表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
父、奏多守はほら吹きではなかった  作者: てへろっぱ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
36/51

第36話 第二打の前に、まだ戻る

棺のある広間へ戻る前に、蒼汰はまた一度だけ長卓を見た。


父の知らない顔が、物の形をして並んでいる。


兵站局の黒箱。

商隊旗。

大勲章。

削られた勲札。

宮旗。

裂かれた婚約書類。

銀の燈。

祭壇布。

学監棒。

教育日誌の複写。

夜紋。

盟約写し。

羅針儀。

消えた線の地図。

銀の主席笛。

規定集。

巨大な解除鍵。

河渠院旗。

帰還優先灯の運用標。

統制塔旗。

鐘槌。

礼楽院旗。

真鍮札。

図書院旗。

銀筆。

紋章院旗。

打診槌。

医学院旗。

赤い指揮灯。

消防局旗。

焼けた識別札。

捕虜交換局旗。

黒い配炭札。

蔵政院旗。

木の便札。

児童保護院旗。

白い墓標札。

墓政司旗。

青銅の出港札。

港務局旗。

真鍮の呼鈴。

施療院看護局旗。

銀の匙。

施療院厨房局旗。


どれも父の勲章ではない。

それでも全部、父が何をしてきた人間だったのかを、やけに正確に示している。


蒼汰は深く息を吐いた。


次、鐘楼番だったよな


冬城が頷く。


はい

王都避難鐘楼の主任鐘楼番です

守様に、避難鐘の第二打を一度止められたご当人になります


……また鐘かよ


守が頭の奥でぼそりと言う。


あれは、第二打まで鳴らすと戻る道が閉じた


本当に最後までそればっかりだな


だいたいそうだろう


リュシエラが横で静かに言う。


鐘は、鳴らした後の方が重いです

何が始まり、何が終わるかを全員が従わされますので


慰めが一個もないな


慰めではありませんから


蒼汰は小さく呻いて、応接室へ向かった。


扉が開く。


今度の部屋の空気は、金属と雨の匂いがした。

乾いた鐘楼の匂いではない。濡れた石段、青銅、麻縄、風に晒された鐘の内側みたいな匂いだ。


中央に立っていたのは、男だった。


年齢は六十代後半ほど。

背は高くない。細いが、折れそうには見えない。長く狭い石段を上り下りし、決まった時刻に鐘を鳴らし、街の終わりと始まりを見てきた人間の体だった。

黒の礼装の上に、暗い銅色の短い肩布をかけている。役人の礼装というより、鐘楼番の正装だった。髪は白く短い。鼻筋は細く、目元には深い皺。だがその目だけは妙に遠くを見慣れていた。


