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父、奏多守はほら吹きではなかった  作者: てへろっぱ


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60/102

第60話 橋の上には手紙、橋の下には薬



応接室へ入ってきた女からは、濃い機械油の匂いがした。


鉄。

煤。

熱せられた歯車。

濡れた縄。

運河の水。


共同浴場や洗濯院にも大きな機械はあったのだろう。


だが彼女がまとっているのは、それらとは違う。


重い橋を。

決められた時刻に。

水上から空中へ持ち上げ続けてきた者の匂いだった。


年齢は六十代後半ほど。


背は高くない。


だが肩と腕は太く、黒の礼装を着ていても、力仕事へ長く携わってきたことが分かる。


白髪は短く切られていた。


左耳には、小さな真鍮製の耳栓が下がっている。

機関室の轟音から耳を守る道具なのだろう。


胸元の銀徽章は。


水面。

橋。

その下を通る一隻の船。


三つを組み合わせた形だった。


後ろには若い橋上機関吏が二人。


一人が分厚い開閉運転記録簿。


もう一人が、黒い鉄箱と、青緑色の旗包みを抱えている。


冬城が告げる。


東運河第四可動橋

元橋上機関長、マルタ・シュナイダー様です


守様の追掛郵袋が接近していることを知りながら。


予定時刻どおり

橋面を上昇させる判断をされたご当人になります


女――マルタは蒼汰へ深く頭を下げた。


奏多蒼汰殿


私はマルタ・シュナイダー


東運河第四可動橋で三十九年間

橋を上げ下げする機関を預かっておりました


そして守殿に。


急いでいる者が二つある時

声の大きい方を先にするなと教えられた者です


蒼汰は一拍置き、頭の奥へ問いかけた。


父さん


何だ


橋を待たせなかったって聞いたけど


ああ


自分が追わせた郵袋が来てたんだよな


来てた


それでも上げさせた?


