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父、奏多守はほら吹きではなかった  作者: てへろっぱ


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63/102

第63話 二つの名前は、どちらもその人のもの



応接室へ入ってきた女からは、酒精と冷たい鉄の匂いがした。


血液保存箱。

細い検査針。

煮沸された硝子器具。

何度も拭き上げられた金属台。


施療院の中でも。


人の血を預かり。

間違った相手へ一滴も渡さないために。


名前と数字を、何度も確かめ続けてきた者の匂いだった。


年齢は七十歳前後。


背は低く。

身体は細い。


黒の礼装の上には、暗い赤色の肩布。


胸元には。


一滴の血。

開かれた台帳。

二本の重なる線。


それらを組み合わせた銀の徽章が留められている。


白髪は後ろへきつくまとめられ。


鼻の上には、細い銀縁の眼鏡。


その視線は厳しい。


人を疑っているのではない。


一つの確認漏れが。

目の前の命だけでなく。


次に同じ血を使う者まで危険へ巻き込むことを知っている者の目だった。


後ろには若い血液管理吏が二人。


一人が赤い革表紙の管理台帳。


もう一人が細長い硝子箱と、白赤色の旗包みを抱えている。


冬城が告げる。


東岸第二施療院

元血液管理官、アマーリエ・ロート様です


白冬草号から届いた輸血保存液を。


旧姓で書かれた要請書と。

婚姻後の姓で登録された患者が。


同一人物であると確認するまで

使用を止められたご当人になります


女――アマーリエは蒼汰へ深く頭を下げた。


奏多蒼汰殿


私はアマーリエ・ロート。


東岸第二施療院で四十年間。


血液の保管。

照合。

払い出しを担当しておりました。


そして守殿に。


名前が二つあるなら

片方を消して合わせるな。


二つとも同じ人へ繋がっていると証明しろと迫られた者です。


蒼汰は一拍置き、頭の奥へ問いかけた。



何だ


輸血を止められて

父さん、怒っただろ


怒った


やっぱり


ただし

止めた方が正しかった


認めるまでどれくらいかかった


……数分


アマーリエの眉がわずかに動く。


十二分です。


父さん


説明を聞いていた時間も含まれてる


それを認めるまでの時間って言うんだよ


蒼汰は椅子へ座る。


アマーリエも向かいへ腰を下ろした。


机の上へ赤い革表紙の台帳が置かれる。


血液番号。

採取日。

血液型。

保存温度。

適合検査。

払出先。

患者名。

生年月日。

居住区。

担当医。


一つでも一致しなければ。


赤い停止札が置かれる仕組みらしい。


その夜の頁。


輸血保存液番号。


RC七二一。


要請患者名。


マルガレーテ・アイゼン。


産科病棟患者登録名。


マルガレーテ・ゼーリヒ。


生年月日。


要請書、不記載。


患者台帳。


冬月十二日。


住所。


要請書、旧北村。

患者台帳、東岸職人区。


照合結果。


不一致。


払出停止。


その横へ。


父の字で記録が残っていた。


姓を一つ選ばせるな

同じ血を待っている人が一人だと

確認できる線を増やせ


蒼汰は記録を見つめる。


名前が違うだけじゃなかったんですね


はい。


アマーリエは静かに答えた。


住所も違う。


要請書には

生年月日もない。


輸血を待っているという事情だけで。


同一人物だと判断することは

できませんでした。


守が頭の奥でぼそりと言う。


最初は

本人に聞けばいいと思った


聞けない状態だったのか


ああ


アマーリエが頷く。


患者は。


出産後の大量出血で

意識がありませんでした。


言葉による本人確認は不可能。


家族も

まだ施療院へ到着していない。


産婆は付き添っていましたが。


要請書を書いたのは

北村診療所の医師。


患者を搬送したのは

別の救護班。


施療院へ到着後。


婚姻後の姓で

入院登録が行われていた。


一人の患者が。


場所ごとに。

時間ごとに。

違う名前で記録されていたのです。


蒼汰は少しだけ眉を寄せる。


でも。


旧姓と新しい姓なら

