↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
父、奏多守はほら吹きではなかった  作者: てへろっぱ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
62/102

第62話 荷揚げ場を空にせず、輸血箱一つ分を通す



応接室へ入ってきた男からは、石炭と消毒液の匂いがした。


本来なら混ざるはずのない二つの匂い。


暖房炉へ運ばれる黒い燃料。

患者へ触れる器具を洗う透明な薬液。


その両方が必要な場所で、長く荷物を受け取ってきた者の匂いだった。


年齢は六十代後半ほど。


身体は大きい。


背も高く、腕も太い。

ただし荷運び人のように勢いよく歩くのではなく、床の状態を一歩ずつ確かめるように進んでくる。


黒の礼装の上には、濃い灰色の短外套。


胸元には。


箱。

荷車。

施療院を示す杖。


三つを組み合わせた銀の徽章が留められていた。


右手の小指だけが、少し曲がっている。


重い荷車の間へ挟まれた古傷なのかもしれない。


後ろには若い搬入吏が二人。


一人が分厚い夜間搬入記録簿。


もう一人が、細長い板の入った木箱と、黄灰色の旗包みを抱えている。


冬城が告げる。


東岸第二施療院

元夜間搬入監、エーミール・クラウス様です


白冬草号から運び出された輸血保存液を施療院内へ通すため。


石炭荷車で塞がれていた搬入口へ

一箱分の通路を作られたご当人になります


男――エーミールは蒼汰へ深く頭を下げた。


奏多蒼汰殿


私はエーミール・クラウス


東岸第二施療院で三十五年間

夜間に届く荷を受け取っておりました


そして守殿に。


薬を通すために石炭を捨てるな。


石炭を守るために薬を止めるな。


必要な幅だけ、先に作れと迫られた者です


蒼汰は少しだけ眉を上げる。



何だ


また両方を残す話か


ああ


薬と石炭?


どっちも

朝までに必要だった


父さん

最初は石炭を捨てろって言わなかったよな


少しだけ言った


言ったのかよ


正確には

端の袋を外へ出せと言った


それ、雪の中だったんだろ


ああ


石炭濡れるじゃん


だから止められた


蒼汰は額へ手を当てた。


今日聞いてきた父の話には、共通するものがある。


父は最初から完璧な答えを持っているわけではない。


目の前に急ぐものがあれば。

まず、それを通そうとする。


そこで現場の者から。


何を動かせないのか。

何を捨ててはいけないのか。

どこまでなら変えられるのか。


一つずつ教えられ。


ようやく、両方を残す方法へ辿り着く。


蒼汰は椅子へ座る。


エーミールも向かいへ腰を下ろした。


机の上へ搬入記録簿が置かれる。


搬入口。

到着時刻。

荷の種類。

数量。

保管場所。

搬入優先度。

必要人員。

使用器具。


その夜の頁。


第一搬入口。


先着荷。


暖房用石炭。

麻袋、百八十。

荷車、六台。


後着荷。


白冬草号医療物資。

医療箱、四十二。

うち緊急指定、三。


搬入口状況。


石炭荷車により通路閉塞。

大型荷揚げ機、凍結停止。

第二搬入口、積雪により使用不可。


その横に父の字が残っている。


全部を空ける必要はない

輸血箱が横向きにならず

二人で歩ける幅だけ作れ


蒼汰は記録を見つめる。


輸血箱って

そんなに扱いが難しいのか


守が答える。


温度と振動に制限があった


落としたら使えない?


落とさなくても

強く揺らすと検査が必要になる


エーミールが頷く。


あの夜。


白冬草号が第四可動橋を通過し。


東岸第二施療院の船着場へ到着したのは

予定より二分早い時刻でした。


薬船の運行は完璧でした。


第五水門。

荷揚げ順。

保存箱の温度。


全て問題なし。


船から荷揚げ場へ

最初の輸血保存箱が下ろされた時。


私たちは

これで間に合うと思いました。


ですが。


施療院の第一搬入口は

石炭荷車で塞がれていました。


なぜそんなことに?


