第53話 乾いた服を着るまで、夜は終わらない
共同浴場の総浴場監、ベアトリクスが去ったあとも、応接室には石鹸と湯気の匂いが残っていた。
蒼汰は机の上に置かれた丸い入浴札を見下ろす。
八十六番。
この人が上がるまで閉めるな。
父は浴場の閉場時刻を一刻延ばし、堤防補修に参加した八十六人全員を湯へ入れた。
だが、それで終わりではなかったらしい。
冬城が次の来客名簿を確認しながら言う。
次の方は、王都中央洗濯院院長
ヒルデガルト・ヴェーバー様です
守様に、乾燥炉を夜明けまで止めることを許していただけなかったご当人になります
蒼汰は少し眉を寄せた。
許していただけなかったって
父さんの方が偉いみたいな言い方だな
冬城が静かに答える。
実際には、ヒルデガルト様が三度停止を命じ
守様が三度、炉へ薪を足されたそうです
それは許さなかったんじゃなくて、命令無視だろ
守が頭の奥でぼそりと言う。
止めるには早かった
乾燥炉って、勝手に薪を入れていいものなのか
よくはない
分かっててやったのかよ
ああ
蒼汰が額を押さえたところで、応接室の扉が開く。
最初に入ってきたのは、温かな空気だった。
風呂場の湯気とは少し違う。
乾いた布。
熱せられた石。
煮沸した湯。
灰汁石鹸。
そして、夜通し燃やされた炉の匂い。
中央に立っていたのは、小柄な老女だった。
年齢は七十歳前後。
背は低く、身体も細い。
だが弱々しくは見えない。
曲がりかけた指は太く、手の甲には古い傷と火傷の痕が幾つも残っている。
何千枚もの布を水から引き上げ。
絞り。
干し。
乾き具合を確かめてきた手だった。
黒の礼装の上には、生成り色の肩布。
その端には、青い糸で水滴と炎の紋が刺繍されている。
後ろには若い洗濯院吏が二人。
一人は、大きな洗濯記録簿。
もう一人は、細長い鉄箱と、白灰色の旗包みを持っていた。
冬城が告げる。
王都中央洗濯院院長
ヒルデガルト・ヴェーバー様です
守様に
乾燥炉を夜明けまで止めさせてもらえなかったご当人になります
ヒルデガルトは蒼汰へ深く頭を下げた。
奏多蒼汰殿
私はヒルデガルト・ヴェーバー
王都中央洗濯院院長
そして、守殿に
濡れた服を山のまま朝へ渡すなと叱られた者です
蒼汰は一拍置いてから答えた。
父さん
洗濯物にまで口を出したんですね
ヒルデガルトは、わずかに目を細めた。
ええ
しかも、洗濯の専門家より
乾かす順番をよく分かっているような顔で
守が頭の奥で言う。
順番を間違えてたからな
父さん
その言い方で何人怒らせてきたんだよ
数えてない
数えた方がいいぞ
蒼汰は椅子へ座る。
ヒルデガルトも向かいへ腰を下ろした。
動きはゆっくりしている。
だが記録簿を開く手には迷いがなかった。
洗濯記録簿には、浴場から運ばれた衣類の数が細かく記されていた。
上着。
下着。
靴下。
手袋。
腰帯。
頭巾。
作業布。
泥除け。
毛織り外套。
合計、五百三十二点。
その横には、汚損度、洗浄回数、乾燥炉投入順、返却先が並んでいる。
一頁だけ、乾燥炉停止予定時刻へ太い斜線が引かれていた。
横には父の字。
服を脱がせて終わりにするな
朝、着て帰る物まで戻せ
蒼汰は紙面を見つめる。
間違いなく父さんだな
守が答える。
ああ
ヒルデガルトが静かに話し始める。
浴場から最初の衣類籠が届いたのは
本来の閉場時刻を過ぎたあとでした
泥水を吸った服が八十六人分。
外套は重く。
靴下からは水が滴り。
下着には冷たい泥が染み込んでいました。
中央洗濯院は、災害時の衣類洗浄も担います。
ですが、その夜はすでに
施療院から運ばれた寝具と包帯布の処理で限界に近かった。
乾燥炉は夜半で止める予定でした。
なぜ止める必要があったんですか
蒼汰が尋ねる。
炉石を休ませるためです
乾燥炉は、一日中燃やし続けられるものではありません。
熱が籠もりすぎれば炉壁が割れる。
煤道も掃除しなければ、火災の危険がある。
さらに翌朝には
施療院の寝具を乾かす必要がありました。
だから私は
泥を落として脱水まで行い
作業員たちの衣服は翌日の午後に乾燥させると決めました
合理的な判断だ。
洗ってあるなら、腐るわけではない。
作業員たちには宿場局から予備衣類も貸し出されている。
翌朝、借りた服のまま帰ることもできる。
だが父は、それを終わりと認めなかった。
守殿は
浴場の清掃を終えたあと、洗濯院へ来ました
泥だらけでした
蒼汰は思わず聞き返す。
父さんも?
