第40話 濡れたまま寝かせるな
棺のある広間へ戻る前に、蒼汰は広間脇の長卓をまた一度だけ見た。
父の知らない顔が、もう完全に一つの街どころか、一つの世界みたいに並んでいる。
兵站局の黒箱。
商隊旗。
大勲章。
削られた勲札。
宮旗。
裂かれた婚約書類。
銀の燈。
祭壇布。
学監棒。
教育日誌の複写。
夜紋。
盟約写し。
羅針儀。
消えた線の地図。
銀の主席笛。
規定集。
巨大な解除鍵。
河渠院旗。
帰還優先灯の運用標。
統制塔旗。
鐘槌。
礼楽院旗。
真鍮札。
図書院旗。
銀筆。
紋章院旗。
打診槌。
医学院旗。
赤い指揮灯。
消防局旗。
焼けた識別札。
捕虜交換局旗。
黒い配炭札。
蔵政院旗。
木の便札。
児童保護院旗。
白い墓標札。
墓政司旗。
青銅の出港札。
港務局旗。
真鍮の呼鈴。
施療院看護局旗。
銀の匙。
施療院厨房局旗。
青い空瓶。
中央薬庫旗。
青銅の楔。
避難鐘楼旗。
鉄の仮帰還札。
帰還者照合局旗。
白い仮識別札。
孤児識別記録局旗。
どれも父が褒められた証ではない。
なのに全部、父が何を見ていた人間だったのかだけは、嫌になるほど正確に伝えてくる。
蒼汰は深く息を吐いた。
次、衣料係だったよな
冬城が頷く。
はい
王都施療衣料庫の主任衣料係です
守様に、予備寝巻きを一束、勝手に抜かれたご当人になります
……また布かよ
守が頭の奥でぼそりと言う。
濡れたまま寝かせるなって話だ
本当に最後までそこなんだな
だいたいそうだろう
リュシエラが横で静かに言う。
衣類の順番は軽く見られがちですが
夜を越す時は、かなり致命的ですので
慰めが一個もないな
慰めではありませんから
蒼汰は小さく呻いて、応接室へ向かった。
扉が開く。
今度の部屋の空気は、乾いた布と石鹸と、少しだけ湯気の残り香がした。
施療院の病室そのものではない。
だが洗濯室、乾燥室、衣料棚、そういう場所を渡ってきた布の匂いだとすぐ分かる空気だった。
中央に立っていたのは、女だった。
年齢は五十代後半ほど。
背は高くない。だが小さくは見えない。長く洗われた寝具と患者服の枚数を数え、足りない夜に何を後ろへ回すかを決め、濡れたまま戻ってきた衣を見て顔色を変えてきた人間の、静かな強さがあった。
黒の礼装の上に、淡い亜麻色の肩布をかけている。看護局でも厨房局でもない、布と温度の側にいる者の装いだ。
髪は白く、後ろでひとつに束ねられている。目は柔らかい。だが在庫と濡れ具合を一目で判断する目だった。
後ろには若い衣料吏が二人。
ひとりが細長い箱を、もうひとりが分厚い払出簿と、白に近い灰黄の旗包みを抱えている。
冬城が告げる。
王立施療院中央衣料庫主任衣料係、アンネリーゼ・ブラント様です
守様に、予備寝巻きを一束、勝手に抜かれたご当人です
女――アンネリーゼは、蒼汰を見て深く一礼した。
奏多蒼汰殿
声は穏やかだった。
だが弱くはない。夜中に洗濯室で人手を回し、病棟へ布束を運ばせる時も、この声なのだろうと思わせる声だった。
私はアンネリーゼ・ブラント
王立施療院中央衣料庫主任衣料係
そして、守殿に予備寝巻きを一束、勝手に抜かれた者です
蒼汰は一拍置いてから言った。
……その人、本当に勝手にいろいろ持っていきますね
アンネリーゼの目元が、ほんの少しだけ和らぐ。
ええ
しかも、だいたいこちらがまだ数字を見ている最中に
守が頭の奥でぼそりと言う。
数字を見てる間に冷えるからな
本当に毎回それだな
違うか
蒼汰は冬城に促され、椅子へ座る。
アンネリーゼも向かいへ腰を下ろした。
動作に無駄がない。布束を持つ時の癖が、そのまま座り方に残る人の動きだった。
アンネリーゼは払出簿を机の上へ置いて開く。
そこには、病棟別の寝巻き、包帯布、毛布、乾燥済枚数、予備在庫、再洗濯待ち枚数が並んでいる。
一頁だけ、予備寝巻き束の払出欄に太い線が入り、横へ父の字で大きく書き込まれていた。
濡れたのを脱がせた順に出せ
乾く順じゃない
蒼汰は目を細めた。
父さんの字だ
守が頭の奥で言う。
ああ
また勝手に、だろ
そうだな
アンネリーゼが静かに続ける。
