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父、奏多守はほら吹きではなかった  作者: てへろっぱ


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第37話 朝まで持たない棚

棺のある広間へ戻る前に、蒼汰は広間脇の長卓をまた一度だけ見た。


もう読み上げきれないほどの品が並んでいる。

兵站局の黒箱、商隊旗、大勲章、削られた勲札、宮旗、銀の燈、羅針儀、鐘槌、呼鈴、銀筆、打診槌、焼けた識別札、黒い配炭札、白い墓標札、青銅の出港札、真鍮の呼鈴、銀の匙。


父の知らない顔が、物の形をして積み上がっていた。

そしてどれも、父がどこで何を見ていたかだけは、妙に正確に伝えてくる。


蒼汰は深く息を吐いた。


次、薬庫番だったよな


冬城が頷く。


はい

王立施療院中央薬庫主任薬庫番です

守様に、施療薬庫の封印棚を一段、勝手に開けられたご当人になります


……また棚かよ


守が頭の奥でぼそりと言う。


開けないと朝まで持たん棚だった


本当に最後まで同じだな


だいたい同じだろう


リュシエラが横で静かに言う。


封印棚は、夜の側でも揉めます

鍵を守る方が正しい夜と、封を切った方が正しい夜がありますので


慰めが一個もないな


慰めではありませんから


蒼汰は小さく呻いて、応接室へ向かった。


扉が開く。


今度の部屋の空気は、冷たかった。


暖かい施療院の匂いではない。

乾いた薬草、研いだ刃物、封蝋、ガラス瓶、石床の冷え。

薬を守るために温度まで管理された部屋の匂いだった。


中央に立っていたのは、女だった。


年齢は六十代前半ほど。

背は高くない。痩せている。だが小さくは見えない。長く薬庫の鍵と在庫を握り、足りない夜に足りないと言わなければならなかった人間の、固い芯があった。

黒の礼装の上に、深い青灰の肩布をかけている。医師の白でも、看護官の灰青でもない。保管と分配の責任を持つ者の色なのだろう。

髪は白く、後ろでひとつに束ねられている。目は冷たくはない。だが、物を数え、人を通し、人を断ってきた目だった。


後ろには若い薬庫吏が二人。

ひとりが細長い木箱を、もうひとりが分厚い払出帳と、鈍い藍色の旗包みを抱えている。


冬城が告げる。


王立施療院中央薬庫主任薬庫番、ゲルトルート・ハイネマン様です

守様に、封印棚第四段を勝手に開けられたご当人です


女――ゲルトルートは、蒼汰を見て深く一礼した。


奏多蒼汰殿


声は低く、硬かった。

静かな薬庫でも通る声だった。


私はゲルトルート・ハイネマン

王立施療院中央薬庫主任薬庫番

そして、守殿に封印棚の第四段を勝手に開けられた者です


蒼汰は一拍置いてから言った。


……その人、本当にどこでも勝手ですね


ゲルトルートの口元が、ほんの少しだけ動いた。


ええ

しかも、だいたい封を切ってはいけない夜に


守が頭の奥でぼそりと言う。


切らんと駄目な夜だった


それを決めるのが毎回お前なのが問題なんだよ


好きに言え


冬城に促され、蒼汰は椅子へ座る。

ゲルトルートも向かいへ腰を下ろした。

動作に無駄がない。鍵束を腰に提げて立つ人の座り方だった。