蒼汰が尋ねる。


石炭船が

予定より半日早く到着したためです。


本来。


石炭は昼間に届き。


大型荷揚げ機で荷車へ載せ。

第一搬入口から地下燃料庫へ運ぶ。


ですが寒波の影響で。


施療院の石炭備蓄は

予定より早く減っていました。


暖房炉。

湯沸かし炉。

消毒炉。

厨房炉。


全てが石炭を使う。


翌朝までに補充できなければ

病棟の室温を維持できない可能性があった。


そのため。


夜間でも受け入れることを決めました。


百八十袋。


六台の荷車へ積み。

第一搬入口の内側まで運び込んだところで。


大型荷揚げ機の歯車が凍結しました。


荷車を地下へ下ろせなくなった。


前の荷車が進めず。

後ろの荷車も搬入口へ残った。


荷車は手で押せなかったんですか


一台あたり

石炭袋三十。


積載重量はかなりのものです。


さらに。


搬入口の床には

船着場から持ち込まれた雪が薄く凍っていた。


無理に押せば

荷車が横滑りする。


壁。

扉。

人。


何へ当たるか分からない。


荷揚げ機の修理班を呼び。


石炭袋を手で下ろす人員も集めていました。


その最中。


医療船が到着したのです。


蒼汰は状況を想像する。


外には薬。


中には石炭。


どちらも必要。


だが入口は一つ。


白冬草号から届いた四十二箱のうち。


大半は翌日分の薬でした。


ですので

船着場の保温倉庫へ一時保管できます。


問題は。


緊急指定の三箱。


肺炎薬。

凍傷処置薬。


そして輸血保存液。


特に輸血保存液は。


船着場から施療院の血液管理室まで

決められた向きで運ばなければならない。


箱を傾けすぎない。

揺らさない。

途中で止めない。


二名で持ち。


箱の両側を支える。


荷車の隙間を

一人だけ横向きで通るような運び方はできません。


エーミールは搬入口の図面を広げる。


扉の幅。


荷車の位置。


壁際の棚。


吊り下げられた縄。


六台の荷車が、入口から奥へ斜めに並んでいた。


通れる隙間は。


一番広い場所でも、人一人分。


輸血箱を二人で運ぶには足りない。


私は。


第二搬入口を使うよう指示しました。


ですが第二搬入口は

吹き溜まりで外扉が開かない。


除雪には

少なくとも半刻。


輸血を待つ産婦には

その時間がありませんでした。


守殿が来られたのは

その時です。


父さん

何で施療院にいたんだ


薬船が届いたか

確認しに行った


守が答える。


通信で聞けばよかっただろ


届いたとは聞いた


でも

患者へ渡ったかは分からなかった


やっぱり最後まで見に行ったのかよ


船着場へ届いただけでは。


患者へ届いたことにならない。


父なら、当然そう考える。


エーミールが静かに続ける。


守殿は。


船着場から医療箱を運んできた搬入吏と一緒に

第一搬入口へ現れました。


輸血箱が通れないと知ると。


最初に

石炭袋を数袋、外へ出せと言われました。


私は拒否しました。


外は雪。


濡れた石炭は

そのままでは炉へ入れられない。


乾燥に時間がかかる。


さらに。


どの袋を外へ出すか

その場で選べない。


石炭は全て同じじゃないのか


蒼汰が尋ねる。


違います。


燃焼の早い石炭。

長時間燃える石炭。

高温炉用。

病棟暖房用。


麻袋の色札で分けられています。


積み方を崩せば

燃料庫での仕分に時間がかかる。


消毒炉へ

間違った石炭を入れる可能性もある。


守殿は。


薬が必要だと言いました。


私は。


石炭も医療物資だと答えました。



その時どう思った


正しいと思った


すぐ?


