第41話 暗くすると、帰る筋ごと消える
棺のある広間へ戻る前に、蒼汰は広間脇の長卓をまた一度だけ見た。
父の知らない顔が、もう完全に一つの街どころか、一つの世界みたいに並んでいる。
兵站局の黒箱。
商隊旗。
大勲章。
削られた勲札。
宮旗。
裂かれた婚約書類。
銀の燈。
祭壇布。
学監棒。
教育日誌の複写。
夜紋。
盟約写し。
羅針儀。
消えた線の地図。
銀の主席笛。
規定集。
巨大な解除鍵。
河渠院旗。
帰還優先灯の運用標。
統制塔旗。
鐘槌。
礼楽院旗。
真鍮札。
図書院旗。
銀筆。
紋章院旗。
打診槌。
医学院旗。
赤い指揮灯。
消防局旗。
焼けた識別札。
捕虜交換局旗。
黒い配炭札。
蔵政院旗。
木の便札。
児童保護院旗。
白い墓標札。
墓政司旗。
青銅の出港札。
港務局旗。
真鍮の呼鈴。
施療院看護局旗。
銀の匙。
施療院厨房局旗。
青い空瓶。
中央薬庫旗。
青銅の楔。
避難鐘楼旗。
鉄の仮帰還札。
帰還者照合局旗。
白い仮識別札。
孤児識別記録局旗。
白い衣類札。
施療院衣料庫旗。
どれも父が褒められた証ではない。
それでも全部、父がどこで何を見ていた人間だったのかだけは、嫌になるほど正確に伝えてくる。
蒼汰は深く息を吐いた。
次、灯守長だったよな
冬城が頷く。
はい
王都冬期街灯局の灯守長です
守様に、冬期街灯の消灯順を一巡、勝手に遅らされたご当人になります
……また灯かよ
守が頭の奥でぼそりと言う。
暗くすると、帰れなくなる筋があった
本当に最後までそこなんだな
だいたいそうだろう
リュシエラが横で静かに言う。
灯は、明るさのためだけではありません
帰る方向を、人が疑わないためにも要りますので
慰めになってないな
慰めではありませんから
蒼汰は小さく呻いて、応接室へ向かった。
扉が開く。
今度の部屋の空気は、油と煤と冷えた金属の匂いがした。
灯油そのものではない。街灯の頭を開け、芯を整え、風除けガラスを磨き、冬の夜気の中で火を守ってきた人間の仕事場の匂いだった。
中央に立っていたのは、男だった。
年齢は六十代後半ほど。
背は高くない。痩せている。だが折れそうには見えない。長く街の灯を順に点け、順に落とし、どの路地が何刻で真っ暗になるのかを体で覚えてきた人間の、静かな芯があった。
黒の礼装の上に、暗い金茶の肩布をかけている。役人の外套というより、灯守の正装だ。髪は白く、短い。鼻筋は細く、指は節くれ立っている。油と煤を扱う手だった。
後ろには若い灯守が二人。
ひとりが細長い箱を、もうひとりが分厚い消灯帳と、黄褐色の旗包みを抱えている。
冬城が告げる。
王都冬期街灯局灯守長、オットー・フリース様です
守様に、冬期街灯の消灯順を一巡、勝手に遅らされたご当人です
男――オットーは、蒼汰を見て深く一礼した。
奏多蒼汰殿
声は低く、乾いていた。
夜風と石畳の反響の中でもよく通る声だった。
私はオットー・フリース
王都冬期街灯局灯守長
そして、守殿に消灯順を一巡、勝手に遅らされた者です
蒼汰は一拍置いてから言った。
……その人、本当にあちこちで順番を触ってますね
オットーの口元が、ほんの少しだけ動いた。
ええ
しかも、だいたいこちらが一番触りたくない順から
守が頭の奥でぼそりと言う。
一番上が間違ってる夜はある
本当に毎回それだな
違うか
蒼汰は冬城に促され、椅子へ座る。
オットーも向かいへ腰を下ろした。
動作に無駄がない。長い棒を担ぎ、灯蓋を開け閉めし、帳面と現場の両方を見てきた人の座り方だった。
オットーは消灯帳を机の上へ置いて開く。
そこには、街灯区画、油量、風向き、消灯開始刻、巡回終了刻が整然と並んでいる。
一頁だけ、路地名の順が入れ替えられ、横へ父の字でこう書かれていた。
広い方を先に落とせ
帰る筋は最後まで残せ
蒼汰は目を細めた。
父さんの字だ
守が頭の奥で言う。
ああ
また勝手に、だろ
そうだな
オットーが静かに続ける。
その冬、灯油の配給が足りませんでした
