第46話 父を送りに来た者たちは、少年を迎えるために並び直す
地下室から地上へ戻る途中、蒼汰は何度も手の中の木笛を確かめた。
小さな木製の笛だ。
どこにでもありそうな、子どもの玩具にしか見えない。
だが、その向こうには十八年間、白い道の上で待ち続けている少年がいる。
……まってた。
……こんどは、きえる?
声を思い出すたび、木笛が急に重くなる。
蒼汰は石段を上りながら、頭の奥へ問いかけた。
守
何だ
エリオの母親
本当に六年前から分からないのか
ああ
最後にいた場所は
エルドア辺境領のファン村
ただし、あの辺りは十二年前に行政区が変わった
六年前の報告では、村ごと移住した可能性が高い
どこへ
分からん
父さんが分からないってこと、多すぎないか
分からないから記録に残した
守の返事は、いつも通り現実的だった。
蒼汰は少しだけ眉を寄せる。
なら、これから調べるしかない。
父が十八年探して見つけられなかったものを、自分が簡単に見つけられるとは思わない。
だが今回は、父の時とは違う。
すでに声が届いている。
場所を示す光点もある。
そして地上には、父へ別れを告げるため、いくつもの国と世界から人が集まっている。
理科準備室へ戻ると、夜の校舎は来た時と何も変わっていなかった。
古い床。
埃を被った窓。
薄暗い廊下。
まるで地下に世界と世界の境界を記録する施設など、最初から存在しなかったように静かだった。
蒼汰が最後に階段を上がると、床の開口部がゆっくりと閉じる。
青白い線が消えた。
理科準備室は、ただの古い部屋へ戻った。
蒼汰は思わず床を見る。
これ、次もちゃんと開くんだよな
鍵があれば
冬城が答える。
もし開かなかったら
別の進入方法を検討します
壊す気だろ
必要であれば
守が頭の奥でぼそりと言う。
床は壊すな
直すのが面倒だ
死んでるのに修理の心配するなよ
必要な心配だ
蒼汰は額を押さえた。
リュシエラが理科準備室の扉を開き、先に廊下を確認する。
異常はありません
その言い方、学校で聞くと変だな
ですが正確です
三人は旧校舎を出た。
外の冷たい空気が、火照った顔に触れる。
つい一時間ほど前まで、この場所は父の秘密を探すための目的地だった。
今は違う。
この場所へ戻ってくる理由ができた。
白い道で待つ少年へ、声を届け続けるために。
車へ乗り込むと、冬城はすぐに通信端末を取り出した。
会館までの移動中に、候補者を絞ります
候補者って
境界漂流域の観測、帰還路構築、長距離追跡、時間差補正
それぞれに知識を持つ方々です
今来てる人の中に、そんなにいるのか
おります
何人くらい
冬城は端末を操作しながら、淡々と答える。
直接的な実績を持つ方が十一名
関連分野を含めれば三十七名
国家、宗教組織、星間組織の設備支援まで含めると、現時点で百名以上です
蒼汰はしばらく黙った。
父さん
何したら葬式にそんな連中が集まるんだよ
いろいろだ
その一言でまとめるな
全部説明すると長い
これから嫌でも聞かされるんだろうな……
たぶんな
車が走り出す。
窓の外を、見慣れた町の灯りが流れていく。
リュシエラは母親との通信を続けていた。
はい、母上
対象血液は保存状態良好です
境界漂流域からの本人反応も確認しました
少し間がある。
いいえ
現時点では帰還路を作れていません
第二錨と第三錨が不足しています
さらに沈黙。
はい
評議会に関しては、母上のご判断にお任せします
蒼汰は横目で見る。
向こう、何て言ってるんだ
母上が、評議会の元議長を棺の前へ連れてきて謝罪させると
父さんの棺に?