ゲルトルートは払出帳を机の上へ置いて開いた。

そこには薬品名、残量、封印等級、払出条件、主治医署名欄が並んでいる。

一頁だけ、封印棚第四段の欄に太い斜線が入り、横へ父の字で書き込まれていた。


今夜だけ、開けろ

朝まで待つ方が減る


蒼汰は目を細めた。


父さんの字だ


守が頭の奥で言う。


ああ


また勝手に、だろ


そうだな


ゲルトルートが静かに続ける。


その冬、施療院では燻肺熱の患者が集中しました

倉庫火災の煤を吸い、喉ではなく肺の奥が腫れる病です

夕方には持ちこたえて見える

だが明け方の冷えで、一気に気道が細る型がある


蒼汰は黙って聞く。


封印棚第四段に入っていたのは、暁開肺液です

高価で、数も少ない

しかも副作用が強い

心拍が跳ねる

熱もぶり返す

だから、通常は術後窒息例か、主任医師二名の署名が揃った重症例にしか使わない


合理的だ。

少なくて強い薬なら、そうなるのだろう。


問題は、回復途中に見える者たちでした


ゲルトルートの指が、払出帳の中ほどで止まる。


高熱は下がり、会話もできる

だが夜明け前に肺が閉じる型

数字で見ると中等症

だから重症枠から外れやすい

しかも昼の医師回診では持ち直しているように見える

一番後ろへ回されやすい


守殿が来たのは、封印棚の鍵確認の最中でした

本来は物資監査だけのはずでしたが

払出帳を見て、最初にこう言いました


これ、重い順に使う棚だな

でも、朝までに閉じる順じゃない


蒼汰は小さく息を吐いた。

また父だ。

本当に、どこでもその言い方をする。


私は反論しました

薬庫は印象では開けません

数字と署名でしか動かさない

すると守殿は、一度だけ頷いて

そのうえで、ならこの子は朝まで数字の中で待つのか、と言いました


部屋が静かになる。


蒼汰は喉の奥が少し重くなる。

また父は、帳簿の向こうに一人を見ていた。


ゲルトルートは別紙を一枚出した。

そこには病室番号、年齢、吸気音、夜間冷え込み予測、明け方危険域、と細かな走り書きが並んでいる。

父の字だった。


見た目に落ち着いている六名

守殿は、その六名を病棟で直接見ました

胸郭の動き、咳の間、眠りの浅さ

そして戻ってくるなり、封印棚第四段を開けろと言った


私は拒否しました

署名が足りない

症状区分も足りない

だから守殿は、鍵を取ったのです


また物理かよ……


蒼汰が漏らすと、ゲルトルートは即答した。


はい

かなり物理です


守が頭の奥でぼそりと言う。


遅かったからな


鍵束から、だが


ゲルトルートの声は乾いていた。


私は本気で怒鳴りました

封印棚は薬庫番の最後の線です

勝手に開けられてよいものではない

すると守殿は、静かにこう言いました


封は薬を守る

だが今夜は、その封の向こうで肺が閉じる

だったら切るのは封の方だ


蒼汰は言葉を失った。

ひどく父らしい。

理屈が乱暴で、でも正面から反論しにくい。


それで、使ったんですか


はい

六名に


ゲルトルートは頷く。


全員ではありません

守殿は棚の中身も数えた上で

朝までに閉じる型だけへ回した

副作用管理も含めて

そして結果として、その六名は全員、夜を越えました


蒼汰は小さく息を呑む。


副作用は?


