第49話 ただいまを言うまでが帰還
十九。
白い道の向こうで、少年が走っていた。
小さな身体。
破れた上着。
片方だけ外れかけた靴。
周囲には何もない。
空もない。
地面もない。
ただ白い道だけが、暗闇の中へ細く伸びている。
その背後から、巨大な黒い影が迫っていた。
十八。
蒼汰は木笛を握りしめる。
エリオ
真っすぐ来い
……うん
幼い声が震えている。
通信門の向こうでは、ミリアが風鈴を鳴らし続けていた。
ちりん。
ちりん。
吹雪の音に消されそうな、小さな音。
だがエリオは、その音だけを目印に走っている。
十七。
境界路が大きく歪んだ。
白い道の一部が横へ曲がる。
エリオの姿が、帰還門の正面から外れていく。
イザベルが床へ突き立てた銀針を押さえる。
道の地形が変わっています
直せるのか
蒼汰が叫ぶ。
現在の地図には存在しない地形です
ですが、道であるなら線は引けます
イザベルは旧地図の余白へ、迷わず新しい線を描いた。
帰る者がいる場所を
行き止まりとして記録しません
羅針儀が強く光る。
曲がり始めた白い道の先へ、銀色の線が重なった。
十六。
エリオの身体が、再び帰還門の正面へ戻る。
……みち
もどった
そのまま走れ
蒼汰が声を張る。
だが黒い影も止まらない。
道の左右から壁のように盛り上がり、エリオの進路を狭めていく。
十五。
グラディウスが片手を上げる。
帰還門の周囲に、黒紫の炎が現れた。
燃やすのか
蒼汰が叫ぶ。
焼くのではない
道に、こちらが門であると教える
違いが分からない
私には分かる
守が頭の奥で言う。
あいつにも、たぶん分かってない
聞こえてるぞ、守
聞こえるのかよ
グラディウスの炎が帰還門の輪郭を囲む。
黒い影が一瞬だけ後退した。
十四。
エリオが距離を縮める。
白い道の上に、帰還門の光が見え始めたらしい。
……ひかり
みえる
それが出口だ
蒼汰は答えた。
そのまま来い
十三。
黒い影が再び膨らむ。
今度はエリオの足元から、細い黒い糸が何本も伸びた。
少年の足首へ絡みつく。
エリオの身体が前へ倒れた。
……いたい
エリオ
ミリアの悲鳴が通信門の向こうから響く。
十二。
白い道の上で、エリオが這うように前へ進む。
だが黒い糸は増えていく。
一本。
三本。
十本。
小さな身体を、道の奥へ引き戻そうとしていた。
カーミラが血の硝子板へ手を添える。
対象の血脈を固定します
深紅の線が、帰還門からエリオへ伸びる。
黒い糸と赤い線が引き合う。
十一。
エリオの身体は止まった。
前へも、後ろへも動かない。
エレノアの端末に警告が並ぶ。
対象座標、固定
ただし境界路が所有権を主張しています
所有権?
蒼汰が聞き返す。
エレノアの表情が固まる。
漂流域内に長期間存在した対象を
領域構成要素として認識しています
人間を道の一部扱いしてるのか
はい
ふざけるなよ
蒼汰は木笛を握る手へ力を込めた。
守が頭の奥で低く言う。
領域規則だ
中で維持されたものは、中のものになる
だったら規則を変えればいい
簡単に言うな
父さんは毎回やってただろ
私は現地管理権限があった
今は?
