第51話 野宿欄を一夜だけ消した男
エリオとミリアが休養室へ移ったあとも、広間には温かな空気が残っていた。
厨房から運ばれた薄粥の匂い。
乾いた寝巻きを包んでいた石鹸の匂い。
通信門が閉じたあとに残る、わずかな冷気。
そして、父の棺の前へ置かれた木笛の代わりに、小さな空間が一つだけ空いている。
木笛は、持ち主の手へ戻った。
父が十八年間保管していたものが、ようやく持ち主と一緒に帰ったのだ。
蒼汰はその空白を見ながら、少しだけ息を吐いた。
守
何だ
エリオ、ちゃんと眠れそうか
医療班が見てる
母親も一緒だ
大丈夫だろう
大丈夫って言い切るの珍しいな
条件が揃ってるからな
温かい飯。
乾いた服。
母親。
寝床。
見張る人間。
父にとっては、それでようやく大丈夫と言えるらしい。
冬城が静かに近づいた。
蒼汰様
次の方をお通ししてもよろしいでしょうか
うん
お願いします
疲労が強いようでしたら、少し休憩を
蒼汰は応接室へ続く扉を見る。
正直、疲れていた。
父の秘密を知り。
十八年前の声を聞き。
境界の道から子どもを引っ張り出し。
世界の王や魔王や吸血鬼に手伝ってほしいと頭まで下げた。
一晩の出来事としては、完全に多すぎる。
それでも、まだ列には人がいる。
父へ会うため、遠い国や別の世界から来た人々が。
それに次の相手は、行旅人名簿の野宿欄を一夜分すべて潰された宿場司だ。
エリオを眠らせる場所まで確認した直後に聞く話としては、確かに順番が悪くなかった。
大丈夫
続けます
承知しました
応接室へ入る。
今度の部屋の空気には、乾いた藁と木の床、煮込み料理、雨に濡れた外套の匂いが混じっていた。
宿場。
人が一夜だけ身体を置き、朝になればまた出ていく場所の匂いだ。
中央に立っていたのは、太った男だった。
年齢は六十代前半ほど。
背は高くないが、肩幅も腹回りも大きい。
ただし動きは鈍くなかった。長く宿場の客室と馬房と炊き出し鍋を見回り、空き寝台を頭の中で組み替えてきた人間の身軽さがある。
黒の礼装の上へ、焦げ茶色の肩掛けをまとっている。
胸元には家と道を組み合わせた銀の徽章。
髪はほとんど白いが、口髭だけはまだ濃い灰色だった。
後ろには若い宿場吏が二人。
一人が大きな帳簿を抱え。
もう一人が細長い木箱と、茶褐色の旗包みを持っている。
冬城が告げる。
王都行旅人宿場局総宿場司
マティアス・ヘルマン様です
守様に
行旅人名簿の野宿欄を一夜分、すべて潰されたご当人になります
男――マティアスは、蒼汰へ深く頭を下げた。
奏多蒼汰殿
私はマティアス・ヘルマン
王都と周辺十二宿を管理する総宿場司
そして守殿に
宿のない者を宿のないまま数えるなと叱られた者です
蒼汰は一拍置いてから答えた。
父さん
本当にどこへ行っても帳簿を直してますね
マティアスの口髭が、ほんの少しだけ上がる。
ええ
しかも、だいたい翌朝の集計を考えない直し方をされました
守が頭の奥でぼそりと言う。
翌朝まで生きてれば数え直せる
もう言いそうなこと分かってきたよ
蒼汰は冬城に促され、椅子へ座る。
マティアスも向かいへ腰を下ろした。
大柄な身体なのに、椅子を軋ませない。
宿の家具を壊さない座り方まで身についているらしい。
机の上へ大きな帳簿が置かれる。
革表紙には、王都行旅人冬期受入記録と刻まれていた。
マティアスが頁を開く。
宿場名。
部屋数。
寝台数。
厩舎空き。
食事提供数。
支払能力。
滞在許可。
野宿。
最後の欄だけが、太い黒線で何十人分も消されている。
その横に父の字があった。
外で寝かせた人数を記録する前に
中へ詰められる人数を数え直せ
蒼汰は目を細めた。
父さんの字だ
守が答える。
ああ
また勝手に?
