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父、奏多守はほら吹きではなかった  作者: てへろっぱ


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52/103

第52話 閉場時刻より、湯から上がる時刻



応接室の扉が開く前から、蒼汰には次の客が何を管理する人なのか分かった。


湯気と石鹸の匂いがした。


ほんの少しだけ、薪の煙も混じっている。


病院の清潔な匂いとは違う。

家の風呂とも違う。

大勢の人間が順番に泥と汗を落とし、濡れた髪のまま笑いながら帰っていく、大きな共同浴場の匂いだった。


中央に立っていたのは、肩幅の広い女だった。


年齢は六十代前半ほど。

背は平均より少し高く、腕が太い。

黒の礼装をまとっているが、袖口から覗く手には細かな火傷の痕がいくつもあった。

湯を沸かす釜。

熱い配管。

濡れた石床。

そういうものを長年扱ってきた人間の手だった。


髪は白く短い。

化粧はほとんどしていない。

表情は厳しいが、目元だけは人が湯から上がるまで見届ける者の柔らかさがあった。


後ろには若い浴場吏が二人。


一人は分厚い入場簿を抱え。

もう一人は丸い木箱と、淡い青緑色の旗包みを持っている。


冬城が告げる。


王都共同浴場局総浴場監

ベアトリクス・ホルン様です


守様に

中央共同浴場の閉場時刻を一刻、勝手に延ばされたご当人になります


ベアトリクスは蒼汰へ深く一礼した。


奏多蒼汰殿


私はベアトリクス・ホルン

王都中央共同浴場の総浴場監


そして守殿に

時計を見て湯を止めるな

最後の泥を見て釜を止めろと叱られた者です


蒼汰は一拍置いてから、頭の奥へ問いかけた。


父さん

また時計を無視したのか


守がぼそりと答える。


無視はしてない

一刻ずらしただけだ


閉場時刻を勝手にずらすのを、普通は無視って言うんだよ


必要だった


もう聞く前から分かってきたよ


蒼汰は椅子へ座る。


ベアトリクスも向かいへ腰を下ろした。


大柄な身体だが、動作は静かだった。

濡れた床で誰かを驚かせない歩き方が、身体に染みついているのだろう。


机の上へ入場簿が置かれる。


利用者区分。

入場時刻。

湯温。

薪残量。

清掃開始。

閉場確認。


最後の頁だけ、閉場の印が二つ押されていた。


一つ目は本来の時刻。


その上へ太い斜線。


一刻後に、もう一つの閉場印。


斜線の横には父の字が残っていた。


泥の列がまだ外にいる

湯を抜くな


蒼汰は小さく息を吐く。


間違いなく父さんだな


守が答える。


ああ


ベアトリクスが静かに話し始める。


あれは南堤防が崩れた夜でした


河川そのものは市街地まで達しませんでしたが

堤防補修のため、工兵、石工、荷運び人、近隣住民が総出で土嚢を積みました


雨。

冷たい泥。

腰まで水に入り続けた者もいます。


堤防は夜半前に持ちこたえました


負傷者は施療院へ

重症者は優先的に洗浄室へ運ばれた


問題は

怪我をしていない者たちでした


蒼汰は何となく先が分かった。


自力で歩ける。

話せる。

仕事も終えた。


だから後ろへ回された。


ベアトリクスが頷く。


その通りです


守殿も

同じことを申しました


まだ倒れていない者ほど

自分から風呂を後へ回す、と


中央共同浴場は

災害時に限り、作業員の洗浄所として使われます


ですが湯量にも薪にも限界がある。


本来の閉場時刻までに入れなかった者は

外の洗い場で泥だけを流し

各自の宿舎へ戻る予定でした


その人数、八十六名。


全員が濡れていた。


表面の泥だけではありません。

靴の中。

下着。

髪。

爪の間。


冷たい水と泥を吸った服のまま

長時間働いていた。


蒼汰は衣料係アンネリーゼの話を思い出した。


濡れた背中は後で乾かない。


父が似た状況を見逃すはずがない。


守殿が浴場へ来た時

私はすでに閉場準備を始めていました


浴槽の一部は排水。

清掃班も入場。

釜番は残り薪を翌朝分として分けていた。


守殿は外に並ぶ八十六名を見て

私へ尋ねました


あれは全員、湯に入った後か、と


私は答えました


入れなかった者です

泥は外で落とします

今夜の営業は終了です、と


すると守殿は時計を見ました


そして言ったのです


閉場したのは帳簿だけだ

外の列は、まだ今日の仕事を終えていない、と


蒼汰は額を押さえた。


本当に言いそうだ


実際に言った


守が頭の奥で訂正する。


分かってるよ


ベアトリクスの口元が、ほんの少しだけ上がる。


私は反論しました


湯が足りない。

薪も翌朝分へ手をつけることになる。

清掃班の勤務も延びる。

浴場の床へ大量の泥が入れば、翌朝の開場に間に合わない。


守殿は全て聞きました。


そのうえで

まず外の服を脱がせろと言った


蒼汰は目を瞬いた。


いきなり?