よくあることじゃないんですか


よくあります。


だからこそ

危険なのです。


アマーリエは台帳の別頁を開いた。


同じ姓の者。

似た名前の者。

生年月日が近い者。


施療院には

一晩で何百人も出入りします。


旧姓と婚姻姓が違うことは珍しくない。


ですが。


珍しくないからといって。


名前が違っても同じ人だろう、と判断すれば。


別の患者へ血液を渡す事故が起きる。


輸血は。


間違えてから

返してもらうことができません。


蒼汰は小さく息を吐いた。


止めたのは

正しかったんですね


はい。


アマーリエは迷わず答えた。


輸血保存液は

患者の目の前まで届いていました。


産科医は急いでいる。


看護師も。

産婆も。

家族が来ていないことへ焦っている。


守殿も。


石炭荷車の間へ道を作り。

ようやく届いた箱が止められたため。


かなり強い口調で

使用できない理由を尋ねられました。


何て言ったんだ


蒼汰が頭の奥へ聞く。


守は少し間を置く。


血液型が合ってるなら

先に使え、と


父さん

それは駄目だろ


分かってる


アマーリエの眼鏡の奥で、目が細くなる。


私は。


血液型が同じだけでは

本人確認にならないと答えました。


守殿は。


患者は一人しかいない。

いま輸血を待っている者も一人だと反論。


私は。


この箱が

本当にその一人のために運ばれたのか。


要請書を書いた医師が

別の患者名を書き間違えていないか。


輸送中に箱が入れ替わっていないか。


患者台帳の方が

別人になっていないか。


全て確認できていないと説明しました。


すると守殿は。


確認している間に死んだら

何のための安全だと仰いました。


蒼汰は父の気配へ問いかける。


今なら何て言う


守はすぐに答えた。


確認せず使って死なせたら

もっと意味がない


父さん

ちゃんと覚えてるんだな


ああ


アマーリエが続ける。


私は。


急ぐからこそ

間違えてはいけないと答えました。


守殿は。


では何を確認すれば

最短で同一人物だと証明できるか。


そう聞きました。


そこでようやく。


止めるか。

使うか。


その二つだけではなく。


使える状態へどう進めるかの話になった。


蒼汰は台帳へ目を落とす。


必要な確認項目が、横へ並べられている。


旧姓。

婚姻姓。

生年月日。

出生地。

配偶者名。

父母名。

既往歴。

過去の血液検査。

身体識別。

搬送経路。


全部を調べていたら

間に合わないんじゃないか


守が答える。


だから

確実なものから三つ取った


アマーリエが頷く。


本人確認には。


名前一つだけではなく。


互いに独立した複数の情報を使います。


あの夜。


すぐ確認できる可能性があったものは三つ。


一つ目。


北村診療所の過去診療記録。


二つ目。


付き添っていた産婆の出生台帳。


三つ目。


患者本人が身につけていた婚姻記章。


ですが

どれも完全ではありませんでした。


北村診療所との通信線は

寒波で不安定。


過去診療記録が届くまで

時間がかかる。


産婆の出生台帳には

マルガレーテ・アイゼンの名がある。


ですが。


それが目の前の女性だと

産婆の記憶だけで証明することはできない。


婚姻記章には。


現在の姓、ゼーリヒ。


配偶者名、ヨハン。


ただし旧姓は書かれていない。


それぞれ

一本ずつは繋がっている。


しかし。


三本が

同じ一人へ集まっていなかった。


蒼汰は父の字を見る。


線を増やせ。


片方の名前を消して

書き直すのではない。


二つの名前の間へ。


本人一人分の線を引く。


守殿は。


患者の持ち物を確認し始めました。


衣服。

荷札。

婚姻記章。

診療所から渡された薬袋。


その中に。


古い金属製の薬札がありました。


表。


マルガレーテ・アイゼン。


裏。


北村診療所。

血液区分、赤三型。

過去輸血歴、一回。


ただし。


薬札は十年以上前のもの。


現在の患者が

同じ人物だと断定するには足りません。


父さん

それを見て、すぐ使えって言わなかったのか


守が答える。


言いかけた


言いかけたのかよ


