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父、奏多守はほら吹きではなかった  作者: てへろっぱ


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66/102

第66話 見つからない名前を待ちながら、今の名を選ぶ



応接室へ入ってきた女は。


胸元に二枚の名札を付けていた。


上の名札は、深い青色の木製。


ミナ・アルベル。


下の名札は、赤黒く錆びた鉄製。


赤三号。


二枚は重ねられていない。


少し離して。


どちらの文字も隠れないように並べてある。


年齢は六十代半ばほど。


背は低く。

白髪の混じった髪を、短く切り揃えていた。


黒の礼装の上には、赤茶色の外套。


胸元には。


空白の札。

文字の刻まれた札。

二本に分かれた道。


それらを組み合わせた銀の徽章が留められている。


後ろには、若い記録官が二人。


一人は赤い縁取りの台帳。


もう一人は、細長い木箱と、赤と青の旗包みを抱えていた。


冬城が告げる。


元赤三号。


現在は連結身元記録局

成人名選択相談部の名誉相談官。


ミナ・アルベル様です。


幼少期に保護されたあと。


元のご家族も。

以前のお名前も発見されず。


成人を前に。


ご自身で現在のお名前を選ばれた方になります。


女――ミナは蒼汰へ深く頭を下げた。


奏多蒼汰殿。


私はミナ・アルベル。


以前は。


赤三号と呼ばれていました。


この名前は。


守殿から与えられたものではありません。


保護院の職員から贈られたものでも。


家族の代わりになろうとした誰かから

付けられたものでもありません。


私が。


自分で選んだ名前です。


蒼汰も頭を下げる。


伺っていました。


以前のお名前は

最後まで見つからなかったと。


はい。


現在も。


見つかっておりません。


ミナの声は穏やかだった。


悲しみを押し殺している声ではない。


見つからないという事実を。


長い時間をかけて。

自分の人生の一部として置けるようになった者の声だった。


蒼汰は頭の奥へ問いかける。


守。


何だ。


父さんは。


ミナさんが名前を選ぶのを

手伝ったのか。


最初は邪魔をした。


いきなり最悪だな。


ミナの眉が、ほんの少しだけ動いた。


守殿は。


私が名前を選ぶことへ

最後まで反対された方です。


蒼汰は額へ手を当てる。


父さん。


理由はあった。


どんな。


新しい名前を正式登録すると。


元の家族を探す記録が

閉じられる可能性があった。


蒼汰は少し表情を変えた。


ただ邪魔をしたわけではないらしい。


ミナが椅子へ座る。


机の上へ、赤い縁取りの台帳が置かれた。


最初の頁。


仮識別。


赤三号。


発見場所。


王都北東赤門前避難広場。


保護順位。


三。


推定年齢。


四歳から六歳。


本人名。


不明。


選択呼称。


複数使用。


過去呼称。


アカ。

ミィ。

サン。

赤門の子。


正式名。


未登録。


家族捜索。


継続。


蒼汰は頁を見つめる。


ステラと呼ばれていたルイーゼとは違い。


ミナは、一つの呼称を選ばなかったらしい。


私は。


呼ばれ方を決めることが

嫌いでした。


ミナが静かに言う。


これで呼ばれてもよいか。


職員から何度も聞かれた。


花の名前。

星の名前。

川の名前。

優しい音。

勇ましい音。


何を示されても。


私は首を横へ振りました。


なぜですか。


分かりません。


当時の私には。


理由を説明する言葉がなかった。


ただ。


誰かが名前を差し出すたび。


それを受け取ったら。


以前の私へ戻れなくなるような気がした。


元の名前を思い出せない。


それでも。


どこかには。


私を別の音で呼んでいた誰かがいる。


その人が探しに来た時。


別の名前で返事をしたら