予定どおりにな


蒼汰は少し眉を寄せる。


これまでの父なら。


閉じた門を開け。

出発した馬車を追い。

駅を三十七秒待たせ。


一通の手紙を何としても通そうとする。


それなのに。


次の橋では、自分から道を閉じさせた。


蒼汰は椅子へ座る。


マルタも向かいへ腰を下ろした。


机の上へ、横に長い運転記録簿が置かれる。


橋面水平確認。

道路側遮断柵。

運河側進入灯。

機関始動。

固定爪解除。

上昇開始。

船舶通過。

下降開始。

橋面再固定。


一つの橋を上げ下げするだけでも、多くの確認が必要らしい。


その夜の頁。


東運河第四可動橋。


予定上昇開始。


夜間第一便到着予定の四十二秒後。


ただし郵便便は

第二中継駅で三十七秒の遅延。


計算上。


橋面到達。


上昇開始五秒前から二十五秒後。


道路側が先に通れるか。

運河側の船を待たせるか。


判断保留。


その欄へ、父の字が残っていた。


橋は予定どおり上げろ

手紙が間に合わない可能性と

薬が間に合わない可能性を同じ言葉で呼ぶな


蒼汰は文字を見つめる。


父さん

これを書いた時、橋にいたのか


いない


第二中継駅にいた


じゃあ、どうやって橋へ指示したんだ


駅の通信筒を借りた


マルタが頷く。


あの夜。


夜間第一便が第二中継駅を出発する直前。


橋上機関室へ

緊急通信が入りました。


発信者は第二中継駅長オスカー殿。


追掛郵袋が一袋

夜間第一便へ追加された。


その中には

明朝までに東門宿舎へ届けなければならない手紙がある。


便は三十七秒遅れて出発。


第四可動橋へ

ぎりぎり間に合う可能性がある。


必要なら

上昇開始を遅らせられないか。


私は。


遅らせられないと返答しました。


即答だったんですか


蒼汰が尋ねる。


はい。


橋の下には

すでに船が待っていました。


マルタが運河側の運行記録を開く。


船名。


白冬草号。


積荷。


解熱薬。

肺炎用抗菌薬。

凍傷処置薬。

輸血保存液。

外科縫合具。


行き先。


北東河川施療院群。


船は上流から到着。


第四可動橋を通過後

第五水門へ入り。


夜間の水位調整を利用して

三つの施療院へ薬を分配する予定でした。


何人分の薬だったんですか


およそ六百名分。


ただし

全員が今夜すぐ必要としていたわけではありません。


大半は翌日の補充です。


ですが。


東岸第二施療院では。


重い肺炎の患者三名。

出血の止まらない産婦一名。

凍傷で手術待ちの作業員二名。


到着を待っていました。


橋を何分待たせると

間に合わなくなるんですか


一分では

直ちに間に合わなくなるわけではありません。


マルタは正確に答えた。


第四橋だけなら

数分待たせても通せます。


ですが。


船はその先で

第五水門の夜間調整へ入らなければならない。


第五水門は。


上流側と下流側の水位差を調整するため

一度閉めると、次の開放まで四十分。


さらに船の後ろには

石炭船と食料船が待っている。


白冬草号だけを遅らせれば。


後続船も。

次の水門も。

荷下ろし班も。


全てがずれます。


父さんの郵便馬車と同じだな


蒼汰が言う。


マルタは頷いた。


はい。


道の上には手紙。


水の上には薬。


どちらも急いでいる。


どちらも

朝になればいいとは言えない。


私は。


郵便便一台のために

薬船と後続船を待たせることはできないと返答しました。


すると通信筒の向こうから。


守殿の声が聞こえました。


蒼汰は頭の奥へ尋ねる。


何て言った


守が答える。


手紙は一人分じゃない

郵袋には百四十二通ある


また数を訂正したのかよ


正確な方がいい


マルタの眉が、ほんの少しだけ動く。


守殿は最初。


郵袋の中には

明朝出立する帰還兵へ届く手紙がある。


橋を数十秒だけ待てないかと尋ねられました。


私は。


薬船にも

朝まで待てない患者がいると答えました。


すると守殿は

何人だと聞きました。


私は六名と答えた。


守殿は少し黙り。


それから。


手紙一通と

患者六名のどちらが重いかで決めるなと言いました。


蒼汰は顔を上げる。


父さんが?


ああ


守が答える。


人数で決めたら

一人はいつも後になる


マルタが続ける。


守殿は尋ねました。


薬が

本当に間に合わなくなる時刻はいつか。


手紙が

本当に間に合わなくなる時刻はいつか。


急いでいるという言葉を一度外し。


それぞれの

戻せない時刻を出せ、と。


蒼汰は運転記録簿を見る。


頁の端へ。


二本の赤い線が引かれている。


一つ。


白冬草号。


第四橋上昇開始限界。


夜間第二鐘後、十八分零秒。


第五水門進入限界。


同、四十分二十二秒。


施療院荷下ろし限界。


夜明け前第一鐘。


もう一つ。


夜間第一郵便便。


第四橋通過限界。


上昇開始二秒前。


通過できない場合。


次回下降、四十分後。


東門宿舎到着見込み。


出立予定の十二分前。


待っても

手紙は間に合ったんですか


蒼汰が尋ねる。


計算上は。


橋で四十分待ったとしても。


東門宿舎へは

帰還兵の出立十二分前に到着する可能性がありました。


ただし。


積雪。

馬の状態。

次の門の混雑。


余裕は大きくありません。


では薬船は?


第四橋の上昇を一分遅らせると。


第五水門への進入余裕が

五十秒まで減る。


途中で風向きが変わり。

船の着岸に手間取れば。


水門へ間に合わない可能性が高くなる。


水門を逃せば四十分。


その四十分で。


産婦へ使う輸血保存液の温度管理が

危険域へ近づく。


凍傷患者の手術準備も遅れる。


守殿は。


それなら橋を予定どおり上げろと言いました。


蒼汰は頭の奥へ呼びかける。


迷わなかったのか


迷った


守の返事はすぐだった。


かなり


自分でここまで追わせた手紙だぞ


分かってる


それでも?


薬の方が

戻せない時刻が先だった


蒼汰は少し黙った。


父は手紙を諦めたわけではない。


だが。


自分が追いかけてきたから。

自分が頼んだから。

自分が責任を負っているから。


それを理由に、別の急ぎを後ろへ押さなかった。


マルタが静かに続ける。


私は念を押しました。


橋を上げれば。


郵便便が数秒遅れただけで

四十分待つことになる。


守殿は答えました。


分かっている。


橋は予定どおり上げろ。


薬船を

私の手紙の遅れへ巻き込むな。


そして。


もし郵便便が間に合わなかった場合。


橋が下がり次第

最優先で通せるよう、道路側へ待機位置を作ってほしい。


橋を待たせるのではない。


待つ側が

次にすぐ動ける準備をしておけと言った。


マルタは橋の平面図を広げる。


道路側遮断柵の手前。


通常。


橋が上がっている間

馬車は広い待機区画へ並びます。


到着順です。


郵便馬車。

荷車。

旅客馬車。

家畜車。


全て同じ。


ですが急ぎの郵便便が来る可能性がある。


そこで私は。


遮断柵のすぐ前にある

保守車両用の空き区画を開けました。


郵便馬車が間に合わなければ。


他の車両の後ろへ並ばず。

橋面下降後、最初に通す。


ただし。


そのために

今いる車両を追い出したわけではありません。


その区画は

もともと空いていた。


必要になった時だけ使う。


守殿は。


それでいいと言いました。


蒼汰は少しだけ笑った。


父さん

待つ準備までしたんだな


ああ


絶対間に合わせろって

言わなかった?