ない
じゃあ、別の方法を考えろよ
十。
時間だけが減っていく。
広間にいる全員が、息を止めていた。
エリオが黒い糸へ引かれ、ほんの少しだけ後ろへ戻る。
ミリアが風鈴を強く鳴らす。
ちりん。
エリオ
帰ってきてください
……かあさん
エリオが白い道へ爪を立てる。
だが小さな指が滑った。
九。
その時、関門官フリードリヒが低く言った。
所有権の主張は
対象が未帰還者のままだからではありませんか
蒼汰が振り返る。
どういう意味だ
未帰還者とは
まだどちらの門も通っていない者です
現状、エリオ殿は漂流域内にいる
ゆえに漂流域が自領域の存在として扱っている
でしたら
フリードリヒは白い紙の上に置かれた鉄の仮帰還札を見る。
門を通る前に
こちらの帰還者として登録します
冬城がすぐに言う。
通常の帰還登録では、本人が門を通過している必要があります
分かっています
フリードリヒは硬い表情のまま答えた。
だから本来は、できません
蒼汰は鉄札を見る。
本来は。
今夜、何度も聞いた言葉だ。
父が最も嫌っていた言葉でもある。
八。
蒼汰はフリードリヒへ言う。
やってください
ですが
帰ってきてから帰還者にするんじゃ遅い
帰還者だから、こっちへ帰れるようにする
順番を逆にしてください
フリードリヒが蒼汰を見る。
目元が、ほんの少しだけ動いた。
それは
守殿に言われたことと、ほとんど同じです
父さんなら、もっと勝手にやってます
頭の奥で守が言う。
否定はできん
フリードリヒは一度だけ目を閉じた。
それから鉄の仮帰還札を手に取る。
七。
王都帰還者照合局主任関門官
フリードリヒ・ケストナーの権限により
未帰還者エリオ・ファンを
夜間仮帰還者として登録します
冬城が白い受入証明を引き寄せる。
帰還時刻は
未定
帰還門通過は
未完了
本人照合は
血液および音声により仮完了
帰還先は
北辺共同領レーヴェ村
ミリア・エルファン宅
フリードリヒは鉄札を白い紙へ押し当てた。
帰還状態。
帰還中。
青白い光が、鉄札から爆発するように広がった。
六。
円形装置の表示が切り替わる。
未帰還者。
その文字に太い線が入る。
帰還中。
対象所属。
漂流域から解除。
帰還先へ移行開始。
黒い糸が一斉に軋んだ。
エリオの身体を道の奥へ引いていた力が弱まる。
守が頭の奥で息を呑む。
通った
本当に?
ああ
規則が変わった
蒼汰は思わず笑いそうになった。
父と同じだ。
規則そのものを消したのではない。
一人分の受け皿を、先にこちらへ作った。
五。
エリオが立ち上がる。
黒い糸がまだ足へ絡んでいる。
だが今度は、深紅の血脈線と三本の錨がエリオをこちらへ引いていた。
走れ
蒼汰が叫ぶ。
……うん
四。
エリオが走る。
黒い影が背後で大きく口を開くように広がった。
白い道そのものが崩れ始める。
グラディウスの炎が門を支える。
カーミラの血脈線が少年を引く。
エレノアが時間差を固定する。
イザベルの銀線が帰る方向を示す。
そして広間では、父に帰された者たちが一歩も動かず待っていた。
三。
帰還門の向こうに、エリオの顔が見えた。
九歳の少年。
涙と埃で汚れた頬。
何度も転んだのか、額から血が出ている。
だが走っている。
母親の風鈴だけを聞きながら。
二。
黒い影がエリオの背中へ触れた。
少年の姿が、一瞬だけ薄くなる。
……そうた
ここだ
蒼汰は帰還門へ手を伸ばす。
ここにいる
そのまま来い
……て
何だ
……て、のばして
蒼汰は迷わなかった。
門の中へ腕を差し入れる。
冬城が叫ぶ。