気づいてもらえない。


そう思っていたのかもしれません。


蒼汰は小さく息を吐いた。


幼い子どもが。


名前を選ばない理由を。

大人へ正確に説明することなどできない。


保護院は。


呼称を強制しませんでした。


日常では。


赤三号。


または。


赤門の子。


そう呼ばれました。


番号を名前欄へ移すことは禁止されていたため。


書類上の正式名は空欄。


ですが。


生活の中では。


結局。


番号が私を呼ぶ音になった。


食事の時間。


赤三号。


診察。


赤三号。


衣服の配給。


赤三号。


名前ではないと説明されても。


毎日呼ばれれば。


子どもにとっては

それが名前と同じになります。


守が頭の奥で低く言った。


そこまで考えられてなかった。


父さんが作った制度だろ。


最初の区別だけだ。


番号を名前欄から外せば

十分だと思った。


十分じゃなかったんだな。


ああ。


ミナが続ける。


私は。


保護院で育ち。


学校へ通い。


文字を覚えました。


番号を書くことは得意でした。


赤。


三。


号。


三文字。


自分の持ち物へ

何度も書いた。


ですが。


名前を書く授業だけは

いつも空欄でした。


教師は。


無理に書かなくてよいと言いました。


それは。


優しさだったと思います。


それでも。


周囲の子どもたちが。


自分の名前を書いている横で。


私だけ。


何も書かない。


空欄を残す権利があることと。


空欄が寂しくないことは

同じではありません。


蒼汰は父の気配へ言う。


これも聞いてたのか。


後からな。


何て答えた。


何も言えなかった。


父にしては珍しい。


直すための方法を。

すぐには思いつけなかったのだろう。


ミナが台帳をめくる。


十五歳の頁。


就業訓練申請。


希望職種。


木工記録札製作。


本人名。


空欄。


申請結果。


保留。


理由。


正式名未登録。


仮識別による成人就業登録は不可。


蒼汰は眉を寄せた。


名前がないと。


仕事の訓練も受けられなかったんですか。


当時は。


正式な職人見習いになるには。


契約書へ。


本人名。

保証人名。

居住地。


三つを書く必要がありました。


私は。


本人名がない。


保護院は保証人になれる。


居住地もある。


それでも。


名前欄が空いているため

契約できなかった。


役所は。


成人前に正式名を登録するよう求めました。


好きな名前を

一つ決めればよい。


そう言われました。


簡単に聞こえます。


ですが。


私には。


名前を決めることが。


家族捜索を終える宣言のように思えた。


以前の名前は

もう見つからなくていい。


以前の自分は

もういなかったことにする。


そう書類へ署名するように感じた。


蒼汰は赤三号の札を見る。


新しい名前を選びたい。


だが。


選べば過去を失う気がする。


選ばなければ。


未来へ進むための契約ができない。


守殿が。


この件へ再び関わったのは。


就業申請が保留されたあとです。


保護院の職員が。


番号を名前へ移さずに済む制度を作った本人なら。


何とかできるかもしれないと

連絡したそうです。


父さんは来たのか。


ああ。


どんな状態で。


守は少し黙った。


別の場所から

直接向かった。


それ。


また汚れてたんじゃないだろうな。


少し。


ミナの口元が、わずかに緩む。


守殿は。


片方の袖が焦げ。


髪へ白い粉が付き。


靴が濡れた状態で来られました。


何をしてたんだよ。


煙道の修理だ。


着替えてから行けよ。


急ぎだと聞いた。


ミナは続ける。


守殿は。


私の就業申請書を読み。


名前欄を空欄のまま通せばよいと仰いました。


役所は反対。


職人組合も反対。


契約相手を

仮識別だけで登録すれば。


後から本名が見つかった時。