その夜、施療院には水害搬入が重なりました
低地の浸水区域から、患者と避難民がまとめて運び込まれたのです
怪我だけではありません
全身が濡れている
泥も吸っている
冷えている
しかも運び込まれた時点では、まだ話せる者が多い
だから重症に見えにくい
蒼汰は黙って聞く。
父が嫌いそうな匂いが、最初からあった。
衣料庫には基準があります
高熱病棟、感染隔離、術後棟を優先し
予備寝巻きは一括で病棟単位へ出す
その方が記録も回収も早い
平時なら正しい
問題になったのは、低地水害搬入組の一角です
アンネリーゼの指が、簿面の中ほどで止まる。
全員、濡れている
だが自力歩行も多く、会話もできる
だから病棟側では、後回しになりやすい
濡れた衣類はまとめて脱がせ、乾いた寝巻きは準備が整ってから一括配布
それが効率としては正しい
守殿が来たのは、衣料庫の仕分け台の前でした
本来は保温毛布の補充確認だけで終わる立場でしたが
濡れた衣類の回収籠を見て、最初にこう言いました
これ、乾いたのを出す順じゃないな
濡れたまま寝る順だな、と
蒼汰は小さく息を吐いた。
また父だ。
本当に、どこへ行っても同じところへ行く。
私は反論しました
衣料は枚数と回収が命です
一人ずつ配れば管理が崩れる
すると守殿は、一度だけ頷いて
そのうえで、崩れるのは台帳だ
体温の方を先に戻せ、と言いました
部屋が静まる。
蒼汰は喉の奥が少し重くなるのを感じた。
父はまた、帳簿ではなく、その夜の身体を見ていた。
アンネリーゼは別紙を一枚置く。
そこには、搬入患者の状態が細かく書き込まれていた。
震え持続、唇色、濡れ度合、履物の泥量、着替え自力可否。
父の字で、数名へ赤い印が入っている。
守殿は病棟へ行きました
そして戻ってくるなり、予備寝巻き束を一本持っていったのです
また物理かよ……
蒼汰が漏らすと、アンネリーゼは小さく息を吐いた。
はい
かなり物理です
守が頭の奥でぼそりと言う。
待たせすぎだったからな
アンネリーゼは続ける。
私は本気で怒りました
予備寝巻きはサイズ別に束ね、病棟印を押してから出す
そうでなければ後で必ず足りなくなる
守殿はそれも分かっていました
その上で、こう言いました
この束、後で数え直せる
だが濡れた背中は、いま抜がせないと夜中に落ちる、と
蒼汰は言葉を失った。
誰が、そんなに危なかったんですか
川沿い工房の見習い三名
老いた薬売りの女一名
療養中だった少年一名です
アンネリーゼはまっすぐ答えた。
重傷ではない
だから処置順でも後ろ
話せる
歩ける
だから保温順でも後ろ
ですが守殿は、濡れ方と震えの止まり方を見て
この五人は、次の一刻で内側から冷えると言った
守が頭の奥で言う。
水は布だけに残らん
骨の方へ入る
蒼汰は何も言えなかった。
父はまた、誰もが見ている傷ではなく、その先の冷えを見ていた。
それで、どうしたんですか
蒼汰が問うと、アンネリーゼは静かに答えた。
私は怒りながら、出庫印だけを後追いで切りました
守殿が持ち出した寝巻き束を、そのまま正規出庫にしたのです
病棟で一人ずつ着替えを回し
濡れ布はその場で剥がし
乾布と湯嚢を先につけた
結果として、その五名は夜半の熱落ちを起こさなかった
彼女は一拍置く。
通常通り一括配布まで待てば、少なくとも二名は明け方に再加温室送りでした
守殿は、衣料の管理ではなく、濡れたまま寝かせる順番を嫌ったのです
蒼汰はゆっくりと息を吐いた。
また同じだ。
本当にどこまで行っても、父は「まだ平気そうに見える側」を先に見ている。
アンネリーゼは細長い箱を開けた。
中に入っていたのは、白い布製の小さな衣類札だった。
寝巻き束へ結ぶサイズ札らしい。布地に青糸で中温帯用予備・混合束と刺繍があり、その端に鉛筆で乱暴な書き足しがある。
先に脱がせた五名へ
父の字だった。
蒼汰は少しだけ笑った。
もう本当に、どこでも書きますね
ええ
しかも、目立つところへ
アンネリーゼの声に、ごくわずかな苦笑が混じる。
これは、その夜に守殿が持ち出した予備寝巻き束の衣類札です
本来なら回収後、洗浄して再使用します