アマーリエが即座に言う。


言われました。


私は拒否しました。


古い札は

別の家族の物を持っている可能性もある。


拾った可能性も。

譲られた可能性も。

記載が誤っている可能性もある。


守殿は

かなり不満そうでした。


でも、止まったんだな


ああ


何が足りないと聞いた


蒼汰は少しだけ笑った。


父は。


押し通せないと分かれば。


少なくとも、必要なものを聞くところまでは進めたらしい。


アマーリエが続ける。


私は。


現在の患者と

古い薬札を直接繋ぐ情報が必要だと答えました。


すると産婆が。


患者の左脇腹へある

古い手術痕について話しました。


十七年前。


マルガレーテ・アイゼンは。


北村診療所で

腹部手術を受けている。


その時に輸血も受けた。


薬札は

その際に発行された物。


患者の左脇腹に

斜めの手術痕があれば。


旧姓の診療記録と

現在の身体を繋げられる。


ですが。


傷痕だけでも

本人確認としては足りません。


似た手術を受けた者は

他にもいる。


そこで守殿は。


手術痕の長さと位置を

診療所へ確認するよう求めました。


通信線は不安定。


返事まで

最短でも数分。


その間に。


別の確認を進めました。


患者の婚姻記章。


マルガレーテ・ゼーリヒ。

配偶者、ヨハン・ゼーリヒ。


産婆の出生台帳。


マルガレーテ・アイゼン。

母、クララ・アイゼン。

父、ベルンハルト・アイゼン。


この二つの間に

共通項目はありません。


ですが。


婚姻記章の裏へ

証人名が二名記されていました。


その一人。


クララ・アイゼン。


母親です。


蒼汰は台帳を見る。


旧姓側の母親の名前が。


婚姻後の記章にも残っていた。


それで繋がったのか


まだです。


アマーリエは厳しく答える。


婚姻記章が

本当に患者本人の物だと確認できていない。


装身具は外せる。


別の人が身につけることもできる。


蒼汰は少しだけ疲れた顔になる。


厳しすぎないかと思う。


だが。


一つずつ聞けば。

どれも確かに、間違う可能性がある。


守が頭の奥で言う。


私も同じ顔をしてた


でも必要だったんだろ


ああ


アマーリエが続ける。


その時。


患者を運んだ救護吏が戻りました。


搬送元の家から。


家族記録板を持ってきたのです。


木製の小さな板。


家族名。

生年月日。

居住地。

緊急時連絡先。


表。


ヨハン・ゼーリヒ。

配偶者、マルガレーテ・ゼーリヒ。


裏。


妻旧姓、アイゼン。

北村出身。

冬月十二日生。


ようやく。


二つの姓。


生年月日。


出生地。


配偶者名。


全てが一人へ繋がりました。


同時に。


北村診療所からも

通信が戻った。


マルガレーテ・アイゼン。


左脇腹、斜め十三センチの手術痕。


過去輸血歴、一回。


血液区分、赤三型。


目の前の患者と一致。


本人確認。


成立。


輸血保存液番号RC七二一。


適合検査。


再確認。


払出許可。


アマーリエが台帳の印を指でなぞる。


赤い停止札の横に。


緑の使用許可印。


二つが並んでいる。


停止札は

外さなかったんですか


蒼汰が尋ねる。


外しません。


止めたことは

間違いではなかった。


確認が取れたから。


停止の上へ

許可を重ねたのです。


止めた判断を消せば。


後から記録を見た者が。


名前が違っても使ってよいと

誤解する可能性がある。


だから。


不一致。


停止。


追加確認。


同一人物証明。


適合確認。


許可。


全てを残しました。


蒼汰は少しだけ頷いた。


父が橋を通した時と同じだ。


橋が閉じていた判断を

間違いにしない。


薬を止めた判断も

消さない。


必要な確認を加え。


その先へ進めるようにする。


輸血は。


確認完了後

すぐに産科病棟へ運ばれました。


患者へ接続。


出血は

徐々に落ち着きました。


母親も。

生まれた子どもも。


生存。


守殿は

輸血が始まるまで病室前にいました。


そのあと何したんだ


蒼汰が頭の奥へ尋ねる。


守が答える。


アマーリエに謝った


その場で?


