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父、奏多守はほら吹きではなかった  作者: てへろっぱ


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38/52

第38話 帳簿の線より先に、門を開けろ

棺のある広間へ戻る前に、蒼汰は広間脇の長卓をまた一度だけ見た。


父の知らない顔が、もう完全に一つの街みたいに並んでいる。


兵站局の黒箱。

商隊旗。

大勲章。

削られた勲札。

宮旗。

裂かれた婚約書類。

銀の燈。

祭壇布。

学監棒。

教育日誌の複写。

夜紋。

盟約写し。

羅針儀。

消えた線の地図。

銀の主席笛。

規定集。

巨大な解除鍵。

河渠院旗。

帰還優先灯の運用標。

統制塔旗。

鐘槌。

礼楽院旗。

真鍮札。

図書院旗。

銀筆。

紋章院旗。

打診槌。

医学院旗。

赤い指揮灯。

消防局旗。

焼けた識別札。

捕虜交換局旗。

黒い配炭札。

蔵政院旗。

木の便札。

児童保護院旗。

白い墓標札。

墓政司旗。

青銅の出港札。

港務局旗。

真鍮の呼鈴。

施療院看護局旗。

銀の匙。

施療院厨房局旗。

青い空瓶。

中央薬庫旗。

青銅の楔。

避難鐘楼旗。


どれもこれも、勲章ではない。

それなのに、父が何を見て生きていたのかだけは、妙にはっきり伝わってくる。


蒼汰は深く息を吐いた。


次、関門官だったよな


冬城が頷く。


はい

王都帰還者照合局の主任関門官です

守様に、帰還者名簿の照合停止線を一度越えられたご当人になります


……また帰る話かよ


守が頭の奥でぼそりと言う。


帰ってきてるのに、帳簿の朝を待たせるなって話だ


本当に最後までそこなんだな


だいたいそうだろう


リュシエラが横で静かに言う。


関門は、入れるかどうかの場所ではなく

帰ったことを認めるかどうかの場所でもありますから


慰めになってないな


慰めではありません


蒼汰は小さく呻いて、応接室へ向かった。


扉が開く。


今度の部屋の空気は、冷たかった。

冬の夜の石門、濡れた革、鉄、封蝋、見張り灯の油の匂い。

王都の外門詰所へ入ったらこういう匂いがするのだろうと思わせる空気だった。


中央に立っていたのは、男だった。


年齢は六十代半ばほど。

背は高くない。だが体幹が太い。長く門前で立ち、通す者と止める者を見続け、帳簿と顔と声を照合し続けてきた人間の体だった。

黒の礼装の上に、濃い灰青の外套。胸元に徽章はない。だが肩から袖にかけて、関門局の刺繍らしい小さな門と鍵の紋が走っている。

髪は白く短く、鼻筋は太い。目元はきつい。だがそのきつさは人を拒むためではなく、線を間違えないための顔に見えた。


後ろには若い関門官が二人。

ひとりが細長い木箱を、もうひとりが分厚い帰還者名簿と、暗い青灰の旗包みを抱えている。


冬城が告げる。


王都帰還者照合局主任関門官、フリードリヒ・ケストナー様です

守様に、照合停止線を越えられたご当人です


男――フリードリヒは、蒼汰を見て深く一礼した。


奏多蒼汰殿


声は低く、硬かった。

風と雨と門の喧騒の中でも通る声だった。


私はフリードリヒ・ケストナー

王都帰還者照合局主任関門官

そして、守殿に帳簿の停止線を越えられた者です


蒼汰は一拍置いてから言った。


……もう、どこ行っても線を越えてますね、あの人


フリードリヒの口元が、ほんの少しだけ動いた。


ええ

しかも、だいたい越えてはならない線ほど


守が頭の奥でぼそりと言う。


止めてる方が間違ってる線だったからな


それ、お前が言うとだいぶ危ないんだよ


違うか


