第35話 冷める前に、食べさせる順番
棺のある広間へ戻る前に、蒼汰は広間脇の長卓をまた一度だけ見た。
父の知らない顔が、もう完全に一つの系譜みたいに並んでいる。
兵站局の黒箱。
商隊旗。
大勲章。
削られた勲札。
宮旗。
裂かれた婚約書類。
銀の燈。
祭壇布。
学監棒。
教育日誌の複写。
夜紋。
盟約写し。
羅針儀。
消えた線の地図。
銀の主席笛。
規定集。
巨大な解除鍵。
河渠院旗。
帰還優先灯の運用標。
統制塔旗。
鐘槌。
礼楽院旗。
真鍮札。
図書院旗。
銀筆。
紋章院旗。
打診槌。
医学院旗。
赤い指揮灯。
消防局旗。
焼けた識別札。
捕虜交換局旗。
黒い配炭札。
蔵政院旗。
木の便札。
児童保護院旗。
白い墓標札。
墓政司旗。
青銅の出港札。
港務局旗。
真鍮の呼鈴。
施療院看護局旗。
どれも、父が勲章より先に見ていたものばかりだった。
順番。
体温。
帰還。
名前。
そして、最後に手が届くかどうか。
蒼汰は深く息を吐いた。
次、厨房監督だったよな
冬城が頷く。
はい
王立施療院の施療給食配膳順を一食分、守様に崩された厨房監督の方です
……また飯かよ
守が頭の奥でぼそりと言う。
飯は早い方がいい時がある
本当に最後までそこへ戻るな
だいたいそこへ戻るだろう
リュシエラが横で静かに言う。
食事の順番は、夜の側でも軽く見られません
食べられる者へ先に配るのは簡単ですが、食べないと切れる者は別にいますので
その言い方、もう父さんと同じ理屈なんだよな
だから守殿は、どこへ行っても揉めたのでしょう
蒼汰は小さく呻いて、応接室へ向かった。
扉が開く。
今度の部屋の空気は、温かかった。
薬品や石鹸の匂いの中に、はっきりと別のものが混じっている。
湯気を吸った木、乾いたパン、煮た野菜、薄い塩、少しだけ焦げた鍋底。
施療院の厨房そのものみたいな匂いだった。
中央に立っていたのは、男だった。
年齢は六十前後。
背は高くない。だが肩幅がある。太ってはいない。大鍋を持ち、包丁を握り、夜中の追加食と朝方の粥を何百人分も回してきた人間の体だった。
黒の礼装の上に、深い生成り色の短い肩布をかけている。調理服ではない。だが一目で、厨房側の責任者だと分かる落ち着いた手つきがあった。
髪は白く短い。鼻筋は太く、指には細かな火傷痕が残っている。目だけが、やけに静かだった。
後ろには若い調理官が二人。
ひとりが細長い木箱を、もうひとりが分厚い配膳台帳と、淡い黄土色の旗包みを抱えている。
冬城が告げる。
王立施療院厨房監督、ヨーゼフ・ライナー様です
守様に、施療給食の配膳順を一食分、崩されたご当人です
男――ヨーゼフは、蒼汰を見て深く一礼した。
奏多蒼汰殿
声は低く、柔らかかった。
だが曖昧ではない。忙しい厨房でもよく通る声だ。
私はヨーゼフ・ライナー
王立施療院厨房監督
そして、守殿に一食分の配膳順を崩された者です
蒼汰は一拍置いてから言った。
……その人、本当にいろんなとこで現場を止めてるんですね
ヨーゼフの口元が、ほんの少しだけ動いた。
はい
しかも、だいたい一番鍋が忙しい時に
守が頭の奥でぼそりと言う。
忙しい時じゃないと意味がないからな
本当にそれしか言わないな
違うか
蒼汰は冬城に促され、椅子へ座る。
ヨーゼフも向かいへ腰を下ろした。
座り方が、料理人というより現場監督だった。鍋の火加減と人の流れを同時に見る人の座り方だった。
ヨーゼフは配膳台帳を机の上へ置いて開く。
そこには病棟ごとの食数、食形態、温度保持時間、搬送距離、配膳開始順が並んでいる。
一頁だけ、上段の順序が丸ごと書き換えられ、横に父の字で大きく一文が入っていた。
噛める順じゃない
飲めるうちに入る順にしろ
蒼汰は目を細めた。
父さんの字だ
守が頭の奥で言う。
ああ
自分で言うなよ
ヨーゼフが静かに続ける。
その夜、施療院では感染病棟と回復病棟が同時に逼迫していました
厨房の火口は三つ
湯煎車は二台
温食を保てる時間も限られていた