かなり
本人が認めるくらいかよ
マティアスが静かに話し始める。
あれは、王都冬至祭の前夜でした
祭りには多くの旅人が訪れます
商人
職人
巡礼者
見世物師
故郷へ帰る途中の者
例年であれば、宿場局は人数を予測し
臨時寝台も用意します
ですがその年は
北街道が雪崩で三日閉じた後、一度に開通した
足止めされていた旅人が
予定より遅れて、まとめて王都へ到着したのです
宿場は満員。
民営宿も。
寺院宿も。
商人組合の仮眠所も。
馬房の上にある簡易寝台まで埋まった。
なお百十二名に寝る場所がなかった。
蒼汰は眉を寄せた。
冬だったんですよね
はい
夜間最低気温は、凍結危険域まで下がる予報でした
それでも話せるし、歩ける。
怪我人でも病人でもない。
だから緊急保護の優先順位には入らない。
父が最も嫌う種類の人々だ。
まだ倒れていないから、後ろへ回される者。
マティアスの太い指が、帳簿の野宿欄をなぞる。
宿場局には決まりがありました
宿泊能力を超えた行旅人は
防風壁沿いの指定野宿区へ案内する
火鉢と藁を貸し出し
翌朝、空いた宿へ順次移す
平年なら、それで大きな事故は起きません
ですがその夜は、凍雨でした
雪より厄介です
衣服が濡れ。
藁も湿り。
火鉢の熱が身体まで届かない。
それでも帳簿上は、百十二名を野宿欄へ入れれば処理が終わる。
守殿が来たのは
私が最後の人数を記録していた時でした
本来は祭りの警備経路を確認するため、宿場へ立ち寄っただけだったそうです
守殿は野宿欄を見て
最初にこう言いました
これは寝る場所のない人数か
それとも、お前たちが寝かせるのを諦めた人数か
蒼汰は小さく息を吐いた。
本当に父だ。
私は反論しました
寝台がない
部屋もない
空きがない以上、野宿以外に方法はない
すると守殿は
宿場の中を一巡させろと言いました
私は忙しいと断った
そこで守殿は
一人で勝手に見て回ったのです
また勝手に
はい
いつものように
守が頭の奥で言う。
許可を待つと夜になる
もう夜だったんだろ
もっと遅くなる
マティアスは別の図面を広げた。
宿場全体の平面図だった。
客室。
食堂。
厨房。
荷物庫。
会計室。
集会所。
馬具倉庫。
廊下。
階段下。
洗濯室。
職員休憩室。
ところどころへ、父の字で数字が書き込まれている。
食堂長椅子、二十四。
集会所床、三十一。
会計室、八。
荷物庫整理後、十九。
廊下壁際、十五。
職員休憩室、六。
空き馬具棚撤去後、十一。
蒼汰は計算した。
百十四。
野宿予定者より二人多い。
父さん
宿場の中に寝かせる場所、あったんじゃないか
守が答える。
寝台はなかった
床はあった
ああ
マティアスが頷く。
守殿は
宿泊できる場所ではなく
夜を越せる場所を数え直したのです
食堂は食事のため。
集会所は催事のため。
荷物庫は荷物のため。
会計室は仕事のため。
だから宿泊能力には含まれない。
ですがその夜だけは
どの用途より、人が凍らず朝を迎える方が先だと言った
私は反対しました
食堂へ寝かせれば、朝の営業が遅れる
荷物庫を空ければ、荷物管理が崩れる
職員休憩室まで使えば、夜勤者が休めない
守殿は
全部聞いた上で頷きました
それから何て?
蒼汰が尋ねる。
マティアスの口髭が、わずかに揺れた。
朝の営業は遅らせろ
荷物は一度廊下へ出せ
夜勤者は交代で椅子を使え
苦情は私の名前で受ける
今夜だけ
建物の用途を、人間より上に置くな
蒼汰は何も言えなかった。
父は宿場の規則を壊したのではない。
食堂も荷物庫も会計室も。
本来の役目を一夜だけ後ろへ回した。
人が朝まで生きるという役目を、先頭へ置いた。
でも
毛布や藁は足りたんですか
足りませんでした
マティアスは即答した。
守殿は次に
祭りの装飾布を外しました
蒼汰は目を瞬く。
装飾布?