蒼汰は冬城に促され、椅子へ座る。

フリードリヒも向かいへ腰を下ろした。

座り方に無駄がない。帳簿の行と門前の列を同時に見る人間の座り方だった。


フリードリヒは帰還者名簿を机の上へ置いて開いた。

そこには、氏名、所属、帰還経路、照合済印、保留理由、入門時刻。

そして頁の下部に、太い赤線が一本引かれていた。


照合停止線。


赤線の下には何も書かれていない。

だが、その下の余白へだけ、父の字で乱暴に書き込まれていた。


止めるな

帰ってきてる


蒼汰は目を細めた。


父さんの字だ


守が頭の奥で言う。


ああ


また勝手に、だろ


そうだな


フリードリヒが静かに続ける。


関門には停止線があります

夜半以降、帰還者照合は原則停止

理由は二つ

暗がりでは顔が誤認しやすいこと

そして、敵勢や偽装帰還者が混ざる余地を増やさないためです


合理的だ。

帳簿の朝を待たせる理由も、分からなくはない。


その夜、西外郭の避難隊と工区帰還者が重なりました

名簿の列は長く、照合官は疲弊し、雨は冷たく、門前の火も弱い

そういう夜ほど、停止線は必要です


問題になったのは、最後の九名でした


フリードリヒの指が、赤線のすぐ上で止まる。


工区崩落から戻った石工隊です

三名が重傷

二名が意識混濁

一名が足を失っていた

残る三名も、夜を外で越せば持つかどうかが怪しかった


蒼汰は小さく息を呑んだ。


でも照合停止線にかかった


はい


フリードリヒの声は低い。


問題は、名簿との照合が一人分足りなかったことです

石工隊長の名前はある

二番手、三番手もある

だが四番手の少年工だけが、名簿では前週に死亡扱いで抹消されていた


蒼汰は目を瞬いた。


死亡扱い?


落盤時の初期報告でそう記された

実際には生きていた

だが門前に来た時点で、帳簿の上ではいない者になっていた


部屋が静かになる。


守が頭の奥でぼそりと言う。


帰ってきてるのに、いない扱いだった


蒼汰は何も言えなかった。

まただ。

父はいつも、その空白を嫌う。


私は申しました

停止線です、と

明朝、再照合すればよい

今夜は外郭の帰還者収容所へ回す

そうでなければ、帳簿の正確性も、門の安全も保てない


すると守殿は、一度だけ頷いて

そのうえで、こう言いました


フリードリヒの声が少しだけ低くなる。


外で朝を待てる帳簿なら正しい

だが、朝までに減る列へ同じ線を引くな、と


蒼汰は深く息を吐いた。

本当に、どこでも同じだ。


私は反論しました

門は通したら終わりではない

中へ入れれば、誤認だった時の責任は王都全体に及ぶ

すると守殿は、そうだな、と言った

その上で

では、この九名が朝まで九名で残る保証を、お前の帳簿がするのか、と返した


蒼汰は、喉の奥が少し重くなるのを感じた。


それで、どうしたんですか


守殿は、門灯の下で一人ずつ顔を見ました


フリードリヒは別紙を一枚置く。

そこには、石工隊の手指損傷、腰帯刻印、工区札の癖、呼び方、方言差といった細かな走り書きがある。

父の字だった。


帳簿を信じなかったのではありません

帳簿だけで止めなかったのです

あの方は、崩落工区の刻印札の削れ方、手袋跡、腰帯の結び癖まで見た

それから私へこう言いました

こいつらは帰ってきてる

帳簿の方が遅れてるだけだ、と


守が頭の奥で言う。


あの少年、工区札を左に掛け直す癖があった


どうやってそんなの覚えてるんだよ


見てたからな


フリードリヒは続ける。


私はそれでも拒みました

停止線を越えれば前例になる

すると守殿は、門前の見張り炭を足で崩し

照合停止線の下へ、その赤灰で新しく一欄を作ったのです


蒼汰は少しだけ前のめりになる。


新しく?


