第54話 凍る夜にも、朝の一杯を残す
黒い吊り鉤が長卓へ運ばれたあと、応接室にはしばらく乾いた炉の匂いが残っていた。
エリオは母親と一緒に休養室へ戻っている。
胸元には木笛。
手には、母親が縫った小さな星の布切れ。
破れた服を洗っても、その星だけは消さずに残してもらえる。
そのことを何度も確認してから、ようやく寝台へ戻った。
蒼汰は椅子へ座り直し、深く息を吐く。
守
何だ
エリオ
今度こそ寝たか
寝た
母親も一緒か
隣の椅子にいる
椅子じゃなくて、ちゃんと寝かせた方がよくないか
本人が離れたくないと言ってる
父さんならどうする
椅子へ毛布を追加する
そこは無理に寝台へ運ばないんだな
本人が選んでるからな
蒼汰は小さく笑った。
父は何でも勝手に順番を変える。
それでも、本人が選んだことまで勝手に変えるわけではないらしい。
冬城が次の名簿を手に近づいた。
蒼汰様
次の方をお通しいたします
お願いします
王都水道局冬期水守長
ヘルムート・ライナー様です
守様に
凍結防止のため閉鎖予定だった給水弁を、一系統だけ閉じさせてもらえなかったご当人になります
蒼汰は頭の奥へ問いかける。
父さん
水道弁まで勝手に触ったのか
守が答える。
直接は触ってない
珍しいな
鍵を取り上げただけだ
もっと悪いだろ
必要だった
またそれか
応接室の扉が開く。
最初に入ってきたのは、冷たい空気だった。
外の冬気そのものではない。
地下水路。
濡れた石壁。
鉄管。
古い弁。
水面から立ち上がる冷気。
長く水道施設の中にいる人間だけが連れてくる、冷たい水の匂いだった。
中央に立っていたのは、背の高い老人だった。
年齢は七十歳前後。
身体は細いが、背筋はまっすぐ伸びている。
黒い礼装の上から、濃い青色の長外套を羽織っていた。
胸元には、水滴と三本の管を組み合わせた銀の徽章。
白髪は短く整えられている。
目元は厳しい。
だが、その厳しさは人へ向けられたものではない。
見えない地面の下を流れる水と、いつ破裂するか分からない管を相手にしてきた者の目だった。
後ろには若い水道吏が二人。
一人が分厚い配水記録簿。
もう一人が青黒い金属箱と、深い水色の旗包みを抱えていた。
冬城が告げる。
王都水道局冬期水守長
ヘルムート・ライナー様です
守様に
北西第七給水系統の閉鎖弁鍵を、一夜だけ取り上げられたご当人になります
老人――ヘルムートは蒼汰へ深く一礼した。
奏多蒼汰殿
私はヘルムート・ライナー
王都の冬期配水と凍結対策を預かる水守長
そして守殿に
管を守るために、人の朝を空にするなと叱られた者です
蒼汰は一拍置いてから答えた。
父さん
やっぱり鍵を取り上げたんですね
ヘルムートの眉がわずかに動く。
ええ
私の腰から
かなり自然な動作で
守が頭の奥で言う。
落としたから拾った
そのまま返さなかったんだろ
必要だったからな
それを取り上げたって言うんだよ
蒼汰は椅子へ座る。
ヘルムートも向かいへ腰を下ろした。
長い脚を静かに引き、外套の裾が床へ触れないよう整える。
水場で衣服を濡らさない動作が、身体に染みついているのだろう。
配水記録簿が机の上へ置かれる。
系統番号。
給水区域。
管径。
流量。
水圧。
外気温。
凍結危険度。
閉鎖予定時刻。
北西第七給水系統。
その行だけ、閉鎖予定の印が二重線で消されていた。
横には父の字。
止めるな
流し方を細くしろ
朝の水まで凍らせる必要はない
蒼汰は目を細めた。
間違いなく父さんだな
守が答える。
ああ
ヘルムートが話し始める。
あれは、王都が記録的な寒波に見舞われた年でした
昼でも水桶へ薄氷が張り。
夜には石畳まで割れる。
地下の本管は耐えられます。
ですが末端の細い給水管は
水を止めれば中身が凍る。
凍った水は膨らみ
管を内側から割ります。
では、流し続ければよいのでは?
