第45話 待っていた声へ、今度こそ返す
……まってた。
幼い声が、雑音の向こうで途切れた。
円形装置の中央に浮かんでいた細い光も、一度大きく揺れ、そのまま消えかける。
蒼汰は反射的に装置へ手を伸ばした。
エリオ
返事はない。
エリオ、聞こえるか
記録紙を走っていた針が、わずかに跳ねた。
完全には切れていない。
冬城さん
これ、どうすればいい
冬城はすでに装置の側面を確認していた。
だが、普段のような即答は返ってこない。
申し訳ありません
この形式の境界観測器は、私の管理範囲外です
リュシエラは円形装置の前へ片膝をつき、床を走る青い線へ指を近づける。
直接は触れない。
光の流れだけを目で追っている。
応答路が細すぎます
声を送るたびに、接続先がずれています
どうすれば固定できる
こちら側だけでは足りません
リュシエラは木笛を見た。
この笛が、エリオという少年を示す錨になっています
ですが、相手側からこちらを示す錨がありません
蒼汰は眉を寄せた。
向こうから見た目印がないってことか
はい
声は届いても、どこへ帰ればいいかが定まりません
守が頭の奥で低く言う。
だから見つけられなかった
蒼汰は円形装置から目を離さないまま返す。
十八年かけても?
ああ
この声も、今まで一度も?
なかった
反応が出たのは最初だけだ
木笛と手紙が届いた時
それからは何もなかった
じゃあ、何で今になって
分からん
守の返答は、ひどく率直だった。
蒼汰は奥歯を噛んだ。
また分からない。
だが今は、それを責めている場合ではない。
円形装置の光が、さらに細くなる。
このままでは、十八年ぶりに繋がった声が再び消える。
蒼汰は装置へ向き直った。
エリオ
聞こえてるなら、何でもいい
もう一度、音を出してくれ
長い沈黙。
地下室にあるのは、装置の低い駆動音だけだった。
やがて木笛が、かすかに震える。
ひゅう。
息が漏れただけのような、小さな音。
記録針が動く。
まだいる。
蒼汰は息を吐いた。
よし
聞こえてる
俺の声も届いてるか
雑音。
途切れた呼吸。
それから、かすかに声が混じる。
……ゆうしゃ、さま?
蒼汰は答えようとして、止まった。
父は勇者ではないと言った。
記録にもわざわざ訂正していた。
だがエリオにとって、境界が崩れた時に助けに来た守は勇者だったのだろう。
ここで違うと言うべきか迷った。
すると守が頭の奥で言う。
違うと言え
今それ大事か?
大事だ
あいつが待ってたのは、嘘の肩書じゃない
蒼汰は小さく息を吐いた。
エリオ
勇者さまじゃない
装置の光が揺れる。
奏多守は、ここにいる
でも、今話してるのは、その息子だ
長い雑音。
……むすこ?
そうだ
奏多蒼汰
父さんの代わりに返事をした
木笛が小さく鳴る。
……ゆうしゃさま、いる?
蒼汰は答えに詰まった。
守は死んでいる。
声だけは頭の中にある。
だが、その状態を九歳の少年へどう説明すればいいのか分からない。
父さん
何だ
お前が答えろ
無理だ
何で
そっちへ声を送る権限がない
権限じゃなくて、言葉の問題だろ
両方だ
蒼汰は思わず舌打ちした。
死んだあとまで、使えないところだけ妙に現実的だ。
守は今、蒼汰の中にいる
直接は話せないけど、聞いてる
言い終えた直後、装置の光が強く揺れた。
……おこってる?