蒼汰様
守も頭の奥で怒鳴る。
馬鹿
境界へ直接触るな
うるさい
蒼汰の指先が、冷たい何かへ触れた。
少年の手。
小さい。
冷たい。
震えている。
蒼汰は強く握った。
一。
引く。
だが重い。
九歳の子どもの重さではない。
十八年間、エリオを道の一部として抱え込んだ境界そのものが、反対側から引いている。
蒼汰の足が床を滑った。
グラディウスが蒼汰の肩を掴む。
カーミラがその背中を支える。
リュシエラが蒼汰の腰へ腕を回す。
冬城がさらに後ろから外套を掴む。
何だこれ
蒼汰が叫ぶ。
帰還者一名に対し
迎える人数が多すぎます
エレノアが端末を見ながら答える。
悪いのか
いいえ
計算上は異常です
でも、引けます
広間の者たちも動いた。
鐘楼番。
関門官。
看護師。
薬庫番。
灯守。
料理人。
地図師。
直接蒼汰へ触れられない者は、白い受入証明へ手を添えた。
自分が約束した品を握った。
待つだけではなく、迎える側として力を込める。
帰還時刻。
零。
門が閉じ始める。
蒼汰は歯を食いしばった。
エリオ
……うん
絶対に手を離すな
……うん
俺も離さない
黒い影が少年の身体を包む。
風鈴が鳴る。
ちりん。
ミリアの声が響く。
エリオ
帰ってきてください
帰還札が強く輝く。
帰還中の文字へ、新しい線が加わる。
帰還完了待機。
守が頭の奥で叫んだ。
蒼汰
今だ
蒼汰は力の限り腕を引いた。
白い光が弾ける。
大きな音がした。
床へ何かが転がった。
帰還門が閉じる。
黒い影。
白い道。
細い光。
全てが一瞬で消えた。
広間に残ったのは、静寂だった。
蒼汰は床へ倒れていた。
その腕の中に、小さな身体がある。
破れた上着。
泥と埃。
外れかけた靴。
冷たい手。
少年は目を閉じたまま動かない。
蒼汰の心臓が大きく鳴った。
エリオ
返事がない。
エリオ
看護師クララがすぐに駆け寄る。
蒼汰様
そのまま動かさないでください
医師ヘレナも膝をつき、少年の首元へ指を当てる。
広間の誰も息をしていないように静かだった。
蒼汰は腕の中の少年を見る。
連れてこられた。
だが、生きているのか。
ヘレナが目を閉じ、脈を探す。
一秒。
二秒。
長い。
蒼汰には、それが十九秒より長く感じられた。
やがてヘレナが顔を上げる。
脈があります
広間全体から、一斉に息が漏れた。
呼吸も確認
浅いですが安定しています
クララが乾いた布を少年の身体へかける。
アンネリーゼがすでに予備寝巻きを広げている。
ゲルトルートは薬箱を開き、ヨーゼフが温かい薄粥の準備を指示する。
誰も命令を待っていない。
帰った後にすると約束したことを、その場で始めていた。
蒼汰はエリオの手を握ったまま、大きく息を吐く。
守
返事がない。
父さん
……いる
声がかすれていた。
帰ってきたぞ
ああ
父が、それ以上何も言えなくなっているのが分かった。
通信門の向こうで、ミリアが震えている。
エリオの姿を見ている。
だが声をかけられない。
夢ではないかと疑っているような顔だった。
蒼汰は少年の肩を軽く叩く。
エリオ
聞こえるか
閉じた瞼が、わずかに動いた。
ゆっくりと目が開く。
薄い茶色の瞳。
最初は焦点が合わない。
天井。
灯り。
周囲に並ぶ大勢の人々。
そして、蒼汰。
……そうた?
そうだ
少年は蒼汰の手を握ったまま、周囲を見る。
……ここ
どこ?
父さんの葬儀場
言ってから、蒼汰は説明を間違えた気がした。
九歳の少年へ最初に伝える場所としては、かなり悪い。
案の定、エリオの顔が不安そうに歪む。
そうぎ?
