第59話 遅れを、馬の脚で取り戻すな
応接室へ入ってきた男は、鞭を持っていなかった。
代わりに右手へ、小さな鈴を下げている。
くすんだ真鍮製。
振れば鳴るはずなのに、男が歩いても音はしない。
指で舌を押さえ、鳴らないようにしているのだ。
年齢は六十代後半ほど。
背は低く、身体は細い。
だが前腕だけは太く、手の甲には古い傷が幾つも走っている。
馬車の手綱。
革紐。
凍った金具。
暴れる馬の口元。
長いあいだ、それらを握ってきた手だった。
黒の礼装の上には、濃い紺色の短外套。
胸元には、四頭の馬と一つの郵袋を組み合わせた銀の徽章。
腰には御者用の革手袋。
だが鞭を下げる輪だけが、空いていた。
後ろには若い郵便御者が二人。
一人が夜間運行日誌。
もう一人が横長の木箱と、紺と茶の旗包みを抱えている。
冬城が告げる。
北東夜間第一便
元主任御者、アルノー・フェルト様です
守様が追いかけた郵袋を積み。
三十七秒の遅延を
馬の速度では取り戻さなかったご当人になります
男――アルノーは蒼汰へ深く頭を下げた。
奏多蒼汰殿
私はアルノー・フェルト
北東郵便路で三十四年間
夜間便の手綱を握っておりました
そして守殿に。
急げと言われる前に
急がないと宣言した御者です
蒼汰は少しだけ目を瞬いた。
父さん
怒られる前に止められたんだな
守が頭の奥で答える。
怒るつもりはなかった
本当に?
急いではいた
それ、御者から見たら同じじゃないか
アルノーが椅子へ座る。
机の上へ、細長い夜間運行日誌が置かれた。
馬の名前。
区間。
道路状態。
積載重量。
気温。
風向き。
走行速度。
休止時間。
そして御者が走行中に感じた異常まで、細かく記録されている。
夜間第一便。
第二中継駅出発。
予定より三十七秒遅延。
次の運河橋通過。
予定より二十一秒前。
第三中継駅到着。
予定より二十九秒遅延。
最終到着。
予定より六秒遅延。
事故。
零。
馬の負傷。
零。
御者の負傷。
零。
郵便物破損。
零。
頁の端には、父の字。
遅れを馬へ背負わせるな
速く走らせずに戻せる秒だけ戻せ
蒼汰はその文章を見て、少しだけ眉を上げた。
父さんが書いたのか
ああ
最初からそう思ってた?
守は少し黙る。
途中からだ
やっぱり最初は違ったんだな
アルノーの目が、ほんの少しだけ厳しくなる。
守殿が駅庭へ入ってきた時。
私はすでに御者台へ座っていました。
第一出発鐘が鳴り。
馬車は動き始めていた。
そこへ。
膝当てを付けた男が
郵袋を抱え、灰毛の馬で追いついてきた。
守殿です。
守殿は
待てと叫びました。
私は止まりませんでした。
蒼汰は顔を上げる。
聞こえてたんですよね
よく聞こえました。
ですが御者は
駅長の鐘と門の合図で走る。
後ろから来た者の声だけで
馬を止めることはできません。
急停止すれば。
後続の荷車。
駅務吏。
馬。
誰かを巻き込む可能性がある。
私は歩行速度のまま
駅門へ向かいました。
すると守殿が郵袋を投げた。
雪へ落ちました。
守が頭の奥で言う。
御者台の横には当たった
落ちたんだろ
少しずれただけだ
結果として落ちてるんだよ
アルノーは淡々と続ける。
駅長が第二鐘を止め。
三十七秒の積載猶予が与えられました。
郵袋を載せる直前。
守殿が御者台の横へ来ました。
息を切らし。
膝を押さえ。
それでも最初に尋ねたのは。
次の運河橋へ間に合うか、でした。
私は答えました。
通常の速度で走れば
計算上は間に合う。
ただし。
三十七秒を取り戻せと言われても
馬を速く走らせるつもりはない。
蒼汰は頭の奥へ問いかける。
父さん
何て答えた
守はすぐに答えた。
それでいい
本当に?
