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父、奏多守はほら吹きではなかった  作者: てへろっぱ


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第43話 勇者ではなく、帰す者



青い背表紙へ触れた瞬間、地下空間の奥で小さな音がした。


かちり。


鍵が外れた音にも聞こえた。

何かが蒼汰を認識した音にも聞こえた。


指先の下で、本の表紙に刻まれた銀文字が淡く光る。


境界運用記録 第一保管区画


その下に、今まで見えていなかった一行が浮かび上がった。


管理責任者 奏多守


蒼汰はしばらく、その名前を見つめた。


父の名だ。

見慣れている。

学校の書類にも、役所の手続きにも、宅配便の受取欄にも書かれていた名前。


なのに今は、旧校舎の地下にある異様な保管室で、青白い光を帯びている。


同じ文字のはずなのに、まるで知らない人の名前みたいだった。


冬城さん


はい


境界運用って、何ですか


冬城はすぐには答えなかった。


少し後ろに立つリュシエラも、青い本を見つめたまま口を閉じている。

吸血公爵家の姫である彼女まで慎重になっていることが、余計に不安を強くした。


やがて冬城が言う。


世界と世界の間を維持する仕事です


蒼汰は数秒黙った。


父さん、そんな仕事してたんですか


守が頭の奥でぼそりと答えた。


仕事というほど立派なものじゃない


本人に聞いてない


聞いたようなものだろう


違う


蒼汰は反射的に返し、それから目の前の本へ視線を戻す。


世界と世界の間。

そんな言葉を、普通の顔で受け入れ始めている自分もおかしい。


だが今夜はもう、魔王も吸血鬼も星間航路も実在した。

いまさら世界の境界だけを疑う理由がない。


蒼汰は青い本を持ち上げた。


重い。


見た目以上に重かった。

紙の重さではない。

中に記録されているものが、そのまま腕へ乗ってきたような重さだ。


机の前に置かれていた椅子を引き、腰を下ろす。

冬城とリュシエラは少し離れた位置へ立った。


開けます


蒼汰が言うと、冬城が一礼する。


はい


リュシエラも小さく頷いた。


ただし、血印が出た場合は触れないでください


先に言ってくれて助かる


守の時と違って?