後ろには若い鐘楼番が二人。

ひとりが細長い箱を、もうひとりが分厚い鐘楼記録帳と、灰青の旗包みを抱えている。


冬城が告げる。


王都避難鐘楼主任鐘楼番、エーリヒ・ヴァイス様です

守様に、避難鐘の第二打を一度止められたご当人です


男――エーリヒは、蒼汰を見て深く一礼した。


奏多蒼汰殿


声は低く、乾いていた。

だがよく通る。風の中でも鐘の下でも聞こえる声だった。


私はエーリヒ・ヴァイス

王都避難鐘楼主任鐘楼番

そして、守殿に第二打を止められた者です


蒼汰は一拍置いてから言った。


……本当に、その人いろんな大事なものを止めてますね


エーリヒの口元が、ほんの少しだけ動いた。


ええ

しかも、だいたい止めてはいけないものほど


守が頭の奥でぼそりと言う。


止めた方がよかったからな


それ、お前が言うとだいぶ危ないんだよ


違うか


蒼汰は冬城に促され、椅子へ座る。

エーリヒも向かいへ腰を下ろした。

座り方に無駄がない。鐘楼の中で、手と耳と時刻だけを頼りに働いてきた人間の座り方だった。


エーリヒは鐘楼記録帳を机の上へ置いて開く。

そこには、第一打、第二打、閉鎖門作動、橋上げ、逆流防止柵降下、各区避難開始時刻が並んでいる。

一頁だけ、第二打の欄が大きく斜線で消され、その横へ父の字で書かれていた。


まだ戻る灯がある

第二打、待て


蒼汰は目を細めた。


父さんの字だ


守が頭の奥で言う。


ああ


また勝手に、だろ


そうだな


エーリヒが静かに続ける。


その夜、西低地区は水害でした

雪解け水で外堀北路の控え水門が割れ

低地へ一気に水が入った

避難鐘は二打式です

第一打で退避開始

第二打で逆流防止柵、低橋引き上げ、帰還路閉鎖

つまり第二打までで、外へ出る道ではなく、戻る道が終わる


蒼汰は小さく息を呑んだ。


戻る道が


はい


エーリヒの声は低い。


第二打を遅らせれば、救助側も逃げ遅れる危険が増す

だから鐘楼番は、どんな事情があっても、基本は止めない

止めてはならないのです


守殿だけが違いました


蒼汰は目を閉じたくなった。

まただ。

本当に、どこでも同じだ。


私は鐘楼で第二打の準備をしていました

下では、橋上げ班、柵降下班、退避誘導班が時刻待ちをしていた

守殿が駆け上がってきたのは、その三分前です


また勝手に


はい

息も切らさず


エーリヒの目に、ほんの少しだけ当時の呆れが戻る。


私は言いました

もう時間です、と

第二打が遅れれば西低地の閉鎖が遅れる

すると守殿は、窓から外を見ろと言いました


見たのですか


見ました


エーリヒは一拍置く。


西低地の暗がりに、灯が五つ見えた

避難灯です

工房通りの終端から、ゆっくり動いていた

最初は遅れた住民かと思いました

ですが違った

担架灯でした


守が頭の奥でぼそりと言う。


療養舎の寝台組だ


蒼汰は何も言えなかった。

また父は、灯の向こうに人を見ていた。


工房裏療養舎には、寝たきりの老人と、足を折った者が六名残っていました

第一打では動けなかった

だから夜番の若い工師と見習い二人が、担架で運び出していた

第二打が鳴れば、低橋が上がり、柵が落ちる

そうなれば、その五つの灯は帰れません


蒼汰は喉の奥が少し重くなる。


それで父さんは?


