第65話 名前のない子に、番号を名前として渡すな
応接室へ入ってきた女は。
父親のヨハンよりも、母親の記録に残された面影を強く受け継いでいた。
白くなり始めた金髪。
灰色の瞳。
穏やかに結ばれた口元。
年齢は六十歳前後だろう。
黒の礼装の上には、白と淡い赤色を組み合わせた長衣。
胸元には。
二枚の識別札。
一本の繋がった線。
その中央に、小さな星。
連結身元記録局の局長徽章が留められている。
後ろには二人の記録官。
一人は大きな白い台帳。
もう一人は、小さな灰色の木箱と、白地に多くの色の糸が縫われた旗包みを抱えていた。
冬城が告げる。
連結身元記録局現局長。
エレナ・ゼーリヒ様です。
先ほどのヨハン様と
故マルガレーテ様のご息女。
あの夜。
二つの姓を繋ぐ記録と
白冬草号が運んだ輸血保存液によって助かった。
生まれたばかりのお子様ご本人になります。
エレナは蒼汰へ深く頭を下げた。
奏多蒼汰殿。
私はエレナ・ゼーリヒ。
生まれた夜のことを
自分では何一つ覚えておりません。
ですが。
私が最初に受け取ったものは。
母の血だけではなく。
母へ届いた血と。
母の二つの名前を繋いだ人々の仕事だったと教えられて育ちました。
蒼汰も頭を下げる。
お母様のこと。
先ほど、お父様から伺いました。
はい。
父は。
母の話を始めると
同じところを何度も繰り返します。
守が頭の奥で言う。
ヨハンは昔からそうだった
父さん
あの人とほとんど話してないんじゃなかったのか
同じ説明を三回聞いた
それで分かったのかよ
十分だろ
エレナの口元が、ほんの少しだけ緩む。
守様は。
父が同じ話を繰り返すたび。
最初から聞いてくださったそうです。
一度目は
輸血へ間に合った話。
二度目は
母の名前が二つあった話。
三度目は。
自分が家族記録板を持って走った話。
父にとって。
どれも省けない話だったのでしょう。
蒼汰は少しだけ笑った。
父さん
ちゃんと聞いてたんだな
聞いた
飽きなかった?
二回目から
少し短くなっていた
そういうこと言わなくていいんだよ
エレナが椅子へ座る。
机の上へ、白い台帳が置かれた。
表紙には。
未確定身元者連結記録。
そう記されている。
中には。
名前のない者。
名前を失った者。
名前を言えない者。
複数の名前を持つ者。
そうした人々の記録方法が細かくまとめられていた。
最初の頁。
本人名。
空欄。
仮識別。
灰七号。
発見場所。
北東旧倉庫街。
推定年齢。
五歳から七歳。
言語。
不明。
家族。
不明。
蒼汰は灰七号という文字を見つめた。
これは
人の名前なんですか
いいえ。
エレナは即答した。
名前ではありません。
救助時に
他の子どもと区別するため付けられた仮識別番号です。
ですが。
かつては。
その番号が
そのまま子どもの名前として定着していました。
守が頭の奥で低く言う。
一番駄目な形だ
父さん
この件にも関わったのか
最初の制度だけな
何をしたんだ
番号を付けることは止めなかった
蒼汰は少し意外に思う。
止めなかったのか
必要だったからな
ただし。
守は間を置いた。
番号を
名前の欄へ書くことは止めさせた
エレナが台帳を開いたまま話し始める。
私が生まれた年。
北東地域では
戦争と洪水が重なっていました。
身元の分からない子どもが
多く保護された。
名前を話せる子もいました。
ですが。
幼すぎる。
異国語しか話せない。
衝撃で声を失っている。
名前を呼ばれて育っていない。
そうした子どももいた。
保護院は。
食事。
寝床。
衣服。
医療。
全てを用意しました。
ただし。
記録を作るためには
一人ずつ区別しなければならない。
そこで。
発見場所の色。
保護された順番。
それらを組み合わせた番号を付けました。
灰色倉庫街で
七番目に保護された子。
灰七号。
赤門前で
三番目に保護された子。
赤三号。
当初は。
仮の識別でした。
家族が見つかるまで。
本人が名前を思い出すまで。
短期間だけ使う予定だった。
ですが。
戦争は終わらず。
家族も見つからない。
半年。
一年。
三年。
子どもたちは。
番号で食事を呼ばれ。
番号で診察を受け。
番号で寝床を割り当てられた。
いつしか。
職員も。
