第64話 家族だけが知る名前では、間に合わない
応接室へ入ってきた男からは、乾いた木と古い蜜蝋の匂いがした。
家族記録板。
家具。
長年使われた食卓。
何度も手で磨かれた木箱。
役所でも。
病院でも。
街道でもない。
一つの家の中で積み重なった時間の匂いだった。
年齢は八十歳を超えているだろう。
背は大きく曲がっている。
歩く速度も遅い。
それでも右手に持った杖を頼りに、一歩ずつ自分の足で進んできた。
黒い礼装の胸元には。
銀の徽章ではなく。
小さな木製の名札が付いている。
ヨハン・ゼーリヒ。
その下へ、もう一つ。
マルガレーテ・アイゼン・ゼーリヒの夫。
蒼汰は、その二行を見つめた。
婚姻後の姓だけではない。
妻の旧姓まで並べている。
男の後ろには。
四十代ほどの男女が二人。
おそらく家族だろう。
男の方は、濃い茶色の木箱。
女の方は、白地に赤い糸で家系図のような線が縫われた旗包みを抱えていた。
冬城が告げる。
ヨハン・ゼーリヒ様です。
先ほどのマルガレーテ様のご夫君。
あの夜。
妻の旧姓と婚姻後の姓を繋ぐ家族記録板を持ち。
雪の中を施療院まで走られた方になります。
ヨハンは蒼汰の前へ立つ。
深く頭を下げようとするが。
腰が十分に曲がらない。
蒼汰はすぐに立ち上がった。
そのままで大丈夫です。
ヨハンはゆっくり顔を上げる。
目元には深い皺。
だが瞳は濁っていない。
長い年月を生き。
何度も妻の名前を呼び続けてきた者の目だった。
奏多蒼汰殿。
私はヨハン・ゼーリヒ。
あの夜。
妻の名前を知っているのは
自分だけで十分だと思っていた男です。
そして。
妻を失いかけて初めて。
家族だけが知っている名前は
緊急時には存在しないのと同じだと教えられました。
蒼汰は一拍置き、頭の奥へ問いかける。
守
何だ
ずいぶん厳しい話になりそうだな
ああ
父さんが怒られたって言ってたよな
かなり
何をしたんだ
最初は
家族記録板を持ってきたことへ礼を言った
それなら怒られないだろ
そのあと
次からは持って走れる場所へ置けと言った
それも正しいんじゃないか
言い方が悪かった
またかよ
蒼汰は椅子へ座る。
ヨハンも向かいへ腰を下ろした。
後ろの家族が、椅子の位置を少しだけ調整する。
男は礼を言わず。
ただ、肘掛けへ手を置いた。
長く世話を受けることへ慣れた者ではない。
家族に手を借りながらも。
自分で座ったという形を残したいのだろう。
茶色い木箱が机へ置かれる。
中から取り出されたのは。
古い家族記録板だった。
縦は腕ほど。
横は手のひら三つ分。
厚い樫の板。
表面には。
家族の名前。
生年月日。
婚姻日。
居住地。
緊急連絡先。
細かな文字が焼き付けられている。
一番上。
ヨハン・ゼーリヒ。
その下。
配偶者。
マルガレーテ・ゼーリヒ。
旧姓。
アイゼン。
出生地。
北村。
冬月十二日生。
さらに下へ。
子どもの名前が三人。
全員。
旧姓や。
出生地。
持病。
過去の手術歴まで記録されていた。
ただし。
板の端には。
後から足されたと思われる金属札が幾つも付いている。
ヨハンが静かに語り始めた。
あの夜。
妻が出血して倒れた時。
私は家にいませんでした。
東岸の家具工房で
夜勤をしていた。
妻は出産予定日より
十日早く産気づきました。
産婆が呼ばれ。
そのまま自宅で出産。
子どもは生まれた。
しかし。
妻の出血が止まらなかった。
北村診療所の医師が
緊急輸血要請書を書いた。
妻の名は。
マルガレーテ・アイゼン。
なぜ旧姓で?
