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父、奏多守はほら吹きではなかった  作者: てへろっぱ


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58/102

第58話 三十七秒だけ、出発を待たせる



応接室へ入ってきた男は、古い時計の匂いをまとっていた。


機械油。

真鍮。

煤。

長年使われた木の床。

夜明け前の駅舎で焚かれる、小さな暖炉の煙。


胸元には銀の懐中時計。


男は部屋へ入った瞬間から、無意識にその蓋へ指を置いていた。


六十代後半ほど。


身体は細く、背筋はまっすぐ伸びている。

白髪は左右へ丁寧に撫でつけられ、黒い礼装には皺一つない。


歩幅も一定。


入口から机まで。

立ち止まる位置まで。


長年、出発時刻を守ることを仕事にしてきた者らしい動きだった。


後ろには若い駅務吏が二人。


一人は細長い運行記録簿。

もう一人は小さな真鍮箱と、紺色の旗包みを抱えている。


冬城が告げる。


北東郵便路第二中継駅

元駅長、オスカー・ブレンナー様です


守様が追いかけた郵袋を夜間第一便へ積むため

出発を三十七秒だけ延期されたご当人になります


男――オスカーは蒼汰へ深く頭を下げた。


奏多蒼汰殿


私はオスカー・ブレンナー


北東第二中継駅で

三十一年間、郵便便と旅客便の出発管理をしておりました


そして守殿に。


待たせるべき三十七秒と

待たせてはいけない一秒を

同じ遅延として扱うなと迫られた者です


蒼汰は少しだけ眉を上げる。


父さん

三十七秒って、かなり細かいな


守が頭の奥で答える。


それしか残ってなかった


何が


次の可動橋を渡れる時間だ


また橋かよ


北東郵便路は川が多い


さっきの橋とは別?