雪ではなく凍雨が続き、街灯の消耗が早かった
芯も傷み、風除けガラスも割れ、冬期街灯局は一巡分の消灯を早めるよう命じられたのです
通常なら、広場、幹線、通用門前を残し
人通りの少ない裏街路を先に落とします
合理的です
街全体としての明るさを残しやすい
蒼汰は黙って聞く。
父が嫌いそうな匂いが、もう話の最初からある。
問題になったのは、施療院裏から北工房宿へ抜ける細い石路です
オットーの指が、帳面の下段で止まる。
人通りは多くない
馬車も入らない
広さもない
だから消灯順ではかなり後ろの方
切り捨てやすい路地です
守殿が来たのは、消灯順の繰上げ通達が出た夜でした
本来は外郭倉庫の見回り帰りだったそうですが
灯守詰所の消灯帳を見て、最初にこう言いました
これ、明るい順に残してるな
でも帰りやすい順じゃない
蒼汰は小さく息を吐いた。
また父だ。
本当に何を見ても、そこへ行く。
私は反論しました
街灯は目立つ場所に残すべきだ
広場と幹線が明るければ、治安も保てる
すると守殿は一度だけ頷いて
そのうえで、広い道は暗くても方角が分かる
だが細い帰り道は、灯が落ちると道ごと消える、と返した
部屋が静かになる。
蒼汰はその言葉を胸の中で繰り返した。
また同じだ。
父はどこでも、見えている側ではなく、見えなくなったら切れる側を見る。
オットーは別紙を一枚出した。
そこには、施療院裏石路、北工房宿抜道、運河脇木橋、夜間帰宅者見込みと書かれている。
父の字で、人数と時刻が乱暴に追記されていた。
その夜、その路地を使う者がいました
施療院の夜勤明け二名
工房宿へ戻る縫い子三名
湯運びの少年二名
そして、北工房宿へ遅れて帰る片足の石工一名
広場は明るい
幹線も明るい
だがその最後の一筋だけが落ちれば
帰り着く直前で足元が消える
守殿は、それを嫌いました
守が頭の奥でぼそりと言う。
明るいところまで帰れても、最後の角で滑ったら意味がない
蒼汰は何も言えなかった。
父はまた、最後の数歩を見ていた。
それで、どうしたんですか
蒼汰が問うと、オットーは低く答える。
守殿は、消灯札の順を動かしました
また物理かよ……
はい
かなり物理です
オットーの声は乾いていた。
だがそこに、本気の疲れと、本気の呆れがあった。
冬期街灯局では、区画ごとに消灯札を盤へ掛けます
上から順に落とす
守殿は、その盤から施療院裏石路の札を外し
いちばん下へ差し込んだ
私は怒鳴りました
消灯盤に触るな
順序は油量と風で決まる
すると守殿は、そうだな、と言った
そのうえで
油は灯芯の中で待てる
だが、帰る足は氷の上で待てん、と返しました
蒼汰は言葉を失った。
ひどく父らしい。
言い方が乱暴で、でも反論しにくい。
オットーは続ける。
私は最後まで反対でした
ですが守殿は、その路地を自分で歩いて戻ってきました
凍雨で石が光る
運河脇の木橋は黒い
片足の石工なら、灯が落ちた瞬間に足場が消える
そう言われて、私は消灯を一巡遅らせた
結果として
縫い子三名も、湯運びの少年二名も、石工も
全員が灯のあるうちに宿へ入った
そして消灯は、そのあとで間に合った
死者は出なかったんですか
零ではありません
オットーはまっすぐ答える。
別区画では転倒もあった
だから守殿が完全に正しかったとは言いません
ですが、あの一筋を落としていれば
石工は運河へ落ちた可能性が高かった
私は灯守長として、それを忘れられない
部屋が静まり返る。
蒼汰は、喉の奥が少し熱くなるのを感じた。
父はまた、街全体の明るさより、最後の数歩だけの暗さを見ていた。
オットーは細長い箱を開けた。
中に入っていたのは、小さな青銅の消灯札だった。
厚みのある札で、表に施療院裏石路と刻まれている。裏には、消灯第七巡の刻印があり、その横へ細い傷で新しい線が入っている。
その一筋だけ、父が無理に盤へ差し直した痕なのだとすぐ分かった。
これは、その夜最後へ回された区画札です
本来なら、朝に盤へ戻して終わる品です
ですが今日はこちらを持参しました