蒼汰が尋ねる。
医師が。
妻を幼い頃から知っていたためです。
北村診療所では。
妻はずっと
マルガレーテ・アイゼンでした。
婚姻後。
住居は東岸へ移った。
施療院へ登録した名は
マルガレーテ・ゼーリヒ。
どちらも妻の名前です。
ですが。
それぞれの場所が
片方しか知らなかった。
蒼汰は家族記録板を見る。
家の中には。
二つの姓が、ちゃんと並んでいる。
だが。
病院には現在の姓だけ。
故郷の診療所には旧姓だけ。
家族の中だけで繋がっていた。
ヨハンが続ける。
私は。
家族のことは
家族が分かっていればよいと思っていました。
妻の旧姓。
過去の手術。
血液区分。
母親の名前。
そんなものを。
役所や施療院へ
何度も知らせる必要はない。
聞かれた時に
私が答えればよい。
そう考えていた。
ですが。
あの夜。
私はそこにいなかった。
妻は意識を失っていた。
生まれたばかりの子どもは
何も話せない。
家族が知っている情報が。
誰の口からも出せなくなった。
蒼汰は少しだけ目を伏せる。
自分の父も同じだった。
父は。
自分だけが知っているものを
あまりにも多く抱えていた。
地下施設。
境界路。
エリオ。
未送付の手紙。
家族へ言えなかった事情。
父が死ねば。
それらは存在しないのと同じになっていたかもしれない。
守
父さんも
耳が痛いだろ
かなり
ヨハンが続ける。
私は工房で。
妻が施療院へ運ばれたことを知りました。
知らせに来たのは
近所の少年です。
息を切らし。
奥さんが倒れた。
病院へ行った。
それだけ伝えた。
私は何も持たずに
工房を飛び出しました。
途中。
家の前を通りました。
その時。
玄関へ置いていた家族記録板を思い出した。
蒼汰は板を見る。
玄関に置いてたんですか
当時は。
家の奥の収納棚です。
火事や事故の際。
家族の情報をまとめて持ち出すために
自分で作った板でした。
ですが。
普段は人目へ触れない場所に置いていた。
私は家へ入り。
板を持ち。
施療院へ走りました。
雪の中を。
徒歩で。
工房から病院まで
どれくらいあったんですか
通常なら
歩いて二十分ほど。
あの夜は積雪。
三十分以上かかったでしょう。
途中。
二度転びました。
父さんと同じだな
蒼汰が頭の奥へ言う。
守が答える。
私は落馬だ
落ちた回数を張り合うなよ
ヨハンは話を続ける。
施療院へ着いた時。
守殿が搬入口にいました。
衣服は煤で黒く。
膝には当て布。
片手には
石炭の灰が付いていた。
私はこの板を渡し。
妻の名前が。
マルガレーテ・アイゼンであり。
マルガレーテ・ゼーリヒでもあると伝えました。
守殿は。
すぐに血液管理官へ板を運んだ。
その後。
輸血が始まりました。
妻が助かったと聞いた時。
私は床へ座り込みました。
子どもも生きている。
妻も生きている。
何度も。
本当に妻なのか。
本当に助かったのか。
確認しました。
蒼汰は少しだけ息を吐く。
緊張が切れたのだろう。
自分が持ってきた一枚の板で。
二つの名前が繋がり。
血液が使えるようになった。
ヨハンは家族記録板の角を撫でる。
守殿は。
私の隣へ座りました。
そして。
この板があって助かったと
言われました。
私は。
家族なら当然だと答えた。
妻のことを
夫が知っているのは当然。
家族の名前を
家に残すのも当然。
すると守殿は。
当然なら。
なぜ施療院も。
診療所も。
救護班も。
同じように確認できなかった。
そう尋ねました。
蒼汰は少し顔をしかめた。
父さん
妻が助かった直後に言ったのか
ああ
守が答える。
今じゃなくてもよかっただろ
忘れる前の方がいいと思った
一番気持ちが弱ってる時だぞ
……そこは悪かった
ヨハンの口元が、ほんの少しだけ動く。
守殿は。
人の心が落ち着く時刻を読むのは
苦手な方でした。
