は。
一人あたり五分以上。
組合からは。
賃金を一日ずつ払わず。
週末へまとめるべきだという意見も出た。
守殿は。
日払いで雇ったなら
支払い側の都合で週払いへ変えるなと反対。
そのあと。
照合方法を簡略化しました。
作業内容を毎回口頭で聞くのではなく。
割符へ。
本人しか選んでいない小さな確認印を
追加する。
ミナ様は。
三線一欠の横へ。
小さな丸を一つ置きました。
支払いの時。
組合吏が。
丸は何番目の線の横かと尋ねる。
本人が。
欠けた線の下と答える。
短い確認。
割符。
印。
返答。
三つで。
およそ一分。
それでも。
通常の署名よりは時間がかかります。
父さんは。
もっと早くしろって言わなかったのか。
言った。
ベルントに怒られた。
何て。
給料を早く渡すことと。
別人へ渡すことは違う、と。
また同じこと言われてるじゃん。
守は何も返さなかった。
ベルントが続ける。
最初の支払日。
ミナ様は。
自分の割符と。
三線一欠の印を持って。
組合窓口へ来ました。
私は。
組合側の割符を出す。
割れ目。
一致。
印。
一致。
確認質問。
欠けた線の下。
回答。
一致。
私は。
銀貨四枚。
銅貨八枚を。
ミナ様の前へ置きました。
彼女は。
すぐには取らなかった。
しばらく。
自分が働いて得た金を見ていた。
そして。
一枚ずつ数え。
小さな布袋へ入れました。
蒼汰は静かに息を吐く。
保護院から与えられた金ではない。
誰かの善意でもない。
自分で働き。
自分の印で受け取った。
最初の賃金。
ミナ様は。
受取証へ。
三線一欠の印を押しました。
名前欄は。
選択中。
その横へ。
本人印による受領。
そう記録された。
組合預かりではない。
赤三号への支払いでもない。
まだ名前を選んでいない。
目の前の一人へ。
その日の賃金を渡した証明です。
蒼汰は木の印へ触れる。
文字ではない。
だが。
本人が選んだ形。
名前が決まる前でも。
自分のものを受け取れる。
父さん。
ミナさん。
最初の給料を何に使ったか知ってるか。
守が答える。
靴紐。
銀貨四枚もあったのに
靴じゃなくて紐?
靴は保護院から支給されてた。
紐が片方だけ。
何度結んでもほどけたらしい。
ミナの最初の買い物は。
高価なものではなかった。
自分で働いた金で。
自分の靴を。
自分が歩きやすい形へ直すための紐を買った。
ベルントの表情が少し和らぐ。
守殿は。
そのことを聞き。
もっと記念になる物を買えばよいのにと仰いました。
父さん。
……ああ。
ミナ様は。
歩く時に毎日使う物だから
十分記念になると答えました。
それで納得したのか。
ああ。
あと。
片方だけ色が違うと
気にならないか聞いた。
余計なこと言ってるな。
ミナは。
左右違う方が間違えないと答えた。
何を間違えるんだ。
右と左。
そこまで分からなくならないだろ。
守は少し不満そうに黙った。
ベルントは賃金台帳の後ろを開く。
本人名未選択者賃金支払規定。
生活名が未確定でも。
労働契約を結べる。
労働した日から。
賃金請求権が発生する。
名称決定。
身元捜索。
成人登録。
それらを理由に。
賃金を組合。
保護院。
雇用主が預かってはならない。
本人が希望した場合のみ。
保管制度を利用できる。
受領方法は。
本人選択印。
割符。
証人。
音声確認。
身体情報以外の秘密質問。
本人の事情へ合わせて選ぶ。
指紋など。
変更できない身体情報の提出を
身元不明者だけへ求めない。
公開記録へ。
救助番号を使用しない。
生活名が決まったあと。
以前の賃金記録を。
新しい名へ繋げるか。
本人印のまま残すか。
本人が決める。
ミナ様は。
生活名を選んだあとも。
三線一欠の印を使い続けました。
なぜですか。
自分が。
名前を選ぶ前にも。
働き。
給料を受け取り。
生活していた証だからです。
ミナ・アルベルになる前の自分を。
名前がなかったから
存在しなかったことにはしたくない。
そう仰いました。
蒼汰は小さく頷いた。
名前を選んだ日が。
人生の始まりではない。
その前にも。
働き。
怒り。
迷い。
靴紐を買った。
一人の人間としての時間がある。
ベルントが黄土色と青色の旗包みを開く。
黄土色の地に。
青い空白の名札。
その下へ。
二つに割られた木札。
中央には。
三線一欠の印。
本式の日。
王都木工職人組合では
この旗を半旗とします。
同時に。
全ての支払窓口で。
保留賃金の確認を行います。
名前が未確定。
身元照会中。
改名手続き中。
記録連結中。
それらを理由に。
本人の意思なく
預かられている賃金がないか。
一件ずつ確認します。
ただし。
確認できない者へ
急いで金を渡すこともしません。
本人のものを。
本人へ。
本人が受け取れる形で渡す。
署名ができなければ
別の確認方法を作る。
名前がなければ。
名前以外で。
本人が自分だと示せる形を
本人と一緒に選ぶ。
守殿が。
最初。
番号を使おうとし。
指紋を集めようとし。
名前を急がせ。
ミナ様に三度怒られた末。
ようやく辿り着いた方法です。
守が頭の奥でぼそりと言う。
三度ではない。
ベルントは。
四度です。
何で聞こえたみたいに答えるんだよ。
蒼汰は笑いそうになる。
一度目。
赤三号を使用する案。
二度目。
全組合員の指紋登録案。
三度目。
名前を先に選ばせる案。
四度目。
三線一欠を
本人へ聞かず印に決めたこと。
守が黙る。
蒼汰は伝えた。
父さんが。
三度じゃないって言ってました。
ベルントは深く頷く。
守殿。
記録は正直に残せと。
御者へ仰ったそうですね。
四度です。
守の気配が縮む。
……四度だ。
蒼汰は少し笑いながら伝える。
四度だって認めました。
ベルントの厳しい顔が、わずかに和らいだ。
それなら結構です。
最後に。
父の字が残る紙片が差し出される。
名前は
賃金を受け取るための許可証じゃない
今日働いた者の金を
明日の書類へ預けるな
署名ができないなら
本人と一緒に別の受け取り方を作れ
ただし
急ぐからと確認まで本人から奪うな
蒼汰は紙片を何度も読み返した。
父は。
自分が何かを渡す側になると。
急いだ。
早く。
今すぐ。
間に合ううちに。
だが。
本人のためだと急ぎすぎると。
選ぶ時間や。
確認する権利まで。
奪うことがある。
ミナの賃金は。
その日に渡す必要があった。
だが。
どんな印を使うかまで。
父が決める必要はなかった。
守。
何だ。
父さんも。
俺に何か返してないもの
あるんじゃないか。
金か。
金じゃない。
話。
時間。
二十三通。
守は黙る。
でも。
今日全部返せとは言わない。
一通ずつでいい。
前にも聞いた。
それで。
受取証はどうする。
父の気配が少し揺れる。
受取証?