蒼汰は目を瞬いた。
誰が
……ゆうしゃさま
守が頭の奥で何も言わなくなる。
蒼汰は思わず、少しだけ笑った。
怒ってない
たぶん今、何て言えばいいか分からなくなってる
守が低く返す。
余計なことを言うな
聞こえないんだからいいだろ
よくない
その返事に、蒼汰は少しだけ安心した。
父が黙り込んだままではなく、いつもの調子で文句を返してきたからだ。
エリオ
今どこにいるか分かるか
雑音が長く続く。
記録針が細かく震える。
……くらい
他には
……しろい、みち
とおくに、ひかり
白い道。
冬城がすぐに古い記録棚から地図束を取り出す。
リュシエラも立ち上がり、円形装置の側面へ刻まれた文字を確認する。
守
分かるか
境界漂流域の可能性が高い
そこは、どんな場所だ
世界と世界の隙間だ
道だけが残り、出口が消えた領域
普通なら長くはいられん
でも十八年いる
こちらの十八年が、向こうの十八年とは限らん
蒼汰は装置へ向かって聞く。
エリオ
どれくらい待ったか分かるか
少し間があった。
……いっぱい、ねた
腹は減ってるか
……わからない
寒い?
……さむく、ない
でも、ひとり
その言葉だけが、雑音の中でもはっきり聞こえた。
でも、ひとり。
父が十八年間恐れていたのは、死んだかもしれないことだけではなかったのだろう。
生きていた場合。
時間の感覚もない場所で、誰からも返事がないまま、一人で待たせ続けていること。
蒼汰は木笛へ手を添える。
エリオ
よく聞いてくれ
……うん
今、帰る道を探してる
すぐ見つかるとは言えない
守が頭の奥で静かに聞いている。
でも、声はもう届いた
だから、これからは何度でも呼ぶ
返事が切れても、また繋ぐ
装置の光がわずかに強くなる。
エリオは、一人じゃない
俺がここにいる
父さんも聞いてる
他にも二人いる
リュシエラが蒼汰を見る。
蒼汰はその視線へ頷いてから、装置へ向かって続けた。
冬城さんと、リュシエラだ
二人とも帰る方法を探してくれてる
……ふたり?
そうだ
まだ増える
冬城がほんの少しだけ目を見開いた。
リュシエラの口元が、わずかに動く。
守が頭の奥で言う。
蒼汰
何だ
増やすつもりか
当たり前だろ
この場所は機密だ
今それ言うのか
境界記録には、国ごと隠した情報もある
蒼汰は円形装置を見つめたまま、はっきり返した。
だから何だよ
守が黙る。
父さんは十八年間、一人で探して見つけられなかった
だったら次は、一人で探さない
必要な情報だけ出す
手伝えるやつには手伝ってもらう
魔王でも王様でも吸血鬼でも星間航路の人でも、使えるやつは全部使う
言い方を考えろ
聞こえてないからいいだろ
よくない
でも間違ってない
守は反論しなかった。
冬城が静かに頭を下げる。
すぐに選別します
境界探索、時間差観測、漂流域航行に実績のある弔問団を優先します
もう心当たりあるんですか
複数
この葬儀、本当にどうなってるんだよ……
リュシエラが淡々と続ける。
母上にも連絡を
血の公域には、古い境界穴を追うための血脈追跡術があります
使えるのか
対象の血があれば
ただし、エリオ本人の血はありません
守が頭の奥で言う。
ある
三人の視線が同時に動いた。
蒼汰だけにしか聞こえていない。
だが表情で分かったのか、冬城が尋ねる。
守様が何か?