はい
それ、父さん困らないか
守が頭の奥で言う。
困る
いらん
だって
リュシエラは通信具へ視線を戻した。
守殿は不要と仰っています
何で伝わるんだよ
表情で
蒼汰は自分の顔へ手を当てた。
そんなに出ていたらしい。
母上からの返答です
リュシエラが通信を聞き、淡々と続ける。
守殿の希望は参考として受け取る
だが今回は母としてではなく、血の公域を統べる者として処理する、とのことです
守が頭の奥で小さく呻いた。
あいつ、昔からああだ
母上は守殿にだけは甘い方です
それで甘いのかよ
かなり
蒼汰は、これ以上聞かないことにした。
会館が近づくにつれ、道路の様子が変わっていく。
黒塗りの車。
見慣れない紋章を掲げた車両。
軍用車両にしか見えないもの。
馬車に似ているが、車輪が地面へ触れていないもの。
細長い銀色の移動装置。
会館周辺だけが、明らかにこの町から浮いている。
裏口へ到着すると、黒服の職員がすぐに扉を開けた。
冬城様
状況は
弔問列は維持しています
ただ、グラディウス陛下とカーミラ公が、蒼汰様の外出理由を確認したいと
もう気づいてるのか
お二方には、隠しきれませんでした
何で
グラディウス陛下は、守様の境界器具が起動したことを感知
カーミラ公は、リュシエラ様の通信内容から判断されたものと思われます
蒼汰は深く息を吐いた。
隠すつもりはなかった。
だが、自分が説明する前に全部把握されていると、父の周囲にいた人々の異常さを改めて感じる。
裏口から中へ入る。
搬入口脇の廊下には、多くの職員が行き交っていた。
けれど蒼汰の姿を確認した瞬間、全員が道を空ける。
蒼汰様
冬城が足を止める。
このまま小会議室へ向かいます
必要な方々には、すでに移動をお願いしました
棺のところへは
まず一度、守様へご報告なさいますか
蒼汰は木笛を見る。
そうしたかった。
父の棺の前で、何を言えばいいのかは分からない。
だがエリオの声が届いたことだけは、自分の中にいる守だけでなく、棺に眠る父へも伝えたかった。
うん
先に父さんのところへ行く
承知しました
広間へ入る。
弔問は一時的に止められていた。
父の棺の前には、まだ線香の煙が細く上がっている。
多くの供花。
見慣れない国旗。
紋章旗。
勲章。
剣。
杖。
書状。
その中心に、父の遺影がある。
家で見たことのある、少し不機嫌そうな顔。
世界を救った英雄には見えない。
魔王の友人にも、星間航路の修復者にも、境界管理者にも見えない。
ただの父親だった。
蒼汰は棺の前へ座る。
木笛を膝の上へ置く。
父さん
頭の中ではなく、声に出した。
広間にいた職員たちが、少し距離を取る。
エリオは生きてた
声が少し震えた。
たぶん、父さんが思ってたより時間は経ってない
でも、ずっと一人だった
父さんのことも覚えてた
遺影は何も答えない。
頭の奥の守も黙っている。
待ってたって言ってた
蒼汰は木笛を見る。
父さんの返事が届いたかは分からない
でも、俺の声は届いた
今度は見失わない
冬城さんも、リュシエラも手伝ってくれる
他の人にも頼む
少しだけ言葉を止める。
父さんが嫌でも頼むからな
守が頭の奥でぼそりと言う。
もう好きにしろ
最初からそのつもりだよ
蒼汰は少しだけ笑った。
それから遺影へ向かい、静かに続ける。
だから
父さんが一人でやり残したことを
今度は一人でやらない
言い終えた時、背後から低い声がした。
それでよい
蒼汰が振り返る。
広間の入口に、グラディウスが立っていた。
黒い正装。
人の姿を取っているが、その周囲だけ空気が重い。
その隣にはカーミラがいる。
黒と深紅の礼装をまとい、銀灰の髪を長く流していた。
二人の後ろには、さらに数名が控えている。
星間航路監督官のエレノア。
地図師イザベル。
主席通訳官ユリウス。
そして蒼汰がまだ会っていない、異なる装いの男女。
グラディウスが棺へ視線を向ける。
守は、一人で抱えることを美徳としたわけではない
守が頭の奥で反論する。
してない
蒼汰はそのまま伝える。
してないって
グラディウスは鼻で笑った。
ならば、ただの悪癖だ
守が黙る。
反論しないのか
事実だからな
蒼汰は少しだけ肩の力を抜いた。
カーミラが静かに棺へ近づく。
十八年前の未帰還者
エリオ・ファンですね
知ってるんですか
名前だけは
カーミラの目がわずかに細くなる。
守様は、血の公域へ漂流者追跡の申請を三度出されています
ですが、私の手元へは一度も上がらなかった
声は穏やかだった。
それなのに、広間の空気が冷える。
リュシエラの母親なのだと、よく分かる。