少しあとでな


最初は入口を塞ぐ荷物にしか見えてなかった


エーミールの目がわずかに細くなる。


守殿は。


石炭はあとで運べばいいと

最初に言われました。


私は。


では今夜。


病室の暖房が止まり。

消毒炉が使えず。

湯が沸かせなくなった時。


輸血だけ届いて

その後の患者をどう守るのかと尋ねました。


守殿は黙りました。


それから。


石炭を捨てずに

輸血箱だけ通す幅は作れないかと聞いた。


そこで初めて。


私たちは

荷揚げ場全体を空けるのではなく。


必要な幅だけを作る方法を考え始めました。


蒼汰は図面へ目を落とす。


輸血箱。


運ぶ人、二名。


その両脇へ、少しの余裕。


必要な幅。


一・二メートル。


搬入口全体を空ける必要はない。


六台全部を地下へ下ろす必要もない。


一・二メートルだけ。


道を作ればいい。


ですが。


荷車は簡単には動かせません。


大型荷揚げ機が止まっている。


床も凍っている。


守殿は

石炭袋を全て下ろすと言いました。


私は。


百八十袋を下ろす間に

患者が間に合わなくなると答えた。


一台分だけ下ろす案も出ました。


それでも三十袋。


一袋は重い。


人員は

施療院内から集めても十二名。


全て下ろすには時間がかかる。


守殿は。


荷車の構造を見始めました。


車輪。

軸。

連結棒。

制動楔。

荷台。


そして。


六台が

一本の長い連結棒で繋がっていることに気づいた。


蒼汰は図面を見る。


荷車六台が、一列のまま固定されている。


前の一台だけ動かそうとしても。

後ろ五台が付いてくる。


連結を外せばいいのか


はい。


ですが通常。


積載中の荷車連結を

傾斜のある搬入口で外すことは禁止されています。


後ろの荷車が動き出す危険がある。


守殿は最初。


連結棒を切ろうとしました。


切る?


蒼汰が頭の奥へ問う。


守が少し気まずそうに答える。


工具はあった


切ったら戻せないだろ


だから止められた


エーミールが淡々と続ける。


私は。


医療用の搬入口で

石炭荷車を破壊するなと止めました。


守殿は。


では連結を安全に外す方法を教えろ、と。


搬入吏が。


各車輪へ制動楔を二つ。

荷車の後方へ補助綱。

壁の固定環へ綱を結ぶ。


さらに床の氷へ

灰と細砂を撒く。


そこまで行えば。


一台ずつ連結を外せる可能性があると答えました。


材料は?