はい
浴場の床掃除を手伝い
泥籠を運び
そのままこちらへ
私が作業員の衣服は翌日へ回すと説明すると
守殿は衣類籠の前へしゃがみ込みました
そして
一枚ずつ中を見始めた
何を確認してたんだ
蒼汰が胸の内で尋ねる。
守が答える。
服の種類
持ち主の印
乾くまでの時間
ヒルデガルトが記録簿の別頁を開く。
守殿は
八十六人の衣服を同じ洗濯物として見ませんでした
替えの服を持っている者。
宿場から借りた服で翌日も過ごせる者。
仕事道具を衣服へ縫いつけている者。
薬袋を内側へ入れている者。
身体に合う服がそれ一着しかない者。
事情が全て違う。
特に問題になったのは
北側の石工組でした
彼らは翌朝
崩れた堤防の確認へ戻る予定でした。
借り物の薄い衣服では、冬の現場へ出られない。
さらに老いた石積み職人は
左脚に木製の補助具を付けていました。
補助具を固定するための革帯が
濡れた作業服に縫いつけられていたのです。
蒼汰は、先ほど聞いた九十一歳の石積み職人を思い出した。
最後に浴場へ入った八十六番。
父が外套を脱がせ、入浴札を握らせた男。
あの人の服か
守が答える。
ああ
ヒルデガルトが頷く。
革帯を外して別の服へ付け直すこともできます。
ですが本人の身体に合わせて
何年も使い込まれた位置でした。
乾かさずに返せば革が縮む。
翌朝まで濡れたまま置けば、補助具を正しく固定できなくなる可能性がある。
守殿はその革帯を見て
この服は今夜乾かせと言いました。
私は断りました。
乾燥炉は止める。
炉壁を壊してまで、一着を乾かすことはできない。
すると守殿は言いました。
炉を壊せとは言ってない。
壊さずに朝まで回す方法を考えろ、と。
蒼汰は少しだけ顔をしかめた。
かなり無茶を言ってないか
ヒルデガルトの口元がわずかに動く。
無茶です。
ですから私は
専門家へ簡単に言うなと怒鳴りました。
守殿は謝りました。
謝ったのか
蒼汰は驚いた。
守が頭の奥で言う。
言い方は悪かったからな
珍しいな
私は必要なら謝る
その回数が絶対足りてないんだよ
ヒルデガルトは続ける。
ただし、謝ったあとも帰りませんでした。
炉番。
煙道掃除係。
石工。
洗濯吏。
その場にいた全員へ、朝まで炉を回す方法がないか尋ねた。
炉を一基だけ使う。
火力を半分まで落とす。
一刻ごとに燃焼室を切り替える。
煙道を途中で二度掃除する。
炉壁へ冷却水路を通す。
そして
全部を同時に行えば、壊さず夜明けまで動かせる可能性があると分かった。
父さんが考えたのか
半分は洗濯院の人間だ
守が答える。
私は聞いて
組み合わせただけだ
蒼汰は少しだけ目を細めた。
父は何でも自分一人で解決したわけではない。
現場の人間へ方法を聞き。
出てきた案を繋ぎ。
必要な順番へ並べ直した。
だがヒルデガルトは、まだ納得しなかったらしい。
問題は炉だけではありませんでした。
五百三十二点の衣服を
夜明けまでに全て乾かすことはできません。
そこで守殿は
乾燥順を変えろと言った。
最初に乾かしたのは
外套ではありません。
靴下と下着でした。
蒼汰は目を瞬いた。
小さい物から?