蒼汰が聞く。
水量が足りません
寒波の夜は
全系統で凍結防止のため水を流したくなる。
ですが貯水塔の量には限界があります。
全区域を流し続ければ
夜明け前に水圧が落ち
施療院や消防水槽へ水が届かなくなる。
そのため冬期水道局では
重要区画を残し
末端区域を順番に閉じます。
閉じた区域は
各家庭が事前に汲み置きをする。
翌朝、気温が上がってから再開。
合理的な方法だった。
守も頭の中で言う。
基本は間違ってない
じゃあ何で邪魔したんだ
北西第七だけ
事情が違った
ヘルムートの指が配水図の端へ移る。
北西第七給水系統。
王都の外れ。
古い共同住宅と、小さな工房が並ぶ区域。
通常の居住者は少ない。
寒波の前日
水道局は閉鎖通知を出しました。
各戸へ
一人あたり朝までに必要な水を汲むよう指示。
閉鎖予定は、夜の第二鐘。
ところがその日の夕方。
南堤防の補修へ多くの住民が動員されました。
蒼汰は顔を上げる。
さっきの浴場と、同じ夜ですか
はい
ヘルムートが頷く。
堤防から戻った者たちが
共同浴場へ入った夜。
八十六名のうち
二十三名が北西第七区域の住民でした。
彼らは閉鎖前に
水を汲めなかった。
帰宅も遅い。
共同浴場で泥を落とし。
宿場で一時的に身体を休め。
翌朝、自宅へ戻る予定だった。
つまり給水弁を予定通り閉じれば
彼らの家には朝の水がない。
水がなければ
飲めないだけではありません。
顔を洗えない。
薬を飲めない。
乳児の粥を作れない。
泥のついた道具を洗えない。
そしてその区域には
堤防へ出なかった者も残っていました。
歩けない老人。
幼い子ども。
出産直後の母親。
蒼汰は小さく息を吐いた。
父が絶対に放っておかない条件が、全部揃っている。
ヘルムートが続ける。
守殿が配水所へ来たのは
閉鎖の三十分前でした
全身、洗濯院の灰で汚れていました
浴場から洗濯院へ行ったあとか
そうだ
守が答える。
お前、その夜いつ寝たんだよ
朝方
やっぱり寝てないじゃん
少しは寝た
洗濯院の床でだろ
暖かかった
蒼汰は額を押さえる。
ヘルムートは話を続ける。
守殿は
北西第七の閉鎖予定を見て尋ねました
ここを止めたら
朝に何戸、水が出ない、と
私は答えました。
四十三戸。
ですが全戸へ
汲み置き通知を出している。
規則上、問題はない。
すると守殿は言いました。
通知を読めた家の数ではなく
実際に水を汲めた家の数を確認したか、と
蒼汰は目を閉じた。
本当に父だ。
書類を出したかではなく。
相手がその通りに準備できたか。
父はいつも、その先を聞く。
私は確認していませんでした
通知を出すのが水道局の役目。
各家庭が準備するのは
住民側の責任。
そう考えていた。
守殿は若い水道吏を一人連れ
北西第七区域へ向かいました。
一軒ずつ
水桶を確認したのです。
四十三戸のうち。
必要量を汲めていたのは、二十六戸。
不足、九戸。
ほぼ空、八戸。
その八戸の中に
出産直後の母親がいる家がありました。
産婆が夜通し付き添う予定でしたが
飲み水は小さな水差し一つ。
朝には足りない。
守殿は配水所へ戻り
第七系統を止めるなと言いました。
私は拒否しました。
一系統を残せば
水圧計算が崩れる。
管が凍る危険もある。
施療院系統へ影響が出る可能性もある。
守殿は全部聞いた。
そのうえで
全開で流せとは言ってない、と答えました。
蒼汰は配水図を見る。
父の字で、細い青線が描かれている。
第七系統の途中から。
古い排水路へ。
さらに別の本管へ戻るような線。
これは何ですか
循環戻しです
ヘルムートの声が少し低くなる。
通常
末端管の水は家庭へ流れて終わります。
ですが第七系統の最奥には
廃止された工房用排水路が残っていました。
守殿は
給水弁を全閉にせず
ごく細く開ける。
末端まで届いた水を
古い排水路から本管側へ戻す。
家庭の蛇口では
水差しを満たせる程度の流量だけを残す。
水を大量に捨てず。
管の中も止めない。
そうすれば
凍結を防ぎながら、朝の水も確保できると言った。
蒼汰は目を瞬く。
そんなことできたんですか
理論上は
ヘルムートは厳しい顔のまま答える。
ですが、その排水路は十年以上使われていません。
詰まり。
亀裂。
逆流。
何が起きるか分からない。
私は、危険すぎると反対しました。
守殿は
なら確認しようと言いました。
今から?
蒼汰が尋ねる。
はい
真夜中に。
水守吏。
配管工。
石工。
そして守殿。
四人で地下水路へ入りました。
父さんも?