ああ


珍しいな


完全に私が悪かったからな


アマーリエの厳しい顔が、わずかに和らぐ。


守殿は。


止めた私へ。


邪魔をするなと言ったことを

謝罪されました。


正確には。


止めてくれて助かった。


急いでいると

届いたことだけを見てしまう。


そう仰いました。


蒼汰は父の気配へ言う。


ちゃんと言えたんだな


あの時はな


何で家では言えなかったんだよ


仕事の方が

何を謝ればいいか分かりやすかった


父の答えは。


情けないが。

少しだけ本音だった。


家族へ謝る時。


どこから。

何を。

どれだけ。


言えばいいか分からなかったのだろう。


アマーリエが細長い硝子箱を開く。


中には。


二本の細い識別札が入っていた。


一つ。


マルガレーテ・アイゼン。


もう一つ。


マルガレーテ・ゼーリヒ。


どちらも白い硝子。


中央へ赤い線。


二本の札は。


一本の銀鎖で繋がれている。


これは。


あの夜に使用された

臨時患者識別札です。


本来。


患者の腕へ付ける札は一つ。


現在の正式名だけを記載します。


ですが。


あの夜は。


旧姓と婚姻姓。


二つの札を

同じ腕へ付けました。


なぜ片方へ

両方書かなかったんですか


書き換えたように見えるためです。


後から急いで

別名を付け足したと誤解される可能性がある。


ですから。


元から存在した二つの記録を。


別々の札のまま残し。


銀鎖で繋いだ。


二つとも正しい。


どちらも

この患者の名前だと示すためです。


守殿は。


名前を一つに戻したのではない。


二つの名前を

一人へ戻したのだと言いました。


蒼汰は二本の札へ触れる。


冷たい硝子。


一方だけを見れば。


別人に見える。


だが銀鎖を辿れば。


同じ腕へ着く。


アマーリエが白赤色の旗包みを開く。


東岸第二施療院血液管理局旗。


白い地に。

赤い一滴。


その左右へ

二枚の白い識別札。


中央には

銀色の鎖が刺繍されている。


本式の日。


血液管理局では

この旗を半旗とします。


ですが。


照合手順は

通常どおり行います。


守殿の弔意を理由に。


確認を省略しません。


急ぐ患者であっても。


名前。

生年月日。

血液区分。

要請元。

保存番号。

適合検査。


全て確認します。


ただし。


名前が一致しない場合。


即座に

別人として終わらせることもしません。


旧姓。

婚姻姓。

保護名。

養子名。

通称。

異国での翻訳名。


複数の名前がある可能性を確認する。


一つへ書き直すのではなく。


それぞれの記録が

同じ一人へ繋がる証拠を探す。


そして。


確認のために止めた者を

患者を遅らせた者として責めません。


止めた判断も。

通した判断も。


両方を記録へ残します。


守殿が。


最初に私を責め。


最後に

止めてくれて助かったと認めたためです。


守が頭の奥で言う。


その通りだ


蒼汰は伝える。


父さんが

その通りだって


アマーリエは一度だけ目を閉じた。


最後に。


父の字が残る紙片が差し出される。


名前が違う時

人を記録へ合わせるな

記録の方を、人へ繋げ直せ

一つを消して早くするより

二つとも残して間違えない方が、最後は早い


蒼汰はその文章を何度も読み返した。


自分の父にも。


いくつもの名前があった。


奏多守。


父親。


勇者さま。


臨時の修理係。


境界運用管理者。


魔王の友人。


星間航路の修復者。


国境線を消した男。


どれか一つだけが本物なのではない。


全て。


同じ一人へ繋がっている。


だが蒼汰は。


父親という名前だけを見ていた。


他の名前を知らなかった。


逆に。


父の知人たちは。


英雄や修理係としての守を知り。


家庭で何も話せなかった父親を知らなかった。


どちらかを消せば。


父を正しく理解したことにはならない。



何だ


父さんの名前

多すぎるな


私が付けたわけじゃないものも多い


勇者さまは?


違う


エリオは絶対認めないと思うぞ


困るな


でも。


蒼汰は少しだけ笑う。


父親って名前も

消さないからな


守が黙る。


下手だったけど


ああ


かなり駄目だったけど


ああ


それでも。


父さんが父親じゃなかったことには

しない


父の気配が、わずかに揺れる。


蒼汰は続ける。


英雄だから

家で何も話さなくてよかったことにもしない


家で駄目だったから

外で助けた人まで嘘にはしない


両方

父さんだ


長い沈黙。


やがて。


守が小さく答えた。


……それは

少し厳しいな


どっちかだけにしてほしかった?