血があるって
どこに
守
未帰還者記録室
エリオの箱の奥
薄い硝子板だ
蒼汰は黒い箱をもう一度確認する。
木笛を収めていた内箱を外すと、その下にさらに薄い底板があった。
指をかけて持ち上げる。
中に、小さな硝子板が一枚入っていた。
中央には茶色く変色した跡。
リュシエラが近づき、匂いを確かめる。
瞳の赤が一瞬だけ濃くなった。
血です
古いですが、術式保存されています
どうして持ってるんだ
門が崩れた時、エリオが腕を切った
治療した布から取った
守の返事は平坦だった。
何で今まで使わなかった
血の公域と盟約を結ぶ前だった
結んだ後も、漂流域へ血脈術を通す許可が下りなかった
リュシエラが静かに眉を寄せる。
母上は知っていましたか
知らん
申請は公域評議会へ出した
却下されたのか
三度
リュシエラの空気が変わった。
怒鳴るわけではない。
表情もほとんど動かない。
だが地下室の温度が、急に数度下がったように感じた。
評議会が
母上に上げず、三度止めたのですね
守がぼそりと言う。
たぶんな
リュシエラは蒼汰へ一礼した。
少々失礼します
どこ行くんだ
母上へ連絡を
また、評議会の現存議員へ、今夜中に事情を思い出していただきます
穏やかに頼む
善処します
絶対穏やかじゃないやつだろ、それ
リュシエラは答えず、少し離れた場所で黒い通信具を取り出した。
蒼汰は血の残る硝子板を装置の側面へ近づける。
その瞬間、円形装置の光が大きく広がった。
警告音が響く。
冬城が記録紙を確認する。
対象照合が始まりました
成功しそうなのか
まだです
ですが反応点が一つに絞られています
装置中央の黒い空間に、白い線が現れる。
その先に、小さな光点。
遠い。
細い。
今にも消えそうだ。
だが、先ほどまでの揺れる反応とは違う。
位置が固定されている。
守が息を呑む。
いた
父の声が震えていた。
十八年間。
何度探しても見つからなかった点。
それが今、目の前にある。
蒼汰は装置へ向かう。
エリオ
聞こえるか
今度の返事は、先ほどより少しだけ早かった。
……きこえる
光点から、細い線がこちらへ伸びる。
帰還経路推定。
必要錨数、三。
現在錨数、一。
不足錨数、二。
装置の表面へ文字が並ぶ。
第一錨。
対象血液。
認証済み。
第二錨。
帰還先記憶。
未登録。
第三錨。
待機者証明。
未登録。
蒼汰は表示を読む。
帰還先記憶って何だ
守が答える。
エリオが帰る場所の記憶だ
家、家族、匂い、音
向こうからこちらを選ぶためのもの
十八年前の家族は
生きていれば、もう……
守は言葉を濁した。
エリオの両親はどうなった
父親は崩落で死んだ
母親は当時生きていた
今は
分からん
六年前から報告が途切れた
蒼汰は奥歯を噛む。
また一つ、探さなければならないものが増えた。
第三錨の待機者証明は?
今ここで、あいつの帰還を待っている者の証明だ
俺じゃ駄目なのか
記憶が浅い
声を聞いただけでは、錨として弱い
じゃあ、父さんなら
守はしばらく黙った。
私はもう死んでいる
その一言が重く落ちる。
十八年間、一番強く待っていた人間はもういない。
だが蒼汰は、すぐに木笛を握り直した。
だったら、強くすればいい
何を
俺の錨を
蒼汰
今日知ったばかりなら、今日から待つ
一日で足りないなら、明日も待つ
俺一人で弱いなら、待つやつを増やす
守が黙る。
父さんを知ってる人たちが、外に山ほど来てるんだろ
父さんに帰された人
父さんが道を残した人
そいつら全員に、今度は一人を帰す側へ回ってもらう
冬城が静かに言う。
可能性はあります
待機者証明が個人ではなく、複数の意志を束ねる形式なら
本式の弔問儀礼を転用できます
葬儀を?
はい
弔問とは本来、亡くなった方を送るために、残る者が集まる儀礼です
冬城は円形装置の光点を見る。
ですが向きを逆にすれば
帰れなかった者を迎えるために、残る者が集まる儀礼にもできます
蒼汰は何も言えなかった。
父を送るために集まった人々が、父の帰せなかった少年を迎える。
偶然にしては出来すぎている。
蒼汰は頭の奥の守へ問いかける。
父さん
何だ
これ、最初から狙ってたのか
違う
即答だった。
本当に?