子ども自身も。
それが名前だと思うようになった。
蒼汰は頁をめくる。
灰七号。
病棟移動。
灰七号。
衣服配給。
灰七号。
就学手続。
どの書類にも。
同じ三文字しかない。
名前の欄へ
番号が書かれてる
はい。
本人名が分からないため。
仮識別を
名前の欄へ移してしまった。
すると。
記録上は
仮ではなくなります。
役所も。
学校も。
施療院も。
灰七号を正式名として扱った。
本人が後から
別の名前を選ぼうとしても。
改名申請が必要になった。
蒼汰は眉を寄せる。
最初から名前がなかったのに。
名前を変える手続きが必要だったんですか
はい。
制度上。
灰七号という名前の人物が
別の名前を希望している。
そう扱われました。
家族から付けられた名前でもない。
本人が選んだ名前でもない。
保護した場所と順番を示す番号。
それを捨てるために。
なぜ変えたいのか。
以前の名前を使わない理由。
新しい名前の由来。
子ども自身が説明しなければならなかった。
守が頭の奥で言う。
説明できるわけがない
自分で付けた番号じゃないもんな
ああ
エレナが続ける。
守様が。
この問題へ気づかれたのは。
私が生まれた翌朝だったと聞いています。
蒼汰は顔を上げる。
翌朝?
はい。
守様は。
母の輸血が終わったあとも
施療院へ残っていた。
石炭荷車の搬入を手伝い。
空の荷車で少し眠り。
朝。
母と私の状態を
確認しに来られたそうです。
父さん
本当に見に行ったんだな
ああ
守が答える。
小さかったぞ
生まれた翌朝だからな
エレナは少し笑う。
母が眠っていたため。
父が私を抱いていました。
守様は。
私の名前を尋ねた。
父は。
エレナ・ゼーリヒ。
母の旧姓は
アイゼン。
家族記録板にも
両方書いたと答えました。
その時。
同じ病室の向かい側に。
保護院から運ばれた
名前の分からない少女がいました。
高熱と肺炎。
看護師が。
灰七号の薬を用意して、と声を上げた。
守様は。
灰七号とは誰だと尋ねました。
看護師は。
名前のない子。
灰色倉庫街で七番目に保護された子だと答えた。
すると守様は。
名前がないのに。
なぜ名前の欄へ
灰七号と書いてある。
そう尋ねました。
看護師は。
名前を書かなければ
薬を出せない。
記録を作れない。
寝床も。
食事も。
担当者も決められない。
だから必要なのだと説明しました。
父さんは
番号を付けるなって言わなかったんだな
ああ
守が答える。
薬を間違えないためには
区別が必要だった
蒼汰は小さく頷く。
名前が分からなくても。
人を間違えないための印は必要だ。
問題は。
その印を。
本人の名前として固定したことだった。
エレナが続ける。
守様は。
番号は消すなと仰いました。
看護師たちは
驚いたそうです。
番号を名前の代わりにするなと言いながら。
番号は残せ、と。
守様は。
灰七号は。
その子が
灰色倉庫街で七番目に救助されたという記録だ。
その記録を消せば。
どこで。
誰と。
いつ保護されたのか。
家族へ繋がる手掛かりまで消える。
だから。
救助記録として残す。
ただし。
本人名の欄には書くな。
名前が分からないなら。
分からないと書け。
父の字で。
当時の台帳へ書かれた文章が残っている。
エレナが古い頁を開く。
本人名。
不明。
本人が選んだ呼称。
未定。
仮識別。
灰七号。
仮識別使用目的。
医療、配給、所在確認。
正式名への転用。
禁止。
横には。
守の字。
分からないものを
分かった形へ埋めるな
空欄は失敗じゃない
まだ本人へ返していない場所だ
蒼汰は、その言葉を何度も読んだ。
空欄。
書類では。
欠けている場所。
埋めるべき場所。
不備。
そう扱われやすい。
だが父は。
名前が分からないなら。
分からないまま残せと言った。
適当な名前で埋めるより。
空欄の方が。
本人が後から自分の名前を置ける。
エレナが続ける。
ですが。
空欄だけでも
生活はできません。
職員は。
子どもを呼ばなければならない。
おい。
そこの子。
灰七号。
その呼び方では。
子どもは。
自分へ声を掛けられているのか
分からない。
守様は。
仮識別と。
日常で呼ぶ名前を分けるよう提案しました。
日常で呼ぶ名前?