はい


かなり現場的な意味で


浴場入口の荷車布を仕切りにし

男女別の臨時脱衣所を作らせた


泥だらけの服を浴場内へ持ち込まず

入口で脱がせ

洗浄籠へ入れる


次に

浴槽へ入れる前に、足と腰だけ外湯で流す


それから八十六名を

十二人ずつ、短時間で湯へ入れる


髪を洗う者。

身体を温める者。

擦り傷を確認する者。


目的を分ければ

一人あたりの入浴時間を短くできる、と


父さん

風呂まで回転率を計算したのか


冷え切ったやつを

長湯させる方が危ないからな


そういう知識どこで覚えたんだよ


いろいろだ


またそれか


ベアトリクスは続ける。


薪については

祭り用に乾燥させていた香木を使おうとしました


私は止めました


香木は儀礼用です

浴場の釜へ入れる物ではない


守殿は香木の箱を見て

燃えるか、とだけ聞きました


燃えます


なら今夜は薪だ、と


蒼汰はもう驚かなかった。


王府来賓席の膝掛けを毛布にした父だ。

儀礼用の香木を風呂の薪へ変えるくらい、普通にやるだろう。


怒られただろ


翌日

礼楽院から抗議が来ました


何て答えた


湯気になりました、と


最低の回答だな


守が少し考える。


事実だ


そういう問題じゃない


ベアトリクスは小さく笑った。


最終的に礼楽院も

堤防を守った者へ使われたならと、抗議を取り下げました


ただし

守殿を今後、香木庫へ近づけるなという注意書きが追加されました


正しい判断だと思う


蒼汰が言うと、頭の奥で守が不満そうに黙った。


それで全員、入れたんですか


はい


閉場を一刻延長。


八十六名全員が泥を落とし。

短時間ですが湯へ入り。

乾いた布で身体を拭き。

中央宿場局から借りた予備衣類へ着替えました。


洗い終えた濡れた服は

夜通し乾燥室へ。


浴場の清掃は

守殿自身も手伝いました


蒼汰は顔を上げる。


父さんが?


守が頭の奥で答える。


泥を入れた原因は、こっちだからな


珍しく責任取ってる


いつも取ってる


勝手に動かして、あとで働くのを責任って言うのか?


少なくとも逃げてはいない


それは、そうかもしれない。


父は順番を変える。


だが変えたあとの面倒を、現場だけへ押しつけて消える人ではなかった。


浴場の床を洗い。

泥を運び。

薪を足し。

朝の開場へ間に合うよう、最後まで残ったのだろう。


ベアトリクスが入場簿の別頁を開く。


こちらが

その夜の体調確認記録です


入浴前、強い震えがあった者。

唇の色が悪かった者。

手指の感覚を失っていた者。


八十六名のうち、十九名。


湯へ入れず帰していれば

少なくとも数名は、宿で倒れていた可能性があります


守殿は

浴場を清潔にするための場所ではなく

仕事を終えた身体を、夜へ返せる状態に戻す場所だと言いました


蒼汰は休養室の方角を見る。


エリオも、泥と埃にまみれて帰ってきた。


診察が優先されたため、まだ風呂には入っていない。


眠った後。

身体が安定したら。

きっと温かい湯へ入るのだろう。


十八年間、白い道で身体へ積もったものを落とせるかは分からない。


それでも最初の一夜の汚れくらいは、温かい湯で流してやりたいと思った。


ベアトリクスが丸い木箱を開ける。


中に入っていたのは、小さな木製の入浴札だった。


丸い札。

表には中央共同浴場・最終入場と刻まれている。


裏側には、父の字。


八十六番

この人が上がるまで閉めるな


蒼汰は札を持ち上げた。


最後の人の?