葬儀へ誰が来るかまでは分からん
第一、エリオの反応が戻るとは思ってなかった
じゃあ、本当に偶然か
……たぶんな
蒼汰は少しだけ笑った。
父らしくない。
父はいつも準備していた。
何重にも手を打ち、死んだあとまで息子へ順番を指示している。
だが今回は違う。
父も想定していなかった。
蒼汰が問いへ答えたこと。
冬城とリュシエラが隣にいたこと。
木笛から声が返ったこと。
多くの人々が父を弔うため、すでに一か所へ集まっていること。
父一人では作れなかった帰還路が、父の死によって初めて作れる形になっていた。
エリオ
蒼汰は装置へ呼びかける。
……うん
もう少し待てるか
少しの沈黙。
蒼汰は胸が痛くなるのを感じた。
十八年待っていた相手へ、さらに待てと言う。
だが今度は、返事をしないまま待たせるのではない。
必ず声をかけ続ける
帰る場所も探す
迎える人も集める
だから、もう少しだけ待ってほしい
雑音の向こうで、幼い声が答える。
……こんどは、きえる?
蒼汰はすぐに答えた。
消えても、また繋ぐ
ほんと?
本当だ
帰れるとは、まだ言えない。
だがこれだけは約束できる。
蒼汰は木笛を強く握った。
今度は、返事をしないままいなくならない
長い沈黙。
やがて、エリオが小さく答えた。
……わかった
まってる
装置の光が安定する。
細かった一本の線が、わずかに太くなった。
冬城が記録を確認する。
応答路、仮固定
次回接続座標も保存されました
これで完全に見失う可能性は下がります
蒼汰は大きく息を吐いた。
同時に、足から力が抜けそうになる。
十八年前から止まっていた何かが、ようやく一つだけ動き出した。
守
何だ
エリオは待つって
ああ
今度は絶対に一人で探すなよ
守は少し黙った。
それから、ひどく小さな声で答えた。
……もう、私には探せん
その言葉に、蒼汰は胸を突かれた。
父はもう死んでいる。
何でもできそうな声で頭の中にいるが、本当は何も触れない。
装置も動かせない。
扉も開けられない。
エリオへ直接返事を送ることすらできない。
だから蒼汰へ残した。
蒼汰は円形装置の小さな光点を見る。
なら、俺たちで探す
守は何も答えなかった。
だが頭の奥で、父がほんの少しだけ息を吐いた気がした。
冬城が立ち上がる。
会館へ戻りましょう
弔問団の中から、帰還路構築に必要な方々を選びます
まだ弔問の途中なのに、頼んでいいのか
冬城は静かに蒼汰を見る。
おそらく皆様
守様へ別れを告げることより
守様が最後まで帰せなかった方を迎えることを優先なさいます
リュシエラが通信具を閉じて戻ってきた。
母上も同意しました
血の公域から境界追跡官を送るとのことです
評議会は?
今夜から欠員が増えるかもしれません
何したんだよ
まだ何も
まだ、を強調するな
リュシエラは表情を変えず、血の硝子板を丁寧に箱へ戻した。
蒼汰は最後に、装置へ向き直る。
エリオ
一度戻る
でも、また来る
……うん
怖くなったら、笛を鳴らしてくれ
すぐ聞こえるかは分からないけど、記録は残る
……そうた
初めて名前を呼ばれた。
蒼汰は目を見開く。
何だ
……ありがとう
短い言葉だった。
それだけで、蒼汰はしばらく何も返せなかった。
ありがとうと言われるようなことは、まだ何もしていない。
帰還路もない。
母親も見つかっていない。
迎える準備もできていない。
それでも今は、返事が届いた。
蒼汰は小さく頷く。
礼は、帰ってからでいい
木笛が、一度だけ高く鳴った。
円形装置の光は消えなかった。
暗い境界の向こうにある小さな点を、細い線が確かに繋いでいる。
蒼汰は未帰還者記録室を振り返る。
棚には、まだ多くの名前があった。
エリオだけではない。
父が帰せなかった人々。
捜索終了を認めなかった人々。
返事を待っているかもしれない人々。
全部を背負うとは、まだ言えない。
父の仕事を継ぐとも決めていない。
だが少なくとも、声が届いた相手へ背を向けることはできなかった。
蒼汰は木笛を持ったまま、地下室の出口へ歩き出す。
父、奏多守が十八年間一人で探し続けた少年を、今度は父に帰された者たち全員で迎えるために。
そして葬儀場では、守へ別れを告げるはずだった弔問客たちが、まだ誰も知らない新しい役目を待っていた。