ゆえに配膳順は厳密です
通常なら、まず高熱病棟へ流動食
次に回復初期病棟へ軟食
最後に長期療養棟へ常食寄りの粥と副菜
それが最も無駄がなく、最も温度損失が少ない
合理的だと、蒼汰は思った。
ここでもまた、父が嫌いそうな「合理的」が出てくる。
問題になったのは、回復初期病棟の一角です
ヨーゼフの指が、表の真ん中あたりで止まる。
そこには、喉と口腔を痛めた患者が集められていました
高熱はない
重症でもない
だが温かい流動食でなければ、ほとんど入らない
冷めればむせる
むせれば次の一口が遠のく
だから手間のわりに、数字では軽く見える
守殿が来たのは、配膳開始の直前でした
本来は栄養剤と保存食の監査だけで終わるはずでしたが
厨房の配膳票を見て、すぐ顔をしかめた
これ、食える順にしてるな、と
蒼汰は小さく息を吐いた。
また父だ。
本当に何も変わらない。
私は反論しました
食える順ではありません
温度保持と搬送効率です、と
すると守殿は一度だけ頷いて
そのうえで、温かいうちにしか入らないやつを後ろへ回してる、と言った
部屋が静かになる。
蒼汰は、その言い方に少しだけ胸を掴まれた。
入るうちに入れる。
また同じだ。
切れる前に。
遠くなる前に。
ヨーゼフは別の頁を開く。
そこには個別の食札が並んでいた。
食形態、嚥下補助、温度指定、見守り要否。
そのうち数枚に、父の字で赤い印が入っている。
守殿は、病棟へ行きました
実際に口へ入るところを見たのです
そして戻ってくるなり、こう言った
熱があるやつは、冷めても口に入る
だが痛いやつは、冷めると一口目で終わる
一口目で終わる順を後ろへ回すな、と
蒼汰は少しだけ目を伏せた。
父はまた、平均ではなく、その一口目を見る。
それで、どうしたんですか
配膳順を変えました
ヨーゼフは即答した。
感染病棟の一部を維持しつつ
回復初期病棟の喉損傷群だけを先に割り込ませた
厨房の手順としては最悪です
鍋の持ち替えが増え
湯煎車も一台、予定外に止まる
私は激怒しました
守が頭の奥でぼそりと言う。
顔に出てたな
そりゃ出るだろうな
蒼汰が心で返す。
ヨーゼフは、ほんの少しだけ苦笑した。
はい
かなり
それでも変えたのは、守殿が一人の患者へ自分で匙を持ったからです
蒼汰は目を瞬いた。
父さんが?
はい
若い石工でした
顔面と咽頭に火傷を負っていて
冷めた流動食は二口目でむせる
守殿はそれを見て、厨房へ戻り
これは順番の問題だ、味の問題ではない、と言った
それから、私の配膳票の上へ赤線を引いたのです
乱暴で
腹立たしいほどにまっすぐな線でした
蒼汰は、台帳の赤い線を見つめた。
まるで父の性格そのものだった。
結果はどうだったんですか
その夜、喉損傷群は予定より二十二分早く配膳されました
全員が完食したわけではありません
ですが、いつもなら半量で終わる三名が、その夜は一食分を入れられた
翌朝の回復率も違った
つまり守殿は、厨房の効率を壊した代わりに、一食が入る側を増やしたのです
蒼汰は何も言えなかった。
父は、本当にどこでも同じだ。
鍋でも港でも名簿でも、最後に見るのは「いま入るかどうか」だった。
ヨーゼフは細長い木箱を開けた。
中に入っていたのは、小さな銀のスープ匙だった。
華美ではない。だが柄の先に王立施療院厨房の紋章が刻まれ、持ち手には細かな擦れがある。実用品だ。けれど夜勤の現場で、何度も誰かの最初の一口へ使われたのだと分かる重さがあった。
これは、夜勤配膳用の確認匙です
味見用ではありません
最後に温度と粘度を確かめるための匙
本来なら厨房備品であり、外へは出ません
そんな大事なものを
はい
大事なものです
ヨーゼフは頷く。
守殿は勲章より、こうした匙の方が近い
あの方は豪華な食事ではなく、一口目が入るかどうかにうるさかった
ですから、これがふさわしい
さらに、淡い黄土色の旗包みが開く。
現れたのは旗だった。
王旗でも医学院旗でもない。施療院厨房局旗だ。
