第42話 父の鍵は旧校舎を開ける
小学校の旧校舎だ。
その一文を、蒼汰はしばらく見つめたまま動けなかった。
月ではない。安心しろ。もっと近い。
続く守の字が、妙に腹立たしい。
人が泣いた直後に読む文面ではないし、死んだあとでしか読めないようにしておいて、この軽さは何なんだと思う。
けれど、ひどく父らしかった。
蒼汰は便箋を握りしめたまま、次のページをめくる。
そこには、見慣れた町の簡単な地図が描かれていた。
会館。
小学校。
裏門。
旧校舎。
理科準備室。
その横に、守の字で追記がある。
表から入るな。
裏だ。
鍵穴は見えにくい。
音がしても、慌てるな。
蒼汰は思わず額を押さえた。
……だから、そういうとこなんだよ
冬城が少し離れた場所で待っている。
グラディウスはもういない。
搬入口の向こうでは、まだ弔問客の気配が増えている。車の音。低い話し声。どこかで黒服が走る足音。
会館の中は、父の葬儀場というより、何かの中心点みたいになっていた。
冬城さん
はい
これ、行かないと駄目ですか
冬城は少しだけ考えてから答えた。
守様は、そのつもりで準備されています
行かなかったら
行かなくても構いません
ですが、守様が最後まで隠したかったものと、最後には蒼汰様へ渡すつもりだったもの、その境目を知らずに終わる可能性があります
脅しではない。
ただ事実だけを置く言い方だ。
蒼汰はそれが少しだけ腹立たしく、少しだけありがたかった。
……行きます
承知しました
冬城はすぐに頷いた。
表は混み始めていますので、裏から出ます
車はこちらで
蒼汰は革の手帳と母の手紙、録音機と鍵を持ち直した。
全部を持つと、思ったより重かった。
ただの紙と金属のはずなのに、そのどれもが、父の言い訳みたいに手の中へ残る。
会館の裏手から外へ出ると、夜気が冷たかった。
黒いセダンが一台だけ待っている。
目立たない車だが、運転席の男は明らかに普通ではない。視線も姿勢も、護衛のそれだった。
蒼汰は後部座席に乗り込み、窓の外を見た。
街はいつもの夜のはずだった。
コンビニの灯り。閉まった商店街。住宅の窓。
なのにその背後で、魔王が弔問に来て、大臣が列を作り、父の手帳は小学校の旧校舎を指している。
頭がおかしくなりそうだった。
冬城は助手席で短い連絡だけを捌いていた。
どこどこの代表が到着、誰それは控室へ、国外第二陣は足止め。
まるで国際会議の運営みたいだ。
蒼汰は聞かないことにした。
聞いたら、また足元が消えそうだった。
小学校は、十分もかからず着いた。
正門ではなく、手帳にあった裏門へ回る。
かつて通った通学路の裏側、あまり人が通らない細い道の先に、古びた鉄門がひっそりと立っていた。
錆びていて、半分開きかけている。
子供の頃、この辺りは肝試しの定番だった。旧校舎の裏は出る、とか、理科準備室で音がするとか、よくそんな噂をした。
守は、その話を聞いて笑っていた。
出るぞ。
そりゃあ、音くらいする
当時は意味が分からなかった。
蒼汰は裏門を押した。
ぎい、と嫌な音がする。
冬城は何も言わず、一歩後ろに下がる。
蒼汰が先に入るのを待っているのだと分かった。
校庭は暗かった。
新校舎の方は窓が真っ黒で、旧校舎はそのさらに奥に沈んでいる。
月明かりだけが、屋根とガラスの輪郭をぼんやりと浮かべていた。
懐中電灯を
冬城が差し出してくる。
蒼汰は受け取った。
冷たい金属の感触が、妙に現実を取り戻させる。
ありがとう
いえ
光をつける。
白い円が、雑草の生えた地面と、校舎の古い壁を照らした。
旧校舎は思ったより小さかった。
子供の頃はもっと大きくて、もっと怖かった気がするのに。
近づくと、ひびの入った窓、剥がれた塗装、閉じられた雨戸の金具が、妙に具体的に見える。
手帳の地図では、理科準備室の外壁。
窓を右に三つ。
補修跡のある場所。
蒼汰は壁沿いに歩いた。
理科準備室の札はもう外れているが、位置は覚えている。
ホルマリンの匂いが嫌で、できるだけ近づきたくなかった部屋だ。
外壁へ光を当てる。
古い校舎らしく、ひびは多い。
だが一か所だけ、不自然に塗り直された四角い跡があった。
守の字で書かれていた通りだ。
これか
蒼汰が手を触れる。
ざらついた壁。
だが中央だけ、わずかに滑らかだ。
押してみる。
動かない。
横へずらす。
駄目だ。
舌打ちしかけた時、手帳の追記が目に入る。
鍵穴は見えにくい。
蒼汰は息を止めて、補修跡の縁を指先でなぞった。
ほんの少しだけ、爪の先に引っかかる段差がある。
そこを押し込むと、壁の一部がかすかに沈んだ。
続けて別の場所を押す。
かち、と乾いた音がして、細い継ぎ目が浮いた。
思わず息を呑む。
蒼汰様
冬城の声が落ちる。
開きます
その直後、校舎の奥のどこかで、かたり、と音がした。
蒼汰の肩が跳ねた。
言っただろう。音はする。
守の声が、脳内で勝手に再生される。
腹が立つ。
