第50話 勇者さまへ、ただいま
帰還完了。
帳簿に押された印を、エリオは何度も見ていた。
文字の意味を完全に理解しているわけではないのだろう。
それでも、その印が自分を白い道へ戻さないものだとは感じているらしい。
乾いた寝巻きの袖から伸びた小さな手で、蒼汰の指をつかんでいる。
力は弱い。
だが、離すつもりはないようだった。
通信門の向こうでは、ミリアが泣きながら笑っている。
おかえりなさい
その言葉を聞くたび、エリオの目から新しい涙が流れた。
ただいま
おかえりなさい
ただいま
はい
おかえりなさい
十八年分を埋めるように、同じ言葉を何度も交わしている。
誰も止めなかった。
医師のヘレナでさえ、診察用の器具を手にしたまま少しだけ待っていた。
やがてエリオが、ゆっくり周囲を見回した。
大勢の人。
見たことのない服。
人間ではない者。
宙に浮く通信端末。
床へ描かれた魔法陣。
そして、広間の奥にある棺。
エリオの視線が、そこで止まった。
……あれ
なに?
蒼汰は答えに詰まった。
父さんの棺だ。
そう言えばいい。
だが、白い道から帰ったばかりの九歳の少年へ、守が死んだことをどう伝えればいいのか分からない。
エリオは蒼汰の顔を見上げた。
ゆうしゃさま
どこ?
広間が静かになる。
頭の奥で、守も何も言わなかった。
蒼汰は嘘をつかないことにした。
父さんは
死んだ
エリオが瞬きをする。
しんだ?
うん
いつ?
三日前
エリオはしばらく蒼汰を見つめた。
理解が追いついていないようだった。
当然だ。
少年にとっては、境界門が崩れた日からどれほど時間が経ったのかも分からない。
父が十八年間探していたことも、母親が七十一歳になったことも、まだ説明していない。
エリオは棺へ視線を戻す。
……また
かえれないところに、いったの?
蒼汰の胸が詰まった。
守
何だ
お前が答えろよ
だから、直接は
分かってる
分かっているから腹が立つ。
父は十八年間少年を探した。
見つける直前に死んだ。
エリオから見れば、守もまた帰れない場所へ行ったように思えるのだろう。
蒼汰は少年の手を握り直す。
父さんは
帰ってこない
……そう
でも
エリオが帰ってきたことは、分かってる
少年が顔を上げる。
どうして?
蒼汰は自分の胸元を指した。
ここで聞いてる
エリオは首を傾げた。
ゆうしゃさま
そうたの、なかにいるの?
説明すると長いな……
守が頭の奥でぼそりと言う。
私にもよく分からん
お前が言うなよ
エリオは少し考えてから、蒼汰の胸へ向かって小さく呼びかけた。
ゆうしゃさま?
守が動揺した気配がした。
返事してやれよ
聞こえんだろう
俺が伝える
……面倒だな
今さらだろ
蒼汰はエリオへ言う。
聞こえてるって
エリオの顔が少し明るくなる。
ぼく
かえってきた
蒼汰は頭の奥へ意識を向ける。
守は黙ったままだった。
何か言えよ
……分かってる
それだけ?
守の声がわずかに震えている。
言葉が出ん
世界の王相手には勝手にしゃべるくせに
九歳の子どもの方が難しい
父親も下手なら、子ども相手も下手なのかよ
エリオが不安そうに蒼汰を見る。
なんて?
蒼汰は少し迷った。
そのまま伝えたら、守があまりにも情けない。
だが、勝手に格好よく直すのも違う気がした。
父さん
言葉が出ないって
エリオは目を丸くした。
ゆうしゃさまなのに?
父さん、勇者じゃないって言い張ってる
……ゆうしゃさまだよ
エリオは珍しく、はっきりと言い切った。
ぼくを
ずっとさがしてくれた
でも、帰せなかった
頭の奥で守が呟く。
蒼汰はその言葉を伝えなかった。
エリオは自分で続ける。
ぼく
ひとりだったけど
ゆうしゃさまが、さがしてるって
おもってた
だから
まってた
広間にいた者たちが、静かに目を伏せる。
エリオは白い道で、守の返事が届いたかどうかも分からないまま待っていた。
それでも、探してくれていると信じていた。
守
何だ
聞いたか
ああ
なら何か言え
長い沈黙。
やがて父が、ひどく小さな声で答えた。
……遅くなって、悪かった
蒼汰はそのまま伝えた。
父さんが
遅くなって悪かったって
エリオは少しだけ頬を膨らませた。
おそい
ああ
かなり遅い
……でも
きた
蒼汰は頷く。
来たな
エリオは棺を指した。
ゆうしゃさまのところ
いっていい?