蒼汰は深く頷いた。
よく分かります
ですが。
言われた内容まで
間違っていたわけではありません。
守殿は
私へこう言いました。
家族だけが知っているなら。
家族がいない時。
その人には
名前が一つ足りなくなる。
家に板を置くのはいい。
だが。
家から出た時にも
必要な名前が届くようにしろ。
蒼汰は記録板を見る。
家庭内では完璧だった。
旧姓。
婚姻姓。
出生地。
医療情報。
だが。
板が棚の中にある限り。
家族が持って走らなければ。
病院には届かない。
ヨハンが続ける。
私は怒りました。
妻を救ったばかりの男へ。
なぜ今。
自分が責められなければならないのか。
自分は板を持ってきた。
妻も助かった。
十分ではないか、と。
守殿は。
十分ではなかったとは言っていない。
今回は間に合った。
次に。
家族がいない人はどうする。
そう答えました。
応接室が静かになる。
家族がいない者。
家族が遠くにいる者。
独り暮らし。
身元不明。
異国から来た者。
記憶を失った者。
家族記録板を持って走る者がいなければ。
名前の線は、誰が繋ぐのか。
守殿は。
私たち家族のためだけに
制度を作ろうとしたのではありませんでした。
家族が来なくても。
本人が話せなくても。
旧姓と現在名。
出身地と居住地。
過去の診療所と現在の施療院。
それらを繋げられる方法を
作れないかと尋ねました。
それが。
現在の連結身元記録制度の始まりです。
ヨハンの後ろにいた女性が、一枚の薄い金属札を机へ置いた。
手のひらほど。
表。
現在名。
裏。
旧名。
出生地。
緊急医療番号。
中央には。
本人の同意印。
蒼汰は札を見つめる。
全員が持つんですか
希望者が持ちます。
ヨハンが答える。
強制ではありません。
過去の名前を
知られたくない者もいる。
旧姓へ
痛みを持つ者もいる。
家族と縁を切った者も。
保護のために
以前の身元を隠す者もいます。
守殿は最初。
全員へ持たせればよいと言いました。
父さん
……ああ
また雑に決めたな
すぐ止められた
誰に
マルガレーテに
蒼汰は顔を上げた。
妻が
制度作りへ参加したんですか
ヨハンの目元が、ゆっくり和らぐ。
はい。
回復後。
妻は血液管理官アマーリエ殿と
身元記録制度の設計へ加わりました。
守殿は。
二つの名前を
全部の記録へ書けばよいと提案した。
妻は反対しました。
名前は。
他人が勝手に公開してよい情報ではない。
婚姻前の姓を残したくない者もいる。
養子であることを
周囲へ知られたくない者もいる。
過去の名前を追われている者もいる。
だから。
全員へ見える場所へ
複数名を並べるのではなく。
緊急時に限り。
必要な担当者だけが
本人の同意した連結情報を確認できるようにする。
現在名は表。
過去名は封印された裏記録。
開くには。
医療担当者と
身元管理官。
二人の印が必要。
守殿は
かなり面倒そうな顔をしたそうです。
守
面倒だった?
ああ
でも賛成したのか
必要な面倒だった
蒼汰は小さく笑った。
父は。
手続きを嫌っていたのではない。
人を守る理由のない手続きを嫌っていた。
本人の過去を守るため。
誤った輸血を防ぐため。
そういう面倒なら。
最終的には受け入れたのだろう。
ヨハンが続ける。
さらに。
この記録は
家族が書けば成立するものではありません。
本人の意思を優先する。
本人が話せる時に。
どの名前を登録するか。
どこまで開示するか。
誰へ連絡するか。
自分で選ぶ。
家族だからといって。
本人の過去を
勝手に全て記録することはできない。
私は。
そこでも妻に怒られました。
あなたは家族記録板へ
私のことを書きすぎている、と。
蒼汰は板を見る。
たしかに。
かなり細かい。
手術歴。
持病。
母親の名前。
故郷。
血液型。
全部
奥さんの許可を取らずに?