黄土色地に白と銀で、鍋、火口、湯気の線が刺繍されている。
食を運ぶ側の旗だった。
本式の日
王立施療院厨房局は、この旗を半旗とします
また夜勤厨房では、最初の鍋を十九呼吸だけ火へかけたままにする
通常なら無駄火です
ですが今夜は、守殿が一食分だけ崩した配膳順を忘れていないと示すために
蒼汰は、その情景を思い浮かべた。
夜勤厨房。
半旗。
消すはずの火が、一鍋ぶんだけ残る。
父への礼として、それは妙に似合っていた。
ヨーゼフは最後に、一枚の紙片を差し出した。
見慣れた、守の字だった。
腹が減ってる順じゃない
温かいうちに入る順にしろ
飯は量より、一口目で明暗が分かれる夜がある
蒼汰は、それを読んで少しだけ笑った。
また同じだ。
本当に最後まで、父はそこへ戻ってくる。
ヨーゼフの目元が、ほんの少しだけ和らぐ。
守殿は、厨房を軽んじたのではありません
むしろ、どの鍋がどれだけ持つかをかなり正確に見ていた
その上で、一食の順番で切れる側を見つけた
ゆえに、私は怒りながらも礼を言いに参りました
蒼汰は銀の匙と旗と紙片を見てから、ゆっくり言う。
……預かります
ありがとうございます
ヨーゼフは立ち上がり、深く一礼した。
去り際に一度だけ棺の方角を見て、それから蒼汰へ向き直る。
守殿は、たぶんご家庭でも
豪華な献立より、ちゃんと食べてるかどうかの方を先に気にする人だったのでしょうね
蒼汰は少しだけ目を瞬いた。
それから苦く笑う。
……当たってます
何作るかより、食ったかどうかの確認の方がしつこかったです
でしょうね
ヨーゼフの口元が、ほんのわずかに緩む。
あの方は、料理そのものより
その一口が届く相手の方を見ていたのでしょう
それだけ言って去っていく。
扉が閉まる。
応接室に戻った静けさの中で、蒼汰は銀の匙をそっと持ち上げた。
軽い。
でもその軽さの中に、一食が入った喉と、そこから繋がった翌朝が詰まっている気がした。
守
何だ
あんた、本当に最後までそういうとこばっかり見てたんだな
見えると、放っておけんからな
便利だけど
相当面倒だよ、それ
そうだろうな
蒼汰は小さく息を吐いた。
父が珍しく、そのまま認めた気がした。
冬城が静かに近づく。
かなりお疲れかと
うん
でも……
父さんが見てたの、たぶんずっと同じなんだな
どういう意味でしょう
蒼汰は銀の匙を見下ろした。
正しい順番とか、正しい量とか、正しい規約とか
そういうのは分かってても
そのせいで今夜一口入らないやつとか、最後に一人になるやつとか、名前が消えるやつとか
そういう側ばっかり見てたんだなって
冬城が小さく頷く。
ええ
守様は、かなりそうです
リュシエラが横で静かに言う。
夜の側でも同じです
豪奢な卓より、今夜喉を通る一口の方が重い時がありますので
蒼汰は少しだけ笑った。
本当に、どこまで行っても同じ理屈なんだな
父さん
守は少しだけ黙った。
それから低く返す。
そうかもしれん
冬城が机上の品を整える。
少し棺のおそばへ戻られますか
うん
戻りたい
蒼汰は新しく増えた銀の匙と旗を抱え直す。
もう本当に持ちきれない。
それでも、やっぱりどれも置いていけない。
扉へ向かいながら、何となく聞く。
次は?
冬城はほんの少しだけ考えた。
守様に、王都避難鐘の第二打を一度止められた鐘楼番の方です
蒼汰はその場で止まった。
……また時間と鐘かよ
守が頭の奥で低く返す。
あれは、第二打まで鳴らすと戻る道が閉じた
本当に最後まで、戻る側の話しかしないな
蒼汰は深く息を吐いた。
父、奏多守は、死んでからもなお、一口が届く側と、最後に手が残る側と、名の消えそうな側ばかりを、勝手に前へ寄せ続けていた。
最後までお付き合いいただき感謝します。
もし「続きが読みたい」と思われた方は、ページ下部よりブックマークと評価をお願いします。
なろう読者の皆さまの「いいね」こそが一番の執筆燃料です。
↓↓↓ 応援、ここでお待ちしています ↓↓↓