別だ


一晩に橋、何本渡るんだよ


道だからな


答えになってないぞ


蒼汰は椅子へ座る。


オスカーも向かいへ腰を下ろした。


机の上へ置かれた運行記録簿は、秒単位で記載されていた。


列車ではない。


駅馬車と駅馬による郵便路。


それでも出発時刻は厳密だった。


到着。

荷下ろし。

郵袋確認。

馬交換。

御者交代。

車軸点検。

出発鐘。

門通過。


夜間第一便。


予定出発時刻。


第三鐘後、十二分零秒。


実際の出発時刻。


十二分三十七秒。


遅延。


三十七秒。


理由。


追掛郵袋一袋。

百四十二通。

第二中継駅庭へ到着。


その横には、父の字が残っていた。


一分待てとは言わない

三十七秒だけくれ

それ以上は、この便ごと届かなくなる


蒼汰は記録を見つめる。


父さん

最初から三十七秒って分かってたのか


分かってない


じゃあ、何で書いたんだ


駅長が計算した


オスカーが頷く。


守殿が駅へ到着する前。


私はすでに

夜間第一便の出発準備を終えていました。


馬は交換済み。


御者も着席。


郵袋の封印確認も完了。


次の第三中継駅まで

予定通り走れば一刻二十分。


その途中に

夜間だけ開閉する小さな運河橋があります。


貨物船を通すため

決められた時刻に橋面が上がる。


郵便便がその前を通過する猶予は

当時、四分しかありませんでした。


第二駅を一分遅れて出れば。


通常の速度では

運河橋へ間に合わない。


次に橋面が下がるのは

四十分後。


つまり。


第二駅で一分待つと

手紙は四十分遅れる。


蒼汰は小さく息を吐いた。


少し待つだけでは済まないんですね


時刻表は

一つの便だけで作られているわけではありません。


橋。

門。

中継馬。

御者の勤務。

対向する荷馬車。

夜間通行許可。


全てが繋がっています。


一か所の一分が

次の場所では四十分になることがある。


父さん

知ってたのか


細かい時刻までは知らなかった


守が答える。


だから駅長へ聞いた


橋を渡れる限界は何秒か、と


オスカーの表情が少しだけ厳しくなる。


守殿が駅庭へ現れたのは。


出発鐘を鳴らす

およそ一分前でした。


正確には。


門の外から

かなり大きな声が聞こえました。


待て。


三十秒だけ待て。


最初は三十秒だったのか


蒼汰が頭の中で尋ねる。


守が答える。


概算だ


かなり適当じゃないか


何も言わないよりはいい


オスカーは続ける。


私は出発を止めませんでした。


門の外で誰かが叫んだだけで

郵便便を止めることはできません。


緊急便標もない。


逓送院の追掛許可旗も見えない。


何より。


遅れれば次の橋へ間に合わない。


私は予定通り

第一出発鐘を鳴らしました。


駅庭では。


御者が手綱を取り。

馬車が動き始めた。


その時。


西門から

灰毛の駅馬が入ってきました。


守殿です。


膝当てを着け。

片手で手綱を持ち。

もう片方の手で、革の郵袋を抱えていた。


後ろからコンラート殿も到着。


守殿は郵袋を

動き始めた郵便馬車へ投げました。


蒼汰は目を閉じた。


また投げたんだな


走ってたからな


止まって渡せばいいだろ


止まらなかった


オスカーが淡々と訂正する。


馬車は

まだ人が歩く程度の速度でした。


守殿が追いつき

御者台へ手渡すことは可能だったと思われます。



……膝が痛かった


そこで素直になるのかよ


郵袋は御者台の横へ当たり。


雪の上へ落ちました。


封印は無事。


ですが馬車はすでに

駅庭の半分まで進んでいる。


私は第二出発鐘を止めました。


第一鐘で馬車は動き出す。


第二鐘で駅門を開く。


第三鐘で

その便の出発を正式に記録する。


第二鐘を鳴らさなければ

馬車は駅庭から出られません。


しかし。


いつまでも止めることはできない。


私は守殿へ

何秒必要かと尋ねました。


守殿は。


一分、と答えました。


蒼汰は父の気配へ呼びかける。


最初、三十秒って言ってたよな


郵袋が落ちたから増えた


自分のせいじゃないか


御者も手を伸ばすのが遅かった


半分は父さんのせいだろ


……半分はな


オスカーの口元が、ほんの少しだけ動く。


私は一分は無理だと答えました。


次の運河橋へ間に合わない。


守殿は

では何秒なら待てると聞いた。


私は運行表を見ました。


夜間の気温。

路面。

馬の交換状態。

次の橋までの距離。

通常速度。


計算上。


三十七秒。


それ以上遅れると

運河橋前の安全減速区間へ入れない可能性がある。


ですので私は

三十七秒だけ待つと告げました。


父さんは?


分かった、と答えました。


守の声が静かに返る。


一秒でも超えたら?


郵袋を諦める


蒼汰は少し驚いた。


本当に諦めるつもりだったのか


ああ


ここまで追いかけてきたのに


便ごと橋へ落としたら

百四十二通全部届かない


守は淡々と答えた。


一通を間に合わせるために

残りを危険へ入れるのは違う


オスカーが懐中時計を開く。


その時使ったものと同じ時計らしい。


私は秒針を見ながら

第三鐘の紐を握りました。


三十七秒。


その間に。


コンラート殿が雪の上の郵袋を拾い。

封印を確認。


守殿が馬車へ追いつき。

後部積載扉を開けるよう御者へ叫ぶ。


ですが御者は。


正式な積載確認を終えた郵便物以外

受け取れないと拒否しました。


正しい判断だな


蒼汰が言う。


オスカーは頷く。


はい。


どれほど急いでいても。


封印を確認せず

郵便馬車へ積むことはできません。


途中で中身が失われれば

追った意味がない。


守殿は御者を責めませんでした。


代わりに

コンラート殿へ封印確認を急がせた。


残り、二十八秒。


封蝋。

紐。

追掛札。

逓送院印。


全て異常なし。


残り、二十秒。


御者が後部扉を開く。


守殿は

今度こそ郵袋を投げようとしました。


また?


蒼汰は思わず聞き返す。


守が少し気まずそうに答える。


距離があった


オスカーが続ける。


私が止めました。


二度目に落とせば

もう拾う時間はない。


そこで駅務吏が一人

馬車まで走りました。


守殿は郵袋を駅務吏へ。


駅務吏から御者へ。


御者が積載棚へ固定。


一人で投げるより。


三人で渡した方が

速く、確実でした。


蒼汰は父の気配へ言う。


また人に渡したんだな


ああ


嫌だった?