石炭炉用の灰。


船着場の滑り止め砂。


橋の荷綱。


全て、その場にありました。


ただ。


最初から

組み合わせて使うことを考えた者がいなかった。


守殿は。


ならやろうと言いました。


蒼汰は少しだけ笑う。


そこは父さんらしいな


方法があるなら

あとはやるだけだ


守が答える。


六台全てを動かす必要はありませんでした。


入口側から二台目。


その荷車を。


壁側へ四十センチ。


先頭の一台を

反対側へ三十五センチ。


それだけで。


二台の間に

一・二メートルほどの斜めの通路ができる。


しかし。


積載したままの石炭荷車を

七十センチ以上動かすのは危険です。


守殿は。


一度に動かそうとするから危険なのではないかと言いました。


どういうことですか


一人が荷車を押すのではない。


左右の車輪へ

小さな鉄梃子を入れる。


一回につき。


車輪を指一本分だけ動かす。


そこで楔を打ち直す。


反対側も

同じだけ動かす。


数センチ。


止める。


確認。


また数センチ。


時間はかかる。


ですが。


急に滑る危険は減る。


一台を動かすため。


四人が鉄梃子。

二人が楔。

二人が補助綱。

一人が床状態を確認。


守殿は

一人で押そうとしましたが。


もちろん止めました。


父さん

また一人でやろうとしたのか


人数集まるのを待ってる時間が


守が言いかける。


蒼汰はすぐに返した。


一人で荷車に潰されたら

余計に時間かかるだろ


……そう言われた


誰に


エーミールに


蒼汰が目を向けると。


エーミールは静かに頷いた。


私は。


守殿が一人で鉄梃子を入れようとしたため。


あなたが荷車の下へ入れば

輸血箱より先に担架を通すことになると申しました。


守殿は。


かなり嫌そうな顔をされましたが

人員を待ちました。


蒼汰は小さく笑ってしまう。


父は。


人へ説明されれば

危険を理解できる。


ただし。


自分が危険になる場合だけ。

判断が極端に甘い。


九人が位置につきました。


最初の一押し。


車輪が。


ほんの二センチ動く。


楔を打つ。


補助綱を張り直す。


次。


三センチ。


また止める。


石炭袋は下ろさない。


荷車も壊さない。


一気に動かさない。


必要な幅へ届くまで。


少しずつ

荷物の位置を変える。


守殿は

補助綱を持つ役へ入りました。


最初は前へ引こうとしていたため。


私は。


引くのではなく

動きすぎないよう止める役だと説明しました。


父さん

ちゃんと止める役できたのか


守が少し黙る。


一度

引きすぎた


エーミールが即座に補足する。


二度です。


また回数で揉めるのかよ


二度目は

綱を張り直しただけだ


荷車が動いておりますので

二度です。


守が黙った。


だが。


三度目からは

正しく止めたらしい。


一台目を三十五センチ。


二台目を四十センチ。


合計。


作業時間、七分四十二秒。


長いのか。

短いのか。


蒼汰には分からない。


それでも。


一・二メートルの通路ができました。


まっすぐではありません。


二台の荷車の間を

斜めに抜ける道。


床には灰と砂。


壁側には荷綱。


途中。


荷車の車輪が

わずかに張り出している。


輸血箱を運ぶには

まだ危険でした。


そこで。


守殿は

壁へ立てかけてあった荷台板を床へ置きました。


凍った床の上へ。


二枚。


板の間を

輸血箱を持つ二人が歩く。


その外側へ。


案内役が一人ずつ。


箱を持たず。

足元と荷車の隙間だけを見る。


運ぶ者へ。


右。

左。

止まれ。


短い指示を出す。


守殿は

自分が輸血箱を持つと言いました。


蒼汰は額を押さえた。


それも止められたんだな


当然です。


エーミールは即答した。


守殿は

保存箱の持ち方を知らない。


急いでいるため

歩幅も大きい。


膝も負傷していた。


任せられません。


かなりはっきり言われてるぞ


守がぼそりと答える。


正しかった


父さんは何をしたんだ


前を歩いた


案内役?