守が答える。
言い出したのは私だからな
また現場に入ったのかよ
見ないと分からん
ヘルムートが深く頷く。
守殿は
水道の専門家ではありません。
弁の扱いも。
圧力計の読み方も。
最初はかなり危うかった。
ただし
分からないことは、その場で聞いた。
古い排水路の石蓋を開け。
詰まった泥を掻き出し。
亀裂部分へ応急帯を巻き。
小流量で試験通水。
最初は逆流しました。
二度目は、圧力不足。
三度目に
ようやく末端まで細い流れが通った。
どれくらいの水だったんですか
蛇口を開き
小さな水差しが、一分ほどで満ちる程度です。
風呂は無理。
洗濯も無理。
大量の調理にも使えない。
ですが。
朝に一杯飲む。
薬を流し込む。
赤子の粥を作る。
手を洗う。
そのための水は残る。
守殿は
それで十分だと言いました。
蒼汰は配水図を見つめる。
父は全てを元通りにしたわけではない。
寒波の夜に、いつも通り水を使えるようにしたわけでもない。
ただ、朝に必要な最低限だけを残した。
でも
凍結は大丈夫だったんですか
第七系統の末端一か所で
薄い氷が発生しました。
完全には防げなかった。
ただし管の破裂はありません。
施療院系統の水圧も
許容範囲内。
夜明けまで
四十三戸全てで細い水が出続けました。
蒼汰は小さく息を吐いた。
出産直後の母親の家は?
朝
産婆がその水で粥を作りました。
母親も飲み。
赤子へ与える湯も沸かせた。
守殿は
夜明け前に一度、確認へ行きました。
何でそこまで
蒼汰が頭の中で尋ねる。
守は平然と答える。
本当に出てるか
見ないと分からんからな
配水所の計器だけじゃ駄目なのか
蛇口から出るまでが給水だ
その言葉に、蒼汰は返せなかった。
父にとっては、何でも同じなのだ。
門は、人が中へ入るまで。
食事は、人が口へ運ぶまで。
寝床は、朝に目覚めるまで。
洗濯は、自分の服を着るまで。
水道も。
配水計が動いた時ではない。
家の蛇口から水が出て。
誰かが朝の一杯を飲むまで。
そこまでで給水だ。
ヘルムートは青黒い金属箱を開いた。
中には、古い真鍮製の弁鍵が入っていた。
長い柄。
先端は四角。
表面には水垢と細かな傷が残っている。
柄の中央に、青い布紐。
その結び目へ、小さな札が付いている。
北西第七。
全閉禁止。
夜明け確認後、解除。
父の字だった。
これは
守殿が私から取り上げた弁鍵です。
正確には拾った
守が頭の奥で訂正する。
返さなかったんだろ
朝まで借りた
それを取り上げたって言うんだよ
蒼汰はヘルムートへ言う。
父さん
拾って朝まで借りただけだって言ってます
ヘルムートの眉が、わずかに上がる。
私は腰帯から落とした記憶がありません。
父さん
……少し引っかかっただけだ
自分で取ってるじゃん
ヘルムートは深く息を吐く。
やはり。
ですが、この鍵がなければ
私は予定通り全閉していたでしょう。
守殿は鍵を奪ったあと
閉めるなと言うだけではなかった。
代わりの流し方を作るまで
地下水路から出なかった。
ですので
今は返していただいたことにしています。
蒼汰は弁鍵を持ち上げる。
重い。
水を止めるための鍵。
だがその夜だけは
止めないために使われた鍵だ。
ヘルムートが旗包みを開く。
深い水色の旗。
銀色の三本管。
中央に一滴の水。
下には小さな器。
王都冬期水道局旗だった。
本式の日。
王都水道局は
この旗を半旗とします。
また北西第七系統では
通常より細い流れを夜明けまで残します。
ただし
意味もなく水を流すわけではありません。
高齢者宅。
乳児のいる家。
夜勤者の住居。
施療後に帰宅する者。
事前に申請された家庭へ
朝の一杯分の水が届く流量を確保します。
水量計だけでなく
夜明けに各戸の蛇口を確認します。
守殿が
最後に確認した場所まで。
蒼汰は少しだけ笑った。
父さん
喜びそうだな
守が答える。
申請できない家も確認しろ
やっぱり注文つけるのかよ
申請できるやつだけなら
同じことになる
蒼汰はヘルムートへ伝えた。
父さんが
申請できない家も確認しろって言ってます
ヘルムートは目を閉じた。
一拍置いてから、静かに頷く。
承知しました。
当日の巡回班へ
独居世帯と通知未確認世帯の確認を追加します。
守が頭の奥で言う。
それならいい
本当に最後まで細かいな
大事だ
ヘルムートは最後に、一枚の紙片を差し出した。