今回は

投げるなと言われたからな


そっちかよ


残り、八秒。


御者が積載完了を叫ぶ。


私は第二鐘を鳴らしました。


駅門が開く。


残り、四秒。


守殿と駅務吏が

馬車から離れる。


残り、一秒。


私は第三鐘を鳴らしました。


夜間第一便は

予定より三十七秒遅れて出発。


守殿は駅庭に立ったまま

馬車が見えなくなるまで見送っていました。


そして最初に言ったのは。


間に合うか、でした。


私は

この先の御者が規定通り走れば間に合うと答えました。


すると守殿は。


規定より速く走る必要はないのかと

もう一度確認しました。


蒼汰は少しだけ目を細める。


父さん

急げとは言わなかったんだな


言わない


三十七秒で収めたのは

急がせないためでもある


守が答えた。


オスカーが静かに頷く。


守殿は。


遅れを取り戻せ。

馬を急がせろ。

橋へ間に合わせろ。


そうは言いませんでした。


三十七秒なら

通常運行の範囲で吸収できる。


それ以上なら

この便へ載せない。


駅の判断へ従った。


私は。


守殿がもっと無理を言う方だと思っていました。


かなり無理は言ってると思いますけど


蒼汰が言うと、オスカーの表情が少し和らぐ。


ええ。


駅門の外から

待てと叫んだ時点では。


ですが。


限界を説明すれば

その内側で方法を探した。


守殿は

時刻表を壊したかったのではない。


届く可能性を

安全な範囲の最後まで使いたかったのです。


夜間第一便は

次の運河橋を予定の二十一秒前に通過しました。


二十一秒前。


三十七秒待って

残り二十一秒。


かなりぎりぎりだったんだな


ああ


守が答える。


オスカーが運行記録簿の次の欄を示す。


運河橋通過。

異常なし。


第三中継駅到着。

予定より二十九秒遅延。


馬交換。

八秒短縮。


次便出発。

予定より二十一秒遅延。


以降。


停車作業の中で少しずつ遅れを吸収し。


東門郵便所到着時には

予定より六秒遅れ。


手紙は夜明け前に

レオン・アーベルへ届きました。


蒼汰は少しだけ驚く。


速く走ったんじゃないんですね


はい。


馬の速度を上げず。


すでに準備できていた荷物を

先に並べ。


交代馬の鞍を

到着前に確認。


記録確認を省略せず

二人で同時に行う。


安全を削らず。


待ち時間を削った。


三十七秒の遅れを

道の途中にいる者たちが

少しずつ分けて引き受けました。


一人へ

三十七秒全部を背負わせなかったのです。


蒼汰は目を伏せた。


エリオを帰した時と同じだ。


父が一人で抱えた十八年を。


集まった者たちが

少しずつ分けて引いた。


三十七秒も。


一人の御者へ無理をさせるのではなく。


駅務吏。

馬番。

記録係。

橋守。


それぞれが数秒ずつ動きを整えることで取り戻した。



あの時

父さんは何かしたのか


第二駅から先は

何もしてない


追いかけなかったのか


膝が動かなかった


それだけ?


あとは任せた方が早かった


父の声は少しだけ気まずそうだった。


蒼汰は笑う。


ようやく任せたんだな


ああ


手紙が見えなくなっても

届くって信じた?