いや


通路の外へ人が入らないよう

止める役だ


蒼汰は少しだけ意外に思った。


父は。


箱を持たなかった。


自分が届けようとしなかった。


通路を作り。


その道へ余計な者が入らないよう。

入口で止める役へ回った。


保存箱を運んだのは。


血液管理吏二名。


前方案内、一名。


後方確認、一名。


ゆっくり。


斜めの通路へ入る。


箱は水平。


歩幅を揃える。


一歩。


二歩。


荷車の車輪を越える。


途中。


外套の端が

石炭袋の留め具へ引っかかりました。


守殿が気づき。


身体へ触れず。

留め具だけを外した。


運搬は止めない。


箱も傾けない。


そのまま。


第一搬入口から

施療院内部へ入りました。


通過時間。


一分十四秒。


輸血保存液は

血液管理室へ。


そこから産科病棟へ運ばれ。


患者へ投与されました。


間に合ったんですね


はい。


出血していた産婦は

輸血を受けました。


手術も成功。


母親は生存。


生まれた子どもも

助かりました。


蒼汰は静かに息を吐いた。


父の郵袋。


橋の上を通った手紙。


橋の下を進んだ薬。


そして。


石炭の荷車の間を通った輸血箱。


一つの夜の中で。


多くの者が

少しずつ道を作った結果。


誰かが家へ帰り。


誰かが朝を迎えた。


でも

石炭の方はどうなったんですか


蒼汰が尋ねる。


輸血箱が通過したあと。


荷揚げ機の修理が完了。


動かした荷車は

一台ずつ元の連結へ戻しました。


石炭袋は

一つも濡らしていません。


一袋も捨てていない。


夜明け前までに

全て地下燃料庫へ搬入。


病棟暖房。

湯沸かし。

消毒炉。


どれも止まりませんでした。


守殿は

最後まで石炭の搬入にも残りました。


蒼汰は頭の奥へ問う。


何で残った


動かした責任がある


また寝てないだろ


少しは


どこで


石炭袋の上


エーミールの眉が動く。


正確には。


空になった荷車の上です。


石炭袋の上へ寝ようとされたので

煤だらけになると止めました。


十分煤だらけだっただろ


守が答える。


そう言われた


蒼汰は額を押さえる。


父は。


人へ乾いた服を返し。

風呂へ入れ。

寝床を作る。


そのくせ自分は。


洗濯院の床。

馬房の藁。

空の石炭荷車。


どこでも眠る。


エーミールが木箱を開いた。


中に入っていたのは。


細長い板だった。


幅は、手のひら二つ分ほど。


表面には擦れた靴跡。


端は黒く石炭で汚れている。


中央へ白い線が一本引かれていた。


これは。


輸血箱を運ぶ者が歩いた荷台板です。


二枚のうちの一枚。


もう一枚は

長年使用し、壊れました。


こちらは

緊急搬入路の見本として保管されました。


守殿は。


輸血箱を英雄のように飾るな。


石炭荷車を悪者にもするな。


二つの間に敷いた板を残せと言いました。


蒼汰は板へ触れる。


薬でもない。


石炭でもない。


ただの板。


それでも。


この幅がなければ。

輸血は患者へ届かなかった。


エーミールが黄灰色の旗包みを開く。


東岸第二施療院搬入局旗。


灰色の地に。

黒い石炭袋。

白い医療箱。


その間へ

黄色い細い道が刺繍されている。


本式の日。


東岸第二施療院では

この旗を半旗とします。


第一搬入口には。


常に一・二メートルの緊急通行幅を

残す規則があります。


ですが。


搬入口全体を

空にしておくわけではありません。


病院には。


燃料も。

食料も。

寝具も。

薬も。


毎日、大量に届きます。


全てを緊急用に空ければ

通常の診療が止まる。


ですから。


荷物を置いてよい。


荷車も入れてよい。


ただし。


三分以内に

一・二メートルの道を作れる置き方にする。


連結を外す位置。

制動楔。

補助綱。

灰。

砂。

荷台板。


必要な物を

搬入口へ常備する。


そして。


薬が来た時だけではありません。


患者。

担架。

酸素筒。

温かい食事。

家族。


何が通るか分からない。


それでも。


一箱。

一台。

二人。


必要な幅だけは

すぐに作れるようにする。


守殿が

荷揚げ場全体を空にせず。


輸血箱一つ分だけを

先に通した方法です。


守が頭の奥で言う。


いいと思う


注文は?