いいえ。
身体へ直接触れる物からです。
外套は多少湿っていても
その下が乾いていれば耐えられる。
ですが靴下と下着が濡れていれば
身体はすぐに冷える。
次に
革帯、手袋、頭巾。
最後に上着と外套。
そして同じ種類の中では
翌朝早く出る者から先に乾かした。
乾燥の早い物からではない。
それを着る時刻が早い者から。
蒼汰は記録簿を見る。
父の字で、衣類の横に時刻が書かれている。
夜明け前。
第一鐘。
第二鐘。
朝食後。
昼前。
洗濯物の乾燥表ではない。
八十六人が翌日、自分の生活へ戻る順番だった。
守殿は
洗った順に炉へ入れるなと言いました。
乾く順でもない。
着る順に乾かせ、と。
蒼汰は小さく息を吐いた。
本当にどこでも同じだ。
物の都合ではなく。
それを使う人間が、いつ必要とするか。
父はそこを見ている。
それでも
五百三十二点全部は無理だったんですよね
無理でした
ヒルデガルトは即答した。
夜明けまでに完全に乾いたのは
三百九十六点。
残りは半乾きでした。
守殿が失敗したと言えば
失敗です。
ですが
翌朝すぐに必要だった衣服は、全て間に合った。
石工たちは自分の作業服へ着替え。
補助具の革帯も元の位置へ戻り。
堤防確認へ向かいました。
残りの者も
朝食後、順に乾いた服を受け取った。
借り物の衣服を着たまま
名も知らない宿場から追い出された者は、一人もいませんでした。
蒼汰はその言葉に引っかかる。
追い出された者。
服が乾いていなければ、借り物で帰るしかない。
だがその服は、宿場の物だ。
いつか返さなければならない。
自分の服を受け取るまで、その人の災害は終わらないのかもしれない。
ヒルデガルトが静かに続ける。
守殿は言いました。
借り物を着せるのは保護だ。
自分の服を返すのは帰還だ、と。
蒼汰は目を閉じた。
また帰還だ。
門を通る。
名前を戻す。
温かい物を食べる。
眠る。
泥を落とす。
そして、自分の服を着る。
父にとって帰るという行為は、本当に細かい。
だが、その細かさがなければ。
助けられた者は、いつまでも助けられた時の格好のままだ。
自分の生活へ戻れない。
ヒルデガルトが細長い鉄箱を開く。
中に入っていたのは、黒い鉄製の鉤だった。
指ほどの長さ。
片側が曲がり、反対側には小さな番号札が付いている。
八十六。
これは乾燥炉の吊り鉤です。
あの夜
八十六番の衣服を吊るした物になります。
炉の中へ入れる物なので
表面は黒く焼けています。
父さん
これ覚えてるか
守が答える。
ああ
何で
何度も落ちたからだ
ヒルデガルトが眉を上げる。
やはり守殿は
この鉤を覚えておられますか
はい
何度も落ちたからって
ヒルデガルトの表情に、初めてはっきりとした笑みが浮かんだ。
守殿が衣服を掛けるたび
重さの配分を間違えて落とされました。
三度です。
頭の奥で守が言う。
二度だ
三度だそうだぞ
最後の一度は、掛け直しただけだ
落ちたんだろ
少し滑った
それを落ちたって言うんだよ
ヒルデガルトは小さく笑いながら、吊り鉤を蒼汰の前へ置く。
この鉤は
専門外の者が現場へ手を出した証でもあります。
同時に
口だけ出して帰らなかった証でもある。
守殿は夜明けまで残りました。
薪を運び。
煙道掃除の灰を受け。
衣服を吊るし。
落とし。
また吊るし。
そして最後に
八十六番の衣服が乾いたことを確認してから、床で眠りました。
床で?