契約記録を誰へ繋ぐか分からなくなる。


賃金。

資格。

作品の所有権。

負傷時の補償。


全てに影響が出る。


守殿は。


仮識別番号が残っているなら

同一人物だと分かると反論しました。


ですが。


仮識別は

救助記録です。


成人後。


どこへ勤め。

どんな生活を送るか。


その全てへ

赤三号という番号を付け続けることになる。


番号を名前欄へ書かなくても。


生涯。


番号で追跡される人間になる。


蒼汰は小さく息を吐いた。


名前がなくても働けるようにする。


それだけなら。


父の案は合理的に見える。


だが。


その人の全ての記録へ。


救助された時の番号が付いて回る。


守。


最初は分からなかったのか。


ああ。


就業できることだけ見てた。


ミナに言われた。


何て。


私は。


赤門前で保護された仕事をするのではない。


木工札を作る仕事をする。


契約のたびに。


赤三号であることを

全員へ知らせる必要があるのか。


ミナの声は穏やかだった。


だが。


当時。


守へ向けた言葉は。


もっと鋭かったのだろう。


守殿は。


救助記録を残せと言った。


それは正しい。


私も。


消したいとは思っていませんでした。


ですが。


救助された事実を残すことと。


救助番号を

人生の全ての入口へ掲げることは違う。


私は。


番号を名前にされたくない。


同時に。


番号しか持たない人間として

働くことも嫌でした。


守殿は。


では。


正式な名前を選べばよいと仰いました。


蒼汰は額へ手を当てる。


父さん。


……ああ。


簡単に戻したな。


守殿は。


以前の名前が見つかるまで

正式名を付けるべきではないと反対していたのに。


就業できないと分かると。


今度は。


仕事のために名前を決めろと言った。


私は。


かなり怒りました。


当然だと思います。


蒼汰が答える。


ミナは小さく頷いた。


私は。


守殿へ言いました。


見つからない過去のために。


今の私を空欄へ置くな。


今の制度のために。


これから使う名前を急いで決めさせるな。


探すのをやめるか。

名前を決めるか。


なぜ。


どちらか一つを選ばなければならないのか。


応接室が静かになる。


守の気配も。


何も言わない。


ミナが続ける。


私は。


以前の名前を探したい。


家族も。

出生地も。

幼い頃の記録も。


見つかるなら知りたい。


ですが。


見つかるまで。


赤三号としてしか生きられないのは嫌でした。


自分で名前を選びたい。


ただし。


今日中に決めろ。

仕事をしたいなら決めろ。


そう急かされて選ぶのも嫌だった。


名前を選ぶことを。


過去の捜索を諦めた印にも。


就業許可を得るための料金にも

したくなかった。


蒼汰は深く頷いた。


父さんは。


何て答えた。


守がしばらく黙る。


それから。


両方残す方法を考える、と。


ミナも頷いた。


守殿は。


ようやく。


書類を閉じました。


その場で名前を決めろとは

言わなくなった。


そして。


役所。

職人組合。

保護院。

連結身元記録局。


それぞれを呼び。


記録を二つへ分けました。


ミナが台帳の頁を示す。


一つ目。


原身元捜索記録。


仮識別。


赤三号。


発見場所。

推定年齢。

身体特徴。

保護時の所持品。

使用していた可能性のある言語。

記憶の断片。


捜索状態。


継続。


本人が正式名を選んでも

閉鎖しない。


二つ目。


生活使用名記録。


現在。


本人未選択。


就業契約。


生活使用名の選択まで

本人専用の非公開連結番号を使用。


契約相手へは。


赤三号という救助番号を

開示しない。


名前欄には。


本人選択中。


そう記載する。


蒼汰は少し驚く。


名前が決まってなくても。


仕事を始められたんですか。


はい。


職人組合は。