はい。
本人が。
今。
呼ばれてもよいと選んだ呼称です。
正式名ではありません。
将来まで使う義務もない。
保護院が与えるのでもない。
職員が便利だから付けるのでもない。
本人が選ぶ。
まだ選べない子には。
複数の音を示し。
反応を見る。
好きな物。
好きな色。
安心する言葉。
本人が意思を示せる範囲で決める。
そして。
後から何度変えてもよい。
蒼汰は少し考える。
でも。
言葉が分からない子は
どうやって選ぶんですか
エレナは白い台帳の別頁を開く。
絵が並んでいる。
星。
川。
木。
鳥。
月。
花。
その下に。
異なる言語での発音。
北方語。
王都語。
海岸語。
異界共通語。
選ぶのは。
意味のある名前でなくてもよい。
音だけでもいい。
職員が幾つか発音し。
子どもが顔を上げる。
手を伸ばす。
嫌がらない。
そうした反応から。
一時的な呼称を決める。
灰七号だった少女は。
星の絵へ何度も触れました。
当時の保護院職員は。
王都語で星を意味する
ステラと呼ぶことを提案した。
少女は。
ステラと呼ばれると
顔を上げた。
それが。
彼女が最初に選んだ呼称です。
正式名ではない。
いつでも変えられる。
それでも。
灰七号ではなく。
ステラ。
一人の子どもへ向けて呼ばれる音になった。
蒼汰は台帳の記録を追う。
本人名。
不明。
選択呼称。
ステラ。
仮識別。
灰七号。
救助手掛かり。
灰色倉庫街第七保護。
三つが。
別々の欄へ残されている。
名前。
呼ばれ方。
救助時の番号。
混ぜない。
消さない。
エレナが続ける。
守様は。
これでよいと
すぐには言いませんでした。
なぜですか
選択呼称を
職員が勝手に正式名へ移す可能性がある。
そう心配された。
父さん
意外と先まで考えてるな
一度
番号を名前へ移した前例があったからな
守が答える。
同じことを
呼称でもやると思った
実際。
その危険はありました。
学校へ入れる時。
名前欄を空欄にできない。
そこで職員が。
ステラを正式名として
登録しようとした。
守様は止めました。
蒼汰は少し眉を寄せる。
本人が気に入ってたなら
そのままでもよかったんじゃないか
よい場合もあります。
エレナは穏やかに答えた。
ですが。
呼ばれてもよい名前と。
一生使う正式名は
同じとは限りません。
本人が。
意味を理解し。
選べる年齢になった時。
正式名にしたいと望めば
登録する。
それまでは。
学校も。
病院も。
配給所も。
空欄を許す必要がある。
守様は。
子どもを記録へ合わせるのではなく。
記録の方へ
未確定を扱う欄を作れと求めました。
まただ。
父は。
人間を制度に合わせようとするのではなく。
制度の側へ。
人間がまだ決めていない状態を入れようとした。
ただし。
エレナの表情が少し厳しくなる。
制度作りの途中。
守様は
一つ大きな失敗をされました。
蒼汰は頭の奥へ問いかける。
何したんだ
守は、すぐに答えなかった。
父さん
選べる名前の一覧を作った
それのどこが悪いんだ
種類が多すぎた
エレナが淡々と告げる。
四百八十二個です。
多すぎるだろ
蒼汰は即座に言った。
守が反論する。
少ないと
選択肢が偏ると思った
子どもに四百八十二個見せたのかよ
最初は一覧を作っただけだ
エレナの口元が少しだけ緩む。
保護院の職員から。
五歳の子どもへ
四百八十二個の発音を聞かせるつもりですか。
そう言われ。
守様は
一度黙ったそうです。
蒼汰は額を押さえる。
父さん
限度ってものがあるだろ
全て選べる方が公平だと思った
選べないほど多いのは
公平じゃないんだよ
はい。
エレナが頷く。
そこで。
子どもへ見せる候補は
一度に三つまで。
全て嫌なら
別の三つ。
絵。
音。
色。
意味。
どこから選んでもよい。
選ばないことも選べる。
そして。
翌日、気が変われば変えてよい。
守様は。
すぐ変えると記録が混乱すると
最初は反対されました。
父さん
仮識別は残ってるから
人は間違えないと説明された
それで納得した?
