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父、奏多守はほら吹きではなかった  作者: てへろっぱ


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第39話 未交付箱を空にした夜

棺のある広間へ戻る前に、蒼汰は広間脇の長卓をまた一度だけ見た。


父の知らない顔が、もう完全にひとつの街みたいに並んでいる。


兵站局の黒箱。

商隊旗。

大勲章。

削られた勲札。

宮旗。

裂かれた婚約書類。

銀の燈。

祭壇布。

学監棒。

教育日誌の複写。

夜紋。

盟約写し。

羅針儀。

消えた線の地図。

銀の主席笛。

規定集。

巨大な解除鍵。

河渠院旗。

帰還優先灯の運用標。

統制塔旗。

鐘槌。

礼楽院旗。

真鍮札。

図書院旗。

銀筆。

紋章院旗。

打診槌。

医学院旗。

赤い指揮灯。

消防局旗。

焼けた識別札。

捕虜交換局旗。

黒い配炭札。

蔵政院旗。

木の便札。

児童保護院旗。

白い墓標札。

墓政司旗。

青銅の出港札。

港務局旗。

真鍮の呼鈴。

施療院看護局旗。

銀の匙。

施療院厨房局旗。

青い空瓶。

中央薬庫旗。

青銅の楔。

避難鐘楼旗。

鉄の仮帰還札。

帰還者照合局旗。


どれも、父がどこで何を見ていたのかを、やけに正確に示している。

順番をずらし、線を足し、閉じる前に待ち、間に合う側を前へ寄せる。

そんなことばかりだ。


蒼汰は深く息を吐いた。


次、孤児識別札だったよな


冬城が頷く。


はい

王都孤児識別記録局の主任記録官です

守様に、未交付箱を一つ空にされたご当人になります


……また名前と札かよ


守が頭の奥でぼそりと言う。


札がないと、探す時に遅れる


本当に最後までそこなんだな


だいたいそうだろう


リュシエラが横で静かに言う。


札は、身元の証明だけではありません

探される側に、探す側の手が届くための印でもありますので


慰めが一個もないな


慰めではありませんから


蒼汰は小さく息を吐いて、応接室へ向かった。


扉が開く。


今度の部屋の空気は、乾いた紙と石鹸と古い木箱の匂いがした。

図書院の紙とも、施療院の布とも少し違う。

子どもの衣類を仕分ける保管室と、記録官の机が同居しているような匂いだった。


中央に立っていたのは、女だった。


年齢は五十代半ばほど。

背は高くない。だが小さくは見えない。長く子どもの来歴を記し、名乗れない子の特徴を書き留め、迎えが来るまで「誰かのはずの子」を記録として支えてきた人間の、静かな強さがあった。

黒の礼装の上に、淡い灰青の長衣を重ねている。保護院長とも墓政官とも違う、記録に仕える者の装いだ。髪は白に近い灰色で、きっちりとまとめられている。目は柔らかい。だが、見落とさない目だった。