細かいことは後でいい
蒼汰は通信門を指した。
ほら
向こう見ろ
エリオがゆっくり顔を向ける。
吹雪の村。
小さな通信所。
入口の風鈴。
その前に立つ、白髪の女性。
十八年前とは姿が違う。
だが手には、ずっと消さなかった油灯がある。
ミリアが震える声で呼ぶ。
エリオ
少年はしばらく、女性を見つめていた。
知らない老人を見るような、戸惑った表情。
ミリアの顔に、ほんの少しだけ不安が浮かぶ。
覚えていないのかもしれない。
十八年は、こちら側の時間だ。
だが漂流域で何がエリオの記憶へ起きたのかは分からない。
エリオの視線が油灯へ移る。
次に、風鈴。
ちりん。
その音を聞いた瞬間、少年の目から涙が溢れた。
……かあさん
ミリアは両手で口元を覆った。
はい
……ほんとに?
本当です
少年は起き上がろうとした。
クララが止める。
まだ動いてはいけません
……かあさんのとこ
いく
行けます
蒼汰が答えた。
でも、まず体を診てもらえ
それが終わったら、向こうに渡す
……また
まつ?
少しだけ
エリオの顔に恐怖が浮かぶ。
蒼汰はすぐに続けた。
今度は一人じゃない
母さんも見えてる
俺もここにいる
診察が終わるまで
ずっと門を開けておく
グラディウスが当然のように頷く。
開けておこう
エレノアも端末を見る。
時間差固定は維持できます
カーミラがミリアへ告げる。
こちらの様子は全てお見せします
声も切りません
ミリアが何度も頷く。
待ちます
いくらでも
エリオはようやく身体の力を抜いた。
クララが乾いた布で少年の顔を拭く。
アンネリーゼが破れた上着を脱がせ、乾いた寝巻きを着せる。
ヘレナが胸の音を確認する。
ゲルトルートが必要な薬を選ぶ。
ヨーゼフが厨房から届いた湯気の立つ器を受け取る。
約束した全てが、帰還直後から動いている。
エリオは薄粥を一口だけ食べた。
温かさに驚いたように目を見開く。
……あったかい
ヨーゼフが真剣な顔で頷く。
次は胡桃パンです
ただし、診察後になります
……ほしの?
はい
星形です
小さいところから食べても構いません
エリオの口元が、少しだけ緩んだ。
蒼汰はその顔を見て、ようやく本当に帰ってきたのだと感じた。
門を通っただけではない。
名前がある。
母親がいる。
乾いた服がある。
温かい食事がある。
眠れる場所も用意される。
父が言っていた。
門を通って。
内側へ入って。
名前が戻って。
温かいものを食って。
眠れる場所まで行く。
そこまでで帰還だ。
まだ、全部は終わっていない。
だが少なくとも、エリオはもう白い道で一人ではない。
フリードリヒが鉄の仮帰還札を持ち上げる。
夜間仮帰還者
エリオ・ファン
本人確認完了
帰還時刻を記録します
冬城が時計を確認する。
フリードリヒは帳簿へ時刻を書き込む。
そして帰還状態の欄へ、ゆっくりと印を押した。
帰還完了。
鉄札から光が消える。
今度は、消えても怖くなかった。
役目を終えた光だった。
エリオが帳簿の音を聞き、蒼汰を見る。
……かえれた?
蒼汰は頷く。
帰れた
本当に?
ああ
エリオは通信門の向こうの母親を見る。
しばらく口を動かせなかった。
何を言えばいいのか迷っているようだった。
ミリアも何も急かさない。
十八年待ったのだ。
息子が最初の言葉を選ぶ時間くらい、いくらでも待てるのだろう。
やがてエリオは、乾いた寝巻きの袖で涙を拭いた。
そして小さく言った。
……ただいま
通信門の向こうで、ミリアが泣きながら笑った。
おかえりなさい
その一言が広間へ届いた瞬間。
父、奏多守の棺の周囲に並べられていた全ての品が、ほんの一度だけ淡く光った。
まるで父が最後まで確認したかった帰還を、ようやく見届けたかのように。