ああ
エレナが続ける。
ステラは。
二年間。
その呼称を使いました。
六歳を過ぎた頃。
少しずつ言葉を話せるようになった。
ある日。
自分は。
ステラではなく
ルゥと呼ばれていた気がすると話しました。
家族が呼んでいた名前なのか。
自分で作った音なのか。
分かりません。
記憶も曖昧。
それでも。
本人は。
これからはルゥと呼んでほしいと選びました。
記録は更新されます。
選択呼称。
ステラ。
使用終了。
新選択呼称。
ルゥ。
過去呼称。
保存。
何で過去の呼び方も残すんですか
病院や。
学校。
以前の保護施設。
別の場所には
ステラの記録が残っているためです。
過去の呼称を消すと。
同じ子どもの記録が
二人分に分かれてしまう。
ただし。
本人が望まない場所で
以前の呼称を使ってはいけない。
記録を繋ぐために残すことと。
人前で呼ぶことは別です。
蒼汰は父の多くの呼び名を思い出す。
記録に残す名前。
今。
本人が呼ばれたい名前。
それは同じとは限らない。
守
父さんは
今、何て呼ばれたい
守でいい
勇者さまは?
やめてほしい
エリオの前では無理だろうな
困った
エレナは話を続ける。
ルゥが九歳になった年。
北方から。
一人の女性が保護院へ来ました。
灰色倉庫街で
娘とはぐれた母親。
娘の名前は。
ルイーゼ。
家では。
ルゥと呼んでいた。
蒼汰は息を止める。
家族が見つかったのか
はい。
ただし。
すぐ親子だとは決めませんでした。
似た呼称だけでは
本人確認にならない。
出生記録。
身体特徴。
保護場所。
年齢。
母親が知る古傷。
子どもが覚えていた歌。
全てを確認しました。
灰七号という仮識別が。
灰色倉庫街で
七番目に救助されたという記録を残していたため。
母親の証言と
発見地点を照合できた。
ステラという過去呼称も。
保護院で過ごした二年間の記録を繋いだ。
ルゥという選択呼称は。
本人が家で呼ばれていた音を
自分で取り戻すきっかけになった。
一つも消さなかったから。
全てが。
同じ少女へ繋がりました。
本人名。
ルイーゼ・ヴァルト。
家族呼称。
ルゥ。
過去選択呼称。
ステラ。
仮識別。
灰七号。
どれも。
同じ子どもが生きてきた時間の記録です。
蒼汰は小さく息を吐いた。
父が。
番号を消さなかった理由も。
番号を名前にしなかった理由も。
そこへ繋がった。
灰七号を消していれば。
発見場所が分からない。
灰七号を名前にしていれば。
本人がルゥという呼び方を取り戻しにくい。
空欄を残していたから。
本当の名前が戻った時。
そこへ置くことができた。
ルイーゼは。
母親と帰りました。
ですが。
すぐ保護院との関係を切ったわけではありません。
母親も
長く避難生活をしていた。
家も。
仕事も。
生活用品もない。
親子だと分かったから。
はい。
今日から帰ってください。
そうすることはできません。
守が頭の奥で言う。
帰還は
家族が見つかった時じゃない
一緒に暮らせる場所ができた時か
ああ
エレナが頷く。
保護院は。
母子の居住場所。
食事。
就学。
母親の仕事。
医療。
それらを整えました。
ルイーゼは。
週に一度
保護院へ戻った。
ステラと呼ばれていた頃の友人へ会い。
自分の過去を
捨てずに暮らしました。
現在は。
北東地域で
身元不明児の言語支援員をしています。
今もご存命ですか
はい。
五十代後半。
本式の日には。
保護院の子どもたちと共に
遠隔中継で参列する予定です。
蒼汰は少しだけ笑う。
父さん
本人に会ったことは?