リュシエラが静かに聞く。


蒼汰は少しだけ苦く笑った。


うん

父さんは、だいたい音がしてから説明するから


守が頭の奥でぼそりと言う。


結果的には間に合ってる


そういうところだよ


青い表紙を開く。


最初の頁には、文字がなかった。


代わりに、薄い銀色の円が描かれている。

円の内側に、さらに小さな円と直線が何重にも重なり、中心に細い針のようなものが浮いていた。


蒼汰が顔を近づけた瞬間、円の中心から青白い光が立ち上がる。


机の上に、小さな立体図が現れた。


黒い空間。

その中に浮かぶ、無数の光点。

光点同士を繋ぐ細い線。


星図に似ている。

だが、たぶん星だけではない。


線の一部が赤く明滅していた。


リュシエラが低く呟く。


境界路図……


知ってるのか


古い形式です

少なくとも、我が家が血の公域を得るより前の規格です


それって何年前


およそ八百年ほど前です


蒼汰は立体図と父の名前を交互に見た。


父さん、八百年前の設備使ってたのか


守が頭の奥で返す。


古い方が壊れにくい


家電と同じ感覚で言うなよ


部品も手に入る


どこでだよ


返事はなかった。


蒼汰は次の頁をめくる。


今度は文字があった。


境界障害対応記録 第一号


発生日。

発生領域。

接続世界。

障害等級。

対応者。


整然とした項目が並び、その対応者欄にだけ、見慣れた名前が書かれている。


奏多守


蒼汰は日付を見た。


十八年前。


自分がまだ小さかった頃だ。


記憶の中で、父が三日ほど家に帰らなかった時期と重なる。

母は仕事だと言っていた。

父も帰ってきてから、少し遠くへ行っていたと笑っていた。


その少し遠くが、別世界だったらしい。


蒼汰は記録を読み進める。


接続先は、エルドア辺境領。

障害内容は、召喚門の崩壊。

現地術者が勇者召喚を試み、門の固定に失敗。

周辺集落を巻き込む境界崩落が発生。


蒼汰は思わず顔をしかめた。


勇者召喚って、父さんが呼ばれたんじゃないのか


違う


守が即答した。


別のやつを呼ぼうとして失敗した

私は巻き込まれただけだ


巻き込まれただけで、別世界まで行くのかよ


運が悪かった


その一言で済ませるなよ


蒼汰は記録へ戻る。


対応内容。


召喚門の緊急固定。

周辺住民百三十七名の退避。

現地術者十一名の保護。

召喚対象者の接続切断。

崩壊領域の封鎖。


そして、現地評価欄。


勇者認定。


その文字には太い線が引かれていた。

横に守の字で追記がある。


違う。

呼ばれた方じゃない。


蒼汰は思わず吹き出しかけた。


何してんだよ


間違ってたから直した


そこだけ妙に几帳面だな


さらに下には、別の追記がある。


現地王府より聖剣授与予定。

本人拒否。


守の字。


いらない。

長いし重い。

工具箱の方がまし。


蒼汰はとうとう額を押さえた。


本当に父さんだ……


リュシエラが隣から頁を覗き込み、ほんの少しだけ口元を緩める。


守殿らしいですね


知ってるのか


聖剣を薪割りに使おうとして、王府の方々に止められたと母上から



何だ


やったのか


刃が厚くて使いやすそうだった


最低だよ


冬城が小さく咳払いした。

笑いを堪えたようにも聞こえた。


だが、頁の下まで読み進めたところで、蒼汰の笑いは止まった。


帰還確認欄。


現地住民百三十七名。

帰還百三十六名。

未帰還一名。


名前。


エリオ・ファン。


年齢、九歳。


蒼汰の指が止まった。


紙面のその一行だけ、何度も書き直された痕があった。

未帰還という文字の上へ線を引こうとして、途中でやめた痕。

別の色のインク。

何度もめくられたせいで薄くなった紙。



蒼汰が心の中で呼ぶ。


返事はすぐにはなかった。


父さん


……何だ


この子は


守の声が、さっきまでより低くなる。


最初に帰せなかった


地下空間の空気が、急に冷えた気がした。


蒼汰は頁を見つめたまま動けない。


何があったんだよ


門が崩れた

最後の一人を出す前に


父さんは


間に合わなかった


短い返事だった。


言い訳もない。

仕方なかったとも言わない。

ただ、間に合わなかった、とだけ答えた。


蒼汰はもう一度、名前を見る。


エリオ・ファン。

九歳。


その横に、守の手書きがある。


家族への帰還確認、未完了。

遺留品、木笛一本。

保管継続。


蒼汰は思わず周囲を見回した。


木笛は


右の棚

上から三段目

小さい箱だ


守の返事は早かった。


十八年も置いてあるのか


ああ


家族には


会った


何て言った


守は少し黙った。


帰せなかったと


それだけ?