当時は。
家族のためだからよいと考えていました。
妻は。
家族のためなら
本人へ聞かなくてよいのかと言いました。
私は答えられませんでした。
蒼汰は父の気配へ問いかける。
父さんも
家族のためって言って
何か勝手に決めたことあるだろ
守はしばらく黙る。
かなり
一番大きいのは?
全部隠したことだ
蒼汰の表情から、わずかに笑いが消える。
父は。
家族を危険へ巻き込まないため。
自分の仕事も。
身体の状態も。
帰れない理由も。
全て隠した。
家族のためだから。
家族へ聞かなくてよいと思った。
だが。
その結果。
蒼汰と巴は。
何も知らないまま。
父の不在と沈黙だけを受け取った。
ヨハンが続ける。
守殿は。
妻から反対されたあと。
家族記録板を
本人確認板へ改めるべきだと提案しました。
家族が。
その人を管理するための板ではない。
本人が。
自分の情報を
必要な時に誰へ渡すか決めるための板。
家族は。
本人が話せない時に
預かった情報を運ぶ者。
所有者ではない。
蒼汰は先ほどの薬船長の話を思い出す。
預かることと。
所有することは違う。
薬も。
時間も。
名前も。
家族だからといって。
本人そのものを所有できるわけではない。
ヨハンは古い板の裏側を見せた。
そこには。
後から刻まれた文章がある。
この板は
家族が本人を説明するためのものではない
本人が話せない時
預かった言葉を代わりに届けるためのもの
書かれていないことを
家族の判断で足すな
父の字ではない。
柔らかく。
整った文字。
妻が書いたものです。
守殿が。
自分の字より
マルガレーテの字の方が誤解がないと言いました。
珍しいな
蒼汰が頭の奥へ言う。
守が答える。
私の文は
命令に見えるらしい
実際、命令みたいなの多いだろ
本人の言葉の方がよかった
蒼汰は板の裏を見つめる。
妻自身の言葉。
家族に説明される患者ではなく。
自分の名前を。
自分の意思で残す一人の人間として。
記録板へ刻まれている。
ヨハンが木箱の奥から。
さらに一枚の小さな板を取り出した。
古い板とは違う。
薄く。
軽い。
一人分だけの記録板。
表面には二つの名前。
マルガレーテ・アイゼン。
マルガレーテ・ゼーリヒ。
その横に。
どちらで呼ばれても
私は返事をする
ただし
医療記録は両方を繋いで確認すること
蒼汰は少し微笑む。
奥さんらしいですね
はい。
妻は。
あの夜以降。
複数名を持つ患者の相談員を
二十年以上続けました。
結婚。
離婚。
養子。
改名。
翻訳。
避難。
保護。
名前が変わる理由は
人によって違う。
妻は。
名前を増やすことも。
減らすことも。
戻すことも。
本人が決めてよいと伝え続けた。
そして。
医療や救助の記録だけは。
必要な範囲で。
安全に繋がるよう手伝いました。
マルガレーテさんは
今も?
蒼汰が尋ねる。
ヨハンの指が、小さな記録板の端を撫でる。
十年前に亡くなりました。
眠るように。
私が隣にいました。
最期まで。
自分の名前を
一度も間違えませんでした。
蒼汰は静かに頭を下げた。
ヨハンは続ける。
妻は亡くなる前。
守殿が先に死んだら。
家族記録板を葬儀へ持っていくよう
私へ言いました。
なぜ?