父さんが。
ちゃんと一つ話したって
残す印。
必要か。
必要。
途中で。
言ったつもりだったって
誤魔化すから。
守は少し考えた。
何を印にする。
蒼汰は机の上の三線一欠を見る。
父さんが選べ。
ただし。
俺に聞く前に
勝手に決めるなよ。
……分かった。
父は。
少しだけ悩んでいるようだった。
その時間を。
蒼汰は急かさなかった。
ベルントが立ち上がる。
守殿。
あの時。
私は。
賃金を組合で預かることが
ミナ様を守ると思っていました。
組合が持っていれば。
盗まれない。
失われない。
計算も残る。
ですが。
守っていたのは。
金だけでした。
守が頭の奥で答える。
ああ。
蒼汰が伝える。
ああって。
ベルントは続ける。
賃金は。
保管されるために支払われるのではありません。
受け取った者が。
使う。
残す。
贈る。
貯める。
自分で決めるために支払われる。
ミナ様が。
最初の給料で。
左右の色が違う靴紐を買った時。
私はようやく理解しました。
組合が預かっていたなら。
あの靴紐は。
正式名が決まるまで
存在しなかったでしょう。
守の声が低く返る。
間に合ってよかった。
蒼汰が伝える。
間に合ってよかったって。
ベルントは一度だけ頷いた。
はい。
ただし。
守殿。
次に誰かへ何かを渡す時は。
本人が受け取ったあと。
何へ使うかまで
口を出さないでください。
守が答える。
努力する。
蒼汰は眉を上げる。
努力するって。
守殿。
そこは。
分かったと答えるところです。
ベルントの声が厳しくなる。
守の気配が小さくなる。
……分かった。
蒼汰は笑いを堪えながら伝えた。
分かったって。
それなら結構です。
ベルントは深く頭を下げる。
父の棺がある方角へ。
胸元の七本の職人印を。
一度だけ鳴らした。
小さな木と金属の音。
守殿。
本日の賃金支払い。
保留、零。
本人確認未完了。
二件。
どちらも。
支払いを止めたままにはせず。
本人と受領方法を相談中です。
守が静かに答える。
頼む。
蒼汰が伝える。
父さんが。
頼むって。
承りました。
ベルントは応接室を去った。
扉が閉まる。
削った木。
朱肉。
銀貨の冷たい匂い。
そして。
三本の線と。
小さな欠けのある印だけが残った。
蒼汰は。
二枚の割符を合わせる。
不規則な割れ目が。
ぴたりと一枚へ戻る。
守。
何だ。
父さんから俺へ返す話の印。
決まった?
まだだ。
四百八十二個から選ぶなよ。
そこまで候補はない。
何個。
……十二。
多いよ。
三つずつ出せ。
蒼汰が言うと。
守は少し黙った。
分かった。
父が。
かつて誰かに教えられた方法を。
ようやく自分へ使おうとしている。
冬城が。
三線一欠の印。
二枚の割符。
職人組合旗。
それらを長卓へ運ぶ。
そして。
次の名簿を開いた。
蒼汰様。
うん。
次の方は。
ミナ様が最初の賃金を預けようと訪れた。
王都市民貯蓄院。
元窓口長、フリーダ・ケルナー様です。
蒼汰は顔を上げる。
給料は受け取れたのに。
今度は預けられなかったのか。
はい。
当時の貯蓄口座は。
正式名がなければ
開設できませんでした。
守が頭の奥で言う。
現金で持たせればいいと
最初は思った。
でも。
父さん。
ミナさんは。
保護院の共同部屋に住んでたんだよな。
ああ。
盗まれる危険があった?
それもある。
守は少しだけ間を置く。
何より。
使う分と。
残す分を。
本人が自分で分けたいと言った。
蒼汰は二枚の割符を見る。
名前がなくても。
働いた証明はできた。
給料も受け取れた。
だが。
その金を。
明日のために残す場所まで。
名前を決める日へ待たせてよいわけではない。
次に待っていたのは。
正式名のない少女へ。
誰かが代わりに管理する預かり金ではなく。
本人だけが開けられる。
最初の貯蓄箱を作った日の話だった。
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