定期的に

本当に三分で作れるか試せ


蒼汰は少しだけ笑う。


やっぱりあるのか


道具が置いてあるだけじゃ

使えないことがある


蒼汰はエーミールへ伝えた。


父さんが。


本当に三分以内に道を作れるか

定期的に確認しろって


エーミールは一度だけ目を閉じた。


そして静かに答える。


月に一度。


夜間班を含め

抜き打ち訓練をしております。


直近の記録は。


二分二十六秒。


使用した荷車は四台。


通過物は

実物と同じ重量の模擬輸血箱。


守が小さく答える。


それならいい


蒼汰はそのまま伝えた。


それならいいって


エーミールの厳しい顔が、少しだけ和らぐ。


はい。


私も

そう思います。


最後に、一枚の紙片が差し出される。


父の字。


道を塞いでいる荷物にも、待っている誰かがいる

急ぐ物を通すために、別の必要物を捨てるな

全部を動かせないなら

今いる者が通れる幅だけ、先に作れ


蒼汰はその文章を何度も読んだ。


父の葬儀場も。


同じなのかもしれない。


世界中から人が集まり。

予定が重なり。

話も。

秘密も。

責任も。


全てが一度に押し寄せている。


全部を今夜、片づけることはできない。


父の二十三通。

地下の未帰還者記録。

葬儀の弔問列。

母が残した手紙。

父の声。


それらを全て動かそうとすれば。

蒼汰自身が潰れる。


だが。


一つ分の道なら作れる。


今日はエリオを帰した。


次は。


一人の弔問客の話を聞く。


父への手紙も。

一通ずつ読む。


全部を空ける必要はない。


今通すべき一つが

通れる幅を作ればいい。



何だ


父さん

地下の二十三通


全部まとめて読ませるつもりじゃないだろうな


一通ずつでいいと言ったのは

お前だ


覚えてたんだな


ああ


じゃあ最初の一通だけ

今度取りに行く


守の気配が、わずかに緊張した。


嫌か


かなり


でも逃げないんだろ


……ああ


父の声は小さい。


だが否定はしなかった。


エーミールが立ち上がる。


守殿。


あの夜。


私は石炭荷車を動かすことへ

最後まで反対していました。


石炭が崩れ。

燃料庫への搬入が遅れれば。


施療院全体へ影響が出る。


ですが。


あなたは最初の案を押し通さなかった。


石炭を外へ出すなと言われれば

別の方法を探した。


荷車を壊すなと言われれば

連結を外す方法を聞いた。


一人で動かすなと言われれば

九人を待った。


守が頭の奥でぼそりと言う。


最後は少し急かした


蒼汰が伝える。


父さんが

最後は少し急かしたって


かなり急かされました。


エーミールは真顔で訂正する。


ですが。


輸血箱を運ぶ時。


あなたは箱を持たなかった。


自分にはできない仕事を。


できる者へ渡した。


そして。


通路へ誰も入れないよう

入口を守った。


あの夜。


守殿が最も役に立ったのは。


荷車を動かした時でも。

輸血箱を運んだ時でもありません。


自分が運ばないと決めた時です。


応接室が静まる。


父はすぐに答えなかった。


蒼汰も。


代わりに何かを言わなかった。


やがて。


守が小さく答える。


……そうか


蒼汰は伝えた。


そうかって


エーミールは深く頷く。


はい。


運ばない者にも

役目はあります。


道を空け。

人を止め。

運ぶ者へ任せる。


それも搬入です。


守殿。


次に何かを通す時は。


ご自分が持つ前に

誰が持つべきかを考えてください。


守が低く答える。


分かった


蒼汰はそのまま伝える。


分かったって


エーミールは深く頭を下げた。


それなら。


今度こそ

安心してお任せできます。


男は応接室を去った。


扉が閉まる。


石炭。

消毒液。

冷たい荷揚げ場。


そして。


狭い場所に作られた

一・二メートルの道の匂いが残る。


蒼汰は白い線の引かれた板を持ち上げる。



何だ


父さん


自分で持たない方が

役に立つこともあるんだな


ああ


俺も覚えとく


お前は

今日かなり人に持たせてた


言い方悪いな


頼んだって言えよ


同じだ


違うよ


蒼汰は少し笑った。


冬城が荷台板と搬入局旗を長卓へ運ぶ。


そして次の名簿を開いた。


蒼汰様


うん


次の方は。


東岸第二施療院

元血液管理官、アマーリエ・ロート様です。


輸血保存液は患者様のもとへ到着しましたが。


患者登録は婚姻後の姓。


輸血要請書は旧姓で記載されていたため。


血液管理台帳上

同一人物と確認できなかったとのことです。


蒼汰は顔を上げる。


名前が違って

輸血できなかったのか


守が頭の奥で答える。


そのままではな


どうしたんだ


名前を一つに戻したのか


違う


守は少しだけ間を置いた。


二つとも

その人の名前だと確認した


蒼汰は白い線の板を見る。


船から届き。


石炭の間を通り。


産科病棟まで運ばれた輸血保存液。


だが。


患者の目の前へ届いても。


台帳に書かれた名前と

目の前の女性の名前が繋がらなければ。


まだ使うことはできない。


次に待っていたのは。


結婚前と結婚後。


二つの名前の間へ

本人一人分の線を引いた夜の話だった。


最後までお読みいただき、ありがとうございます。


続きが気になる、面白かったと思っていただけましたら、ページ下部からブックマークと評価で応援していただけると嬉しいです。


皆さまの応援が、今後の更新の大きな励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。