守殿にも。
家族へ伝えずに
自分だけが知っている名前や記録が
大量にあるはずだから、と。
守が頭の奥でぼそりと言う。
見抜かれてたか
蒼汰は思わず眉を上げる。
奥さん
父さんの二十三通も知らないよな
知らない
それでも分かったのか
マルガレーテは
人が隠してる名前に気づくのが早かった
ヨハンの目元に、小さな笑みが浮かぶ。
妻は。
守殿が。
英雄。
修理係。
境界管理者。
多くの名で呼ばれているのに。
家族の話をする時だけ
急に言葉が少なくなることへ気づいていました。
だから言いました。
あの人は。
外で使う名前は全部届けるのに。
家へ帰る名前だけ
どこかへ置き忘れている、と。
蒼汰は父の棺がある方角を見る。
父さん
何だ
言われてたぞ
ああ
直さなかったんだな
……直せなかった
どうして
家へ帰る名前が
一番難しかった
蒼汰は少しだけ胸が痛んだ。
父は。
英雄としてなら動けた。
管理者としてなら判断できた。
修理係としてなら。
壊れたものへ手を伸ばせた。
だが。
夫。
父親。
その名前になると。
何を話し。
どう謝り。
どこまで弱さを見せればよいか。
分からなかった。
ヨハンが白地の旗包みを開く。
白い旗。
中央には
二つの異なる姓。
それらを囲むように。
赤い一本の線が刺繍されている。
線は家の形にはなっていない。
役所の印でもない。
一人の人間の輪郭を表すように。
二つの名前をまとめて囲んでいる。
本式の日。
連結身元記録局では
この旗を半旗とします。
同時に。
全ての施療院。
救護所。
避難所。
そこで。
緊急連結情報の更新確認を行います。
現在名。
過去名。
本人が開示を認めた情報。
連絡してよい相手。
連絡してはいけない相手。
家族だからといって。
無条件に情報を渡しません。
家族がいないからといって。
本人の記録を後回しにもさせません。
また。
家族記録板を持つ家には。
玄関へ置けとは指示しません。
盗難や。
家庭内の事情もあります。
ただし。
本人が倒れた時。
誰が。
どこから。
どの情報を持ち出すか。
家族全員で確認する。
一人だけが
全部の場所を知っている状態を作らない。
妻が助かったあと。
守殿が
私へ最初に求めたことです。
守が頭の奥で静かに言う。
それでいい
蒼汰は伝える。
父さんが
それでいいって
ヨハンは蒼汰へまっすぐ視線を向ける。
私は。
守殿へ怒りました。
家族のことを
家族だけが知っていて何が悪い。
他人へ全部見せろというのか、と。
守殿は。
全部見せろとは言っていない。
必要な時に。
必要な者へ。
本人が選んだ情報だけ届くようにしろ。
そう答えました。
当時は。
面倒な男だと思いました。
蒼汰は小さく笑う。
それは否定しません
ですが。
妻を看取った時。
私は一人ではありませんでした。
妻の希望した呼び名。
望む処置。
連絡してほしい子どもたち。
会わせてほしくない親族。
全て。
妻自身が残していた。
家族だから
私が代わりに決める必要はなかった。
私は。
妻の言葉を届けるだけでよかった。
その時。
守殿が言っていた意味を
ようやく理解しました。
ヨハンは小さな記録板を、蒼汰の前へ差し出す。
こちらは。
妻が守殿へ渡すよう残した物です。
蒼汰は受け取る。
裏側に。
マルガレーテの字で文章が刻まれていた。
奏多守へ
家族は
あなたの帰る場所を知っているだけでは足りません
あなた自身が
どの名前で帰るのか伝えてください
英雄の名前を玄関へ置き
父親の名前を外へ忘れてこないように
応接室が静まる。
父の気配が。
息を止めたように動かなくなった。
守
読めたか
……ああ
何か言うことは
ある
何だ
遅かった
蒼汰は目を伏せる。
それでも。
父が自分で言った。
言われていたことを。
理解するのが遅かったと。
ヨハンが静かに続ける。
守殿。
妻は。
あなたを責めるために
これを残したのではありません。
帰る場所がある者が。
帰る名前を言えないまま死ぬことを
惜しんでいました。
守の声が低く返る。