それ以外、何を言えばよかった


蒼汰は返事ができなかった。


今夜会った人々は、父に救われたと言っていた。

国を救われた。

命を救われた。

制度を壊され、朝を守られた。

名前を戻された。

手を握られた。


だが、父には最初から救えなかった一人がいた。


そしてその一人を、十八年間ずっと記録の最初に置いていた。


蒼汰は次の頁をめくる。


境界障害対応記録 第二号。


帰還確認欄。

全員帰還。


第三号。

全員帰還。


第四号。

全員帰還。


第五号。

全員帰還。


頁をめくるたび、同じ項目が続く。


国。

種族。

人数。

障害内容。

対応方法。

被害。

帰還。


父がどれだけ大きなことをしたかより、最後の帰還欄だけが異様に細かかった。


誰が戻ったか。

誰が戻っていないか。

誰がどの門を通ったか。

帰還後、誰が出迎えたか。

家へ入ったか。

食事を取ったか。

眠れたか。


蒼汰は頁をめくる手を止めた。


父さん


何だ


今まで会った人たちが言ってた

あんたは帰る側ばっかり見てたって


守は何も言わない。


この子のせいなのか


少し長い沈黙があった。


やがて守が答える。


……最初から、そのつもりではあった


じゃあ


間に合わなかったあとで

もっと、うるさくなった


蒼汰は目を伏せた。


父がどうして、第二打を止めたのか。

どうして帰還灯を先につけたのか。

どうして帳簿の朝を待たせなかったのか。

どうして名前のない子に札をつけたのか。

どうして最後の路地の灯を残したのか。


全部の始まりが、この一行にあるのかもしれない。


未帰還一名。


エリオ・ファン。


九歳。


リュシエラが静かに言う。


母上が一度だけ話していました


蒼汰は顔を上げた。


何を


守殿は、誰かを救えた話をほとんどしない

ですが、救えなかった者の名前だけは忘れない、と


蒼汰は何も言えなかった。


父が家で語っていたほら話は、大げさだった。


俺は異世界の勇者だった。

魔王とは友人だ。

向こうでは賢者と呼ばれていた。

宇宙のいくつかの星も救った。


そんなことばかり言っていた。


でも、本当に話したかったのは、たぶん自慢ではなかった。


帰せなかった一人のことを、直接言えなかっただけなのかもしれない。


だから笑い話みたいにした。

勇者だ、賢者だと、蒼汰が信じない形へわざと崩した。

信じられなければ、父の失敗まで息子が背負わずに済むから。


蒼汰は青い本をさらにめくる。


記録の数は多い。


十。

二十。

五十。


世界の名前が変わる。

国が変わる。

種族が変わる。


魔王領停戦境界。

星間避難航路。

聖堂連盟崩落区域。

血の公域内乱。

砂海回廊。

霧裂盆地。


今夜聞いた話と同じ名前が、次々に出てくる。


そのすべての帰還確認欄に、細かな文字があった。


全員帰還。

帰還後保護完了。

家族照合完了。

食事確認。

就寝確認。


蒼汰は思わず呟く。


やりすぎだろ……


守が静かに返す。


確認しないと、帰還とは言えん


門を通っただけじゃ駄目なのか


駄目だ


守の返事は、はっきりしていた。


門を通って

内側に入って

名前が戻って

温かいものを食って

眠れる場所まで行く

そこまでで帰還だ


蒼汰は目を閉じた。


今夜、弔問客たちが語った父の姿が、全部一つに繋がった。


飯。

水。

灯。

布。

名札。

門。

鐘。

帰る道。


父は世界を救っていたのではない。


少なくとも本人は、そう思っていなかった。


ただ、帰りきれない人間を最後まで内側へ押し込んでいただけだ。


蒼汰は頁の途中に、見慣れない表を見つけた。


管理者呼称一覧。


現地呼称。


勇者。

賢者。

星渡り。

異界伯。

聖堂外典顧問。

血盟者。

魔王友邦人。

境界卿。

帰還王。


そのすべてに、守の字で線が引かれていた。


横に一言。


どれも違う。

臨時の修理係。


蒼汰は数秒黙り、それから小さく笑った。


臨時の修理係って……


だいたい合ってる


十八年やって臨時は無理があるだろ


本業じゃない


じゃあ本業は何だったんだよ


守は少しだけ間を置いた。


父親のつもりだった


蒼汰の笑いが止まった。


地下空間が、ひどく静かになる。


蒼汰は青い本へ視線を落としたまま、すぐには返せなかった。


つもりだった。


その言い方が、妙に父らしかった。


父親だった、と言い切らない。

ちゃんとできていたとも言わない。

ただ、そうするつもりだったとだけ言う。


蒼汰はゆっくり息を吐いた。


……下手だったよ


ああ


すごく


分かってる


王太子育てるより、俺に話す方が難しかったのか


難しかった


即答だった。


蒼汰は思わず顔を上げた。


そこは迷わないんだな


迷う余地がない


少し腹が立った。

でも同時に、少しだけ胸が軽くなった。


父も分かっていたのだ。

自分が家族の前で何も説明できなかったことを。

世界の境界を直せても、息子との距離は直せなかったことを。


その時、青い本の後半部分がひとりでに閉じた。


蒼汰が手を置いても開かない。

頁同士が固まったように動かなかった。


何だこれ


冬城が本の側面を確認する。


第一閲覧条件が満たされたようです


満たされたのに閉じるのか


第一保管区画で開示できる範囲が、ここまでということでしょう


リュシエラが本の背を見て言う。


後半は別の鍵が必要ですね


蒼汰は机に置かれていた小さな鍵札を見た。


表には第二保管区画と刻まれている。

だが鍵穴の位置は書かれていない。


代わりに、青い本の最後に開いている頁へ、一文だけ浮かび上がった。


第一記録閲覧完了。


次の閲覧条件。


最初の未帰還者へ、管理者の代わりに答えること。


蒼汰は眉を寄せた。


答える?


その直後、地下空間の右側。

守が木笛があると言った棚の一部が、青白く光った。


三段目。


小さな黒い箱。


蒼汰は立ち上がった。


冬城が一歩前へ出る。


蒼汰様


分かってます

触る前に確認する


蒼汰は棚へ近づく。


黒い箱の上には、名前が刻まれていた。


エリオ・ファン。


蓋へ手を触れる。

今度は音はしなかった。


ゆっくり開く。


中には、小さな木笛が一本。


そして、その下に折り畳まれた紙が一枚入っていた。


守の字ではない。


幼い文字だった。


蒼汰は紙を広げる。


短い一文だけが書かれていた。


勇者さま。

ぼくは、ちゃんと帰れますか。


蒼汰は息を止めた。


十八年前。

門が崩れる前に書かれたのか。

それとも、別の場所から残されたものなのか。


分からない。


ただ、その問いへ父は答えられなかった。


だから十八年間、ここに残していた。



蒼汰が胸の内で呼ぶ。


返事はない。


父さん


今度は、かすかな声が返った。


……何だ


この問い

俺が答えていいのか


長い沈黙。


そして守が、低く言った。


そのために残した


蒼汰は木笛と紙を見つめた。


父が帰せなかった最初の一人。

父が十八年間抱えてきた問い。

その答えを、息子へ渡そうとしている。


勝手だ。

本当に勝手だ。

死んでから、こんなものまで残すなんて、あまりにも父らしい。


それでも蒼汰は、紙を置かなかった。


木笛を手に取り、小さく握る。


どう答えればいいのかは、まだ分からない。


だが、その瞬間。

地下空間のさらに奥で、重い錠が一つだけ外れた。


第一保管区画の向こう。

閉じられていた金属扉に、細い青い線が走る。


その扉の中央へ、文字が浮かび上がった。


未帰還者記録室。


父、奏多守は、世界を救った英雄としてではなく、帰せなかった一人を十八年間待ち続けた男として、息子へ最初の扉を残していた。


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