そんな大事なものを
はい
大事なものです
オットーは頷く。
守殿は勲章より、こうした順札の方が近い
あの方は街を明るく見せたかったのではない
最後の帰り筋を消したくなかった
ですから、これがふさわしい
さらに、黄褐色の旗包みが開く。
現れたのは旗だった。
王旗でも市旗でもない。冬期街灯局旗だ。
黄褐色地に銀糸で灯柱、火、細い路地線が刺繍されている。
夜の街を順番に暗くする側の旗だった。
本式の日
王都冬期街灯局は、この旗を半旗とします
また施療院裏石路の街灯だけ、夜更けの消灯を一巡遅らせます
本来ならあり得ません
ですが今夜は、守殿が遅らせたあの一巡を忘れていないと示すためです
蒼汰は、その光景を思い浮かべた。
冬の夜道。
半旗。
消えるはずの灯が、ほんの少しだけ長く残る。
父への礼として、それはやけに似合っていた。
オットーは最後に、一枚の紙片を差し出した。
見慣れた、守の字だった。
広い道は暗くても帰れる
だが最後の路地は、灯が落ちると道ごと無くなる
油じゃなく、足の方を先に見ろ
蒼汰は、それを読んで少しだけ笑った。
また同じだ。
父は本当に、最後までそこへ戻ってくる。
オットーの目元が、ほんの少しだけ和らぐ。
守殿は、灯を軽んじたのではありません
風も油も、よく見ていた
そのうえで、暗くした瞬間に帰り筋ごと消える場所を嫌った
ゆえに、私は怒りながらも礼を言いに参りました
蒼汰は青銅の消灯札と旗と紙片を見てから、ゆっくり言った。
……預かります
ありがとうございます
オットーは立ち上がり、深く一礼する。
去り際に一度だけ棺の方角を見て、それから蒼汰へ向き直った。
守殿は、たぶんご家庭でも
電気代より、最後に帰る者のために灯をつけておく方を選ぶ人だったのでしょうね
蒼汰は少しだけ目を瞬いた。
それから、苦く笑う。
……当たってます
早く消せって言うくせに
玄関の灯だけは、最後まで残してました
でしょうね
オットーの口元が、ほんのわずかに緩む。
あの方は、灯の数ではなく
灯が残るべき最後の筋を見ていたのでしょう
それだけ言って去っていく。
扉が閉まる。
応接室に戻った静けさの中で、蒼汰は青銅の消灯札をそっと持ち上げた。
軽い。
でもその軽さの中に、灯の残った数分と、その数分で宿へ入れた足音が詰まっている気がした。
守
何だ
あんた、本当に最後までそういうとこばっかり見てたんだな
見えると、放っておけんからな
便利だけど、だいぶ面倒だよ
それ
そうだろうな
蒼汰は小さく息を吐いた。
父が珍しく、そのまま認めた気がした。
冬城が静かに近づく。
かなりお疲れかと
うん
でも……
父さんが見てたの、たぶん灯そのものじゃないんだな
どういう意味でしょう
蒼汰は消灯札を見下ろした。
広場が明るいとか、街がちゃんとして見えるとかじゃなくて
最後に帰るやつの足元が消えないか
そこを先に見てたんだなって
冬城が小さく頷く。
ええ
守様は、かなりそうです
リュシエラが横で静かに言う。
夜の側でも同じです
暗さそのものより、暗くなった時にどの道が失われるかの方が重いですので
蒼汰は少しだけ笑った。
本当に、どこまで行っても同じ理屈なんだな
父さん
守は少しだけ黙った。
それから低く返す。
そうかもしれん
冬城が机上の品を整える。
少し棺のおそばへ戻られますか
うん
戻りたい
蒼汰は新しく増えた消灯札と旗を抱え直す。
もう本当に持ちきれない。
それでも、やっぱりどれも置いていけない。
扉へ向かいながら、何となく聞く。
次は?
冬城はほんの少しだけ考えた。
守様に、王都行旅人名簿の野宿欄を一夜分、潰された宿場司の方です
蒼汰はその場で止まった。
……また寝る場所かよ
守が頭の奥で低く返す。
外で寝かせるなって話だ
本当に最後までそこばっかりだな
蒼汰は深く息を吐いた。
父、奏多守は、死んでからもなお、最後の路地が消える側、帳簿の朝まで待たされる側、名前のないまま散りそうな側ばかりを、勝手に前へ寄せ続けていた。