分かってる
蒼汰は伝えた。
分かってるって
ヨハンは一度だけ頷く。
では。
今からでも。
ご子息へ伝えてください。
英雄でも。
管理者でも。
修理係でもない。
家へ帰る時の名前を。
応接室の中で。
誰も動かなかった。
蒼汰は父の気配を待つ。
守は。
長く。
本当に長く黙っていた。
父親という名前を。
自分で名乗るだけなのに。
世界の境界を繋ぐより。
橋を開けるより。
未帰還者を探すより。
難しいらしい。
やがて。
頭の奥で。
小さな声がした。
蒼汰
何だよ
私は。
お前の父親だ
蒼汰は目を閉じた。
知ってる
あまり
できていなかったが
それも知ってる
でも
父親だったつもりではいる
つもりじゃなくて
父親だよ
守の気配が揺れる。
蒼汰は続けた。
英雄の父さんも。
駄目な父さんも。
話を隠した父さんも。
全部まとめて。
俺の父親だ
だから。
勝手に父親の名前だけ
外して死ぬな
守は小さく答えた。
……分かった
蒼汰はヨハンへ伝える。
父さんが。
自分は俺の父親だって
ヨハンの目元が、ゆっくり細くなる。
そうですか。
それなら。
妻へ
よい報告ができます。
老人は立ち上がろうとする。
後ろの家族が腕を差し出す。
ヨハンは今度は拒まなかった。
左右から支えられ。
ゆっくり立ち上がる。
守殿。
あの夜。
妻の名前を繋いでくださり
ありがとうございました。
ですが。
本当に妻を繋いだのは。
あなた一人ではありません。
産婆。
血液管理官。
救護吏。
診療所。
そして妻自身が残した記録。
あなたは。
その線を集めるよう
急かしただけです。
守が頭の奥で答える。
それで十分だ
蒼汰が伝える。
それで十分だって
ヨハンは静かに笑った。
はい。
運ばない者にも
役目があるように。
名前を全て知っている者だけが
家族なのでもありません。
知らないことを。
本人から聞き。
記録へ残し。
必要な時に届ける。
それも家族なのでしょう。
守の声が少しだけ和らぐ。
ああ
ヨハンは深く頭を下げた。
今度こそ。
奏多守殿。
あなたのご帰宅を。
ご家族と共に
お待ちしております。
男は家族に支えられながら。
応接室を出ていった。
扉が閉まる。
乾いた木。
蜜蝋。
古い家の匂い。
蒼汰は小さな記録板を持ち上げる。
英雄の名前を玄関へ置き。
父親の名前を外へ忘れてこないように。
守
何だ
帰ってきたら
何て言うんだ
何の話だ
家に帰る時の言葉
父は少し黙る。
ただいま、だろ
言える?
……たぶん
エリオは言えたぞ
九歳と比べるな
九歳の方が立派だったな
否定はできん
蒼汰は少し笑った。
父の棺を家へ戻す日。
父は声だけかもしれない。
他の誰にも聞こえないかもしれない。
それでも。
蒼汰は必ず聞く。
ただいまと。
冬城が家族記録板と旗を長卓へ運ぶ。
そして次の名簿を開いた。
蒼汰様。
うん
次の方は。
あの夜。
マルガレーテ様が出産された
お子様ご本人です。
蒼汰は顔を上げる。
あの時の赤ちゃん?
はい。
エレナ・ゼーリヒ様。
現在は。
連結身元記録局の現局長を務めておられます。
蒼汰は少し驚く。
父さん
会ったことあるのか
守が頭の奥で答える。
一度だけ
いつ
生まれた翌朝。
ヨハンに見せられた
覚えてる?
小さかった
赤ちゃんだからな
よく泣いてた
それも赤ちゃんだからだよ
冬城が名簿へ目を落としたまま続ける。
エレナ様は。
ご自身が二つの名前と
一枚の家族記録板によって助かったことを理由に。
現在の制度を
家族のいない子どもたちへも広げられました。
蒼汰は小さな記録板を見る。
名前を繋いだ結果。
助かった命は。
やがて。
自分の名前を持たない子どもたちへ。
新しい線を引く者になった。
次に待っていたのは。
生まれたその夜から
多くの人に名前を繋がれた女性が。
今度は。
名前を呼ぶ家族すらいない子どもへ。
本人が選べる最初の名前を渡した話だった。
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