最初は反対しました。


商品へ。

誰の作品か記録できない。


資格証へ名前を書けない。


守殿は。


本人が名前を選ぶまで。


作品には。


選択中を示す印と。

非公開連結番号を付けるよう求めました。


番号は。


救助番号とは別。


契約管理のためだけに使う。


公開しない。


本人が名前を選んだ時。


それまでの作品。

賃金。

資格。


全てを新しい名前へ繋ぐ。


以前の名が後から見つかった場合も。


本人が望めば

さらに連結できる。


どれか一つを。


本当の名前として

他を消す必要はない。


守が頭の奥で言う。


かなり揉めた。


父さんの提案。


また複雑だったんじゃないか。


最初は。


帳簿を三冊に分けた。


三冊。


多すぎるって言われた。


やっぱり。


ミナが淡々と補足する。


五冊です。


父さん。


用途別だ。


増えてるじゃん。


最終的には。


一冊の中へ。


閲覧できる範囲の違う三頁を作りました。


救助記録。

生活契約記録。

本人選択名。


必要な担当者だけが

必要な頁を見る。


父さんの五冊案は。


すぐ却下されたんですね。


はい。


非常に重く。


持ち運びに向かなかったためです。


守が小さく反論する。


紛失した時に

全部漏れない利点はあった。


一冊ずつ紛失する可能性が

五倍になったんだろ。


……そう言われた。


蒼汰は少し笑った。


父の制度作りは。


大切なことを守ろうとするほど。

仕組みが大きくなりすぎるらしい。


ミナが話を戻す。


私は。


名前を決めないまま。


木工記録札の見習いになりました。


契約書の本人名。


選択中。


工房では。


何と呼ばれたいか聞かれました。


私は。


まだ決めていないと答えた。


職人たちは。


最初。


かなり困りました。


声を掛ける必要がある。


そこで。


私の作業台番号。


十二番。


そう呼ぼうとした。


守殿は止めました。


番号を名前にしない。


同じ失敗を繰り返すな、と。


では。


何と呼んだんですか。


最初は。


そちら。


あなた。


新人。


呼び方は一定ではありませんでした。


不便でした。


ですが。


その不便を。


私が名前を急いで選ぶ理由には

しませんでした。


職人たちは。


私が近くにいる時。


肩を軽く叩く。

手を挙げる。

目を合わせる。


そうやって。


名前がなくても

私へ声を届ける方法を覚えた。


やがて。


私は。


木札へ文字を刻む仕事を始めました。


他人の名前を。


一日中。


木へ刻む仕事です。


蒼汰は少しだけ目を細めた。


本人名。

店名。

家族名。

墓標。

道標。

贈り物。


多くの名前を刻りました。


文字の長い名前。

短い名前。

親から受け継いだ名前。

自分で変えた名前。

二つの姓を並べた名前。


その中で。


自分の名前を考えるようになった。


誰かから候補を見せられた時ではなく。


仕事をする中で。


自分が。


どんな音なら

毎日書けるか。


どんな文字なら

失敗しても彫り直したいと思えるか。


考えました。


ミナは胸元の青い名札へ触れる。


ミナ。


最初に選んだのは。


この二つの音です。


理由は。


大きなものではありません。


発音しやすかった。


木へ刻んだ時。


左右の形が

自分の好きな並びになった。


呼ばれた時。


誰か別の人ではなく。


自分へ向けられた音だと感じた。


それだけです。


蒼汰は少し笑う。


それで十分だと思います。


はい。


私も。


そう思いました。


名前には。


壮大な由来が必要だと

周囲は考えていました。


失った家族への思い。

保護してくれた者への感謝。

新しい人生の決意。


ですが。


私は。


毎日呼ばれても嫌ではない。


自分で書いて。

自分で見て。


これは自分だと思える。


それで十分でした。