ヘレナとクララが同時に反応した。
診察が先です
移動はまだお控えください
エリオの顔が曇る。
蒼汰が口を開くより早く、アンネリーゼが小さな車輪付き寝台を運ばせた。
歩かせなければよいのでしょう
クララが寝台を確認する。
身体を起こすのは短時間だけです
ヘレナも頷く。
棺まで行って戻る間に、脈拍と呼吸を継続確認します
ゲルトルートが毛布を追加する。
冷やさないでください
ヨーゼフが器を持ったまま言う。
薄粥をあと三口食べてからです
エリオは周囲を見回した。
……ひとりで、いける
全員が同時に答えた。
駄目です
エリオの肩が小さく跳ねた。
蒼汰は思わず笑ってしまった。
帰った直後から、かなり大人数に面倒を見られている。
白い道で一人だった時間との差が激しすぎる。
エリオ
諦めろ
この人たち、父さんの知り合いだから、こうなると止まらない
……ゆうしゃさまも?
止まらない
守が頭の奥で反論する。
私はもう少し穏やかだ
今までの話を聞いて、どこに穏やかな要素があるんだよ
エリオは薄粥を三口食べた。
正確には、二口目と三口目の間に少し休んだ。
それでもヨーゼフは厳密に三口を確認し、ようやく頷いた。
寝台へ寝かされたエリオを、クララとアンネリーゼが棺の前まで運ぶ。
蒼汰も隣を歩いた。
通信門の向こうから、ミリアが見守っている。
棺の前で寝台が止まる。
エリオは身体を少し起こしてもらい、遺影を見る。
何も知らない人間が見れば、少し不機嫌そうな普通の中年男性だ。
エリオは長いあいだ遺影を見つめた。
……ゆうしゃさま
おじさんになった
守が頭の奥でぼそりと言う。
十八年だからな
お前、そこは冷静なんだな
蒼汰はエリオへ伝える。
十八年経ったからだって
エリオの顔が固まった。
じゅうはちねん?
蒼汰はしまったと思った。
まだ詳しく説明していなかった。
通信門の向こうで、ミリアが静かに言う。
そうです
エリオ
こちらでは
十八年が過ぎました
エリオは母親を見る。
七十一歳になったミリア。
遺影の中で年を取った守。
自分の小さな手。
少年はしばらく何も言わなかった。
やがて自分の顔へ手を触れる。
ぼくは?
まだ分からない
ヘレナが穏やかに答える。
身体は、当時とほとんど変わっていないように見えます
詳しく調べる必要があります
エリオは母親を見る。
かあさん
おばあちゃんになった
ミリアは泣きながら笑った。
待ちすぎてしまいました
……ごめん
謝ってはいけません
ミリアの返事は強かった。
あなたが謝ることではありません
エリオは目を伏せる。
守が頭の奥で低く言う。
そうだ
あいつが謝ることじゃない
父さんにも言ってるからな、それ
……分かってる
エリオは再び遺影を見る。
ゆうしゃさま
声は小さかった。
ぼく
ちゃんとかえった
守が答える。
ああ
蒼汰はそのまま伝えた。
帰ったって
エリオは首を横に振る。
ちがう
ぼくが、いう
身体を少し起こす。
クララが支える。
エリオは棺へ向かい、深く息を吸った。
そして、十八年間言えなかった言葉を口にする。
ゆうしゃさま
ただいま
広間が静まり返った。
頭の奥でも、守はしばらく何も言わなかった。
蒼汰は急かさない。
今度は、父が自分で言葉を選ぶまで待った。
やがて。
ひどく不器用で、少しかすれた声が返ってくる。
……おかえり
蒼汰はエリオの肩へ手を置いた。
父さんが
おかえりって
エリオは笑った。
子どもらしい、小さな笑顔だった。
その瞬間、蒼汰が持っていた木笛が淡く光った。
同時に、旧校舎の地下に残された青い記録簿の文字が、誰も触れていないのに書き換わる。
境界障害対応記録 第一号。
帰還百三十六名。
未帰還一名。
その文字へ、青い線が引かれた。
帰還百三十七名。
未帰還、零名。
最終帰還確認。
門通過。
本人照合。
家族照合。
食事確認。
衣類交換。
一時寝床確保。
そして最後の欄。
帰宅挨拶確認。
ただいま。
返答確認。
おかえり。
第一号記録。
完了。
地下の記録が更新されたことを、蒼汰たちはまだ知らない。
だが棺の周囲に並んでいた品々が、再び一度だけ淡く光った。
今度の光は強くない。
静かだった。
長いあいだ開いたままだった帳簿が、ようやく閉じられたような光だった。
通信門の向こうで、ミリアが棺へ深く頭を下げる。
守様
ありがとうございました
あなたは
約束を破りませんでした
守が頭の奥で言う。
破った
十八年もかかった
蒼汰は小さく返す。
それでも、終わらせなかっただろ
間に合ってない
エリオには間に合った
守が黙る。
完璧に救えたわけではない。
十八年を取り戻せるわけでもない。
ミリアが年を取った事実も。
父と兄が亡くなった事実も。
エリオが一人で待っていた時間も消えない。
それでも。
ただいまへ、おかえりを返すことはできた。
それで全部が帳消しになるわけではない。
だが、零ではない。
エリオが木笛を棺の前へ置こうとした。
蒼汰は止める。
それは持ってろ
でも
ゆうしゃさまの
父さんに渡した物なのか
うん
だったら、返してもらったことにしろ
また迷った時、鳴らせるように
エリオは木笛を見る。
……また
みちが、なくなったら?