ですが今日はこちらを持参しました
そんな大事なものを
はい
大事なものです
アンネリーゼは頷く。
守殿は勲章より、こうした束札の方が近い
あの方は衣類の数ではなく
濡れたまま何分寝かされるかにうるさかった
ですから、これがふさわしい
さらに、灰黄の旗包みが開く。
現れたのは旗だった。
王旗でも看護局旗でもない。施療院衣料庫旗だ。
淡い灰黄地に白と銀で、布束、針、湯気の線が刺繍されている。
乾いた布を渡す側の旗だった。
本式の日
王立施療院衣料庫は、この旗を半旗とします
また夜勤衣料室では、予備寝巻きの混合束を一束だけ、ほどいたままにしておきます
通常ならあり得ません
ですが今夜は、守殿が崩した一束の順番を忘れていないと示すためです
蒼汰は、その情景を思い浮かべた。
夜勤衣料室。
半旗。
ほどかれたままの予備寝巻き束。
父への礼として、それは妙に似合っていた。
アンネリーゼは最後に、一枚の紙片を差し出した。
見慣れた、守の字だった。
布は後で畳める
濡れた背中は後で乾かん
寝かせる前に、まず着替えさせろ
蒼汰は、それを読んで少しだけ笑った。
また同じだ。
父は本当に、最後までそこへ戻ってくる。
アンネリーゼの目元が、ほんの少しだけ和らぐ。
守殿は、衣料の管理を軽んじたのではありません
乾燥室の回転も、洗濯時間も、かなり正確に見ていた
そのうえで、布の都合で体温が落ちる順番を嫌った
ゆえに、私は怒りながらも礼を言いに参りました
蒼汰は白い衣類札と旗と紙片を見てから、ゆっくり言った。
……預かります
ありがとうございます
アンネリーゼは立ち上がり、深く一礼する。
去り際に一度だけ棺の方角を見て、それから蒼汰へ向き直った。
守殿は、たぶんご家庭でも
洗濯物をきれいにしまうことより
風呂上がりに冷えさせないことの方を先に気にする人だったのでしょうね
蒼汰は少しだけ目を瞬いた。
それから、苦く笑う。
……当たってます
片づけは雑なのに
濡れた髪のまま寝るなは、やたらうるさかったです
でしょうね
アンネリーゼの口元が、ほんのわずかに緩む。
あの方は、棚の中の布より
その夜、誰の背中が先に冷えるかの方を見ていたのでしょう
それだけ言って去っていく。
扉が閉まる。
応接室に戻った静けさの中で、蒼汰は白い衣類札をそっと持ち上げた。
軽い。
でもその軽さの中に、濡れたまま寝かされずに済んだ五人の夜が詰まっている気がした。
守
何だ
あんた、本当に最後まで同じだな
だいたい同じだろう
違わないんだよな、それが
蒼汰は小さく息を吐いた。
怒る気にもなれない。
少しずつ、父の見ていたものが自分の中へ入り込んでくるのが分かる。
冬城が静かに近づく。
かなりお疲れかと
うん
でも……
父さんが気にしてたの、たぶん布そのものじゃないんだな
どういう意味でしょう
蒼汰は衣類札を見下ろした。
在庫とか束とか管理とか
そういうのも分かってるのに
そのせいで濡れたまま夜を越すやつがいるなら、そっちを先に見るんだなって
冬城が小さく頷く。
ええ
守様は、かなりそうです
リュシエラが横で静かに言う。
夜の側でも同じです
布を守るのではなく、体温を守る夜がありますので
蒼汰は少しだけ笑った。
本当に、どこまで行っても同じ理屈なんだな
父さん
守は少しだけ黙った。
それから低く返す。
そうかもしれん
冬城が机上の品を整える。
少し棺のおそばへ戻られますか
うん
戻りたい
蒼汰は新しく増えた衣類札と旗を抱え直す。
もう本当に持ちきれない。
それでも、やっぱりどれも置いていけない。
扉へ向かいながら、何となく聞く。
次は?
冬城はほんの少しだけ考えた。
守様に、王都冬期街灯の消灯順を一巡、勝手に遅らされた灯守長の方です
蒼汰はその場で止まった。
……また灯かよ
守が頭の奥で低く返す。
暗くすると、帰れなくなる筋があった
本当に最後まで、そこばっかり見てるな
蒼汰は深く息を吐いた。
父、奏多守は、死んでからもなお、濡れたまま寝かされる側、封の向こうで閉じる側、名前を失いそうな側ばかりを、勝手に前へ寄せ続けていた。