はい。
乾燥炉前の長椅子は
夜勤の洗濯吏へ譲ったためです。
守が頭の奥でぼそりと言う。
暖かかったから問題ない
問題あるだろ
服を乾かす炉の前だ
寒くはない
そういうことじゃない
蒼汰は額を押さえた。
父は誰かの寝床を作る。
そのくせ、自分は床で寝る。
共同浴場では他人を先に湯へ入れ。
洗濯院では他人の服を先に乾かす。
本当に最後まで、自分の順番だけは後ろへ置く。
ヒルデガルトが白灰色の旗包みを開く。
王都中央洗濯院旗。
白灰色の地に、青い水滴。
中央には白い布。
その背後に赤い炎。
本式の日。
中央洗濯院では
この旗を半旗とします。
そして乾燥炉を一基だけ
夜明けまで燃やします。
ただし、無意味に空で燃やすことはしません。
王都十二宿。
施療院。
児童保護院。
夜間作業所。
そこから
翌朝までに必要な洗濯物を集めます。
料金は取りません。
着る時刻の早い者から乾かし。
夜明けまでに返します。
守殿が変えた順番を
一夜だけ再現するためです。
蒼汰は旗を見つめた。
弔意を示すために、ただ炉を燃やすのではない。
実際に誰かの衣服を乾かす。
父なら、確かにその方を喜ぶだろう。
守が頭の奥で言う。
空焚きは燃料の無駄だからな
やっぱりそこなんだな
大事だ
ヒルデガルトは最後に、一枚の紙片を差し出した。
父の字。
濡れた服を脱がせるのは救助
乾いた服を貸すのは保護
自分の服を返して、やっと明日へ戻せる
蒼汰は紙を見つめたまま、しばらく黙った。
エリオは今、借りた寝巻きを着て眠っている。
彼が境界へ落ちた時の服は破れ、泥と血に汚れていた。
洗えるのか。
乾かせるのか。
もう着られないのか。
まだ分からない。
だが、本人の持ち物を勝手に捨てるべきではないと思った。
白い道で十八年を一緒に過ごした服だ。
ただ汚れた布ではない。
蒼汰はヒルデガルトへ尋ねる。
帰還した子どもの服があるんです
十八年前に境界へ落ちて
今日、戻ってきました
破れていて
かなり汚れています
洗えますか
ヒルデガルトの表情が変わる。
驚きはした。
だが、詳しい事情を問い返さなかった。
まず確認したのは、もっと現実的なことだった。
血液や体液に
未知の感染性はありますか
現在、医療班が調べています
では、安全確認が取れるまで封印保管。
確認後
繊維の状態を見て、洗浄方法を決めます。
着られなくても構いません。
布片として残すことも。
別の服へ縫い込むことも。
母上へ返すこともできます。
本人へ選んでいただきます。
勝手には処分しません。
蒼汰は静かに頷いた。
お願いします
承知しました
ヒルデガルトが深く一礼する。
その服は
エリオ様が帰還時に持ち帰った、数少ない物の一つなのでしょう。
汚れを落とすことと
過ごした時間を消すことは違います。
残すべき痕まで、洗い流さないようにいたします。
蒼汰は胸の奥が少し軽くなった。
洗濯院長だからこそ言える言葉だった。
父はこういう人々へ頼めばよかったのだ。
一人で何でも抱えず。
服は洗濯院へ。
薬は薬庫へ。
道は地図師へ。
門は関門官へ。
頼れば、皆それぞれの方法で続きを考えてくれる。
守
何だ
エリオの服
この人に頼むからな
ああ
捨てなくていいよな
本人が決めることだ
だよな
蒼汰は吊り鉤と旗、紙片を見てから頭を下げた。
預かります
ありがとうございます
ヒルデガルトは立ち上がる。
去る前に、棺の方角へ顔を向けた。
守殿。
あなたは洗濯院で
三度も衣服を床へ落としました。
守が頭の奥で即座に言う。
二度だ
父さんは二度だって言ってます
ヒルデガルトは表情を変えなかった。
三度です。
二度だ
三度だって
最後は滑っただけだ
最後は滑っただけだそうです
滑って床へ落ちたので、三度です。