後ろには若い記録吏が二人。

ひとりが平たい木箱を、もうひとりが分厚い登録簿と、薄い灰水色の旗包みを抱えている。


冬城が告げる。


王都孤児識別記録局主任記録官、アデルハイト・ケルナー様です

守様に、未交付箱を一つ空にされたご当人です


女――アデルハイトは、蒼汰を見て深く一礼した。


奏多蒼汰殿


声は穏やかだった。

だが弱くはない。泣き疲れた子へ名を聞き、答えられない親族へ特徴を確認する時も、この声なのだろうと思わせる声だった。


私はアデルハイト・ケルナー

王都孤児識別記録局主任記録官

そして、守殿に未交付箱を一つ空にされた者です


蒼汰は一拍置いてから言った。


……その人、本当にあちこちで箱を開けますね


アデルハイトの目元が、ほんの少しだけ和らぐ。


ええ

しかも、だいたい開けない方が手順としては正しい夜に


守が頭の奥でぼそりと言う。


正しい手順が遅い夜だった


そういう言い方しかできないのか、本当に


違うか


蒼汰は冬城に促され、椅子へ座る。

アデルハイトも向かいへ腰を下ろした。

動作に無駄がない。だが軍や行政の硬さではなく、子どもの持ち物へ自然と手荒にならない人の座り方だった。


アデルハイトは登録簿を机の上へ置いて開く。

そこには、発見場所、推定年齢、所持品、名乗り、親族照会、識別札交付欄が並んでいる。

一頁だけ、識別札未交付の欄へ父の字で大きく線が入り、横へこう書かれていた。


名前がなくても札は要る

探す朝を先に作れ


蒼汰は目を細めた。


父さんの字だ


守が頭の奥で言う。


ああ


また勝手に、だろ


そうだな


アデルハイトが静かに続ける。


その夜、王都南収容区には四十七名の子どもが集められました

火災、崩落、暴動、親族離散

理由は様々です

そのうち二十名は即日照合できた

ですが、残り二十七名は名前が曖昧、あるいは答えられない

中には泣きすぎて声が出ない子も、逆に静かすぎて何も言わない子もいました


識別札には基準があります

原則として、仮名でも、発見区画でも、最低二項目の照合が取れてから交付

そうでなければ誤認のまま流れる危険がある

一度札をつければ、その後の移送と記録は札に従う

だから慎重でなければならない


合理的だ、と蒼汰は思う。

間違った札をつければ、別の子として固定されてしまうのだろう。


問題になったのは、未交付箱です


アデルハイトの指が、机の脇に置かれた木箱へ触れる。


識別札は、交付前と交付後で箱が分かれています

未交付箱は、まだ誰のものでもない札を保管する箱

通常、勝手に開けることはありません


守殿が来たのは、夜半の移送編成中でした

本来は収容区の保温資材確認だけで終わるはずでしたが

並んだ子どもたちの胸元を見て、最初にこう言いました


札のない子、もう動かすのか、と


蒼汰は小さく息を吐いた。

また父だ。

本当に、何を見ても同じところへ刺さる。


私は答えました

暫定移送です

朝まで同じ部屋に置けない

収容所の暖房も寝台も足りない

だから、名前の取れた子から順に分散させる

札のない子は、記録札だけ持たせて別紙で追う、と


すると守殿は一度だけ頷いて

その上で、こう続けました


別紙は机に残る

だが子は寝台と荷車で散る

札のないまま動かすな、と


部屋が静かになる。


蒼汰は、その言葉を胸の中で反芻した。

また同じだ。

紙と人間を分けて見ている。

父はいつもそうだった。


私は反論しました

仮札を乱発すれば誤認が増える

探しに来た者を、別の子へ繋ぐ危険がある

すると守殿は、そうだな、と言いました

そのうえで

だが札がなければ、探す朝に記録の方が追いつかん、と返した


蒼汰は喉の奥が少し重くなるのを感じた。


それで、どうしたんですか


守殿は、未交付箱を開けました


アデルハイトは即答した。


私は止めました

副記録官も

移送係も

ですが守殿は聞かない

箱を引き寄せて、白札を全部机へ出した


また物理かよ……


蒼汰が漏らすと、アデルハイトは小さく息を吐いた。


はい

かなり物理です


守が頭の奥でぼそりと言う。


遅かったからな


アデルハイトは続ける。


守殿は、名前を書けとは言いませんでした

代わりに、発見区画、所持品の特徴、誰が抱いていたか、何色の毛布を巻いていたか、左右どちらの靴紐が切れていたか

そういう「朝まで失わずに追える印」を、その場で札に書き込めと言ったのです


蒼汰は目を瞬いた。


名前じゃなくて、特徴で


はい


アデルハイトは頷く。


一号、南区井戸前、赤布、左袖焼け

二号、工房裏、青糸巻き、無言、右手包帯

三号、西柵脇、兄弟二名連結、木笛所持

そういうふうに

名前ではなく、今夜のあいだだけ絶対に切らないための札を作った


守が頭の奥で言う。


探す側は名前を呼ぶ

見つける側は印が要る


蒼汰は何も言えなかった。

また父は、名前を大事にしながら、その前段の「見失わないための印」も同じくらい見ていた。


アデルハイトは別紙を一枚置く。

そこには子どもたちの移送先一覧があり、札番号が細かく追記されている。


その夜、未交付の二十七名は三施設へ分散移送されました

通常通りなら、朝までに移送先の寝台番号と特徴照合を突き合わせる必要があった

ですが、守殿が作った仮識別札のおかげで、移送の時点で各施設へ追跡線ができた


翌朝、親族照会が一気に進みました

子を探しに来た者は名前だけでなく

青い糸巻きを持っていた、左の袖が焼けていた、靴紐が片方切れていた、と言える

その瞬間、仮札と繋がるのです


蒼汰は小さく息を呑んだ。


それで……


七名が、その日のうちに身元確定しました