ない
一度も?
ああ
制度を作ったあと
別の地域へ行った
自分が関わった子の名前が
戻ったことは知ってた?
報告書で
守の声がわずかに和らぐ。
ルイーゼと書かれてた
嬉しかった?
ああ
かなり
エレナが小さな灰色の木箱を開いた。
中には。
四枚の札が入っていた。
灰色の鉄札。
灰七号。
白い木札。
ステラ。
淡い青色の木札。
ルゥ。
そして。
透明な硝子札。
ルイーゼ・ヴァルト。
四枚は。
一本の紐で結ばれていない。
それぞれ別に置かれている。
ただし。
全ての下に
同じ小さな記録番号が刻まれていた。
なぜ繋げないんですか
蒼汰が尋ねる。
どの名前を
今使うか。
本人が選べるようにするためです。
過去の記録は繋がっています。
ですが。
札そのものを一つに束ね。
常に全部を
本人へ背負わせる必要はない。
現在。
ルイーゼは。
公の場では
ルイーゼ・ヴァルト。
親しい者には
ルゥ。
ステラは。
保護院時代の友人が
本人の許可を得た時だけ使う。
灰七号は。
本人を呼ぶためには
二度と使いません。
ただし。
救助記録として保管する。
記録が繋がっていることと。
全部の名前で呼ばれ続けることは
同じではありません。
蒼汰は四枚の札を見る。
父の名も。
同じなのかもしれない。
勇者。
修理係。
管理者。
父親。
全て記録には残る。
だが。
今、どの名前で呼ばれたいか。
それは父自身が選んでいい。
エレナが白地の旗包みを開く。
白い地。
中央には、空白の楕円。
その周りへ。
灰。
白。
青。
透明。
四色の小さな札が刺繍されている。
空白の楕円には。
名前がない。
本式の日。
連結身元記録局では
この旗を半旗とします。
同時に。
家族のいない子どもたちが暮らす全保護院で。
名前記録の確認を行います。
仮識別が
名前欄へ移されていないか。
職員が付けた呼称を
本人の正式名としていないか。
本人が
いま何と呼ばれたいか。
変えたい呼称はないか。
過去の名前を
誰へ開示してよいか。
一人ずつ確認します。
ただし。
守殿を悼むために。
新しい名前を
一斉に与えることはしません。
名前を贈る行為は。
美しく見えます。
ですが。
本人が選ばない名前を
大人の満足のために渡してはいけない。
選ばない子。
まだ決められない子。
空欄のままにしたい子。
その選択も守ります。
守が頭の奥で静かに答える。
それでいい
蒼汰は伝える。
父さんが
それでいいって
エレナは一度だけ頷いた。
最後に。
父の字が残る紙片を差し出す。
番号は
見失わないための印だ
名前は
その人を呼ぶためのものだ
大人が便利だからと
同じ欄へ入れるな
空いている場所は
いつか本人が選ぶために残せ
蒼汰は紙片を見つめる。
空欄を埋めることは。
正しいことだと思いがちだ。
分からない。
未定。
不明。
そうした言葉は。
不完全に見える。
だが。
無理に埋めれば。
本当の答えを置く場所がなくなる。
守
何だ
父さんの二十三通も
空欄だらけなんじゃないか
かなり
やっぱり
途中で文章が止まってる物もある
何で止まった
何を書いても
言い訳になる気がした
蒼汰は少しだけ目を伏せる。
なら。
空欄のままでいい。
今。
父本人へ聞ける。
書けなかった言葉を。
無理に過去の手紙へ埋めなくても。
一通ずつ。
父の声で補えばいい。