……駅長が

大丈夫だと言ったからな


父が誰かの言葉を信じ。


その場で止まった。


それだけで。


今日まで聞いてきた中では

かなり珍しい出来事に思えた。


オスカーが若い駅務吏へ合図する。


小さな真鍮箱が机へ置かれる。


中に入っていたのは

古い時計の秒針だった。


黒く細い針。


根元が少し曲がっている。


横には小さな札。


夜間第一便。

三十七秒待機。

到着遅延、六秒。

安全事故、零。


これは

当時の駅時計で使用されていた秒針です。


翌年の整備で交換されました。


守殿は

この針を見て言いました。


遅れたことだけを残すな。


何秒待ったか。

何のために待ったか。

その後、誰へ無理をさせなかったか。


そこまで記録しろ、と。


蒼汰は秒針へ触れる。


細く。

軽い。


三十七秒など。


普段なら何もできない時間だ。


だが一通の手紙にとっては。

一人が故郷へ帰るか、さらに遠くへ行くかを変える時間だった。


オスカーが紺色の旗包みを開く。


北東第二中継駅旗。


紺色の地に。

白い駅門。

中央には銀の懐中時計。

その下へ、三本の小さな線が刺繍されている。


本式の日。


第二中継駅では

この旗を半旗とします。


夜間第一便は

通常通り運行。


弔意を理由に

不必要な遅延はさせません。


ですが。


出発直前に

明日では遅い郵便が到着した場合。


次の橋。

馬の状態。

御者の勤務。

道路状況。


全てを確認し。


安全に待てる最後の一秒まで

積載を試みます。


待てない場合は

待ちません。


蒼汰は頷く。


それでいいと思います


オスカーも頷いた。


守殿は

待たせた男として記憶されています。


ですが。


実際には

三十七秒以上、待たせなかった男でもあります。


必要だからと

全てを止めたわけではない。


一通を届けるために

他の郵便を危険へ入れなかった。


私は

その限界も残したい。


守が頭の奥で静かに言う。


ありがたい


蒼汰はそのまま伝える。


父さんが

ありがたいって


オスカーは一度だけ目を伏せる。


最後に、一枚の紙片が差し出された。


父の字。


急ぐ事情を聞いたら、まず止めるな

何秒なら安全に待てるかを先に計れ

一人を待つために、次の百人を落とすな


蒼汰は紙を何度も読み返した。


父は。


助けたいと思えば、すぐに動く。


その勢いで。

最初は橋を開けろと怒鳴り。

馬を一頭で走らせ。

郵袋を投げる。


だが誰かに止められ。


危険を説明されれば。


馬を替え。

橋を閉じたまま渡り。

郵袋を人へ渡し。

安全に待てる三十七秒だけを使った。


父のやり方は。


最初から正しかったのではない。


止める者。

教える者。

限界を計る者。


そういう人々がいたから。


一人を救うための無茶が。

誰かを巻き込む事故にならずに済んだ。


オスカーが立ち上がる。


守殿。


あなたが駅庭へ入ってきた時。


私は

最も迷惑な客が来たと思いました。


守が頭の奥で答える。


それは悪かった


蒼汰が伝える。


悪かったって


ですが。


オスカーは続ける。


三十七秒後。


あなたは

もっと待てとは言わなかった。


馬車が出たあとも

追いつけと叫ばなかった。


私が間に合うと言うと。


その場で座り込みました。


たぶん

膝が限界だっただけでしょうが。


守がぼそりと答える。


それもある


蒼汰は正直に伝えた。


それもあるそうです


オスカーの口元が、わずかに緩む。


やはり。


それでも。


任せてくださったことに変わりはありません。


あの郵袋は。


守殿一人が届けたのではない。


馬番。

橋守。

逓送吏。

駅務吏。

御者。


皆が数秒ずつ

自分の仕事を整えて届けた。


私たちは。


守殿に使われたのではありません。


守殿から

続きを任されたのだと思っています。


頭の奥で。


守が長く黙った。


やがて、静かに答える。


……そうだったのかもしれない


蒼汰はそのまま伝えた。


そうだったのかもしれないって


オスカーは深く頭を下げる。


はい。


ですから今後も。


三十七秒の続きを

私たちが運びます。


男は父の棺がある方角へ一礼し。


応接室を去った。


扉が閉まる。


時計の油と。

駅舎の煤と。

乾いた紙の匂いが残る。


蒼汰は古い秒針を持ち上げた。



何だ


手紙が出たあと

本当に追いかけなかったんだな


ああ


不安じゃなかった?


かなり


でも任せた


ああ


何で他のことでも

同じようにできなかったんだよ


守はすぐに答えなかった。


長い沈黙。


そのあと。


見えなくなるのが

怖かったんだろうな


父の声は小さかった。


自分で持っていれば。

自分で見ていれば。

自分で最後まで動けば。


失敗しても、自分の責任にできる。


誰かへ渡して。

その先が見えなくなることを。


父はずっと恐れていたのかもしれない。


蒼汰は秒針を机へ戻す。


でも、届いた


ああ


父さんが見てなくても


届いた


じゃあ

今度は覚えとけ


何を


人に渡しても

続きは消えない


守は少し黙った。


それから。


分かった


短く答えた。


冬城が秒針と駅旗を長卓へ運ぶ。


次の名簿を確認する。


蒼汰様


うん


次の方は。


夜間第一便の御者

アルノー・フェルト様です。


三十七秒の遅れを取り戻すよう命じられることを警戒し。


守様ご本人へ

馬を速く走らせるつもりはないと宣言された方になります。


蒼汰は顔を上げる。


父さん

また怒られたのか


守が頭の奥で答える。


怒られてはいない


先に釘を刺された


何て


手紙が急いでいても

馬の脚は時計じゃない、と


蒼汰は古い秒針を見る。


三十七秒だけ待たせた郵便馬車は。


その遅れを

馬の速さで取り戻したのではなかった。


次に待っていたのは。


急げと言われる前に

急がないと決めた御者の話だった。


最後までお読みいただき、ありがとうございます。


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