ああ
アルノーが頷く。
守殿は。
それでいい。
無理に戻すな。
橋を渡れないと判断したら
その手前で止まれ。
そう言いました。
私は少し驚きました。
あれほど必死に郵袋を追ってきた男なら。
何としても間に合わせろ。
馬を飛ばせ。
三十七秒くらい取り戻せ。
そう言うと思っていたからです。
蒼汰は父の気配へ言う。
少しは成長してたんだな
橋守と駅長に
かなり怒られたあとだったからな
人から言われたこと
ちゃんと反映してたのか
必要ならな
その割に自分は休んでないけど
守が黙った。
アルノーが日誌の最初の区間を指でなぞる。
第二中継駅から運河橋までは
緩い下りが続きます。
急げば速度を出せる。
ですが冬の夜。
路面には薄い氷。
積載庫には
通常の郵袋に加え、追掛郵袋一つ。
重量が少し増えている。
下りで馬を走らせれば
制動距離が伸びます。
私は通常より
むしろ速度を落としました。
蒼汰は目を瞬いた。
遅れているのに?
はい。
三十七秒遅れて出て。
最初の下りで
さらに十二秒、失いました。
守
聞いてたのか
到着後に報告を読んだ
怒らなかった?
正しい判断だったからな
アルノーが続ける。
夜道の運行では。
遅れた時ほど
御者の視界が狭くなります。
時計。
次の橋。
到着時刻。
そこばかり見る。
すると。
馬の耳。
呼吸。
車輪の音。
路面の凍結。
本来見るべきものが見えなくなる。
だから私は。
出発が遅れた時ほど
最初の一区間を遅く走ると決めていました。
馬へ。
今夜もいつも通り走るのだと
理解させるためです。
蒼汰は真鍮の鈴を見る。
その鈴は?
馬車の出発鈴です。
通常。
御者が手綱を取る前に
一度だけ鳴らします。
馬へ
仕事が始まることを知らせるための音です。
あの夜も。
三十七秒遅れていましたが。
私は鈴を省略しませんでした。
急いで飛び乗り。
いきなり手綱を引けば。
馬は駅庭で何か異常が起きたと感じる。
人間の焦りは
手綱を通じて馬へ伝わります。
ですから。
いつも通り
一度鳴らした。
ちりん。
アルノーが指を離す。
応接室に、小さな音が響いた。
エリオの風鈴とは違う。
もう少し低く。
短い音。
出発を告げる音だ。
守殿は。
なぜ鈴を鳴らす時間があるなら
早く出ないのかとは言いませんでした。
守が頭の奥で答える。
意味を聞いたからな
説明されて納得した?
ああ
馬が落ち着く方が
結果的に速い
父さん
そういう合理的な説明には弱いよな
正しいからな
アルノーは日誌をめくる。
下りを越えたあと。
道路は平坦になります。
そこで初めて
通常速度へ戻しました。
速くはしない。
遅くもしない。
馬が一晩走り続けられる
決められた速度です。
運河橋が見えた時。
橋番の信号灯は
まだ通行可能を示していました。
残り時間。
四十九秒。
予定表上は
三十七秒遅れている。
ですが。
下りを慎重に走ったため
馬の呼吸は安定。
車輪も。
制動具も正常。
橋前で速度を落とす必要が
通常より少なかった。
結果。
橋を
閉鎖二十一秒前に通過しました。
蒼汰は少し考える。
最初に十二秒余計に遅れたのに。
橋では予定より早く通れた。
どうして?
急がなかったからです。
アルノーは当然のように答えた。
急いで下れば。
橋の手前で馬を落ち着かせる。
車輪を確認する。
荷崩れを直す。
その時間が必要になります。
最初から一定の速度で走れば。
途中で立て直す時間がいらない。
馬を速く走らせることと。
便を早く到着させることは
同じではありません。
蒼汰は父の気配へ言う。
聞いたか
ああ
父さん
何でも自分で急ぐからな
耳が痛い
珍しく認めるんだな
アルノーが次の頁を開く。
橋を渡ったあと。
私は最初の中間確認所で
停車する予定でした。
車軸。
積載扉。
馬の呼吸。
通常、二十秒。
遅れがあるからといって
省くことはできません。
ただし。
確認員が一人で行っていた作業を。
その夜は二人で行いました。
一人が左車輪。
もう一人が右車輪。
御者である私は
馬の呼吸と蹄を確認。
記録係は
確認が終わった項目から記入。
二十秒の作業を
十一秒で終えました。
安全確認は減らしていません。
人数を増やし。
同時に行っただけです。
それで九秒戻したのか
はい。
次の第三中継駅でも。