冬至祭用に
街路と宿場へ飾る厚手の布です
祭りの紋章が刺繍されており
本来、人へ掛ける物ではありません
守殿はそれを全部下ろさせた
さらに
屋台用の敷布
馬車の予備覆い
演舞場の幕
王府来賓席の膝掛けまで集めた
王府の物まで?
はい
怒られなかったんですか
かなり
守が頭の奥でぼそりと言う。
翌朝な
どうしたんだよ
事情を説明した
それで済んだのか
祭りの責任者も
野宿者が出るよりはましだと言った
マティアスが少しだけ笑った。
正確には
守殿に先に使われてしまったため、そう認めるしかなかったのです
父さんらしいな……
百十二名は、全員建物の中へ入りました
寝台ではありません
床です
長椅子です
荷物を寄せた隙間です
快適とは言えない
ですが濡れた外套を脱ぎ
温かい汁を一杯飲み
乾いた布を掛け
壁と屋根のある場所で眠れた
翌朝
低体温で倒れた者は一人もいませんでした
部屋が静かになる。
蒼汰はエリオが移された休養室の方角を思う。
乾いた寝巻き。
温かい薄粥。
母親。
寝台。
父なら、あそこまで見届けてようやく帰還完了と言う。
だから宿場でも、門まで来た百十二人を外で寝かせられなかったのだろう。
マティアスは木箱を開けた。
中には、小さな木札が入っていた。
表には、冬至祭臨時野宿区と刻まれている。
だが野宿という二文字の上へ、黒い墨線が引かれていた。
裏側には、父の字。
第一宿場内仮泊
床でも屋根は屋根
蒼汰は木札を手に取る。
これは、その夜の野宿者を案内するための区画札です
本来なら防風壁へ掛ける予定でした
ですが守殿が野宿欄を潰したため、使われませんでした
代わりに裏へ文字を書き
宿場入口へ掲げられた
外へ向ける札が
中へ入れる札になったのです
そんな大事なものを
はい
マティアスは大きく頷く。
守殿は勲章より
使わずに済んだ野宿札の方がお好きでしょう
守が頭の奥で言う。
別に好きではない
でも勲章よりは?
それよりはましだ
だって
蒼汰が伝えると、マティアスは声を上げずに笑った。
やはり
茶褐色の旗包みが開かれる。
中から現れたのは、王都行旅人宿場局旗だった。
焦げ茶色の地に、銀糸で屋根、道、湯気の立つ器が刺繍されている。
本式の日
王都十二宿はこの旗を半旗とします
また全宿場の食堂を
一刻だけ通常営業から外します
その間
旅券も支払能力も問わず
訪れた者へ温かい汁と座る場所を提供します
なぜ一刻だけ?