でもその腹立たしさが、少しだけ緊張を誤魔化してくれる。
浮いた部分へ指をかける。
薄い蓋のようなものが外れ、その奥に小さな鍵穴が現れた。
手の中の鍵と、ぴたり同じ形だ。
本当にあるのかよ……
蒼汰は鍵を差し込んだ。
驚くほど滑らかに入る。
まるで最近まで使われていたみたいに。
回す。
かちり、と乾いた音。
それだけでは終わらなかった。
理科準備室の中で、もっと大きな何かが外れる音がして、床下か壁の向こうか分からない場所から、低い振動が伝わってきた。
次の瞬間、理科準備室の窓の向こうが、青白く光った。
蒼汰は思わず後ずさる。
電灯ではない。
懐中電灯でもない。
床下から細い線が立ち上がるように、青白い幾何学の光が広がっていた。
円。直線。交点。見たことのない文字列。
魔法陣、と言ってしまえばたぶんそうなのだろう。
でももっと無骨で、実務用の図面みたいだった。
理科準備室の扉が、内側からゆっくり開いた。
誰もいないはずなのに。
蒼汰はしばらく立ち尽くした。
逃げるほどではない。
だが近づくには、自分の知っていた現実を少し捨てなければならない気がした。
冬城は一歩前へ出たが、それ以上は踏み込まない。
ここから先は、蒼汰様が開く場所です
……知ってたんですか
入口の存在だけは
中身までは、守様が最後まで伏せられていました
父は本当に最後まで、そういうところだけ徹底している。
蒼汰は理科準備室の中を見た。
本来あるはずの机も棚もない。
床の中央が、静かに開いていた。
いや、開いているのではない。
下へ続く階段が現れている。
旧校舎の地下に、そんなものがあるはずがなかった。
守
蒼汰は胸の内で呼んだ。
何だ
あんた
ここに何を隠してたんだよ
少しだけ間があってから、いつもの声が返る。
だから言っただろう
たぶん、お前の想像より十倍は面倒だ
蒼汰は思わず、口の端だけで笑った。
腹が立つ。
でも、その腹立たしさがいまは少しだけ支えになる。
理科準備室の床へ一歩、足を踏み入れる。
青白い光が足元をなぞる。
埃はある。古い匂いもある。なのに、それだけではない。
鉄。紙。石。そして、どこか懐かしい匂い。
父の匂いだ。
家の押し入れの奥や、たまに着ていた古い上着に残っていた、乾いた紙と外気の混じった匂い。
それが、この異様な地下階段の向こうから微かに漂ってくる。
蒼汰は鍵を握り直した。
行くんですか
冬城の問いは、止めるためのものではなかった。
確認のための声だった。
……ここまで来て、行かないわけにもいかないだろ
そうですね
ただ、一つだけ
蒼汰は振り返る。
危ないと思ったら、隠さず言ってください
父が作ったものだからって、全部大丈夫とは思わないんで
冬城の表情が、ほんの少しだけ和らいだ。
はい
その判断は、正しいと思います
蒼汰は頷き、階段へ足をかけた。
一段。
二段。
石段は思ったよりしっかりしている。
古いが、よく管理されていた跡があった。
青白い光は階段の縁に沿って続いている。
下は暗くない。もっと奥に空間があるのだと、気配だけで分かる。
半ばまで下りたところで、上の理科準備室の扉が、ひとりでに静かに閉まった。
蒼汰は反射的に振り返る。
閉じただけです
施錠ではありません
冬城がすぐに告げる。
それ、先に言って
申し訳ありません
下りきる。
そこには、部屋があった。
いや、部屋ではない。
旧校舎の地下とは思えない広さの空間が、青白い灯りの中に広がっていた。
石壁。
金属棚。
木箱。
巻かれた地図。
鍵付きの保管庫。
無駄のない作業机。
武器というより工具に見える道具類。
それら全部が、父の部屋よりずっと父らしかった。
中央の机の上だけが、妙に片づいていた。
そして、その中央に一冊の青い背表紙の本が置かれている。
手帳の地図にあった指示が頭をよぎる。
右奥の棚から、青い背表紙を持ってこい。
蒼汰は小さく息を呑んだ。
もう置いてあるのかよ……
まるで、蒼汰がここへ来ることを知っていたみたいに。
本の横には、一枚の紙。
守の字だった。
ここまで来たなら、たぶんもう引き返せない。
悪いな。
青を開ければ、私が何をしていたかの最初の半分は分かる。
後半は、それを読んでから怒れ。
蒼汰は額を押さえた。
本当に、どこまで行ってもそうなんだな……
だが目は、本から逸らせなかった。
青い背表紙。
そこへ銀の文字で書かれている。
境界運用記録 第一保管区画
蒼汰はゆっくりと手を伸ばした。
父、奏多守は、ほら吹きではなかった。
その確信だけが、ようやく形を持ち始める。
だが同時に蒼汰は悟る。
父が隠していたのは「すごい過去」なんかではない。
もっと面倒で、もっと現実的で、もっと自分の生活に食い込んでくる何かだ。
青い本に指が触れる。
その瞬間、地下空間のさらに奥、閉じられていたはずの金属棚のどこかで、かちり、と小さな音がした。
守の仕事場は、死んでもまだ、息子に順番を指図していた。