父の字。
管を守るのは朝へ水を届けるためだ
管だけ無事で、家の器が空なら意味がない
全部は無理でも、一杯は残せ
蒼汰はその文字を見つめる。
全部は無理でも、一杯は残せ。
父は万能ではなかった。
国中の水を好きなだけ出せたわけではない。
寒波を消したわけでもない。
凍結の危険を完全になくしたわけでもない。
それでも。
無理だから全部止める、とは言わなかった。
残せる一杯を探した。
ヘルムートが静かに問いかける。
守殿は
ご家庭でも、寒い夜に蛇口を細く開けておく方でしたか
蒼汰は少しだけ記憶を探る。
ああ。
あった。
特に寒い夜。
父は台所と洗面所を何度も行き来し、蛇口をほんの少しだけ開けていた。
水が細く落ちる音が気になって、蒼汰が止めようとしたこともある。
……やってました
水がもったいないって言ったら
管が割るより安いって
守が頭の奥で言う。
実際そうだ
でも朝
一番に水が出るか確認してた
それから
やかんを満たしてました
ヘルムートの厳しい目元が、ほんの少しだけ和らぐ。
やはり。
あの方は
水道を設備として見る前に。
朝に誰かが口へ運ぶ一杯として見ていたのでしょう。
それだけ言い、ヘルムートは立ち上がった。
蒼汰も真鍮の弁鍵と旗、紙片を見てから頭を下げる。
預かります
ありがとうございます
ヘルムートは棺のある方角へ身体を向ける。
守殿。
あなたが鍵を返さなかったため
私は夜通し、地下水路を歩かされました。
守が答える。
悪かった
蒼汰が伝える。
悪かったって
ですが。
ヘルムートは続ける。
あの朝
第七系統の家々から
一斉に湯気が上がりました。
湯を沸かし。
粥を作り。
顔を洗う。
たった一晩
細い水を残しただけです。
それでも
街が朝へ動き出す音を聞きました。
あれ以来
私は閉じる系統の戸数だけでなく。
その先に
どんな朝があるかを確認するようになりました。
守が頭の奥で、少しだけ黙る。
やがて。
それならよかった
父の声が返る。
蒼汰はそのまま伝えた。
それならよかったって
ヘルムートは深く一礼する。
はい。
私も
そう思います。
扉が閉まる。
応接室には、冷たい地下水路の匂いが残った。
蒼汰は真鍮の弁鍵を持ち上げる。
水を止める鍵。
止めないために、父が朝まで返さなかった鍵。
守
何だ
父さん
その夜って
浴場を掃除して
洗濯院で服を乾かして
地下水路を直して
朝に家の蛇口まで見に行ったんだよな
ああ
本当にいつ寝たんだ
洗濯院で少し
何分
……二十分くらい
それ、寝たって言わないだろ
目は閉じた
そういう問題じゃない
蒼汰は呆れながらも、少しだけ胸が苦しくなる。
父は誰かの朝を残すために、自分の夜を削った。
それを繰り返し。
誰にも助けを頼まず。
最後には、身体を壊した。
父の行動を美しいだけで終わらせてはいけない。
誰かを助けることと。
自分を使い潰すことは、同じではない。
蒼汰は頭の奥へ静かに言う。
父さん
何だ
俺が同じことしそうになったら
止めてくれ
守は少し黙った。
お前は私より
人へ頼めるだろ
今日、やっとな
それで十分だ
父の声は静かだった。
蒼汰は真鍮の鍵を机へ戻す。
休養室の方角から、かすかな音がした。
水差しへ水を注ぐ音。
エリオが目を覚ましたのかもしれない。
ミリアが喉を潤しているのかもしれない。
どちらでもいい。
この建物には今。
朝を待つための水がある。
冬城が弁鍵と旗を長卓へ運び、次の名簿を開いた。
蒼汰様
うん
次の方は
王都郵便逓送院の夜間仕分長です。
守様に
未配達として翌朝へ回す予定だった郵袋を、一袋だけ出発便へ戻されたご当人になります。
蒼汰は顔を上げる。
今度は手紙かよ
守が頭の奥で答える。
朝まで待たせると
間に合わない返事が入ってた
また順番を変えたのか
ああ
誰の手紙だったんだ
守は少しだけ間を置いた。
帰ってこい、と書かれた手紙だ
蒼汰は真鍮の弁鍵を見る。
父、奏多守は。
凍る夜にも朝の一杯を残したあと。
今度は、朝まで待てなかった一通の返事を。
出発してしまった郵便馬車へ、もう一度追いつかせた夜の話へ続いていった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
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