言わない


間に合えば通る。


間に合わなければ待つ。


ただし。


待ったあとに

余計な順番を背負わせない。


父なりに。


手紙を完全に諦めず。

薬も止めない方法を作った。


マルタは運転記録簿の時刻欄へ指を置く。


予定上昇開始。


夜間第二鐘後、十八分零秒。


私は

道路側遮断鐘を鳴らしました。


一度目。


通行注意。


二度目。


遮断柵下降。


三度目。


橋上進入禁止。


橋の上に

車両が残っていないことを確認。


機関始動。


巨大な歯車が回り。


橋面が

ゆっくりと持ち上がり始めます。


その時。


西側道路の監視員が

信号灯を振りました。


郵便馬車が来たのか


蒼汰が尋ねる。


はい。


遠くに

夜間第一便の灯が見えました。


まだ橋へ届いていない。


ですが。


通常の速度を保ったまま

接近していました。


距離。

速度。

上昇開始。


計算上。


間に合う可能性は

半分ほど。


橋を数秒待たせれば

確実に通せる。


しかし。


薬船はすでに

運河側進入線へ入っている。


ここで機関を止めれば。


船は逆流を防ぐため

いったん後退しなければならない。


後続船との距離も詰まる。


私は。


橋の上昇を続けました。


蒼汰は、記録簿の細かな数字を見る。


橋面角度。


三度。

五度。

八度。


道路側は、もう通れない。


郵便馬車の灯が近づく。


守は第二中継駅で。


もう何もできずに

通信筒越しの報告を待っていたのだろう。


父さん

その時何してた


秒を数えてた


何で


橋までの報告が

十秒ごとに来てた


落ち着かなかった?


かなり


何か言った?