カーミラは続ける。
その件については、すでに調査を開始しました
ただし処分は、エリオ殿の帰還後とします
何で帰還後なんですか
守様であれば
いま必要なのは処分ではなく、帰還路だと仰るでしょうから
守が頭の奥で言う。
その通りだ
だって
蒼汰が伝えると、カーミラはごく小さく微笑んだ。
でしょうね
グラディウスが蒼汰を見る。
必要なものを言え
蒼汰は木笛を握る。
第二錨
エリオが帰る場所の記憶
家とか、家族とか、そういうものが必要らしい
家族の所在は
母親が六年前から不明です
グラディウスの後ろにいたイザベルが、一歩前へ出る。
ファン村の旧地図は残っていますか
守
第一保管区画
青い本の下から二つ目の筒
旧地番も入ってる
あります
地下に
ならば旧地番から現在の土地記録を追えます
国境改定があっても、地形そのものは消えません
イザベルは即座に言った。
私は地図を繋ぎます
エレノアも続く。
世界間移住の記録があるなら、星間避難者台帳と辺境接続港の入境記録を照合します
氏名が変わっていても、出身地と家族構成から追える可能性があります
主席通訳官ユリウスが頷く。
ファンという姓が、移住先の言語で別の形へ変わった可能性もあります
音写、意訳、婚姻姓、保護名まで含めて確認しましょう
蒼汰は三人を見る。
まだ正式に頼んでいない。
それなのに、もう誰が何をするか決まり始めている。
父の弔問に来た人々は、父のやり残しと聞いただけで迷わなかった。
グラディウスが問う。
第三錨は
待ってる人の証明
でも俺一人じゃ弱いらしい
ならば、簡単だ
グラディウスが広間を振り返る。
ここには守に帰された者がいる
その声が、広間全体へ通る。
国へ帰された者。
家族のもとへ戻された者。
名を取り戻した者。
道を残された者。
夜を越えさせられた者。
すでに大勢がいる。
グラディウスは静かに続けた。
今度は我らが、一人を迎える側へ回ればよい
広間が静まり返る。
そこにいた弔問客たちが、次々と姿勢を正した。
誰も迷っていない。
蒼汰は少しだけ戸惑う。
でも
皆、父さんに別れを言うために来たんですよね
最初に答えたのは、カーミラだった。
ええ
だったら、こんなことに巻き込んで
蒼汰様
カーミラの声は優しかった。
守様は、私たちの誰かが帰れずにいると知れば
ご自身の葬儀を止めてでも、そちらへ向かう方です
守が頭の奥でぼそりと言う。
止めはしない
少し順番を変えるだけだ
蒼汰は思わず目を閉じた。
少し順番を変えるだけだって
グラディウスが笑う。
それで国境を一つ消した男だ
信用できんな
周囲から、ごく小さな笑いが漏れた。
葬儀の広間で笑うのは不謹慎なのかもしれない。
けれど、今だけはその笑いが父への弔いに思えた。
冬城が静かに一歩前へ出る。
それでは、弔問手順を一時変更いたします
また勝手に変えるのか
蒼汰が聞くと、冬城はわずかに目を細めた。
守様の関係者ですので
それで説明がつくと思ってるだろ
かなり
冬城は職員たちへ指示を出す。
境界関連の知識をお持ちの方は第一会議室へ
エリオ・ファンの家族、ファン村、エルドア辺境領に関する記録をお持ちの方は第二会議室へ
待機者証明への参加をご希望の方は、広間で登録をお願いします
希望者だけでいいんですか
はい
冬城は広間を見回す。
強制された意志は、帰還の錨になりません
本当に迎えたいと願う方だけでなければ意味がありません
蒼汰は頷く。
その言葉は正しいと思った。
父への恩返しだからと義務で並ばせても、エリオへは届かない。
必要なのは、帰ってきてほしいという意志だ。
最初に前へ出たのは、鐘楼番のエーリヒだった。
守殿に第二打を止められた者として
今度は、帰還路が閉じる前に待ちます
次に薬庫番のゲルトルートが進み出る。
守殿に封印棚を開けられた者として
帰還路を作るために開けるべきものがあるなら、協力します
関門官フリードリヒ。
門まで来た者を、帳簿の外へ置くなと教えられました
その少年が門を見つけるまで、照合灯を残します
孤児識別記録官アデルハイト。
名前はすでに記録しました
エリオ・ファン
今度は、移送先不明にはさせません
街灯局のオットー。
帰る最後の筋へ、灯を残しましょう
一人。
また一人。
父に順番を変えられた人々が、列から離れ、棺の前へ並び直していく。
王族。
役人。
看護師。
料理人。
地図師。
軍人。
司祭。
魔族。
吸血鬼。
星間民。
所属も種族も関係なかった。
父に救われたからではない。
父が帰せなかった一人を、今度は自分たちが迎えたい。
その意志で並んでいる。