蒼汰は静かに言う。
空欄があったら
勝手に意味を決めないから
守の気配が少し揺れる。
その場で
父さんに聞く
答えられる範囲でいい
……助かる
父は小さく答えた。
エレナが立ち上がる。
守様。
私は。
あなたへ直接お礼を申し上げるのは
今日が初めてです。
あなたが私を見たのは。
私が生まれた翌朝。
その一度だけ。
私は覚えていません。
あなたも。
小さく。
よく泣いていた。
それしか覚えていないでしょう。
守が答える。
ああ
蒼汰が伝える。
父さんが
ああって
エレナは少し笑った。
十分です。
私は。
あなたに名前を付けてもらったわけではありません。
抱き上げてもらった記憶もない。
命を直接救われたわけでもない。
ですが。
私が。
母から受け取った名前を
正しく持ったまま育てたこと。
私自身が。
別の子どもたちへ
名前を選べる場所を残せたこと。
その始まりに。
あなたが残した空欄があります。
守の声が低く返る。
作ったのは
お前たちだ
蒼汰はそのまま伝えた。
作ったのは
あなたたちだって
エレナは深く頷く。
はい。
だからこそ。
お礼を申し上げます。
全てを作らなかったことへ。
最初の空欄を残し。
続きを
私たちへ渡してくださったことへ。
守は長く黙った。
そして。
頼む
一言だけ答えた。
蒼汰が伝える。
父さんが
頼むって
エレナは胸元の徽章へ手を置く。
承りました。
本人が選ぶための場所を。
これからも
空けておきます。
彼女は父の棺がある方角へ深く一礼し。
応接室を去った。
扉が閉まる。
酒精。
木札。
古い台帳。
そして。
まだ何も書かれていない場所の
静かな余白が残る。
蒼汰は透明な札を持ち上げる。
ルイーゼ・ヴァルト。
その名前が置かれるまで。
空欄は。
何年も待っていた。
守
何だ
父さん
今度。
家へ帰った時に呼ばれたい名前。
本当に守でいいのか
ああ
英雄とか
勇者とか付けなくていい?
いらない
父さんは?
それでいい
蒼汰は少し笑う。
じゃあ。
家では守で。
俺からは父さんだな
……ああ
決まったな
守の気配が、少しだけ安らぐ。
冬城が四枚の札と記録局旗を長卓へ運ぶ。
そして次の名簿を開いた。
蒼汰様。
うん
次の方は。
保護院で
ルイーゼ様と同じ部屋に暮らしていた。
元赤三号。
現在のお名前を
ミナ・アルベル様と仰る方です。
蒼汰は顔を上げる。
別の保護された子か
はい。
ルイーゼ様とは異なり。
最後まで
元のご家族も。
以前のお名前も
見つかりませんでした。
守が頭の奥で言う。
見つからないこともある
その人は
どうしたんだ
自分で名前を選んだ
いつ?
成人する前だ
冬城が続ける。
ただし。
ミナ様は。
新しい名前を選んだあとも。
赤三号だった過去を
記録から消すことは望まれませんでした。
蒼汰は四枚の札を見る。
名前を取り戻せた子がいる。
だが。
全員が過去へ戻れるわけではない。
次に待っていたのは。
探しても。
待っても。
以前の名前が見つからなかった少女が。
誰かに付けられた名ではなく。
帰る過去がないから仕方なく選んだ名でもなく。
これから生きる自分のために。
初めて、自分で名前を決めた日の話だった。
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