第二打を待てと言いました


エーリヒは静かに答える。


私は拒否しました

鐘楼番の務めです

街全体を守る順序を、一つの灯で崩してはならない

すると守殿は、一度だけ頷いて

そのうえで、ならその順序は、戻ってくる五つの灯を最初から捨てる順序か、と聞いた


部屋が静かになる。


蒼汰は、その言葉を胸の中で繰り返した。

また同じだ。

父はどこでも、捨てている側の順番を嫌う。


私は反論しました

遅らせれば、別の区画の閉鎖もずれる

水は待たない

すると守殿は、水は待たん

だが今見えている灯も待たん、と言いました


蒼汰は小さく息を吐いた。

ひどく父らしい。


それで、止めたんですか


はい

物理的に


エーリヒは即答した。


鐘楼の第二打刻機には、落槌を落とすための解放爪があります

守殿はそれを、何の躊躇もなく止め楔で噛ませた

本来なら鐘楼番しか触れません

私は激怒しました


守が頭の奥で言う。


かなり怒ってたな


当たり前だろうな


蒼汰が心で返す。


エーリヒは続ける。


私は本気で守殿を突き落とそうかと思いました

第二打は、街の閉鎖です

それを止めれば、別の被害が出る

ですが守殿は、鐘楼の窓から灯を数えながら言いました


五つだ

まだ減ってない

第二打は、五つが四つになってからでも遅くない


意味が分かりませんでした

すると守殿は続けました

四つになれば、一つは橋を渡った

三つになれば、もう間に合う

見ろ

まだ全部、向こうにいる、と


蒼汰は、その光景を思い浮かべた。

夜の水。

低地の暗がり。

揺れる五つの灯。

鐘楼の窓からそれを見る父。


それで、どうなったんですか


七分待ちました


エーリヒの声が少しだけ低くなる。


本来あり得ない遅延です

だがその七分で

五つの灯は四つになり

四つが三つになり

最後に担架の列が低橋を越えた


その瞬間、守殿は楔を抜きました

第二打が鳴り

橋が上がり

柵が落ちた


蒼汰は何も言えなかった。


死者は出なかったんですか


零ではありません


エーリヒはまっすぐ答える。


第二打を遅らせた分、低地南面では腰まで水を受けた者も出た

軽傷も増えた

だから、守殿が完全に正しかったとは言いません

だが、あの五つの灯は戻れた

担架の上の六名も、生きて橋を越えた

私はそれを、鐘楼から見た


部屋が静かになる。


蒼汰は、喉の奥が少し熱くなるのを感じた。

父はまた、街全体ではなく、いま見えている五つの灯を見ていた。

それが正しいかどうかを、後で全部引き受けるつもりで。


エーリヒは細長い箱を開けた。


中に入っていたのは、暗い青銅の楔だった。

手のひらに収まるくらいの大きさ。片側が薄く削られ、反対側には擦れた打痕が残っている。

鐘楼の機械へ噛ませるための止め楔なのだろう。

側面には王都避難鐘楼の刻印があり、その上から細い傷で父の印のようなものがついていた。


これは、第二打刻機の止め楔です

本来なら工具箱の中で一生を終える品です

ですがその夜だけは、街の時刻を七分止めた


そんな大事なものを


はい

大事なものです


エーリヒは頷く。


守殿は勲章より、こうした楔の方が近い

あの方は街全体の鐘より

まだ戻ってくる灯の方を先に見た

ですから、これがふさわしい


さらに、灰青の旗包みが開く。

現れたのは旗だった。

王旗でも市旗でもない。避難鐘楼旗だ。

灰青地に銀と黒で鐘楼、橋、二つの打刻線が刺繍されている。

始まりと閉鎖の時刻を司る側の旗だった。


本式の日

王都避難鐘楼は、この旗を半旗とします

また西低地区の避難鐘は、第一打のあと本来より七拍長く間を置きます

実際の七分ではありません

ですがあの夜、守殿が第二打を待たせた意味を忘れていないと示すためです


蒼汰は、その光景を思い浮かべた。

夜の鐘楼。

半旗。

第一打のあと、いつもより長い沈黙。

父への礼として、それはやけに似合っていた。


エーリヒは最後に、一枚の紙片を差し出した。

見慣れた、守の字だった。


第二打は正しい

だが、まだ戻る灯を見ながら鳴らすな

終わらせるなら、せめて見届けてからだ


蒼汰は、それを読んでしばらく黙った。

また同じだ。

父は本当に、終わりを急ぐ側を嫌っていた。


エーリヒが静かに立ち上がる。


奏多蒼汰殿

私は守殿に、避難鐘の第二打を一度止められました

ですがそのおかげで、戻れた灯があった

ゆえに礼を申し上げます


蒼汰は青銅の楔と旗と紙片を見てから、ゆっくり言った。


……預かります


ありがとうございます


去り際、エーリヒは一度だけ棺の方角を見た。

それから蒼汰へ向き直る。


守殿は、たぶんご家庭でも

終わりの合図そのものより、その直前にまだ戻るものがないかを気にする人だったのでしょうね


蒼汰は少しだけ目を瞬いた。

それから、苦く笑った。


……ああ

たしかに

もう寝ろって言うくせに

家の電気を消す前、誰か帰ってないかは変に確認してました


でしょうね


エーリヒの口元が、ほんのわずかに和らぐ。


あの方は、時刻より

まだ戻る灯があるかどうかの方を見ていたのでしょう


それだけ言って去っていく。

扉が閉まる。


応接室に戻った静けさの中で、蒼汰は青銅の楔をそっと持ち上げた。

軽い。

でもその軽さの中に、七分遅れた第二打と、その七分で戻れた六人の夜が詰まっている気がした。



何だ


あんた、本当に最後までそういうとこばっかり見てたんだな


見えると、放っておけんからな


それ

便利だけど、だいぶしんどい生き方だぞ


そうだろうな


蒼汰は小さく息を吐いた。

父が珍しく、そのまま認めた気がした。


冬城が静かに近づく。


かなりお疲れかと


うん

でも……

父さんが見てたの、たぶんずっと変わってないんだな


どういう意味でしょう


蒼汰は青銅の楔を見下ろした。


正しい第二打とか、正しい閉鎖とか、正しい終わり方とか

そういうのは分かってても

その前にまだ戻る灯が見えてるなら、絶対に鳴らしたくなかったんだなって


冬城が小さく頷く。


ええ

守様は、かなりそうです


リュシエラが横で静かに言う。


夜の側でも同じです

閉じるべき門でも、まだ戻る者が見えているなら、最後の一拍は重いですので


蒼汰は少しだけ笑った。


本当に、父さんの理屈は最後まで一緒なんだな


守は少しだけ黙った。

それから低く返す。


そうかもしれん


冬城が机上の品を整える。


少し棺のおそばへ戻られますか


うん

戻りたい


蒼汰は新しく増えた楔と旗を抱え直す。

もう本当に持ちきれない。

それでも、やっぱりどれも置いていけない。


扉へ向かいながら、何となく聞く。


次は?


冬城はほんの少しだけ考えた。


守様に、王都施療薬庫の封印棚を一段、勝手に開けられた薬庫番の方です


蒼汰はその場で止まった。


……また棚かよ


守が頭の奥で低く返す。


開けないと朝まで持たん棚だった


本当に最後まで同じだな


蒼汰は深く息を吐いた。


父、奏多守は、死んでからもなお、まだ戻る灯のある側、間に合う一口のある側、名前を失いそうな側ばかりを、勝手に前へ寄せ続けていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