はい


堤防補修へ参加した

老いた石積み職人の入浴札です


七十歳を超えており

若い者を先に入れ、自分は最後まで外に残っていた


守殿が本人の外套を脱がせ

札を手に握らせて、中へ押し込みました


本人は、自分は水を浴びるだけでよいと言ったそうです


守が頭の奥で言う。


震えて札を持ててなかった


だから父さんが持たせたのか


ああ


ベアトリクスは頷いた。


あの方が湯から上がった時

日付はすでに変わっていました


それでも守殿は、入場簿へ前日の最後として記録させた


この人の一日は

まだ終わっていない、と


蒼汰は木札を見る。


時計の上では次の日。


だが身体はまだ、冷たい泥の中に残っていた。


その人が湯へ入り。

身体を温め。

乾いた服へ着替えるまで。


父は前日を閉じなかった。


こんな大事な物を、もらっていいんですか


あの石積み職人から、お預かりしました


本人も本日参る予定でしたが

九十一歳になり、長旅は難しい


ですので私が、代わりに持参しました


伝言もございます


ベアトリクスは姿勢を正す。


あの夜は

生きて帰ったのではない


守殿に

人間の身体へ戻してもらってから帰った


最後の湯を

忘れていない


蒼汰はしばらく何も言えなかった。


父が大げさに英雄扱いされるたび、少し居心地が悪い。


だがこういう言葉は、妙に胸へ残る。


国を救ったのではない。


人間の身体へ戻してから、家へ帰した。


父がやっていたことは、きっとそういうものなのだ。


ベアトリクスが旗包みを開く。


淡い青緑色の旗。


湯気を表す白い曲線。

中央に浴槽。

その下には火を示す赤い刺繍。


王都共同浴場局旗だった。


本式の日

王都の全共同浴場は、この旗を半旗とします


また通常の閉場時刻後

一刻だけ、湯を残します


入場料は不要。


仕事帰り。

旅の途中。

葬儀の手伝い。

警備。

運搬。


理由は問いません。


その一刻に来た者がいる限り

最後の一人が湯から上がるまで、栓を抜きません


蒼汰は少しだけ眉を上げた。


でも毎回それをやったら

働く人が大変じゃないですか


その通りです


ベアトリクスは即答した。


ですので本式の日だけです


守殿は、全ての閉場時刻をなくせとは言わなかった


必要な夜に

最後の一人がまだ外にいるなら

時計よりそちらを見ろと言ったのです


私たちも

一夜だけ、その順番へ戻します


冬城が旗を丁寧に受け取る。


蒼汰は木札と、父の書いた紙片を見る。


そこには短く記されていた。


泥は仕事の証じゃない

冷えたまま帰す理由にもならない

湯へ入れて、乾かしてから帰せ


蒼汰は小さく笑った。


家でも言ってたな


ベアトリクスが目を細める。


何と?


雨に濡れて帰ると

玄関で立ち止まるな

先に風呂へ行けって


服とか鞄とか

床が濡れるのは後でいいから

とにかく入れって言われてました


頭の奥で守が言う。


風邪をひくからな


でも父さん

自分は濡れたまま居間にいたよな


着替えが後だっただけだ


人にはすぐ入れって言うくせに


ベアトリクスの目元が、少しだけ和らいだ。


守殿は

ご自身を湯へ入れる順だけは、いつも後ろだったのでしょう


蒼汰は返事をしなかった。


たぶん、その通りだ。


父はいつも誰かを先に入れた。


食事も。

門も。

寝床も。

風呂も。


その結果、自分の番がなくなっても気にしない。


それは美談だけではない。


父が誰にも頼れなかった理由と、同じ悪癖でもある。


蒼汰は木札を机へ戻し、ベアトリクスへ頭を下げた。


預かります


ありがとうございます


それと

九十一歳の石積み職人の方へ伝えてください


はい


父さんの息子が

話を聞きましたって


ベアトリクスは深く頷いた。


必ず


彼女は立ち上がる。


扉へ向かう前に、棺の方角へ身体を向けた。


守殿


あなたが延ばした一刻のせいで

私は翌朝、浴場吏全員から散々叱られました


守が頭の奥でぼそりと言う。


悪かった


蒼汰はそのまま伝える。


悪かったって言ってます


ベアトリクスは鼻で小さく笑った。


遅すぎます


ですが

八十六名全員が自分の足で帰ったので

仕方なく許します


守が少しだけ黙った。


それから。


ありがとう


父の声が返る。


蒼汰は今度も、そのまま伝えた。


父さんが

ありがとうって


ベアトリクスは何も言わなかった。


ただ一度だけ、深く頭を下げた。


扉が閉まる。


応接室に湯と石鹸の匂いだけが残った。


蒼汰は丸い入浴札を持ち上げる。


八十六番。


この人が上がるまで閉めるな。



何だ


エリオ

起きたら風呂へ入れた方がいいかな


医師に聞け


珍しく勝手に決めないんだな


帰還直後だ

体温と時間差を見てからだ


分かってるじゃん


当たり前だ


父の返事が少し不機嫌になる。


蒼汰は小さく笑った。


冬城が入浴札と旗を長卓へ運ぶ準備を始める。


少しだけ静かになった応接室で、蒼汰は椅子の背へ身体を預けた。


次から次へと、父が誰かを夜の内側へ押し込んだ話が続いている。


それでも今日は、さっきまでとは少し違う。


すでに一人、帰ってきた少年がこの建物で眠っている。


次に目を覚ました時。

温かい食事があり。

母親がいて。

風呂も用意される。


父が何度も作ってきた夜の終わり方を、今度は蒼汰たちがエリオへ用意していた。


冬城が次の名簿を確認する。


蒼汰様


うん


次の方ですが


守様に

王都洗濯院の乾燥炉を夜明けまで止めさせてもらえなかった洗濯院長です


蒼汰は顔を上げた。


風呂の次は洗濯かよ


守が頭の奥で答える。


濡れた服を朝まで山にするなって話だ


さっき宿場で夜通し服を乾かしたって言ってたな


同じ夜だ


話が繋がるのか


ああ


蒼汰は少しだけ姿勢を正した。


父、奏多守が閉場時刻を一刻延ばした夜。


それは、八十六人を湯へ入れて終わった夜ではなかった。


彼らが脱いだ冷たい服を。

翌朝もう一度着られる状態へ戻すまで。


父にとって、その一日はまだ終わっていなかった。


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