到着前に信号鈴を二度鳴らしました。
通常は一度。
一度は到着予告。
二度目は遅延便の合図。
駅側は
私たちが来る前から。
交代馬。
鞍。
積載棚。
記録机。
全てを準備できた。
到着してから慌てるのではない。
到着前に
遅れていることを渡したのです。
蒼汰は、父の未送付の手紙を思い出す。
届かない時間も返事になる。
遅れていることさえ届かなければ。
次の者は
通常通りの準備しかできない。
父さん
ここでも同じだな
何が
自分が遅れてるって
先に人へ伝えた方が早い
守は少し黙った。
それから低く答える。
そうだな
父が人に頼れなかった理由は。
助けてほしいと言えなかっただけではない。
自分が遅れている。
限界が近い。
間に合わないかもしれない。
それを他人へ知らせるのが、苦手だったのかもしれない。
アルノーが続ける。
第三中継駅では。
馬交換の作業を
通常より八秒短縮しました。
ですが
馬の確認項目は一つも省いていません。
事前に準備したことで。
到着後に探す時間をなくしただけです。
その先でも。
料金所の通行札を
馬車が来る前に机へ出す。
門番が
積載印を先に読む。
郵便所が
受取人の宿舎を確認しておく。
そうして。
三十七秒の遅れを。
一か所で全部取り戻さず。
道の途中にいる者たちが
二秒。
四秒。
八秒。
少しずつ引き受けました。
最終到着は。
六秒遅れ。
その六秒は
取り戻しませんでした。
蒼汰は顔を上げる。
六秒なら
戻せたんじゃないですか
戻せたでしょう。
東門郵便所の庭へ入る前。
馬を少し急がせれば。
ですが。
必要ありませんでした。
受取人はまだ宿舎にいる。
夜明け前。
六秒遅れても
手紙は間に合う。
間に合ったあとまで。
時刻表へ合わせるためだけに
馬を走らせる理由はありません。
守が頭の奥で言う。
あれは正しい
父さん
遅れを全部消したくならなかった?
報告を見た時は
六秒くらいならと思った
思ったのかよ
でも。
守は少し間を置く。
届いたなら
消す必要のない遅れだと分かった
蒼汰は古い秒針が置かれた長卓の方角を見る。
遅延、六秒。
安全事故、零。
馬の負傷、零。
郵便物破損、零。
時刻表だけを見れば
完全な運行ではない。
だが手紙は届いた。
馬も。
御者も。
道も。
次の日へ残った。
アルノーが横長の木箱を開く。
中に入っていたのは
一本の古い御者鞭だった。
黒い革。
柄は木製。
だが先端部分が切り取られている。
鞭としては使えない。
これは
あの夜、御者台へ載せていた鞭です。
使用はしていません。
郵便御者は
馬を叩いて走らせることを原則禁じられています。
音を出し。
注意を前へ向けるための道具です。
ですが。
遅れた便の御者が鞭を持つと。
使わなくても
自分自身が焦る。
手元に
もっと速く走らせる道具があると意識してしまう。
あの夜。
第三中継駅で
私は鞭の先を切りました。
蒼汰は少し驚いた。
走っている途中で?
馬交換中に。
遅れを馬へ背負わせないと
自分へ言い聞かせるためです。
守殿が
郵便所へ届いたあと、この鞭を見ました。
そして。
急ぐ便ほど
使えない鞭を載せておけと言った。
使えない物を載せる意味あるのか
蒼汰が頭の奥へ尋ねる。
守が答える。
使わないと決めた証になる
アルノーも頷く。
その後。
夜間緊急便では
先を切った訓練鞭を御者台へ載せる規定ができました。
速く走らせるための道具ではなく。
速く走らせすぎないための印です。
蒼汰は鞭へ触れる。
先がない。
馬を打つことも。
大きな音を出すこともできない。
だが御者が見るたび。
何をしてはいけないかを思い出せる。
アルノーが紺と茶の旗包みを開く。
北東夜間郵便御者旗。
紺色の夜空。
茶色の道。
中央には四頭の白い馬。
その上に、小さな真鍮の鈴。
本式の日。
夜間第一便は
この旗を半旗として掲げます。
運行時刻は変更しません。
また弔意を理由に
速度を落とすこともしません。
郵便を待つ者がいます。
馬を休ませる者もいます。
いつも通りに運行することが
私たちの弔意です。
ただし。
追掛郵袋が載った場合。
御者は出発前に必ず宣言します。
遅れを
馬の脚では取り戻さない。
安全確認を省かない。
到着後に間に合っているなら