守が黙る。
蒼汰は少し笑った。
ヒルデガルトは続ける。
ですが四度目は
きちんと吊るせました。
ですから
最終的には合格としておきます。
守がぼそりと答える。
ありがとう
蒼汰が伝える。
ありがとうって
ヒルデガルトは深く頭を下げた。
こちらこそ。
あの夜
炉を止めなくてよかった。
八十六人が
自分の服を着て出ていく姿を見て。
私は初めて
洗濯院も人を帰す場所になれると知りました。
扉が閉まる。
応接室には、乾いた布と炉の匂いが残った。
蒼汰は黒い吊り鉤を持ち上げる。
八十六。
同じ番号の入浴札と。
同じ人の衣服を吊るした鉤。
父が閉場時刻を一刻延ばした夜は、浴場で終わらなかった。
泥を落とし。
身体を温め。
乾いた借り物へ着替えさせ。
その間に、自分の衣服を洗い。
乾かし。
翌朝、本人へ返す。
そこまでやって、ようやく人は災害の夜から自分の生活へ戻れる。
冬城が吊り鉤と旗を長卓へ運ぶ。
蒼汰様
うん
エリオ様の衣服について
医療班へ安全確認を依頼しておきます
お願いします
また
ご本人がお目覚めになってから
処理方法について確認いたします
うん
勝手に決めないであげて
承知しました
蒼汰は椅子へ深く座り直す。
少しだけ休みたい。
そう思った時。
休養室の方角から、小さな足音が聞こえた。
扉の外で、看護師クララの声。
エリオ様
まだお一人で歩いてはいけません
でも
そうたに、みせる
次にミリアの声。
エリオ
急いではいけません
扉が少し開く。
乾いた寝巻き姿のエリオが、クララに支えられながら顔を覗かせた。
胸には木笛。
手には、小さな布切れを握っている。
起きたのか
蒼汰が立ち上がる。
エリオは頷いた。
……そうた
何だ
これ
差し出された布切れは、服の一部だった。
汚れ。
破れ。
端には、小さな刺繍。
ミリアが息子の後ろから説明する。
エリオの上着の内側に
縫いつけてあった物です。
私が昔
名前の代わりに付けた刺繍です。
布には、拙い糸で星が一つ縫われていた。
エリオはそれを蒼汰へ見せる。
……あらっても
なくならない?
蒼汰は少しだけ笑う。
大丈夫。
消しちゃいけない痕は
残して洗ってくれる人が来てくれた。
エリオは布を見下ろす。
……ゆうしゃさまの
ともだち?
知り合いだな
守が頭の奥でぼそりと言う。
三度も怒られた相手だ
二度じゃなかったのかよ
怒られたのは三度だ
そこは三度なんだな
エリオが不思議そうに蒼汰を見る。
なんて?
何でもない。
すごく腕のいい人だから、任せて大丈夫だ。
エリオは布切れを胸へ抱き、静かに頷いた。
蒼汰はようやく理解した。
父が服を乾かすところまで見届けた理由を。
服は、ただ身体を覆う物ではない。
名前。
仕事。
暮らし。
家族が縫った小さな星。
その人が、それまで生きてきた場所の一部だ。
だから父は。
借り物を着せて終わりにはしなかった。
父、奏多守にとって夜が終わるのは。
救われた者が、誰かの用意した服を着た時ではない。
自分の痕が残る服を取り戻し。
もう一度、自分の明日へ歩き出せるようになった時だった。
冬城が次の弔問者名簿へ目を落とす。
蒼汰様。
次の方は
王都水道局の冬期水守長です。
守様に
凍結防止のため閉じる予定だった給水弁を、一系統だけ閉じさせてもらえなかった方になります。
蒼汰は小さく息を吐いた。
今度は水かよ
守が頭の奥で答える。
朝、飲む水がなくなる家があった
また閉じる順番の話か
ああ
蒼汰は机の上の黒い吊り鉤を見る。
父の葬儀には。
門を開けられた者。
灯を残された者。
湯を止めなかった者。
炉を燃やし続けた者。
そして次には。
凍る夜でも、一軒だけ水を止めなかった者が待っていた。