蒼汰が尋ねる。
宿場は営業を続けなければなりません
全てを止めれば
翌日に寝る場所を失う者が増える
守殿は制度を壊したのではない
必要な夜だけ、順番を変えた
ですから私たちも
一刻だけ順番を変えます
蒼汰は旗を見る。
これまでの弔問客たちも同じだった。
ずっと無料にするわけではない。
全ての規則を廃止するわけでもない。
ただ、その夜に凍える人間がいるなら。
その一人を内側へ入れるため、先に動かせるものを動かす。
マティアスは最後に一枚の紙を差し出した。
父の字だった。
宿は寝台の数じゃない
朝まで人を外へ出さないための建物だ
床があるなら、まだ満員じゃない
蒼汰は少しだけ笑う。
言い方が極端なんだよ
守が答える。
間違ってはいない
食堂まで全部寝床にされたら、宿場の人は困るだろ
一夜だけだ
その一夜が毎回来るから、皆困ってるんじゃないのか
守は答えなかった。
蒼汰は木札と旗、紙を見てから、ゆっくり頭を下げた。
預かります
ありがとうございます
マティアスも立ち上がり、深く礼をする。
去る前に、一度だけ棺の方角を見た。
それから蒼汰へ向き直る。
守殿は
ご家庭でも、客を外へ帰すのが苦手な方だったのではありませんか
蒼汰は少しだけ目を瞬く。
どうして分かるんですか
泊まる予定のない者にも
寝る場所を作る癖がある方でしたので
蒼汰は記憶を探る。
父の知人が、突然家へ来た夜。
母はあまり驚かなかった。
押し入れから布団を出し。
父は居間の机を端へ寄せていた。
誰が来たのかも。
何の用だったのかも。
蒼汰はほとんど覚えていない。
ただ翌朝、居間で知らない人が寝ていることは何度かあった。
……ありました
父さん
急に人を連れてくることがあって
客間なんてないから
居間に布団敷いてました
マティアスの口元が緩む。
やはり
あの方にとって
家とは部屋数ではなく
外へ出さずに済む人数で決まるものだったのでしょう
それだけ言い残し、マティアスは応接室を去った。
扉が閉まる。
蒼汰は木札を持ち上げた。
軽い。
本来なら、外で眠る者を示すはずだった札。
それが一夜だけ、百十二人を建物の中へ入れる札へ変わった。
守
何だ
家に連れてきてた人たち
誰だったんだ
いろいろだ
またそれかよ
行く場所がないやつ
終電を逃したやつ
追われてたやつ
一晩だけ消えた方がいいやつ
最後の二つ、絶対普通じゃないだろ
母さんは知ってたのか
だいたい
それで許してたのか
布団を出したのは巴だ
蒼汰は額を押さえた。
父だけではない。
母もまた、行く場所のない者を外へ戻さなかったのだろう。
冬城が机上の品を整える。
木札と旗は、長卓へお運びします
うん
お願いします
少し休養を取られますか
蒼汰は答える前に、廊下の向こうへ視線を向けた。
休養室の扉が開く。
看護師クララが顔を出した。
蒼汰様
エリオ様がお休みになりました
母上様がそばにいらっしゃいます
星形の胡桃パンは、目覚めた後にお出しします
ちゃんと眠れた?
はい
ただ
眠る前に一つだけ確認されました
何を
明日起きても
ここにいてよいのか、と
蒼汰は胸の奥が少し痛くなる。
白い道で眠っても。
起きればまた同じ場所だった。
帰ったと言われても、次に目を覚ました時には全て消えているのではないか。
少年はまだ、それを恐れている。
何て答えたんですか
明日も部屋はあります
追い出しません、と
蒼汰は木札を見る。
床でも屋根は屋根。
宿は寝台の数ではなく、朝まで人を外へ出さないための建物。
父なら、おそらく同じことを言った。
蒼汰は頷く。
ありがとう
クララが一礼し、扉を閉じる。
守
何だ
これで帰還完了か
朝、起きるまでは見た方がいい
やっぱりそう言うと思った
起きて
母親がいて
飯を食って
次の寝場所が決まる
そこまでだ
細かいな
大事だ
蒼汰は少しだけ笑った。
分かったよ
明日まで見る
父が一人で抱えていた責任を、全部継ぐつもりはない。
だがエリオへ返事をした責任だけは取る。
少年が目覚めた時。
母親も。
寝床も。
帰る場所も。
全部が消えていないと確認するまで。
冬城が次の名簿を確認する。
蒼汰様
うん
次の弔問者ですが
守様に
王都共同浴場の閉場時刻を一刻、勝手に延ばされた浴場監の方です
蒼汰は顔を上げる。
今度は風呂かよ
守が頭の奥でぼそりと言う。
泥だらけのまま寝かせるなって話だ
寝床の次に風呂なの
順番として妙にちゃんとしてるな
偶然だ
本当に?
たぶんな
蒼汰は新しく増えた木札を長卓へ置いた。
父、奏多守の葬儀は。
帰れなかった少年を迎え。
温かいものを食べさせ。
乾いた服へ着替えさせ。
眠れる場所を用意したあと。
今度は、誰かを冷えた泥のまま夜へ残さなかった話へ続いていった。