橋を戻せとは

言わなかった


マルタが頷く。


通信筒の向こうで。


守殿は何度も

郵便便の位置を尋ねました。


ですが一度も。


橋を止めろとは言わなかった。


私は。


守殿が途中で気持ちを変えるのではないかと

警戒していました。


正直に申します。


あれほどの勢いで郵袋を追ってきた方です。


自分の手紙が見えれば

薬船を待たせろと叫ぶのではないかと思っていました。


ですが。


守殿が最後に言ったのは。


橋の機関長が

上げると決めたなら、そちらに従え。


でした。


蒼汰は頭の奥へ言う。


よく我慢したな


我慢はした


父の返事に。


少しだけ苦笑が混じっていた。


橋面角度。


十度。


道路通行限界。


残り二十三秒。


夜間第一便が

橋前の直線へ入る。


御者アルノー殿は

馬を速めませんでした。


予定どおり。


通常速度。


橋上監視員が

通行可能灯を維持。


橋面は上昇中。


残り十八秒。


残り十二秒。


薬船の汽笛が鳴る。


郵便馬車の出発鈴が

遠くから聞こえる。


橋の上と下。


二つの急ぎが

同じ場所へ近づいていました。


残り七秒。


私は。


いつでも道路側通行灯を

赤へ変えられるよう、手を置いていました。


馬車が

停止線を越える前に間に合わなければ。


その時点で止める。


三十七秒の遅れを背負っていても。


手紙が急いでいても。


橋面が動き始めたあとへ

馬車を入れることはできない。


残り四秒。


夜間第一便の先頭馬が

停止線へ近づく。


残り二秒。


橋上監視員が

白旗を振りました。


通過可能。


夜間第一便は

上昇開始後の最終通行区間へ入った。


馬は走らない。


一定の速さ。


車輪も。

郵袋も。

御者も。


全て橋の上へ乗る。


そして。


最後尾の車輪が

東側停止線を越えた瞬間。


道路側通行灯を赤へ変更。


橋面はそのまま上昇。


通過余裕。


二十一秒。


蒼汰は息を吐いた。


前の話で聞いた数字だ。


橋が閉じる二十一秒前。


夜間第一便は通過した。


その直後。


橋は完全に上がり。


下を白冬草号が通りました。


薬を積んだ船。


船員は

郵便馬車が通ったことを知りません。


郵便御者も

自分たちの下を通った薬の行き先を知らない。


ですが。


どちらも予定を壊さず。


それぞれの戻せない時刻へ

間に合った。


蒼汰は小さく頷く。


両方、間に合ったんですね


はい。


白冬草号は

第五水門へ予定より二分早く進入。


薬は三つの施療院へ分配。


肺炎患者三名は

夜明け前に投薬。


産婦へ輸血保存液が届き。


母子ともに生存。


凍傷患者二名も

手術を受けました。


夜間第一便は。


東門郵便所へ六秒遅れで到着。


レオン・アーベル殿へ

手紙を届けました。


橋の上の手紙も。


橋の下の薬も。


どちらも届いた。


マルタはそこで、一度言葉を止めた。


ですが。


守殿は後日。


私のもとへ来られました。


何のために?


蒼汰が尋ねる。


謝罪のためです。


蒼汰は驚いた。


守が頭の奥でぼそりと言う。


最初に

橋を待たせろと言ったからな


マルタが続ける。


守殿は。


薬船の事情を知らず

自分の郵便を先へ通そうとした。


あの判断は間違っていたと

認められました。


私は。


事情を知らなければ

誰でも自分の急ぎを先へ出すと答えました。


すると守殿は。


だからこそ。


急いでいる者が来た時は

何を急いでいるかだけでなく。


何時を越えると

取り返せなくなるかを聞く仕組みを作れないかと尋ねました。


それが。


現在の

交差緊急照合規定です。


マルタが別の書類を開く。


橋上と運河。


二つ以上の緊急通行が重なった場合。


人数。

身分。

組織。

声の大きさ。


それらでは優先を決めない。


各通行の。


最終到着期限。

次の機会。

遅延時の回復可能性。

代替経路。

他者への連鎖影響。


それを比較する。


今回で言えば。


手紙。


橋を逃しても

四十分後に次の通行機会がある。


到着余裕は十二分。


危険は増すが

回復可能。


薬船。


橋を遅らせると

水門を逃す可能性が高い。


次の機会は四十分後。


輸血保存液の管理。

患者の手術時刻。

後続船。


連鎖が大きい。


よって橋は予定どおり上昇。


ただし。


郵便便のため

下降後の最優先区画を準備。


双方の間に合う可能性を

最後まで残す。


守殿は。


自分のような者が再び来ても。


その人間の必死さへ

橋が引きずられない仕組みにしてほしいと言いました。


蒼汰は父の気配へ問いかける。


自覚あったんだな


何の


必死になると

周りが見えなくなること


……少しは


マルタが黒い鉄箱を開いた。


中に入っていたのは。


大きな歯車の一部だった。


扇形に切り取られた黒い鉄。


歯が三つだけ残っている。


表面には擦れた跡。


中央へ、白い数字。


二十一。


これは。


あの夜

第四可動橋を上昇させた主歯車の一部です。


十年後の大規模改修で交換されました。


二十一という数字は。


郵便馬車が通過してから

道路側が完全に閉じるまで残っていた秒数です。


守殿は

三十七秒ではなく、こちらも残しておけと言いました。


なぜ?