蒼汰は木笛を握ったまま、動けなかった。
守
何だ
見えてるか
ああ
父さんが一人で抱えてたやつ
こんなに手伝う人がいるぞ
……そうだな
何か言うことないのか
守はしばらく黙った。
その間にも、列は伸びていく。
やがて父の声が、ひどく小さく答えた。
頼めばよかったな
蒼汰は何も言えなくなった。
その一言を父が生きている間に言えていたら、どれだけ違っただろう。
だがもう遅い。
だからこそ、蒼汰は父と同じことをしない。
蒼汰は列の前へ立つ。
皆さん
声が少し震えた。
広間の視線が集まる。
俺は、父さんが何をしてきたのか
まだほとんど知りません
世界を救ったとか
国を立て直したとか
皆さんから聞いて、少しずつ分かってきただけです
それでも
父さんが十八年間、帰せなかった子がいます
エリオ・ファン
九歳です
向こうでどれくらい時間が経ってるかは分かりません
帰る道も、まだありません
でも、声は届きました
待ってるって言ってました
蒼汰は木笛を持ち上げる。
父さんは、一人で探して見つけられなかった
だから今度は、一人で探したくありません
手伝ってください
頭を下げる。
守が頭の奥で何か言いかけた。
だが蒼汰は聞かなかった。
世界の王や、魔王や、異種族の長たちを前にしている。
それでも今は、父のやり残しを助けてもらう側だ。
格好をつける必要はない。
広間に、一斉に衣擦れの音が響いた。
蒼汰が顔を上げる。
目の前にいた全員が、蒼汰へ頭を下げていた。
最も深い礼ではない。
服従でもない。
依頼を受けた者としての、静かな承諾だった。
グラディウスが言う。
承った
カーミラが続く。
必ず見つけましょう
エレノアが胸へ手を当てる。
帰還路はこちらで計算します
イザベルが地図筒を抱え直す。
帰る場所は、地図から消させません
ユリウスも頷く。
母親の名が変わっていても、言葉の中から拾います
冬城が端末を確認する。
待機者証明参加希望者
現時点で百二十六名です
まだ増えています
蒼汰は周囲を見る。
父の葬儀は、止まっていない。
ただ、少しだけ順番が変わった。
父を送る前に。
父が帰せなかった少年を迎える。
それだけだ。
その時、第二会議室へ向かっていた若い記録吏が、廊下から駆け込んできた。
冬城様
どうしました
ファン村の移住記録について
該当する可能性のある資料が、すでに会館へ届いています
なぜここに
本日の弔問団の一つが持参した歴史資料の中に
旧エルドア辺境領の避難者台帳が含まれていました
蒼汰は目を見開く。
エリオの母親が載ってるのか
確認中です
ただ、一名
条件が一致する女性がいます
名前は
記録吏が台帳を開く。
ミリア・ファン
移住後の登録名は、ミリア・エルファン
現在地は、北辺共同領レーヴェ村
年齢は七十一歳
生存記録は、今年の冬にも更新されています
生きている。
蒼汰の心臓が大きく鳴った。
守
何だ
母親、生きてる
頭の奥で、父の声が止まった。
父さん
……そうか
声が震えていた。
蒼汰は記録吏へ尋ねる。
連絡は取れるのか
現地との通信門を開く必要があります
ですが、レーヴェ村は冬期閉鎖区域です
どれくらいかかる
通常なら三日ほど
三日。
エリオは待つと言った。
だが、十八年待たせた相手に、また三日を当然のように要求したくはなかった。
蒼汰が口を開くより先に、グラディウスが言う。
私の門を使え
カーミラが続く。
血の公域から補助路を重ねます
冬期閉鎖結界はこちらで処理を
エレノアが端末を開く。
座標をください
星間側から空間固定を入れます
イザベルが台帳の地名を確認する。
旧地図と現在地図を重ねます
十分で座標を出します
冬城が即座に職員へ指示する。
第一会議室を通信門室へ変更
棺周辺の結界は維持
弔問列は待機者登録へ切り替えてください
次々と人が動き始める。
誰も命令を待たない。
誰も父がいないことを理由に止まらない。
蒼汰は木笛を握り、動き始めた人々を見る。
本当に、頼めばよかったんだ。
父が十八年一人で抱えたものを、ここにいる者たちはわずかな時間で分け合い始めている。
記録吏が、台帳の続きを読み上げる。
ミリア・エルファン
家族欄、夫と長男は死亡
次男欄は削除されていません
状態、行方不明
そして備考欄には
毎年、境界崩落日の夜に、家の窓へ灯を残すと記されています
蒼汰は息を止めた。
帰還先記憶。
家。
家族。
匂い。
音。
そして、帰るための灯。
第二錨は、まだ消えていなかった。
十八年間、白い道で待っていた少年と同じように。
母親もまた、息子が帰る最後の筋へ、毎年灯を残して待っていた。