残った遅れは、そのまま記録する。
六秒を消すために
一頭を急がせない。
守殿が
あの夜に認めた運行です。
守が頭の奥で静かに答える。
それでいい
蒼汰は伝える。
父さんが
それでいいって
アルノーは一度だけ頷いた。
最後に、一枚の紙片が差し出される。
父の字。
遅れは失敗じゃない
間に合わなくなる遅れだけを減らせ
馬も人も壊さず届いたなら、残りの秒は正直に書け
蒼汰はその文字を見つめた。
父は自分の失敗を、正直に書けていただろうか。
エリオを帰せなかったことは。
十八年間、記録へ残し続けた。
だが。
自分が疲れていること。
息子へ手紙を出せないこと。
助けを求められないこと。
そういう失敗は。
どこにも提出していなかった。
守
何だ
父さんは
自分の遅れも記録すればよかったな
何の話だ
俺に話すのが遅れたこと
守が黙る。
二十三通も書いて
一通も出さなかった。
何秒どころじゃないぞ
……そうだな
でも。
蒼汰は続ける。
遅れたからって
今から全部一気に言わなくていい
父の気配がわずかに揺れる。
一通ずつでいい
一個ずつ
聞くから
守はしばらく答えなかった。
やがて。
……助かる
小さく返した。
蒼汰は少しだけ笑った。
父が初めて。
自分の遅れを
誰かへ分けたような気がした。
アルノーが立ち上がる。
守殿。
あの夜。
私はあなたへ
馬を速く走らせないと宣言しました。
あなたは
一度も急げとは言わなかった。
ですが後日。
私のところへ来て
一つだけ尋ねました。
何を?
蒼汰が聞く。
アルノーの目元が少し和らぐ。
馬たちは
翌朝も元気だったか、と。
守が頭の奥で言う。
気になったからな
ノルト号。
リーゼ号。
夜間第一便の四頭。
全頭
翌日も問題なし。
ただし。
夜間第一便の四頭は
規定通り一日休養。
次の夜には
また同じ道を走りました。
守殿は。
それを聞いて
手紙も馬も帰ったと言いました。
蒼汰は小さく息を吐く。
父にとっての帰還は。
手紙が届くだけではない。
運んだ者も。
馬も。
翌日の道へ戻れること。
そこまでだった。
アルノーは父の棺がある方角へ向かい、真鍮の鈴を一度鳴らした。
ちりん。
守殿。
夜間第一便。
本日も通常速度で運行します。
遅れは
馬の脚へ背負わせません。
守が低く答える。
頼む
蒼汰は伝えた。
父さんが
頼むって
アルノーは深く頭を下げる。
承りました。
男は応接室を去った。
扉が閉まる。
乾草。
革。
夜道の冷気。
そして真鍮の鈴の余韻だけが残る。
蒼汰は先の切られた鞭を持ち上げた。
守
何だ
父さんも
使えない鞭みたいなのを持ってればよかったな
何だそれは
自分を急がせすぎないための印
守は少し考える。
お前と巴がいた
蒼汰は動きを止めた。
いたけど
父さんは見なかっただろ
……見ないようにしてたのかもしれない
どうして
止まりたくなるから
父の声は静かだった。
家に帰れば。
母がいて。
息子がいる。
そこへ目を向ければ。
自分も休みたくなる。
だから父は、見ないようにした。
止まらないために。
それが家族を遠ざけたことにも気づかず。
蒼汰は鞭を机へ戻す。
次は見ろよ
何を
俺たちを
守が小さく息を呑む。
もう死んでるけど
見えるんだろ
ああ
だったら
急ぎすぎそうになったら見ろ
父は少し黙った。
それから。
分かった
短く答えた。
冬城が切られた鞭と旗を長卓へ運ぶ。
そして次の名簿を開いた。
蒼汰様
うん
次の方は。
夜間第一便が通過した
東運河可動橋の元橋上機関長です。
守様の追掛郵袋が載っていることを知りながら。
予定時刻どおり
橋を上げたご当人になります。
蒼汰は顔を上げる。
待ってくれなかったのか
守が頭の奥で答える。
待たせなかった
何で
橋の下で
薬を積んだ船が待ってた
蒼汰は先の切られた鞭を見る。
一通の手紙を急がせるために。
父は橋を開け。
橋を閉じたまま渡り。
駅を三十七秒待たせた。
だが次の橋では。
自分の郵袋より先に進むべきものがあると知り。
予定どおり道を閉じさせた。
父、奏多守が追わせた手紙は。
今度は。
川を渡る薬のために
自分から四十分待つ可能性を受け入れた夜へ続いていた。
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