姓のアルベルは。


保護院の庭にあった木から取りました。


火事で幹の半分を失い。


一度。


枯れたと判断された木です。


ですが。


残った側から

新しい枝が伸びた。


だから選んだのか。


守が頭の奥で言う。


私は

かなり感動した。


父さん。


本人には言ったのか。


言った。


何て。


いい名前だ、と。


ミナの表情が少しだけ柔らかくなる。


守殿は。


珍しく。


余計な説明をされませんでした。


ただ。


いい名前だ。


そう仰いました。


そのあと。


アルベルの木の管理番号を

姓へ使う必要があるか尋ねられましたが。


余計な説明してるじゃん。


木が公有物だったからな。


名前に使うのへ

許可が必要かと思った。


ミナは小さく笑った。


必要ありませんでした。


私は。


ミナ・アルベル。


そう書いた木札を。


自分で作りました。


誰かへ注文された物ではありません。


賃金も出ない。


見習い課題でもない。


初めて。


自分のためだけに刻んだ名札です。


それが。


これです。


ミナは胸元の青い木札を外す。


机の上へ置いた。


近くで見ると。


文字の深さは均一ではない。


ミの一画目は少し浅い。


ナの終わりは。

わずかに右へ流れている。


姓の最後。


ルの文字には。


彫り直した跡があった。


完璧な名札ではない。


ですが。


自分で作ったのですね。


はい。


守殿は。


完成した名札を見て。


すぐ正式登録へ行こうとされました。


父さん。


本人の気持ちを確認する前に

役所へ向かっただろ。


……ああ。


ミナが頷く。


私は。


まだ登録しないと伝えました。


守殿は。


なぜだと聞いた。


私は。


一週間。


この名前で呼ばれてみたい。


一週間。


自分で書き。


人から呼ばれ。


違うと思ったら変えたい。


そう答えました。


守殿は。


登録後でも改名できると仰いました。


私は。


改名手続きは面倒ではないかと聞きました。


守殿は黙りました。


蒼汰は少し笑う。


それは黙るな。


実際。


非常に面倒でした。


ミナが答える。


そのため。


正式登録前。


試用期間を設ける制度が作られました。


一日。

一週間。

一か月。


期間は本人が選ぶ。


呼ばれ方を変えてもよい。


文字を変えてもよい。


姓だけ変えても。

名だけ戻してもよい。


試した名前は。


本人が望まなければ

公開記録へ残さない。


ただし。


医療や契約上の同一人物確認に必要な場合のみ

封印記録へ残す。


名前を選ぶことを。


一度きりの試験にしない。


守殿は。


名前は

橋を渡る時のように一度決めるものだと思っていたそうです。


守。


言った覚えはある。


でも。


途中で戻れる橋もあるだろ。


そう言われた。


誰に。


ミナに。


ミナの目元に、わずかな笑みが浮かぶ。


私は一週間。


ミナと呼ばれました。


最初の日。


三回ほど

自分のことだと気づかなかった。


三日目。


工房の奥から呼ばれ。


振り返った。


五日目。


自分の名札へ

間違えて赤三号と書きかけました。


七日目。


親方から。


この名前で正式登録するかと聞かれた。


私は。


はいと答えました。


その日。


ミナ・アルベルが。


正式な生活名になった。


元の名前の捜索記録は?


蒼汰が尋ねる。


今も開かれています。


ミナは赤い鉄札へ触れる。


赤三号。


この番号は。


私の名前ではありません。


ですが。


捨てたい過去でもない。


私が。


赤門前で救助された。


三番目の子どもだった。


その記録です。


元の家族へ繋がる手掛かりでもある。


だから。


消しませんでした。


ただし。


普段。


この番号で私を呼ぶことは

許可していません。


胸元へ付けているのは。


今日だけです。


なぜ今日だけ?