強く出ました

だから、守殿が正しかったと言い切るのは今でも癪です

ですが使わなければ、少なくとも半分は明け方に落ちた可能性が高い

私はその記録を、自分で書きました


ゲルトルートは、そこで初めて少しだけ目を伏せた。


薬庫番は、足りないから開けないと決める側です

守殿は、その夜だけ

開けない方が減ると言った

それを私は、嫌というほど覚えています


細長い木箱が開く。


中に入っていたのは、小さな青いガラス瓶だった。

空瓶だ。

だが栓の金具には封印棚第四段の刻印があり、側面には細い擦り傷が走っている。急いで開けられたのだとすぐ分かる。


これは、その夜最初に払出した暁開肺液の空瓶です

本来なら回収後、記録を取って破棄します

ですが今日はこちらを持参しました


そんな大事なものを


はい

大事なものです


ゲルトルートは頷く。


守殿は勲章より、こういう空瓶の方が近い

あの方は希少薬そのものより

それが今夜どの肺に間に合うかを見ていた

ですから、これがふさわしい


さらに、鈍い藍色の旗包みが開く。

現れたのは旗だった。

王旗でも医学院旗でもない。中央薬庫旗だ。

藍地に銀糸で鍵、瓶、棚の線が刺繍されている。

開けるか閉じるかを決める側の旗だった。


本式の日

王立施療院中央薬庫は、この旗を半旗とします

また封印棚第四段だけ、夜明けまで封緘蝋を落としたままにします

通常ならあり得ません

ですが今夜は、守殿が一度だけ切った封を忘れていないと示すためです


蒼汰は、その光景を思い浮かべた。

薬庫。

半旗。

開けてはならない棚の封が、一夜だけ切られたまま残る。

父への礼として、それはやけに似合っていた。


ゲルトルートは最後に、一枚の紙片を差し出した。

見慣れた、守の字だった。


薬は棚に残せる

朝は残せん

封を守る夜と、肺を守る夜を間違えるな


蒼汰は、それを読んで少しだけ笑った。

また同じだ。

父は本当に、最後までそこへ戻ってくる。


ゲルトルートの目元が、ほんの少しだけ和らぐ。


守殿は、薬庫を軽んじたのではありません

在庫も危険も、かなり正確に見ていた

そのうえで、封の向こうで閉じる側を見た

ゆえに、私は怒りながらも礼を言いに参りました


蒼汰は青い空瓶と旗と紙片を見てから、ゆっくり言った。


……預かります


ありがとうございます


ゲルトルートは立ち上がり、深く一礼する。

去り際に一度だけ棺の方角を見て、それから蒼汰へ向き直った。


守殿は、たぶんご家庭でも

薬そのものより、飲むべき時刻を先に気にする人だったのでしょうね


蒼汰は少しだけ目を瞬いた。

それから、苦く笑う。


……当たってます

薬箱の整理は雑なのに

飲ませる時間だけは、やたらうるさかったです


でしょうね


ゲルトルートの口元が、ほんのわずかに緩む。


あの方は、棚の整いより

今夜それが間に合うかどうかの方を見ていたのでしょう


それだけ言って去っていく。

扉が閉まる。


応接室に戻った静けさの中で、蒼汰は青い空瓶をそっと持ち上げた。

軽い。

でもその軽さの中に、明け方まで閉じなかった六つの肺と、その先の朝が詰まっている気がした。



何だ


あんた、本当に最後まで同じだな


だいたい同じだろう


違わないんだよな、それが


蒼汰は小さく息を吐いた。

怒る気にもなれない。

少しずつ、父が何を基準に動いていたのかが、嫌なくらい見えてきていた。


冬城が静かに近づく。


かなりお疲れかと


うん

でも……

父さんが見てたの、やっぱり棚の中身じゃないんだな


どういう意味でしょう


蒼汰は空瓶を見下ろした。


規則とか在庫とか封印とか

そういうのも分かってるのに

そのせいで朝まで閉じる側がいるなら、迷わずそっちを見るんだなって


冬城が小さく頷く。


ええ

守様は、かなりそうです


リュシエラが横で静かに言う。


夜の側でも同じです

瓶の中身より、今夜間に合う喉と肺の方が重い時がありますので


蒼汰は少しだけ笑った。


本当に、どこまで行っても同じ理屈なんだな

父さん


守は少しだけ黙った。

それから低く返す。


そうかもしれん


冬城が机上の品を整える。


少し棺のおそばへ戻られますか


うん

戻りたい


蒼汰は新しく増えた空瓶と旗を抱え直す。

もう本当に持ちきれない。

それでも、やっぱりどれも置いていけない。


扉へ向かいながら、何となく聞く。


次は?


冬城はほんの少しだけ考えた。


守様に、王都帰還者名簿の照合停止線を一度越えられた関門官の方です


蒼汰はその場で止まった。


……また帰る話かよ


守が頭の奥で低く返す。


帰ってきてるのに、帳簿の方で止めるなって話だ


本当に、最後までそこばっかり見てるな


蒼汰は深く息を吐いた。


父、奏多守は、死んでからもなお、封の向こうで閉じる側、最後に一人になる側、まだ戻る灯のある側ばかりを、勝手に前へ寄せ続けていた。

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