そのうち二名は、通常手順なら別施設の保留名簿で一日遅れたはずです

さらに、声の出ない幼児一名が、兄の木笛の記録で繋がりました

守殿は、名前がないからこそ、今夜だけの札が要ると言った

あの時の私は、それをひどく嫌いました

ですが結果として、あの夜空にした未交付箱は、朝に人を戻す箱になったのです


部屋が静まり返る。


蒼汰は、喉の奥がじんと熱くなるのを感じた。

父はまた、名前を軽く見たのではない。

名前へ辿り着くまでの糸を、切らせなかった。


アデルハイトは平たい木箱を開けた。


中に入っていたのは、小さな白い札だった。

木でも金属でもない。薄い、硬い合成材のような札だ。角に穴が空き、そこへ淡い青紐が通されている。

表には、整った記録官の字でこうある。


南区井戸前

赤布

左袖焼け

仮識別 第六号


そして裏には、父の乱暴な字で短く一文が追記されていた。


朝までこれで切るな


蒼汰は目を細めた。


これが……


はい

未交付箱から最初に出した一枚です

本来なら、正式身元確定の後に回収、破棄される札でした

ですが今日はこちらを持参しました


そんな大事なものを


はい

大事なものです


アデルハイトは頷く。


守殿は勲章より、こうした仮札の方が近い

あの方は名前そのものより、名前へ戻る糸が切れることを嫌った

ですから、これがふさわしい


さらに、灰水色の旗包みが開く。

現れたのは旗だった。

王旗でも保護院旗でもない。孤児識別記録局旗だ。

灰水色地に銀と白で、小さな札、糸、扉が刺繍されている。

探される者と探す者を繋ぐ側の旗だった。


本式の日

王都孤児識別記録局は、この旗を半旗とします

また未交付箱を、一夜だけ空のまま開けておきます

通常はあり得ません

ですが今夜は、守殿が空にした箱を忘れていないと示すためです


蒼汰は、その情景を思い浮かべた。

記録局の静かな部屋。

半旗。

本来なら鍵のかかった未交付箱が、空のまま開いている。

父への礼として、それはやけに似合っていた。


アデルハイトは最後に、一枚の紙片を差し出した。

見慣れた、守の字だった。


名前は朝に探せる

だが今夜、どの子がどの寝台へ行ったかは朝には散る

札がないなら、探す側から消える


蒼汰は、それを読んでしばらく黙った。

また同じだ。

父は本当に、消えそうな側を前へ引いている。


アデルハイトの目元が、ほんの少しだけ和らぐ。


守殿は、記録を軽んじたのではありません

むしろ記録がどこで人に追いつかなくなるかを、嫌というほど正確に見ていた

そのうえで、今夜だけの札を足した

ゆえに、私は怒りながらも礼を言いに参りました


蒼汰は白い仮識別札と旗と紙片を見てから、ゆっくり言った。


……預かります


ありがとうございます


アデルハイトは立ち上がり、深く一礼する。

去り際に一度だけ棺の方角を見て、それから蒼汰へ向き直った。


守殿は、たぶんご家庭でも

正しい名前より先に、どれが誰の物かを繋ぐ癖の方を覚えている人だったのでしょうね


蒼汰は少しだけ目を瞬いた。

それから苦く笑う。


……当たってます

名前をちゃんと呼ばないくせに

靴の減り方とか、マグの欠け方とか、そういうのばっかり覚えてる人でした


でしょうね


アデルハイトの口元が、ほんのわずかに緩む。


あの方は、名簿より先に

見失わないための印の方を見ていたのでしょう


それだけ言って去っていく。

扉が閉まる。


応接室に戻った静けさの中で、蒼汰は白い仮識別札をそっと持ち上げた。

軽い。

でもその軽さの中に、朝になっても探せた七人と、切れずに残った糸の重さが詰まっている気がした。



何だ


あんた、本当に最後までそういうとこばっかり見てたんだな


見えると、放っておけんからな


便利だけど、だいぶ面倒だよ

それ


そうだろうな


蒼汰は小さく息を吐いた。

父が珍しく、そのまま認めた気がした。


冬城が静かに近づく。


かなりお疲れかと


うん

でも……

父さんが嫌ってたの、たぶん「分からないまま散ること」なんだな


どういう意味でしょう


蒼汰は白い札を見下ろした。


名前がないとか、紙が遅れるとか、夜だからとか

そういう理由で

誰がどこへ行ったか分からなくなるやつ

探せなくなるやつ

そういうのを、最後まで嫌ってたんだなって


冬城が小さく頷く。


ええ

守様は、かなりそうです


リュシエラが横で静かに言う。


夜の側でも同じです

失うことより、どこへ消えたか分からなくなることの方が長く残りますので


蒼汰は少しだけ笑った。


本当に、どこまで行っても同じ理屈なんだな

父さん


守は少しだけ黙った。

それから低く返す。


そうかもしれん


冬城が机上の品を整える。


少し棺のおそばへ戻られますか


うん

戻りたい


蒼汰は新しく増えた白い仮識別札と旗を抱え直す。

もう本当に持ちきれない。

それでも、やっぱりどれも置いていけない。


扉へ向かいながら、何となく聞く。


次は?


冬城はほんの少しだけ考えた。


守様に、王都施療衣料庫の予備寝巻きを一束、勝手に抜かれた衣料係の方です


蒼汰はその場で止まった。


……また布かよ


守が頭の奥で低く返す。


濡れたまま寝かせるなって話だ


本当に最後までそこばっかりだな


蒼汰は深く息を吐いた。


父、奏多守は、死んでからもなお、帰ってきたのに帳簿で止まる側、名前のないまま散りそうな側、一人で終わりそうな側ばかりを、勝手に前へ寄せ続けていた。

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