はい

夜間仮帰還欄、と


帳簿を壊したのではない

帳簿の下へ、今夜だけの受け皿を作った

そこへ九名を書け

正式照合は朝に回せ

だが中へは入れろ

そう言ったのです


蒼汰は、少しだけ目を伏せた。

父らしい。

線を全部消すのではなく、その夜だけの線を足す。

それで前へ寄せる。


それで、通したんですか


はい

私の責任で


フリードリヒは静かに答える。


夜間仮帰還札を九枚切り

第一関門だけを通し

内側の暖房詰所へ収容した

正式照合は夜明けに実施

結果として、九名全員が本人確認済みとなり

もし外で待たせていれば、重傷三名のうち少なくとも一名は厳しかったと思われます


蒼汰は何も言えなかった。

父はまた、帳簿の正しさではなく、その夜の人数を見ていた。


フリードリヒは細長い木箱を開けた。


中に入っていたのは、小さな鉄札だった。

表には夜間仮帰還と刻まれ、裏には第一関門通過と打たれている。

角が少し擦れ、雨に濡れて乾いた痕がある。


これは、その夜最初に交付した夜間仮帰還札です

本来なら記録完了後に回収、再溶解します

ですが本日はお持ちしました


そんな大事なものを


はい

大事なものです


フリードリヒは頷く。


守殿は勲章より、こうした仮札の方が近い

あの方は門そのものより

帰ってきた者を、帳簿の遅れで外へ残すことを嫌った

ですから、これがふさわしい


さらに、暗い青灰の旗包みが開く。

現れたのは旗だった。

王旗でも軍旗でもない。帰還者照合局旗だ。

青灰地に銀糸で門、帳簿、灯が刺繍されている。

帰還を認める側の旗だった。


本式の日

王都帰還者照合局は、この旗を半旗とします

また第一関門では、通常夜半で消す照合灯を、十九呼吸だけ長く残します

あの夜、守殿が止めなかった帰還の列を忘れていないと示すために


蒼汰は、その情景を思い浮かべた。

夜の門。

半旗。

本来は消えるはずの灯が、少しだけ長く残る。

父への礼として、それはやけに似合っていた。


フリードリヒは最後に、一枚の紙片を差し出した。

見慣れた、守の字だった。


帰還は帳簿の朝を待たん

門まで来てるやつを、記録の明日に回すな

遅れてるのが紙なら、紙の方を走らせろ


蒼汰は、それを読んで少しだけ笑った。

また同じだ。

父は本当に、最後までそこへ戻ってくる。


フリードリヒの目元が、ほんの少しだけ和らぐ。


守殿は、門を軽んじたのではありません

門を守る意味を、別の順番で見た

だから私は怒りながらも、礼を言いに参りました


蒼汰は鉄札と旗と紙片を見てから、ゆっくり言った。


……預かります


ありがとうございます


フリードリヒは立ち上がり、深く一礼する。

去り際に一度だけ棺の方角を見て、それから蒼汰へ向き直った。


守殿は、たぶんご家庭でも

ただいま、と言う順番より

ちゃんと中へ入ったかどうかの方を先に気にする人だったのでしょうね


蒼汰は少しだけ目を瞬いた。

それから苦く笑う。


……当たってます

帰ってきたらまず座れとか、早く中入れとか

そういうことばっかり言う人でした


でしょうね


フリードリヒの口元が、ほんのわずかに緩む。


あの方は、帰還そのものより

帰ってきた者が、きちんと内側へ入るまでを帰還と見ていたのでしょう


それだけ言って去っていく。

扉が閉まる。


応接室に戻った静けさの中で、蒼汰は鉄の仮帰還札をそっと持ち上げた。

軽い。

でもその軽さの中に、門まで辿り着いた九名が、帳簿の朝を待たずに暖へ入れた夜が詰まっている気がした。



何だ


あんた、本当に最後まで「帰ってきた側」を見てたんだな


だいたいそこが切れやすいからな


本当に、便利だけど面倒な見方だよ


そうだろうな


蒼汰は小さく息を吐いた。

父が珍しく、そのまま認めた気がした。


冬城が静かに近づく。


かなりお疲れかと


うん

でも……

父さんが見てたの、門の外と中の線だったのかもな


どういう意味でしょう


蒼汰は鉄札を見下ろした。


まだ来てないやつじゃなくて

もう来てるのに、紙とか順番とか時間のせいで中へ入れないやつ

そういうのを、最後まで外に置くのが嫌だったんだなって


冬城が小さく頷く。


ええ

守様は、かなりそうです


リュシエラが横で静かに言う。


夜の側でも同じです

帰還は門を見た時ではなく、灯の内側へ入った時に終わりますので


蒼汰は少しだけ笑った。


本当に、どこまで行っても同じ理屈なんだな

父さん


守は少しだけ黙った。

それから低く返す。


そうかもしれん


冬城が机上の品を整える。


少し棺のおそばへ戻られますか


うん

戻りたい


蒼汰は新しく増えた鉄札と旗を抱え直す。

もう本当に持ちきれない。

それでも、やっぱりどれも置いていけない。


扉へ向かいながら、何となく聞く。


次は?


冬城はほんの少しだけ考えた。


守様に、王都孤児識別札の未交付箱を一つ、空にされた記録官の方です


蒼汰はその場で止まった。


……また名前と札かよ


守が頭の奥で低く返す。


札がないと、探す時に遅れる


本当に最後まで、そういうとこばっかり見てるな


蒼汰は深く息を吐いた。


父、奏多守は、死んでからもなお、帰ってきたのに中へ入れない側、最後に一人になる側、名のないまま埋められそうな側ばかりを、勝手に前へ寄せ続けていた。

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