できれば

外の方だけ残してほしい


駄目


即答した。


父親の方も残す


失敗も?


全部


守は困ったように息を吐いた。


それでも。


逃げなかった。


アマーリエが立ち上がる。


守殿。


あの夜。


あなたは。


名前の違う患者へ

輸血を急がせました。


私は。


その血が別人へ渡る可能性を止めた。


どちらか一人だけなら。


患者は助からなかったでしょう。


守が頭の奥で答える。


ああ


蒼汰が伝える。


ああって


アマーリエは続ける。


あなたが急がせたから。


私たちは

通常より早く確認手段を集めた。


私が止めたから。


あなたは

正しい患者へ届くまで待った。


急がせた者と。

止めた者。


二つの判断が。


同じ一人へ繋がった。


守殿。


あなたも。


英雄か。

父親か。


どちらか一つに

整理される必要はありません。


ただし。


どちらの記録も。


都合よく消してはいけません。


父の声が低く返る。


分かった


蒼汰はそのまま伝える。


分かったって


アマーリエは深く一礼した。


それなら。


ご子息が読む二十三通にも。


どの名前で書いた手紙なのか。


一通ずつ

確かめていただくとよいでしょう。


蒼汰は少し眉を上げる。


どういう意味ですか


境界管理者として書いたのか。


英雄として書いたのか。


言い訳をする父親として書いたのか。


息子へ戻りたい一人の男として書いたのか。


同じ筆跡でも。


名前が違えば

言葉の意味は変わります。


蒼汰は頭の奥へ問いかける。


父さん

二十三通、全部同じ感じじゃないのか


……違う


どう違う


読めば分かる


珍しく

先に説明しないんだな


説明すると

余計に読みにくくなる


それは父さんの文章が悪いんじゃないか


否定はできん


蒼汰は少し笑った。


アマーリエは父の棺がある方角へ一礼し。


応接室を去った。


扉が閉まる。


酒精。

硝子。

冷たい鉄。


そして。


二つの名前を繋ぐ銀鎖の光だけが残った。


蒼汰は二本の識別札を持ち上げる。


マルガレーテ・アイゼン。


マルガレーテ・ゼーリヒ。


二つとも。


同じ女性が生きてきた時間の名前だ。



何だ


父さんの二十三通


最初の一通は

どの名前で書いたんだ


守は少し黙った。


それから。


境界管理者として

息子へ説明しようとして失敗した手紙だ


最悪の始まり方だな


私もそう思う


二通目は?


父親として

謝ろうとして失敗した


どっちも失敗してるじゃん


だから出せなかった


蒼汰は額を押さえながらも。


少しだけ。

読むのが楽しみになっている自分へ気づいた。


完璧な手紙ではない。


父らしく。


説明が長く。

謝罪が下手で。

大事なところほど書けていないのだろう。


それでも。


届かなかった時間へ。


勝手に答えを付けたままにするよりはいい。


冬城が二本の識別札と血液管理局旗を長卓へ運ぶ。


そして次の名簿を開いた。


蒼汰様


うん


次の方は。


輸血を受けたマルガレーテ様の夫

ヨハン・ゼーリヒ様です。


妻の婚姻後の姓を証明する家族記録板を持ち。


雪の中を施療院まで走られたご当人になります。


蒼汰は顔を上げる。


家族本人が来てるのか


守が頭の奥で答える。


ああ


父さんの知り合いなのか


あの夜は

ほとんど話してない


じゃあ、何を伝えに来たんだ


守は少しだけ間を置いた。


妻が助かったあと。


私へ。


名前を繋いでくれてありがとうではなく。


家族の名前を

自分だけが知っている状態にするなと怒られた


蒼汰は二本の識別札を見る。


患者を救う最後の線は。


役所でも。

医師でも。

英雄でもなく。


一枚の家族記録板を持って走った夫が繋いだ。


だが次に待っていたのは。


家族だから知っていればいいと

記録を家の中だけへ閉じ込めていた男が。


妻を失いかけて初めて。


名前は、家族の外へも正しく届いていなければならないと知った夜の話だった。


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