守殿の葬儀だからです。


守殿は。


番号を消すなと言った。


同時に。


番号で人生を呼ぶなと

後から覚えた。


その両方を。


今日。


見せるためです。


蒼汰は二枚の札を見る。


赤三号。


ミナ・アルベル。


どちらか一つが。


本物なのではない。


赤三号は。


救助された過去。


ミナ・アルベルは。


本人が選んだ現在と未来。


過去を消さなくても。


現在の名前を持てる。


現在の名前を選んでも。


過去の捜索を諦めたことにはならない。


ミナが若い記録官へ合図する。


細長い木箱が机へ置かれた。


中に入っていたのは。


文字の刻まれていない木札だった。


青く塗られている。


だが。


表面は空白。


上部へ小さな穴が二つ。


紐を通せば。


胸元へ下げられる形になっている。


これは。


守殿が作らせた

成人名選択札の最初の一枚です。


名前を決めていない者へ。


候補を書いて渡す札ではありません。


本人が。


書きたい時に。

自分で書くための札。


書かずに持っていてもよい。


一度書いて。

削り直してもよい。


新しい札へ替えてもよい。


守殿は。


最初。


選べる名前を四百八十二個

裏へ小さく刻もうとしました。


蒼汰は額を押さえる。


また四百八十二個かよ。


参考になると思った。


文字が小さすぎて読めませんでした。


守が黙った。


最終的には。


完全な空白になりました。


表にも。

裏にも。


何も書かない。


空白を。


不足ではなく。


本人のために確保した場所として渡す。


蒼汰は木札を持ち上げる。


軽い。


何も書かれていない。


それでも。


以前の空欄とは違う。


書類の不備として残された穴ではない。


本人へ。


ここを使ってよいと渡された場所だ。


ミナが赤と青の旗包みを開く。


深い青色の地。


中央へ。


名前の書かれた青い札。


その後ろに。


小さな赤い鉄札。


二枚は。


重なっていない。


赤い札から

細い線が後ろへ伸び。


青い札からは

前へ向かって線が伸びている。


本式の日。


成人名選択相談部では

この旗を半旗とします。


同時に。


身元不明のまま成人する全ての者へ。


現在の制度を

改めて説明します。


元の名前を探し続けながら。


新しい生活名を選べること。


生活名を選んでも。


原身元捜索は閉じられないこと。


元の名前が後から見つかっても。


現在名を捨てる必要はないこと。


追加する。

使い分ける。

記録だけ繋ぐ。

現在名だけを使い続ける。


全て。


本人が決められること。


そして。


名前を。


就業。

就学。

住居。

医療。


それらを受け取るための条件にはしません。


名前が決まっていない者にも。


生活を始める権利がある。


仕事をしながら。


人と出会いながら。


自分が何と呼ばれたいか

考えてよい。


守殿が。


私へ名前を急がせ。


私に止められたことで作られた制度です。


守が頭の奥で言う。


よく覚えてるな。


忘れません。


ミナが、まるで父の声を聞いたような間で答えた。


蒼汰は少し笑い。


父の言葉を伝える。


父さんが。


よく覚えてるなって。


ミナは父の棺がある方角を見る。


守殿。


私は。


あなたが正しかった話だけをしに来たのではありません。


あなたは。


私の名前を守ろうとして。


最初。


私を空欄のまま止めました。


次に。


私を働かせようとして。


名前を急いで選ばせようとした。


どちらも。


私のためだと考えていたのでしょう。


守が低く答える。


ああ。


蒼汰が伝える。


ああって。


ですが。


本人のためという言葉だけでは。


本人の選択にはなりません。


ミナは静かに続ける。


あなたは。


私が怒ったあと。


ようやく聞きました。


どうしたい。


それまで。


一度も聞かなかった。


守の気配が小さく揺れる。


蒼汰は頭の奥へ言う。


父さんらしいな。


悪い方でな。


ああ。


ミナは。


父の返事を待つように。


少し間を置いた。


私は。


元の名前を探したい。


今の名前も選びたい。


仕事もしたい。


ただし。


今日中には決めたくない。


四つとも伝えました。


守殿は。


注文が多いと言いました。


父さん。


……冗談のつもりだった。


冗談を言う場面じゃないだろ。


私もそう答えました。


ミナの口元が少しだけ上がる。


そのあと。


守殿は。


一つずつ実現する方法を探しました。


完璧ではなかった。


帳簿を五冊作ろうとした。


名前候補を四百八十二個用意した。


制度を

誰より複雑にしました。


ですが。


最後まで。


どれか一つを諦めろとは

言わなかった。


それについては。


感謝しています。


守の声が低く返る。


作ったのは

お前だ。


蒼汰はそのまま伝えた。


作ったのは

ミナさんだって。


ミナは首を横へ振る。


一人では作れませんでした。


私が。