今度はすぐ呼べ
蒼汰は答えた。
十八年も待つな
一日でも長い
守が頭の奥で言う。
一日は少し短い
お前は黙ってろ
十八年待たせた側だろ
エリオは木笛を胸元へ抱いた。
うん
すぐ、ならす
その時、通信門の調整をしていたエレノアが振り返った。
ミリア様のこちら側への一時移送
可能です
ミリアが目を見開く。
私が
そちらへ?
はい
エリオ様を動かすより安全です
短時間であれば、時間差の影響もありません
蒼汰はすぐに言う。
来てもらってください
エレノアが確認する。
よろしいのですか
聞くまでもないだろ
ミリアも迷わなかった。
お願いします
通信門が広がる。
吹雪の村と葬儀会館を繋ぐ光の縁。
ミリアは油灯を村長代理へ預け、杖を握る。
最初の一歩を踏み出す。
十八年間、窓辺で待っていた母親が。
今度は自分から、帰ってきた息子のいる場所へ向かう。
門を越えた瞬間、身体がわずかに揺れた。
冬城が支えようとしたが、ミリアは大丈夫だと首を振る。
杖を突きながら、寝台へ近づく。
エリオは母親を見上げた。
近くで見れば、記憶の姿とはもっと違うのだろう。
白い髪。
皺。
小さくなった背中。
それでもエリオは、風鈴の音を聞いた時と同じ顔で笑った。
かあさん
ミリアは杖を手放した。
寝台の横へ膝をつき、息子を抱きしめる。
エリオも細い腕を伸ばした。
二人とも、何も言えなくなった。
十八年分の涙を、言葉にする必要はなかった。
医師も。
王も。
魔王も。
吸血鬼も。
星間監督官も。
誰一人として急かさなかった。
蒼汰は二人から少し離れ、父の棺を見る。
守
何だ
これで帰還完了か
父は少し考えてから答えた。
まだだ
何が足りない
寝る場所まで確認する
本当に最後まで細かいな
大事だ
蒼汰は少しだけ笑った。
分かったよ
そこまで見る
冬城が静かに近づく。
エリオ様とミリア様には
今夜、会館内の休養室をご用意します
医療班も常駐
明朝以降の帰宅は、体調と時間差検査を確認してからとなります
父さん
これでいいか
守が答える。
温かい飯も忘れるな
もう食べてるよ
三口だけだ
細かいな
ヨーゼフが少し離れた場所から口を挟む。
星形の胡桃パンも、現在準備中です
蒼汰は棺を見る。
聞いたか
ああ
硬くするなと伝えろ
お前が焼き上がる前に持っていかなければ大丈夫だよ
エリオが母親の腕の中から、小さく笑った。
葬儀の広間に、また笑い声が広がる。
重くない笑いだった。
亡くなった父を忘れるためでもない。
父が最後まで帰せなかった少年が、母親の腕の中で笑ったことを喜ぶ声だった。
しばらくして、エリオとミリアは医療班に付き添われ、休養室へ運ばれていった。
エリオは最後まで木笛を握り、棺の方へ小さく手を振った。
またね
ゆうしゃさま
守が頭の奥でぼそりと言う。
次は普通に来い
蒼汰は笑いながら伝えた。
父さんが
次は普通に来いって
エリオは寝台の上から頷く。
うん
みちじゃなくて、くる
扉が閉まる。
広間に残った者たちは、しばらく誰も動かなかった。
父を送るはずだった葬儀の途中で、帰れなかった少年を迎えた。
順番は完全に変わった。
だが守なら、きっとこうしただろう。
冬城が白い受入証明を丁寧に閉じる。
蒼汰様
うん
弔問を再開してもよろしいでしょうか
蒼汰は広間を見回した。
まだ長い列が残っている。
エリオの帰還を手伝うために一度並び直し、それでも父へ伝える言葉を持って待っている人々。
蒼汰は頷いた。
お願いします
承知しました
冬城が職員へ合図を送る。
机と椅子が整えられ。
通信器具が静かに片づけられ。
父の棺の前へ、再び弔問の道が作られる。
ただし、以前とは一つだけ違った。
列の全員が、エリオの帰還後に自分が何をすると約束したのかを、胸に持ったまま並んでいる。
蒼汰が応接室へ戻ろうとすると、冬城が次の弔問者について告げた。
次は
王都行旅人宿場司、マティアス・ヘルマン様です
守様に、行旅人名簿の野宿欄を一夜分、すべて潰されたご当人になります
蒼汰は足を止めた。
……また寝る場所かよ
守が頭の奥で低く返す。
外で寝かせるなって話だ
エリオを帰した直後にそれかよ
順番としては悪くないだろ
蒼汰は父の棺を振り返った。
帰還は、門を通っただけでは終わらない。
温かいものを食べて。
名前を確かめて。
帰ったと言えて。
誰かから、おかえりを返されて。
最後に眠れる場所へ辿り着く。
父、奏多守の葬儀は、ようやく元の列へ戻った。
だが次に待っていたのもまた、父が誰かを外で眠らせなかった夜の話だった。