蒼汰が聞く。


三十七秒は。


駅が手紙を待った時間。


二十一秒は。


橋が薬を止めず

それでも手紙を通せた余白。


待たせた時間だけを英雄視すると。


次は誰かが

もっと長く待たせようとする。


守殿は。


待たせなかった判断も

同じように残すべきだと仰いました。


蒼汰は歯車の欠片へ触れる。


重い。


ただの秒針とは違う。


この鉄の歯が回るたび。


道路は閉じ。

水路が開く。


どちらかを通す時。

どちらかは待たなければならない。


だが。


待つ側を見捨てる必要はない。


次に通れる場所を作り。

戻せない時刻を比べ。

可能性を残すことはできる。


マルタが青緑色の旗包みを開く。


東運河可動橋機関旗。


青緑色の地に。

銀色の橋。

その下へ白い薬船。

橋上には、小さな郵便馬車。


本式の日。


第四可動橋では

この旗を半旗とします。


ですが。


橋の開閉時刻は

通常どおりです。


守殿の弔意を理由に

道路も水路も止めません。


手紙が来れば

間に合うか計ります。


薬船が来れば

同じく計ります。


二つが重なれば。


どちらが大事かではなく。


どちらが

次の機会を失うかを確認します。


そして。


片方を先にしたあとも。


待つ側が

最短で動ける場所を用意します。


守殿が。


自分の郵袋を待たせる可能性を受け入れてまで

残そうとした判断です。


守が頭の奥で静かに答える。


それでいい


蒼汰は伝える。


父さんが

それでいいって


マルタは一度だけ頷いた。


最後に。


父の字が残る紙片が差し出される。


急ぎには、声の大きさじゃなく締切がある

誰を先にするかではなく

誰が次を失うかを先に見ろ

片方を通しても、もう片方の道まで消すな


蒼汰はその言葉を何度も読んだ。


父は。


困っている者を見れば。

何より先に助けようとした。


それは正しいことばかりではなかった。


最初に見えた一人へ集中し。


後ろにいる別の一人が

見えなくなることもあったのだろう。


だからこそ。


橋守。

馬番。

駅長。

御者。

機関長。


父へ止まれと言える者が必要だった。


今日。


エリオを帰す時にも同じだった。


蒼汰一人が。


父の失敗を終わらせることだけへ集中していれば。


境界路を無理に壊し。

別の未帰還者の道まで消した可能性がある。


皆がいたから。


血。

地図。

時間。

門。

待つ者。


一つずつ確認できた。



何だ


父さん

助けたい相手が二人いたら

どうしてた


前は

先に見つけた方から助けた


今は?


守は少し考えた。


どっちが

次を失うか聞く


蒼汰は小さく頷く。


少しは覚えたな


……死んでからだがな


遅いよ


ああ


それでも。


全く分からないままよりはいい。


マルタが立ち上がる。


守殿。


あの夜。


私は

あなたの郵袋より

薬船を先へ通すつもりでした。


あなたが何と言おうと。


橋は予定どおり上げるつもりでした。


守が頭の奥で答える。


正しかった


蒼汰が伝える。


父さんが

正しかったって


マルタは首を横へ振る。


いいえ。


正しいのは。


橋を上げたことだけではありません。


郵便便が間に合わなかった場合。


保守区画を開け。

下降後、最初に通す。


その準備まで

守殿が求めたことです。


私は最初。


薬船を通すことだけを考えていました。


道路側の手紙は

四十分待てばよいと。


ですが。


待てることと

何もせず待たせてよいことは違う。


それを守殿から教わりました。


守の気配が少しだけ揺れる。


マルタは続ける。


東運河第四可動橋。


本日も。


道路を通す時は

水路を忘れず。


水路を通す時は

道路を忘れません。


片方を閉じる時こそ。


次に開く準備を始めます。


守が静かに答える。


頼む


蒼汰はそのまま伝える。


父さんが

頼むって


マルタは深く一礼した。


承りました。


彼女は応接室を去った。


扉が閉まる。


機械油。

水。

熱い鉄。


そして。


橋上と橋下を同時に見ていた者の

静かな匂いが残る。


蒼汰は歯車の欠片を持ち上げた。


白い数字。


二十一。



何だ


父さん

あの時


手紙が間に合わなかったら

どうしてた


四十分待った


それで

レオンが出発してたら


次の中継へ連絡した


それでも追いつかなかったら


護送隊を追った


やっぱり追うのかよ


諦めはしない


でも

薬船は止めなかった


ああ


蒼汰は歯車を机へ戻す。


父は一人を諦めなかった。


だが。


一人を諦めないことと。

その人だけを最優先にすることは違う。


父も。


長い道の途中で。

何度も止められ。

叱られ。

教えられ。


少しずつ、その違いを覚えていったのだろう。


冬城が歯車と機関旗を長卓へ運ぶ。


そして次の名簿を開いた。


蒼汰様


うん


次の方は。


白冬草号の元船長

イレーネ・フォークト様です。


守様の追掛郵袋が橋へ接近していることを知り。


薬船を一度

後退させることを申し出られた方になります。


蒼汰は顔を上げる。


薬船の方が譲ろうとしたのか


守が頭の奥で答える。


ああ


でも橋は予定どおり上げたんだよな


船長の申し出を断った


誰が


私とマルタが


何で


守は少しだけ間を置いた。


自分の患者を後ろへ置いてまで

知らない一人へ譲る必要はない、と言った


蒼汰は歯車の欠片を見る。


橋の上では。


帰ってこいと書かれた手紙が走り。


橋の下では。


六人の患者へ届ける薬が待っていた。


どちらも。


自分の急ぎを声高に主張したわけではない。


むしろ。


次に待っていたのは。


自分の薬船を後退させてでも

見知らぬ誰かの手紙を先へ通そうとした船長の話だった。


最後までお読みいただき、ありがとうございます。


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