選びたいと言った。


職人組合が。


契約の方法を考えた。


記録局が。


情報を分けた。


保護院が。


空欄の期間を支えた。


守殿は。


全員へ。


どれかを捨てずに済むまで

話を終わらせなかった。


ですから。


あなたが全部作ったわけではない。


ですが。


あなたがいなければ。


私は。


仕事のために。


急いで誰かの候補を受け取っていたかもしれません。


守が少し黙る。


それから答えた。


ミナは。


お前に合ってる。


蒼汰は伝える。


父さんが。


ミナはあなたに合ってるって。


ミナの灰色の瞳が。


一瞬だけ。


若い頃の少女のように揺れた。


ありがとうございます。


ただし。


ミナは続ける。


守殿。


一つだけ訂正します。


守が答える。


何だ。


私が。


名前に合うようになったのではありません。


私が選び。


私が使ってきたから。


この名前が

私へ合うようになったのです。


応接室が静まる。


父は。


しばらく何も言わなかった。


やがて。


そうだな。


短く答えた。


蒼汰は伝える。


そうだなって。


ミナは満足そうに頷いた。


最後に。


父の字が残る紙片が差し出される。


見つからない名前を

捜すのはやめなくていい

だが

見つかるまで今の人生を止めるな

新しい名を選んでも

過去を捨てたことにはならない

捜索記録と

これから呼ばれる名は

別々に残せ


蒼汰は紙片を何度も読み返した。


父も。


同じなのかもしれない。


これまで知らなかった父親を。


蒼汰は今も探している。


地下の記録。

弔問者の話。

二十三通の手紙。


見つからなかった父の姿を。


これからも知りたい。


だが。


全部を知るまで。


今。


頭の中にいる父を。

父親と呼んではいけないわけではない。


過去を探しながら。


今の関係を作ってもいい。


守。


何だ。


俺も。


父さんのこと

まだ探すからな。


ああ。


でも。


全部分かるまで

話すのを待ったりしない。


分からない父さんとでも

今は話す。


守の気配が、わずかに揺れる。


それでいいのか。


俺が選んだ。


蒼汰は短く答えた。


父は少し黙ったあと。


そうか。


どこか安堵した声を返した。


ミナが立ち上がる。


胸元へ。


青い木札を戻す。


ミナ・アルベル。


赤い鉄札も。


その下へ付ける。


赤三号。


今日だけ。


過去と現在を。


両方見える場所へ置く。


守殿。


私の元の名前は。


今も見つかっていません。


家族が。


どこかで待っている可能性も。


もう誰もいない可能性もあります。


ですが。


捜索記録は閉じません。


同時に。


私は。


ミナ・アルベルとして。


明日の相談者へ会います。


過去を待つことと。


未来へ進むこと。


どちらも続けます。


守が静かに答える。


頼む。


蒼汰は伝えた。


父さんが。


頼むって。


ミナは深く頭を下げる。


承りました。


彼女は応接室を去った。


扉が閉まる。


木を削った匂い。

古い鉄札。

まだ文字のない青い木札。


そして。


自分で選ばれた二つの音の余韻が残った。


蒼汰は空白の成人名選択札を持ち上げる。


守。


何だ。


父さんは。


自分で守って名前を選んだわけじゃないよな。


親が付けた。


気に入ってる?


今まで

考えたことがなかった。


じゃあ今考えろ。


守。


奏多守。


父親として

呼ばれ続けたい名前か。


父は少し黙った。


ああ。


蒼汰に呼ばれるなら。


守でいい。


蒼汰は小さく笑う。


父さんって呼ぶけどな。


守は。


少しだけ不満そうな気配を出した。


冬城が空白の木札と旗を長卓へ運ぶ。


そして次の名簿を開いた。


蒼汰様。


うん。


次の方は。


ミナ様の最初の就業契約を認めた。


王都木工職人組合

元契約監、ベルント・ハウザー様です。


蒼汰は顔を上げる。


名前が決まる前に。


仕事を始めさせた人か。


はい。


ただし。


当時の職人組合には。


本人名が未確定の者へ

賃金を支払う仕組みがありませんでした。


守が頭の奥で言う。


名前がないから

給料を預かると言われた。


それ。


働いたのに払われなかったのか。


最初はな。


どうしたんだ。


守は少しだけ間を置いた。


名前が決まるまで

組合が預かるのではなく。


本人が使える形で。


名前の代わりに

手形へ自分の印を付けさせた。


蒼汰は空白の名札を見る。


名前がなくても。


仕事はできる。


だが。


働いた証明と。

受け取るべき賃金まで。


名前が決まる日を待たせてよいわけではない。


次に待っていたのは。


署名できる名前を持たない少女へ。


番号でも。

他人の保証でもない。


本人が自分で作った最初の印によって。


その日の給料を

その日のうちに渡した話だった。


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